第68期 #5

サクラ・テレパス

 校門脇の自転車置き場から、校舎にむかって伸びる桜並木のひとつに腰かけた直哉は、鞄から文庫本を取りだし、ゆっくりとページを開いた。部活を終えたこの時間、陽は傾きはじめたが、まだ本を読むのに不自由のない時間だった。暖かい風が直哉の頬を通り過ぎ、桜の花びらが、寝ぐせの残る髪に着地する。
 春眠暁を覚えず。
 心地よい風に包まれた直哉は、ページを2、3度めくっただけで無防備な寝顔を見せ、かすかな寝息をたてはじめた。瑞穂の部活が終わるのを待つ時間。そんなわずかな時間でさえも成長期の体は眠りを欲しがり、スイッチが入ったように睡魔に降伏する。女子バスケ部は、直哉のブラスバンドよりも熱心だったから、新年度になってから直哉はなんども瑞穂に起こされ、からかわれた。ロボットじゃないんだから、と。でも、自転車置き場から少しはなれたこの場所は、木の陰に入ってしまうと人目につかないし、なにより色づく桜の花びらがきれいだったから、直哉は、ついつい油断してしまい、眠りの世界に落ちた。もしかしたら、霞につつまれたような別世界がそうさせているのかもしれない。
 春眠暁を覚えず。
 唇に春風が触れた。生暖かいとけるような甘い感触。その感触はしばらく続き、眠っていた直哉は目を覚ました。
「おはよう、直哉」
 目の前に瑞穂が座っていた。部活が終わったばかりだからだろうか、彼女の頬は桜色に染まっていた。いつもは見せない少し緊張したようすに、なぜだか直哉の頬も上気し、鼓動が早くなった。いまの感触はもしかして……。
「おは、よう」
 ぎこちなく返事を返すころには、耳の先まで赤くなっているのがわかった。手がかりは、唇に残っている感触だけ……でも、それで十分だった。
 今までに感じたことのない予感。新年度、新学期……わかりきったことだけど、なにもかもが新しく始まりだす。ぴかぴかで、わくわく胸躍り、そして、少しだけ怖いような感覚。
 直哉は木にもたれかかっていた半身を起こし、瑞穂に顔を近づけた。そして、そのまま、静かに唇を重ねた。
 そう、この感触。まちがいない。
 だから、ふたりの時間はそのまま、しばらく静止した。
 心地よい風に包まれたまま、桜の木の下で。



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