第68期 #3
「これが、俺の手えか?」
祐樹は、掌に幾重にも刻まれた色の濃い皺を陽にかざした。油にまみれ、粉っぽい埃がこびり付いて乾いていた。
「お前の手えや」
木のベンチを軋ませながら勝が煙を吐き出して言った。眉根に皺を寄せ、勝は祐樹の方に顔を向けた。
「ええことも悪いことも全部その手えでやってきたんや」
浅黒い目尻の皺を畳みながら、勝は笑った。二人の作業服は薄汚れていた。一帯に広がった太陽の光がそれぞれを黒く浮き立たせていた。
「勝さん、俺は今初めて気付いたような気がしたんや、俺がここにおるのも生きとるのも、全部この手えでやってきたんやな」
祐樹は両手を勝の目の前に突き出した。袖口から糸がほつれていた。
「忘れとっただけとちゃうか」
祐樹は虚を突かれたような顔をした。
「忘れとったって?」
「それか、気付かんようにしとったか、どっちかや」
勝は斜め上に煙を吐き出した。顔は祐樹の方に向けていたが、勝の視線は裏手の山に伸びていた。祐樹は顎を擦りながら考え込んだ。
「俺は何年も気付かんままにしとったっちゅうことか」
喉の奥から搾り出すような声で、祐樹は呟いた。
「せやろな」
勝は表情ひとつ変えなかった。日照りは強く、アブラゼミの声が緩慢な午後を洗っていた。それ以外には何の音もなかった。祐樹が考え込んでいると、勝は煙草を灰皿に揉み潰した。
静かに、工場が軋り始めていた。勝は立ち上がって片手で腰を叩いた。
「勝さんはどないなん、気付いとったんか、気付いてへんかったんか」
祐樹が詰問するように言った。
「何や?」
トタン張りの外壁には蝉が一匹とまっていた。コンベアが稼動し、無機質に湧き出る機械音が辺りに溢れると、蝉は羽音を立てながら飛び去った。
「俺はな、気付いとったたで、でもな」
勝は一旦そこで言葉を切って続けた。
「考えへんようにしとる」
そう言って勝は歩き始めた。
コンベアは同じコースを一定の速度で廻っていた。電源スイッチが切れるまで止まることのない音が、軌道に乗って轟音を立て始めた。それは何年間も一切変わり映えすることのない日常だった。
「ほら、早よせんか」
勝が急かすように言った。祐樹は慌てて立ち上がり少し小走りになった。茶色く変色した祐樹のスニーカーがコンクリートを踏みしめ、くぐもった音を立てた。祐樹は歯を食いしばり、手を硬く握り締めた。駆け足のまま祐樹は、錆び付いたドアノブに真っ直ぐ手をかけた。