第83期 #18

午後五時四十五分の悲鳴

 木々高太郎の小説に、愛した人妻の心臓を<知悉してしまった>と呟く医学生の話がある。それを読んだ男は(俺も女の心音をチシツしてしまったなんて呟いてみたいもんだ)と思った。男には恋人がいなかったので、大きい兎のぬいぐるみを買ってきて、心臓にあたる箇所を裂き、目覚まし時計を埋め込んで縫った。

チクチクチク

 耳をあてると、たった三秒で(君の心臓をチシツしてしまった)とアノ科白が言えたことに満足した。でもなんとなく、もっと聴いていたくなった。そうして眠りに落ちた。

ジリリ!

 朝、六時の十五分前にベルが鳴る。男は起き上がって目覚ましを探すけれども、ベルは兎の心臓となっていた。

(しまった! オフにするの忘れた)

 簡単なことなのである。もう一度裂いて、縫い直せばよいのだ。でも男はそれができなかった。それで自分がぬいぐるみを抱き、布団をかぶった。ベルはしばし鳴ったあと止んだ。耳を胸にあてると男がチシツしたアノ心音に戻っていた。

 会社の昼休み、「七秒七七できたら皆でキスしたげるから、失敗したらお昼ごちそうして」と女子社員が男達をからかっている。

「俺やるよ」

 男は挙手した。皆ニヤニヤしている。六階の屋上に何人も集まり、スカーフで目隠しをされた男は手に時計を握った。焦らなかった。もうチシツしていたからだ。

 女たちは焦っていた。男が見事に当てたのだ。

(どうする)
(みんなでキスする?)
(嘘つく)

 結局男が目隠しを外す前に時計を抜き取って、男は女子数人にランチをおごった。顔色一つ変えなかったが「ハズすなんて……」と男が呟いたのに黄菜子は気付いた。輪に入っていたけど黄菜子は嘘が嫌いだった。

 五時に仕事が終って、真直ぐ帰宅する男の肩を黄菜子はトントンと叩いた。

「アレ当ってたの。嘘なのよ、ごめんね」

 キョトンとしていたが「そおかそっかあ」とハシャギだした男に、正直黄菜子は驚いた。男が賭けをするのも、感情豊かにさわぐのも初めて見たからだった。

 男は喜んだ。自分は時計を、心音を、チシツしてしまった、という誇りがあった。黄菜子の正直さにも打たれた。夕食に誘った。黄菜子は快諾した。

 ところが男は急にぬいぐるみのベルが五時四十五分に鳴ることを思い出し、黄菜子にそのことを話した。黄菜子にはそれも意外だった。男が鳴くぬいぐるみを抱くなんて。心臓の音を知悉した、なんて。頬が赤くなった。

 黄菜子も男の部屋に付いて行った。



Copyright © 2009 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編