第68期 #9

水面下に生きる

人気のない廊下。カーテンに隠れた窓際。げた箱で横に並んだ時。
突然に、当然のように、キスをされる。
「なんで?」
僕は聞く。もう何度も、投げかけた問いだった。しかし、彼女は決まってそんな問いには答えてくれないのだった。
僕のネクタイを握って、上目遣いで僕を見つめ、ニッと不敵な笑みを作る。そして
「上原さぁ、泳ぐの得意?」
なんて思いもよらない話題を振ってくる。
今日は、僕が壁に押し付けられる体勢だった。夏休み前日の、放課後の教室。クーラーが切れて、熱気が押し寄せてくる。僕はじっとりと汗ばんでゆく体をうっとおしく思った。
「まぁ……それなりに得意だけど、なんで?」真面目にもそう答えながら、今回も問いかけを流されたことに、溜息をこぼした。
彼女から視線をはずして、天井を見上げる。彼女の肩を押して、無理やりにでもどかすことはできたけれど、僕はそれをしなかった。
そっと、彼女が僕に、体を預けてきた。シャツの上からでも、触れた彼女の熱が伝わってくる気がした。僕の襟元に、彼女の頬が押し付けられていた。
「いいなぁ……私、カナヅチなのよね。昔海で溺れたことがあって、それからもうだめ。」
「ふぅん、水が怖いの?」
「狂犬病のはなし?」
「いや、そうじゃなくて」
僕が言うと、彼女は僕の胸に顔をうずめて、くすくすと笑った。
「真面目だね、上原、いい人」
そう呟くと、彼女は急に静かになって、僕の背中と壁の間に、手を滑り込ませてきた。腕に、力が込められていた。僕の腕は宙ぶらりんのままだ。
「あの時、本当に死ぬのかと思った。太陽が水面で光ってるのが、沈んでいく時に見えて、それが本当に綺麗で、あそこから天使がっ降ってくるのかって思ったくらい。」
僕を見上げる彼女の手が、頬に触れる。
「あの時なら、死んでも悔いが残らなかったかもしれない。」
「今は、死んだら悔いが残るの?」彼女の視線に、僕は応えた。
「……キスしながら死ねるなら、悪くないかな」
わずかに開いた僕の口に、彼女は唇を重ねてきた。
されるがままに、キスに応える。
なぜだか一瞬、その行為は僕に、海辺の人工呼吸を連想させた。



Copyright © 2008 柊葉一 / 編集: 短編