第68期予選時の投票状況です。13人より32票を頂きました。
# | 題名 | 作者 | 得票数 |
---|---|---|---|
20 | 九龍 | sasami | 7 |
17 | 存在のゆらめき | 宇加谷 研一郎 | 4 |
22 | ホーム | 川島ケイ | 4 |
16 | 家庭教師 | qbc | 3 |
3 | 手 | K | 2 |
21 | 嚥下 | 森 綾乃 | 2 |
5 | サクラ・テレパス | 八海宵一 | 1 |
6 | ケチャ | わら | 1 |
7 | 血流 | 笹帽子 | 1 |
10 | 擬装☆少女 千字一時物語28 | 黒田皐月 | 1 |
15 | 白山羊 | はるひ | 1 |
18 | イマジナシオン | 崎村 | 1 |
19 | 声に出して、ネバーランド | fengshuang | 1 |
13 | あー休日は寝たいけど寝たらすぐ終わるしさようなら。 | Revin | 2 |
- | なし | 1 |
この小説には投票せねばなるまい、と思わせてくれる作品でした。
「カオルーン」の頭の中の物語あるいは妄想、と「言葉」の持つ「他者性」との出会いが素晴らしく、また、言葉を剥奪された世界が「笑い」というコミュニケーションで瓦解していく、という構成が、何より美しいと思いました。
二人の世界が永遠に続いていく、といったような、おセンチかましたヒューマニズムには虫唾が走るばかりですが、「言葉」との対立の後に、コミュニケーションの希望を見出したこの作品のようなヒューマニズムは、感動を喚起されます。
千字という制約のある分、ト書きのようになってしまっている感は否めませんが、「もっと長い文章で読みたい!」と思わせる時点で、パワーのある作品であると言えると思います(最後の場面をもっと長い文章で読みたかった)。
この作品に一票を投じます。
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ちりばめられた光る文章に。(この票の参照用リンク)
もはや多言は無用か。(でんでん)(この票の参照用リンク)
「九龍」
あんまりセンスがいいと、嫉妬してなんとか汚点を見つけようとしてしまう。この作品が私にとってはそうだった。しかし、上手なのは上手だと認めていかなければ自分のためにならない。
……とこの作品を強く推薦しようと思っていたら、ちゃんと投票されていたので、さすがは68ヶ月以上つづいている「短編」だと思った。この作品については決勝投票で感想を書きたい(と、すでに投票を決めている……)。今期、どれもいろいろ面白いのだけど、ひとつ飛び出た作品だと思いました。
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現実とメルヘンのバランスが妙。(この票の参照用リンク)
読んでいて楽しいです。うまく雰囲気に乗れるというか。(この票の参照用リンク)
こまやかさに可能性(この票の参照用リンク)
斬新な落ちとは言えないのかもしれないが、劇的なことをしないままただふらりと紙の中から出てきて戻ってしまうということは、探してもない題材なのかもしれない。だからこそ現実にあるだろう私たちも似たようなものかも知れず、題名のことを考えさせるのだと思う。それもまた鮮烈さとは違っていて、それが良いのだと私は思った。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
たぬき煎餅。「登場人物」である悲哀。やっぱり作者でいたいです。(この票の参照用リンク)
爽快感の残るメタものでした。よかったです。(この票の参照用リンク)
他人のメモ書きをぬすみ見たような(この票の参照用リンク)
これは読み方次第で面白くなる、そういう良さがあると私は思う。その私自身は読み込んでいないため、それを十分に味わってはいないのかもしれない。
登場人物たちが何者で、黒い箱が何であるのかは書かれていない。それは読者の想像に任されていて、しかしそれでも作品が形を成していないということがない。そういう構成力は、認められるべきだと思った。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
雀。情景に心情を託す。(この票の参照用リンク)
1000文字以上の物語が想像できる。(この票の参照用リンク)
作り込みが細かいと思います。
展開が(意外性も含めて)しっかりしている。(この票の参照用リンク)
家庭教師。この単語が好きです。(この票の参照用リンク)
テンポのよい会話と妙な吸引力に。(この票の参照用リンク)
面白かったです。中里奈央さんの「眩暈」を思い出しました。ありがとうございました。(この票の参照用リンク)
票は投じたいが感想を書くのが面倒だからなかなか投票できずにいると感想票に書いても仕方がないのだけど、などと書くのは作品の感想とは全く関わりのないことだから作者には申し訳ないが、などとぶつぶつ言いながら投票する。(この票の参照用リンク)
文章がしっかりしていて、安心して読めました。(この票の参照用リンク)
「骸から何とか目を背けようとしてきた。布を巻いて暖かくしてやれば、いつか動き出すと思いたかった。あるいは、丸ごと忘れたかったのだ。野晒しで日に焼け、劣化した布をかさかさと除く。白い骨だけ残っている。それは、鋲のように確実に死んでいる。生き返りはしない。あたりまえの事実をようやく認める。一番小さいかけらを、しばし指先で操り口に入れる。舌で弄る。奥歯で砕けない。意外に鋭利な角で喉の粘膜を痛めながら、今、私は嚥下する。」結部をまるごと引用してしまったが、そうせずにはおれない気持ちににさせる凄みが、この文章にはあると思う。肺腑をえぐるこれらの言葉を、僕はただ、黙って嚥下する。(でんでん)(この票の参照用リンク)
『被害者のフリをした加害者』と言われるタイプの人っぽい仰々しい言葉が並んでいて面白かったです。(この票の参照用リンク)
いつの間にか、ぴかぴかと言われると生え際が気になるお年頃になってしまいましたが、いいですね。ぴかぴか。(この票の参照用リンク)
素朴さとプンプンプンに。(この票の参照用リンク)
奇怪を尋常にえがいた筆はこび(この票の参照用リンク)
「擬装☆少女 千字一時物語28」
女装に憧れるものの、まだ“未経験”である男が、いよいよその道へ踏みこもうと女性用(?)の日傘を買う。が、勇気がなくてさせない。一度は布団に潜り込んですねてしまうものの、最後の最後に傘を開いてみれば、それはただの日傘で普通にさして歩いたという話だと読んだ。
面白かった。この作者はもう28作も「女装」がテーマであり続けていて、いささか読む側としては飽きていた。これまでいくつかの傑作も書いているし、いいかげんにほかのテーマを書いてくれよ、とお願いしたいくらいであった。私は女装に興味なんかないし、たとえ興味があったとしても、毎日テーブルに濃厚なチョコレートパフェばかりだされたら、甘党だって耐えられないだろう、それと同じようなことだ。
だが、この作品はいつもと少し違っていたように思う。どろどろのチョコレートではなく、毎日でも食べ飽きないようなチョコクロワッサンくらいにまで、テーマに深みが加わっていたように思える。具体的にいうと、女装に悩む男、という設定はいつも通りであるけれども、一人の青年がいつもの自分ではない別の可能性を探る話として、女装を頭から外しても、あるいは女装に興味をもったふりをして読める。こうした興味のない読み手に、一時的に興味をもたせるのって相当な技術力だと感心する。
一本の日傘(それは女物であって、男が日中にさすのは違和感がある)を、気弱な男が大通りでさすのにとまどっている。たぶん、世の中の群衆は、たった一人の男が全裸で走っているわけでもなく、ただ日傘をさしているのなんて、気にもとめないだろう。それは本人だってわかっている。しかし、気弱な男にとっては、その一本の日傘をさすことさえ、最初は苦しかったりするものなのだ。
こういう経験は誰にでもあるんじゃないだろうか。私にはある。別に女装をするわけでもなく、ただ新しい帽子を買って、かぶってみれば「名探偵」みたいにみえてしまうのが恥ずかしい、が、かぶってみたい、そういうイメージもいいんじゃないか。そんなささいな変身願望と自意識のせめぎあいのようなものは誰でも日々経験していることだと思う。そういった日常の細やかな内面の葛藤のようなものが、たった千字の中に表現されている作品だった。「あくまでも女装をテーマにしつづける」というところは作者のエゴであると思うけれども、続けるということは本人が思っている以上に、大きな力をもつことがある。28個の女装小説が書かれる2年以上前よりも、世の中は「女装」趣味の人が増えている気もしているし、ブームがきたとしたら、作者はその第一人者となっていくだろう。そういう予想を勝手にする楽しみまで与えてくれる。
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後味のよい不可解さ。(この票の参照用リンク)
そうですよ、こんなはずじゃなかったんですよ。(この票の参照用リンク)
この心情を教えてくれたこと、それに、感謝。
大人になれない大人でも子供が何であったのかはわかるのか、と言われるとそうでもなくて、この作品でわかるのかと言われてもそうでもなくて、でも大事なことを教えてもらったことには違いないだろう。そんな気がした。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
みんなでファミレスへ行く流れとなり、それは腹が減ったと訴える方々主導であるけれども、まあ私なんかはそうそう腹が減ったりはしない方なので、単におしゃべりを続けたいからついて行くというだけなんだけれども、客に飲み食いさせて金をとりそのお金をいろいろとやりくりすることによって長年その場所で営業を続けているファミレスであるからして、客という名目で入店した以上は何かを注文しないとやっぱりばつが悪い。じゃあドリンクバーで。え? それだけ? みたいなみんなの視線を考えるととてもとても気が重くなり、じゃあ、えっと、えー……あ、ミラノ風ドリアで、あ、はい、あはい、以上で。ということに気がつくとなっている。ミラノ風ドリアってなんだよ。と、かわいらしい中国人ウエイトレスを愛想笑いでもって見送った直後に、自然な流れで自分に対して悪態をつくことになるのだ。なんかもっとしっくりくるメニューがあっただろ、おら。毎回毎回こんなことをしてるな、と毎回毎回思ってるな、と毎回毎回思うのだ。毎回。深く傷ついたことや、とても恥ずかしい思いは、部屋の壁が凹むほど頭を打ちつけたって(まあそんなことするのはちょっとあぶない人だけで私は実際にやったことはないが)ぜんぜん忘れやがらないのだけれど、こういうなんか中途半端にいらっとくる出来事は、たいてい帰りの電車に乗る頃にはすっかり忘れている。明日はまた早起きか、眠いなぁ、とか、そんな詮ないことをくよくよ考えながら、現実逃避にまっ赤な表紙の谷崎潤一郎が書いたことになっている小説を、片方の手では吊革につかまりながら目的地まで読み耽る……ほうら! もう忘れてる! ……ま、いいんだけどね。谷崎の小説おもしろいから。あ! ……で、何が言いたいのかというと、「なし」、という、自分の正直な気持ちをそのまま伝えられる選択肢があるってことは、勤め先に素敵な異性が現れることくらい素敵なことなんぞ、ということで、次回からはミラノ風ドリアだけは回避するぞ、と思ったけれど、まあこれもきっと忘れる。谷崎の小説を読んだらすぐに。ま、もうなんでもいいです。(この票の参照用リンク)
ノイズは力なり。つい純度を求めてしまいがちな自分への戒めとして。(でんでん)(この票の参照用リンク)
「あー休日は寝たいけど寝たらすぐ終わるしさようなら。」
インターネットといえば「文字がメインでできた世界」だと思っていたが、時代はいつのまにか写真や動画が中心になっていて、ともすれば文章は付録のような場合もあるみたいだ。平成生まれの人のウェブページを読んでみると、その文章が私にはなにかの暗号のように見えて意味がわからなかった。こんな時代に小説を書くとは? と自問せざるをえなかったのであるが、こういう私でさえも昔の人からみれば、日本語ではない書き方をしているのかもしれない。
この作品の主人公は私からみれば、十分にインターネットに浸っている世代の男にみえる。しかし、どうやら今は社会人になっていて、以前よりも社会そのものと向き合っている時間が多いようだ。男は休日を公園ですごしている。子供がフリスビーを投げて遊んでいるのをぼんやりと眺めていたら、実はそれはフリスビーではなくて、「私立まんまん女学院」というポルノゲームだった。物語はこの男が今の世の中だいじょうぶだろうか、と心配する展開となる。
これだけでも十分に面白かったのだけど、私が「現代における小説の可能性」をあらためて実感したのは、突如、子供たちが投げていたポルノの空き箱からおっさんがでてくるラストだった。おっさんの登場は不条理であるにもかかわらず、話の流れからすれば自然だった。というのも、子供が「私立まんまん女学院」をフリスビーにしているという情景が、私には不条理で、しかし、それが現代の世の中の一面、という不可思議な光景なので、その箱からオッサンがでてくるエピソード(おっさん=ポルノが似合う)という構図を考えると、私はなにかホッとした。オッサンがでてくれなかったら、小学生の子供があたりまえにポルノをみているという現実が、なんだか重苦しくて嫌な気分のままであった。もちろん、私にも変態の側面がないわけではない。しかし、それは隠蔽されているからこそ色気をまとうものだと思うし、限られた相手と隠しながらするからこそ、猥雑と愛を隔てる境界線となりうべきものなのだ……ということも、作者は前半に主人公に語らせている。その軽い文体の裏側に相当な思索がふくまれた作品だと思った。すごい。
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