第68期 #10

擬装☆少女 千字一時物語28

 五月十日、午前十一時。梅雨の時期にはまだ早かったが、傘を一本買った。それは大雨には耐えられなさそうな華奢な傘なのだが、先の雨の日に使った雨傘よりも値が張った。手に提げた袋には洗顔料の他に、日焼け防止クリームが入っている。それならば、今すぐこの日傘を開くのが道理だろう。それなのに、踏ん切りがつかずにいる。
 臆病な自分だと思う。昔から、何かに挑戦しようとか何かに打ち込もうとしたことは、なかった。まだ開いてはいないが、この傘の下に隠れているようなものだ。だから、密やかなものに惹かれたのかもしれない。女装というものをどこかで知ったとき、甘くて柔らかでしかし危険な、ほの暗い悦びを感じた。それを手にしたくなって、闇の中を手探りするようにして調べた。これほどまでに何かに興味を持ったのは、初めてかもしれない。
 予想した以上に奥が深いことを知った。耐えるべきはその瞬間の羞恥だけではなく、むしろそれに至り、維持するための自己管理と、立ち、歩くときをはじめとする姿勢を身につけることであると言う。だからまずしなければならないことは、シミやニキビを作らないための肌の手入れと、歩き方の習練と、腰周りを絞ることである。そのために、日傘を買った。日に焼けると肌が痛む体質だから、五月は紫外線の多い季節だから、急いで買った。
 それなのに、開けない。この瞬間にも澄んだ色をした空から多量の紫外線が降り注いでいるのにも関わらず、日傘を開けない。日の光から少しでも逃れるように顔を伏せて急いで歩いていても、手にした日傘を開けない。焦燥は歩調を速め、身につけるべき歩き方からも遠くなる。捨ててしまいたいという思いがよぎる。しかし買ったばかりのものを捨てられるほどの度胸は、ない。
 家に帰り、布団の中に潜り込む。もう何も見たくない。それなのに闇の中には完成された女装の姿が浮かんでくる。薄手で淡い色のブラウスとスカートの清楚な姿が、鏡像のように目の前に浮かんでくる。目をそむけようとする。しかし今度はそこに横顔が浮かぶ。手を前で揃え、伸びた膝を揃えて立つその像は、僅かな汚れも落とした自分の顔をしている。
 布団をはね、日傘を開いた。日傘を開くと、日傘を開いただけだった。クリームを塗って外に出て日傘を差すと、日傘を差しただけだった。諦める度胸もないのだと自分を笑って、目深に日傘を差したまま、膝を離さないようにして歩き出した。



Copyright © 2008 黒田皐月 / 編集: 短編