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第83期予選時の、#16コント「ブランコと僕」(高橋唯)への投票です(1票)。

2009年8月31日 11時32分42秒

この作品は、ちょっとニヤニヤしながら読んでしまった。その直前に「ふえるワカメ」というやや哲学的なコントを読んだ直前だっただけに、いやはや、「ワカメ」が本当はやりたいことは、このコントがすべてやってしまっているなあ……と。

それと同時に、「短編」には「ワカメ」のような作品(この作品もいいところがたくさんある)を書ける作者がいて、さらにはこの偉大なる哲学エロ小説<コント「ブランコと僕」>を書ける作者もいるんだから、ちょっと「短編」は他文芸サイトにはない才能の集まりだ、と思った。これは褒めすぎではない。

まず、この作品の冒頭の一文は小説の文章として素晴らしかった。ちょっと読み解きたい。

< 森を抜けた先にある丘はひらけていて、そのてっぺんにぽつんと大きな木が立っている。>

ここを読むと、周りが森で、その先に丘がみええてきて、そこに大きな木が立っているのが、説明ではなく風景としてみえてくる(きませんか?)。こういうのは普通そうにみえるが普通はかけない。たいてい、余計なものや、現代特有の固有名詞がうじゃうじゃと入ってしまう(←私のことでもある)。だが、ここは無駄がなくすっきりしている。小説の冒頭はこうあるべきだとおもえてくる。

<そこが僕たちの秘密基地だ。枝にぶら下がったブランコは丘むこうから吹いてくる風にしじゅう揺らされていて、森の暗さに慣れた目にぼやけて映るコントラストが幻想的に見えたこともあった。>

ここの「幻想的に見えたこともあった」という一文、うまいなあ。見えたこともあった、ということで、それはいつも同じ風景ではなく雨の日や夏の光が強い日や冬のある日など、その時その時で情景はいろいろ変るけれども、主人公には、暗さになれた目にぼやけてみえる枝のブランコのまぶしさが幻想的にみえたことがとても印象に残っていることが、こんな説明をかかなくても読んで伝わってくる。秘密基地の描写もうまいし。


< 僕たちはそこで遊んでいたんだ。
 サンドイッチの入ったバスケットは開いたまま地面に置きっぱなしで、風に吹かれてことことと音を立てていた。>

 ここまで読むと、この話はなんてきれいな話なんだろうか、と続きを期待せずにいられない。この完璧な描写部分だけを読むならば、そう考えても当然である。

 だが、作者はここで、正直なところ、こっちの目をそむけさせるほど、もう読む気がうせてしまうほど、まさに憎みたくなるほどに読者を裏切る。これ、つまり、レイプ小説なのだ(と読んだ)。

題名に「コント」と書いてあるし、浜田・松本・東野と、いわゆる誰もが知っているお笑いタレント(全員男性)の苗字を使って話が展開するので、最初は

(なんだこれ?)

と思ったけれども、浜田と書かれているからといって、作者はひとこともダウンタウンの浜田とは指定していない。その要素もない。松本と書かれているからといってそれが男で、芸人とは一言も書いていない。浜田も松本も知らない外国人の日本語学科の学生が読んだら、単純に

「松本という女性をみんながよってたかってレイプしているのを主人公の僕がみている」

と、読むだろう。では、この作者の狙いは何? と考えたときに、おそらく作者はすべて計算ずみだったのではないだろうか? このタイトルの「コント」というのはダウンタウンのコントという意味ではなくて、女がレイプされている話であっても、その名前を浜田・松本とただ名前をいれかえるだけで、あとは描写をそのまま暴行の描写そのままにしても、読み手はそれを「お笑いなんだ」と思って読むだろう、それってコントじゃない――と、そういう意味でコントとしているんではないだろうか?

 そうすると、これはすごい哲学が内包された話になってくるが、実はさらに別の読み方もあって、そもそも松本という名の女はこれを嫌がってるんだろうか? 前回は野良犬だった、ということもあるので、これは、合意の上での、趣味なのか? とも読めるわけだから、そう読んでみるとこれはフランス流のエロ文学になる。

……哲学的、ということばを使ったことについて説明すると、やはり前述のとおり「名前」というものをすりかえるだけで、これがコントになったり犯罪になったりする点だとか、冒頭の美しい描写から激変してしまう美醜について、など。作者自身が「哲学」を語ってしまうとそれは陳腐だが、作者は何もそれっぽいことを語らずに、ただ、示している。

またウンチクだが、ヴィトゲンシュタインは、「ある」という言葉には現実に「ある」ことと、心のなかに「ある」ことの2種類の「ある」ことの存在を認めていて、だが、言葉にできない「ある」ものについては語らずに沈黙せよ、そして「示せ」ということを言った。そうすると、言葉ですべてを語ろうとする哲学は沈黙せざるをえなくなり、だからこそヴィトゲンシュタインは哲学界のグレングールドみたいでかっこいいと思っているのだが、小説が哲学に勝っている点はまさにここにあって、小説は直接言葉にできないものを、映像にさえできない無意識的ななにか、音にさえならない宇宙の音すらも、「示す」ことができる。すりかえることができる。

そういう意味でまとめると、冒頭の美しい風景、幻想的な森の眺め、ブランコの揺れ具合は、それそのものは何も語ってはいないけれども、それが示しているものがある。それが何なのかを考えるのが本来の小説の楽しみの王道であるとも思う。

はたして作者は本当にここまで考えて書いているのか? と私は思うのだが、たぶん、作者はここまで理屈っぽくつくりこんで書き始めていないと思う。小説はプラモデルではないのだ。おもしろい小説というのは、今でも昔のように、女神の声を聴きとって書くものだ。作者がかつて読んだり影響を受けたもろもろの文化的地層からにじみでたものが、作者のなかに潜む女神となりかわって、暗示のように、この千字にして壮大な構成をつくらせたにちがいない。

あと残る謎は「主人公の僕はどこにいたのか?」という疑問であり、私はこれを書きながらちょっと一杯、酒を飲みたくなってきたのだが、飲みながら考えるのは、これは「僕」がブランコでみていた夢ではないのか、この秘密基地には人は誰一人いなくて、ただ空想のなかで、サンドイッチ片手に少年が夢想する一ページではないか――そうすると、自分で自分の空想に震えながら、夕方になって、暗くなった森の小道を歩いている主人公の後姿には言いようのない哀愁が流れてきて、これは少年が主人公ではなく、やはり青年が似合うな……と私好みのカタルシスのある結末に変えていきたくなる。

そんなことを思うだけで、酒がうまくなりそうだ。それとも、そんなこと何も作者は考えてなくて、ただダウンタウンを登場させただけかも。いや、もしそうだったら、それこそ、小説は読み手にすべてを委ねてくれる、その解釈を押し付けてこないところが、私が小説を愛する理由だよ! と叫びたくもなる。

私はこんな風に読みましたが、もし誤読であったとしても私は気にしないし、この作品については誤読ですいません、とは言いたくない。とても貴重な読書体験をさせてもらった。

参照用リンク: #date20090831-113242


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