第68期 #4
「オイ、出かけるぞ」
皇子が襖の彼方より声を掛けてきたので、ヘイと答えて私は従者となる。
「今日は、どちらへ」
返答がないのは、正妻のもとへ向かう合図だ。すらりとした立ち姿、匂い立つような所作に、あまた異性が靡くのも分からぬではない。妻がいるにも関わらず浮き名を広める奔放さの陰には、皇子とはいえ妾腹の第二子という立場ならではの政治的配慮があるのだろう。あいやこの瓜実顔、人間本能の全面肯定を基盤に行動しているだけやも知れぬ、などと他愛もないことを思いつつ私は、無言のまま後を付き従う。
前を歩く影が細長く伸びきり、ふいにその影は小首を傾げた形ですっと止まる。皇子はうすら笑いを浮かべ
「方違え、するわ」
と、脇の路地へと折れる。ああ、またか。四つ年嵩の奥方がよほど苦手なのだ。暮れゆく夏。夏は夜。闇夜に新たな異性を求めさすらい、従者は今夜も寝ずの番、俄然軽やかとなる衣ずれの音は、やがて街のはずれあたりにたどり着く。
「あの明かりは、いったい」
燦然と輝く光の下に一本の大樹。この世のものとは思われぬ賞賛の芸術だ。九つの丸い実をつけた大樹へ、つい思わずという様子で、引き寄せられやがて立ち止まる。
ちょうど小腹が空いたところだ、それへ登ってあの実をひとつ取ってくれ、エエエ私がですか、オマエしかおらぬではないか、それはそうですが、いやか、いやけしてイヤというわけでは、ならば早く、わかりましたわかりました急かさないでくださいのぼりますこうみえても木登りは昔から得意中の得意。袖たくし上げ幹に取り付き、ヨイこらしょのエイサほさ、もひとつおマケにホイさっさ。さあてどの実にしますか、この馬鹿でかいのにしますか、それともあの黄金色のやつにしましょうか。
「上から三番目の実が旨そうだ、違う違う、その赤い実のひとつ上の、そうそう、その青い果実だ」
私は、皇子の指さした実をもぎ取り戻る。その果実の表面は、白波を立てつ広大なる無辺の海。早くこちらへ寄越せ、とばかりに肩越しから伸びくる腕には逆らうこと叶わず。「いけません皇子、果実はすでに虫が湧き、あちこちから毒素が噴き出され」なにを小癪な従者め、という目の牽制に身動きならぬこの身が、ひたすら恨めしく情けない。そんな私の気持ちなぞ知る由もなく、
「なあに、構うものか」
がぶりがぶりうまいうんまいと齧り尽くすと、皇子翌日より腹を下し、三と七、二十一日の間どっぷりと寝込んだ。