第83期予選時の投票状況です。17人より40票を頂きました。
# | 題名 | 作者 | 得票数 |
---|---|---|---|
8 | ベイビィポータブルボム | キリハラ | 7 |
17 | 赤い糸 | qbc | 6 |
18 | 午後五時四十五分の悲鳴 | 宇加谷 研一郎 | 6 |
23 | 夏の鐘 | euReka | 6 |
1 | 悩ましき大問題 | 三毛猫 澪 | 3 |
20 | 『幻獣料亭』 | 石川楡井 | 2 |
21 | イゾルデ | みうら | 2 |
4 | 映画 | ケント | 1 |
12 | エゴいスタア | 金武宗基 | 1 |
14 | 超宇宙戦機ボルティック・ドライオン | 彼岸堂 | 1 |
15 | ふえるワカメ | K | 1 |
16 | コント「ブランコと僕」 | 高橋唯 | 1 |
24 | 飼育の関係 | 笹帽子 | 1 |
26 | その信仰は崩れない | えぬじぃ | 1 |
- | なし | 1 |
楽しい。(この票の参照用リンク)
楽しい時間を過ごさせていただいた感謝の意味を込めて。(この票の参照用リンク)
女の子たち、すごい楽しそうで良いです。
夏の補習の教室は確かに暑かったなあ。
締め方も好きです。(この票の参照用リンク)
地の文の独特の言い回しが少々読みにくいのですが、会話部分のテンポが良く、キャラクターが生き生きと描かれていて、楽しく読むことができました。(この票の参照用リンク)
「志穂はボブを整えて指揮官の顔になる」。この一文にやられました。
(euReka)(この票の参照用リンク)
読んでいて顔が緩む。中学生のバカ騒ぎのノリが生き生きと描けているところがいい。
平和の象徴である下らない日常を、戦争ごっこで表すところも好印象。
文章も技巧的な上手さはないが、基本をきっちり押さえていて安心して読める。
(この票の参照用リンク)
にばん。でもかなりすき。(この票の参照用リンク)
投票するかどうかで迷ったけれども。(この票の参照用リンク)
弁当に一票。(この票の参照用リンク)
相変わらずあざといといえばあざといのですが、いつもと違ってどろどろしていないところが新鮮で好印象でした。まあ、どろどろできなかったよ〜、という話なんで、こういう感想もどうかと思うんですが。(この票の参照用リンク)
タイトルと内容の絶妙なリンク。(この票の参照用リンク)
ひとり→顔の見えない相手とのふれあい→顔の見える相手とのふれあい
というめいかいな構成を
期待感→その理由→思わぬ結果
というふうに味付けして
それをさらに
顔の見えないふれあいのときの
「いっそみんなと同じ言葉を喋ることだって辞めたい」
「でもそうしたら俺ともこうしてチャットできない」
という勇ましさ
と
顔の見えるふれあいのときの
彼女の名前は音絵というのだし、
というくだりのあやふやさ
というふうに描いてみせていて
そして
俺
私
をつかい分けることで話者の考えや発言のニュアンスをつたえる
というきづかいがすごいです
古びて白く淀んだうどんのようなLANケーブルをマジックペンで赤く塗りつぶしたり、
のところがすごく好きです
みうら(この票の参照用リンク)
さんばん。まあすき。(この票の参照用リンク)
きっと数年経っても忘れない作品だと思うので。いい意味で。(この票の参照用リンク)
ミッフィーの胸を裂いて時計を埋め込んだ男が、部屋に女を連れ込んだ話ですよね。
知悉のひねり方や、変態的な話をさわやかなものに変えてしまう手腕に驚きました。(この票の参照用リンク)
もうチシツの独り勝ち状態じゃないでしょうか。
「心臓の音を知悉した、なんて。」とかかわいいし。
場面数が結構多い(→1シーンの文章量は短くなる)にもかかわらず、味のある印象的な文体で、過剰も不足も無い。(この票の参照用リンク)
圧倒的な完成度。(この票の参照用リンク)
男
の視点と
黄菜子
の視点が
二度、文章のなかであわさるんですよね
そこがすてきで
そして
黄菜子も男の部屋に付いて行った。
というさいごの文章の
も
というところで
黄菜子でも男でもない視点になっているような気がして
このお話は読者からこの二人だけのものになっていったんだなぁ
と思いました
みうら(この票の参照用リンク)
上手い。古参の方なので技量は前々から知っていたが、今回はいつもより一段も二段も上手い。
知悉という単語からここまで話を広げられることに感服。
黄菜子とのやりとりも微笑ましく、千文字で終わらせるにはもったいないように思えた。(この票の参照用リンク)
いいと思う。(この票の参照用リンク)
世界観独り勝ち状態じゃないでしょうか。
「不安になったんだ。秋の軽さが」とかありそうだし。ちょっと映像・音声に寄ってる感じもするけれど。
オチ(?)もなんだかきれいですね。(この票の参照用リンク)
私の中での優勝を奪った、独特の世界観。(この票の参照用リンク)
今期は、小説としてとても楽しめたこの2作を推します。
この2作のどちらかに、今期は優勝をもっていってもらいたいと思いました。
まして、こういった小説が決勝に進まなかったら、中々許せないと思います。kuma(この票の参照用リンク)
個人的に、ファンタジーとはこの作品のようであるべきだと考えている。
全体に流れる幻想的な空気と、それでもはっきりとみえる季節感に惹かれた。(この票の参照用リンク)
ファンタジー完成度高い。(この票の参照用リンク)
こういうさわやかな話が好きです。
確かに衣替えの時期は気恥ずかしかったですねえ、懐かしい。(この票の参照用リンク)
登場人物がかわいらしく、情景が浮かんできて、好感が持てました。(この票の参照用リンク)
夏服の決断するような、そんなささやかなはじけかたもいいなと思いました。
(euReka)(この票の参照用リンク)
「エゴいスタア」と「コント……」は、すぐに投票を決めたのですが、みっつめはメチャクチャ迷いました。どの作品もいろいろと優れている。今期は投稿作品総数こそ少なくなったけれども、私には密度が前期より濃かった。
ちなみに迷ったのは
『幻獣料亭』
飼育の関係
ふえるワカメ
悩ましき大問題
夏の続き
イゾルデ
……以上6作品です。
『幻獣料亭』については、ひとことでいうならば、この作品はなんだかとてもなつかしい。読んでいてほっとする。昔金貸してた友達からおごられる導入から、すうっと、モンスターがでてくる流れは、とても洗練されたおとぎ話でもあって、ちょっと羅列気味のモンスターメニューの箇所にいささか辟易してしまうけど(どーだ、どーだ、どーだ、と言われているようで)、それは往年の開高健を思わせる。
なによりも、ある一晩、想像絶する体験をしてしまったあとに、それまで普通にたべていたインスタントラーメン(手を加えないですむ)の味気なさに気がついて、旅立とうとするところなんか、「主人公成長」という小説の王道でもある。
しかし、それにしても、これだけ魔物の名前を練りこんで(いささかうんざりはしたけれども)読ませてしまうところには文学的センスとしかいいようのない、体力とテクニックを感じさせる。これは書き続けている者だけができるものなので、ひとたび書き留めると、とたんにこの技術はさびついてしまうであろう。作者には投稿を続けてほしいものだ、と思った。
(この票の参照用リンク)
楽しめました。(この票の参照用リンク)
一定の読みにくさをフックとして使うやり方が好きではないのであまり高い評価にならないことが多いのですが、今回は結果的に読みやすくなっていたので私も楽しめました。(この票の参照用リンク)
どこか透明で、危うくて、はかない感じの女性ってやっぱり魅力的です。
(euReka)(この票の参照用リンク)
いちばんすき。(この票の参照用リンク)
投稿作品を1番から順番に読んでいて、この「エゴいスタア」の番になったときは、正直なところ読みたくない、と思った。一応、読んでみたけれども、意味がわからない。わかろうとも思わなかった。
だが、全作品を通読した時点で、印象に残った作品を思い出そうとしてみると、まっさきに思い浮かんだのは「エゴいスタア」で、それが自分には不思議だった。なぜ、この作品が、意味もわからないのにまっさきに自分の頭に思い浮かんだのか?
読み返してみると、「この作者ラリってんのか?」という偏見はともかくとして、作品として何かがつよく繋がっている。あらすじはつかめないが、青年らしい男がじいさん相手に
「父親には言えないけど、俺ホストのバイトやってんだよ」
と、今まで少しうしろめたかったであろうことを告白する。すると、その爺さんが祖父なのか通りすがりの爺さんなのか、チャットの爺さんなのかはわからないが、とにかく爺さんは
「ポスト?」
と、ボケる。だが、それが本当にアホでいっているのか、わざと空気を軽くしてやるために、あいづちのような優しいボケなのか、それはわからないが、爺さんの「ポスト?」の一言が、青年にはうれしかったにちがいなく、
「そんなところだよ、(女たちに)しあわせをとどけてるからな」
と、青年は前向きになる。ここで、さらに「恋文は、よかねー」と言ってくれる爺さんの一言で、おもわず青年は泣いてしまう。
「煙が目にしみるぜよ」
……と呟いて涙をほろりと流す青年の、この涙には、もしかしたら、「(女たちに)しあわせとどけてんだからな」というさっきの自分の強がりが、ある意味ではウソであって、自分が女たちから吸い上げている金のせいで、廃人になった女が一人くらいはあったかもしれない、そんなことを思うとやりきれなくなるが、それでも肯定していかないと生きていけない自分もいて、そういうことを含めたいろんなモヤモヤが、爺さんの「よかねー、よかねー」の一言で、ふっきれて涙がでてくるのかもしれない。
↑などと、行間が読めてくると、もしかしたら、作者自身が1000字にまとめるには膨大な思いがあって、それを脱構築しまくっているのでは? と思えてくる。そうすると、これは相当に文学上の高度なテクニックとなってくる。おまけに、自分はこんなにも賢い、こんなにもテクニック使ってます、こんなに知ってます、というのがミエミエな小説ほど読みたくないものはないけれども、この「エゴいスタア」はどこまでも、そのテクニックを隠している。アホにみせている(本当にアホかもしれないが……失礼)。
最初の青年と爺の、脱構築化だけではなく、この話は600字ちょっとにもかかわらず、ここからパート2、パート3と話が続いていて、それもまた、言葉がめちゃくちゃのようにみえて、底の部分で、しっかりとビートを鳴らしているので驚きがとまらない。
私は「パート2」は回想シーンなのではないか、と思っている。ここでいう「これはペンです」という部分、実は、この「ペン」というのは青年のペニスのことで、青年がホストクラブで女たち相手にペニスを出して、「これはペンです」と英語で言っているシーンでは? そして女たちはそのペンに盛り上がってドンペリをいれている……そういうシーンでは?
すると……「ペンは剣よりつよかですか?」というシーン3のセリフは、さっき爺さんの前で泣いた青年が、おそらくは酔っぱらいながら呟いた独り言(ペニスは金よりつよいだろ)で、それを受けた爺さんが
「ぺんぺん草もはえねー」
と言って、なぜかそこにいる婆さんがワクワクしはじめて婆さんが「はーなーがひらいてーそーやんぐ」とうたいはじめたのではないか。そうすると、この青年を爺さんと婆さんが二人して慰めてやったことになる。
私は文学でも小説でも物語でも、呼び名はなんでもいいけれども、脱構築化された小説の根元には強烈な人肌のぬくもり(ドラマ)がなければ、それは普遍性を獲得しないと思っている。ただ語感がいいから、だけで表現になるなら、なんとなく音に対して失礼だと思う。
それで、ちょっとかっこつけて小難しいことを言えば、哲学者ジャック・デリダがデリダになれたのは、ただ脱構築をとくだけではなくて、彼が「正義」ということをそれがどう定義できるか迷いつつも信じていたからだ。たとえば許すということを、相手からの謝罪を要せずに許す、というような、ある種のゆるがない正義を獲得してから、デリダの脱構築はただの屁理屈ではなくなった。
……それを無理やり「エゴいスタア」に絡めると、この話がめちゃくちゃなのに、読めてしまうところは、この脱構築される前の、この物語の原型にあたる部分が、ものすごくきれい、というか、美しい話でつづられていて、それが、ここまでメチャクチャにデフォルメされて、脱構築していることすらこちらに気付かせないまでになってまでも、きちんと読めば、猛烈に好きになってくる話であることに気がつく、その粋な仕掛けに、ちょっとかないませんなあ、と頭をさげたくなった。
(この票の参照用リンク)
なんとなくこういうノリ好きだったり。
しかし凄い名前だ。(この票の参照用リンク)
とても朴訥な人物が語っている姿が浮かびました。
タイトル、序盤、掛け合いの全てで笑わされてしまったので投票します。
(この票の参照用リンク)
この作品は、ちょっとニヤニヤしながら読んでしまった。その直前に「ふえるワカメ」というやや哲学的なコントを読んだ直前だっただけに、いやはや、「ワカメ」が本当はやりたいことは、このコントがすべてやってしまっているなあ……と。
それと同時に、「短編」には「ワカメ」のような作品(この作品もいいところがたくさんある)を書ける作者がいて、さらにはこの偉大なる哲学エロ小説<コント「ブランコと僕」>を書ける作者もいるんだから、ちょっと「短編」は他文芸サイトにはない才能の集まりだ、と思った。これは褒めすぎではない。
まず、この作品の冒頭の一文は小説の文章として素晴らしかった。ちょっと読み解きたい。
< 森を抜けた先にある丘はひらけていて、そのてっぺんにぽつんと大きな木が立っている。>
ここを読むと、周りが森で、その先に丘がみええてきて、そこに大きな木が立っているのが、説明ではなく風景としてみえてくる(きませんか?)。こういうのは普通そうにみえるが普通はかけない。たいてい、余計なものや、現代特有の固有名詞がうじゃうじゃと入ってしまう(←私のことでもある)。だが、ここは無駄がなくすっきりしている。小説の冒頭はこうあるべきだとおもえてくる。
<そこが僕たちの秘密基地だ。枝にぶら下がったブランコは丘むこうから吹いてくる風にしじゅう揺らされていて、森の暗さに慣れた目にぼやけて映るコントラストが幻想的に見えたこともあった。>
ここの「幻想的に見えたこともあった」という一文、うまいなあ。見えたこともあった、ということで、それはいつも同じ風景ではなく雨の日や夏の光が強い日や冬のある日など、その時その時で情景はいろいろ変るけれども、主人公には、暗さになれた目にぼやけてみえる枝のブランコのまぶしさが幻想的にみえたことがとても印象に残っていることが、こんな説明をかかなくても読んで伝わってくる。秘密基地の描写もうまいし。
< 僕たちはそこで遊んでいたんだ。
サンドイッチの入ったバスケットは開いたまま地面に置きっぱなしで、風に吹かれてことことと音を立てていた。>
ここまで読むと、この話はなんてきれいな話なんだろうか、と続きを期待せずにいられない。この完璧な描写部分だけを読むならば、そう考えても当然である。
だが、作者はここで、正直なところ、こっちの目をそむけさせるほど、もう読む気がうせてしまうほど、まさに憎みたくなるほどに読者を裏切る。これ、つまり、レイプ小説なのだ(と読んだ)。
題名に「コント」と書いてあるし、浜田・松本・東野と、いわゆる誰もが知っているお笑いタレント(全員男性)の苗字を使って話が展開するので、最初は
(なんだこれ?)
と思ったけれども、浜田と書かれているからといって、作者はひとこともダウンタウンの浜田とは指定していない。その要素もない。松本と書かれているからといってそれが男で、芸人とは一言も書いていない。浜田も松本も知らない外国人の日本語学科の学生が読んだら、単純に
「松本という女性をみんながよってたかってレイプしているのを主人公の僕がみている」
と、読むだろう。では、この作者の狙いは何? と考えたときに、おそらく作者はすべて計算ずみだったのではないだろうか? このタイトルの「コント」というのはダウンタウンのコントという意味ではなくて、女がレイプされている話であっても、その名前を浜田・松本とただ名前をいれかえるだけで、あとは描写をそのまま暴行の描写そのままにしても、読み手はそれを「お笑いなんだ」と思って読むだろう、それってコントじゃない――と、そういう意味でコントとしているんではないだろうか?
そうすると、これはすごい哲学が内包された話になってくるが、実はさらに別の読み方もあって、そもそも松本という名の女はこれを嫌がってるんだろうか? 前回は野良犬だった、ということもあるので、これは、合意の上での、趣味なのか? とも読めるわけだから、そう読んでみるとこれはフランス流のエロ文学になる。
……哲学的、ということばを使ったことについて説明すると、やはり前述のとおり「名前」というものをすりかえるだけで、これがコントになったり犯罪になったりする点だとか、冒頭の美しい描写から激変してしまう美醜について、など。作者自身が「哲学」を語ってしまうとそれは陳腐だが、作者は何もそれっぽいことを語らずに、ただ、示している。
またウンチクだが、ヴィトゲンシュタインは、「ある」という言葉には現実に「ある」ことと、心のなかに「ある」ことの2種類の「ある」ことの存在を認めていて、だが、言葉にできない「ある」ものについては語らずに沈黙せよ、そして「示せ」ということを言った。そうすると、言葉ですべてを語ろうとする哲学は沈黙せざるをえなくなり、だからこそヴィトゲンシュタインは哲学界のグレングールドみたいでかっこいいと思っているのだが、小説が哲学に勝っている点はまさにここにあって、小説は直接言葉にできないものを、映像にさえできない無意識的ななにか、音にさえならない宇宙の音すらも、「示す」ことができる。すりかえることができる。
そういう意味でまとめると、冒頭の美しい風景、幻想的な森の眺め、ブランコの揺れ具合は、それそのものは何も語ってはいないけれども、それが示しているものがある。それが何なのかを考えるのが本来の小説の楽しみの王道であるとも思う。
はたして作者は本当にここまで考えて書いているのか? と私は思うのだが、たぶん、作者はここまで理屈っぽくつくりこんで書き始めていないと思う。小説はプラモデルではないのだ。おもしろい小説というのは、今でも昔のように、女神の声を聴きとって書くものだ。作者がかつて読んだり影響を受けたもろもろの文化的地層からにじみでたものが、作者のなかに潜む女神となりかわって、暗示のように、この千字にして壮大な構成をつくらせたにちがいない。
あと残る謎は「主人公の僕はどこにいたのか?」という疑問であり、私はこれを書きながらちょっと一杯、酒を飲みたくなってきたのだが、飲みながら考えるのは、これは「僕」がブランコでみていた夢ではないのか、この秘密基地には人は誰一人いなくて、ただ空想のなかで、サンドイッチ片手に少年が夢想する一ページではないか――そうすると、自分で自分の空想に震えながら、夕方になって、暗くなった森の小道を歩いている主人公の後姿には言いようのない哀愁が流れてきて、これは少年が主人公ではなく、やはり青年が似合うな……と私好みのカタルシスのある結末に変えていきたくなる。
そんなことを思うだけで、酒がうまくなりそうだ。それとも、そんなこと何も作者は考えてなくて、ただダウンタウンを登場させただけかも。いや、もしそうだったら、それこそ、小説は読み手にすべてを委ねてくれる、その解釈を押し付けてこないところが、私が小説を愛する理由だよ! と叫びたくもなる。
私はこんな風に読みましたが、もし誤読であったとしても私は気にしないし、この作品については誤読ですいません、とは言いたくない。とても貴重な読書体験をさせてもらった。
(この票の参照用リンク)
今期は、小説としてとても楽しめたこの2作を推します。
この2作のどちらかに、今期は優勝をもっていってもらいたいと思いました。
まして、こういった小説が決勝に進まなかったら、中々許せないと思います。kuma(この票の参照用リンク)
今期は仕方ないですね……
申し訳ありません(この票の参照用リンク)
訴える力がある。(この票の参照用リンク)