全投票一覧(日時順)
第67期予選時の投票状況です。10人より23票を頂きました。
2008年4月29日 8時41分36秒
- 推薦作品
- ゴドーと歩きながら(三浦)
- 感想
- 全体の構成、発想が面白かった。
文章が上手ならさらによかった。
冒頭部に意味がわからない文があり、残念。
「ゴドー」が活きているのかどうかは判断できなかった。
後藤君の死に対する麻里の感傷はもっと別のところで感じられるとよかった。安房直子「きつねの窓」を思い出した。あの喪失感に負けている。(この票の参照用リンク)
2008年4月28日 20時28分5秒
- 推薦作品
- 管理する人と管理される人(崎村)
- 感想
- 静穏で植物的な人間のありようについての小説、と言えるだろうか。「おじいちゃん」は食事が出れば食べ、夜が来れば眠り、その都度与えられる指示に従って、大人しく日常を繰り返している。「私」はといえば、熟練のガーデナーが花を育てるように、老人の環境を整え、適量の会話につき合い、監視することを怠らない。つねに冷静で淀みがない、穏やかなその手つきは、まるでやさしさに基づく行為ででもあるかのようだ。しかし実は、彼女もまた、別の人間の指示の下に、与えられた任務を淡々と遂行するだけの存在にすぎない。こんなふうに、僕たちはそれぞれがガラスで囲われた部屋の中にいて、別の部屋の見ず知らずの誰かに管理され、あるいはその誰かを管理し、ガラスの向こうの誰かに深い同情や関心を抱くこともなく、自分の役割に違和感を覚えることもない…
この小説のテーマをそう捉えたが、しかしこの小説の美質は、こうしたテーマのもう一歩先にあるように感じる。末尾の三行、「病室のドアを開く。その瞬間、私は緋那子ではなくなる。」この切りつめたセンテンスがたたえる緊張感も素晴らしいが、本当に心を揺さぶる言葉は、その後、ヒロインがつぶやく独白の形をとってあらわれる。「本当の緋那子さんてどんな人なんだろう」。この何気ない言葉に、理由もよくわからないまま、ふと涙がこみあげてきそうになるのを、僕は感じる。そして北杜夫の『幽霊』の冒頭近くの、次のような一節を思い出すのである。
「それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。」(でんでん)
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- 推薦作品
- 櫛にながるる(qbc)
- 感想
- 無愛想で乾燥した言葉づかい、ぎくしゃくしたリズムの文体。にもかかわらず、ここに捉えられた登場人物たちの姿は、実にみずみずしく、生気に満ちている。いきなりポケットに飛びこんでくる手。ふと髪をつまんでみせる指先のしぐさ。その一つ一つが、官能的とすら言えるような、豊かなイメージを形づくる。流麗な文章では決して捕捉することのできない活力と色気を、この言葉たちははらんでいる。(でんでん)(この票の参照用リンク)
2008年4月25日 12時39分10秒
- 推薦作品
- 盗む者と盗まれる者(わらがや たかひろ)
- 感想
- ……この短篇の筋を簡単に説明すると、収入こそ少ないがボランティアにせいをだすまじめな青年がパソコンを盗まれることから始まる。盗んだのは、いわゆるひきこもり男なのであるが、ひきこもり男は彼なりの論理と動機があるのだった。
「(盗んだパソコンを売りさえすれば)その(堕落した)生活に一時の終止符を打てるかもしれない」
という一文は迫力がある。彼の思い込みの強さは現代のラスコーリニコフをどこかで思い起こさせる。が、売る前に「みてやれ」といって、まじめ青年のパソコンを開く。金が欲しいだけなら見る必要もない。だが、ここは犯罪者となったこの男の純粋な悪意の好奇心である。そして悪意の好奇心というのもまた、現代の特徴のような気がしないでもない。
犯罪男は「画像や動画データなど、独り言を言いながら、閲覧していく」のであるが、作者はここで、このまじめなボランティアリーダーの青年がおそらくはパソコンに(明確にエロと書いていないが)エロ画像やエロ動画を所有している、ということを匂わせていて、おまけに犯罪青年に「独り言」をぶつぶつといわせながら画像や動画を閲覧させていく。
私はこの描写はさりげないが、相当に鋭い見方であり、なおかつ恐ろしく、また、リアリティがあると思う。
だが、これだけなら小説というより犯罪者のルポルタージュを読むような、リアルさと悪意だけが目立って、やりきれなくなるだけだった。そういう情報だけが知りたければ小説を読む必要もないのだから。
でも、ここからの「つくり話」の部分が見事に小説になっているのだ。
犯罪男はそのパソコンに自分が参加したボランティアの記念写真をみつけてしまうのだった。平気でアパートに忍び込み、パソコンを盗み、データを漁る、そんな男にとって、記念写真など、どうでもいいように私は最初、思う。
が、犯罪青年が、変態でひきこもりで無職で泥棒であるからといって、彼の良心すべてが失われているわけではないことに気づかされる。彼の中に眠っている「ボランティア体験」でのリーダーたちとの記念写真、という記憶の重みは彼には、とっても大事なことだったのだ。なんと彼は夜が明けるまで冷や汗をながして自分の行為について考え込むのである。
いささか俗っぽい文体で書かれていることと、一見題材がありふれていること、色気が皆無なこと、悪意ばかり目立つこと、など、文句をつけようと思えばいくらでもつけられるのだが、私は、これは小説になっていると思った。なによりも私自身が揺さぶられた。
以前の「風呂場でうんこをもらした男をめぐる群像」小説を読んだときも思ったのだが、こういう話を書くのは勇気がいると思う。きわどいバランスを保ちきるのは難しいが、そこを達成するとひょっとすると大小説となる可能性もある。もし興味があれば、この作品はもう少し書き足していって、小説よりも映画のシナリオにしてみればどうだろう。
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- 推薦作品
- ゴドーと歩きながら(三浦)
- 感想
- ギターで感電死した男が夢の中で、女に会いにくる。二人は手をつないで外を歩き、他人が聞いたらどうということもないが、当人たちにとっては、お互いの心にちゃんと届く、温度のある会話をする。男の手は湿っていて、夢だとはまだ気づいていなかった(気づきたくなかった)女は、その男の手の湿り気にちょっと生理的な不快感を覚える、だが目がさめて、トイレへ行った寝惚けた頭ですべてが夢だと気がついたころ、女は手を洗ってしまっていて、真っ先に思うのは手を洗いたくなかった、という後悔だった……という部分が私の中に私だけにしか見えない映像として強く残っている。
作者がこの箇所にどんな思いを込めているのかはわからないが、おそらく、文頭と文末にあらわれる「ゴドーのひとり」とその仲間たちのゴドーという存在(まるでゴドーのひとりは記憶をすべて失って魂となった後藤君みたいだ)が、麻理の夢のエピソードを足下からしっかりと支えているように思える。生と死はつながっている、なんて明確に書かれると興ざめするけれど、この物語を読んでいるあいだ、私が言葉にならないコトバで考えていたのは、実はそのことかもしれなかった。これこそ物語を読む楽しみだとはっきりいえる。
もっと「短編」の枠を超えて、こんな物語を読みたい、と思っているのにうまく気づいていない未知なる読み手のところへ、こういう話が届いてほしい、飛んでけ! と、自分のことのように思った。
(以下おまけ・某小説家風書き出し)
最初に麻理と寝たとき、彼女はつばを手につけてわざと僕の手を握った。
「ねえ、あなた耐えられる? 起きたときこんな風に手がヌルヌルしてたら」
「よくわからないな」
「汗とか唾とかついてたとしたら」
「相手によるんじゃないかな」
「私だったら?」
「その手を洗わない」
「本当に?」
「うん」
「寝惚けていても?」
「月の輪熊にちかってもいい」
「……私は洗ってしまったの」
そうして麻理は僕の前でもう一度ブラウスを脱ぎ始め、ゆっくり話をはじめた。後藤君というのが彼の名前だった……
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- 推薦作品
- 夕凪(長月夕子)
- 感想
作品を評価するときに、誰かと誰かを比べる、というのはとても野暮なことだけど、作者がこんな抽象的でリズムで押していく作品を、今まで読んだなかで、中身をもったものとして上位にあると思った。正直驚いた。
「滑らかな青いスカートで、20世紀の煙を切り開き、真昼の日差しのようにするりと現れるその瞬間を。ローランド・ハナも聞こえない。」
たとえばこういった一文から<意味を求めようとすると全く理解できない、だけど、とてもリズムが気持ちいい>と書きたくなるのだが、この作品は私が思っている以上には意味不明ではなく、心地よいリズムの裏に、しっとりとした情感が包み隠されている気がする。
私はまだこの作品の全体像が理解できていないけれど、大半の詩的作品が、理解しようとしても、実は理解するべき内容があるのかどうか疑わしい(感性、という魔法のコトバに守られている)のに対して、この「夕凪」には、作者のとても私的な、感覚より強い体験に基いた思いのようなものが刻印されているような気がして、理解してみたい、とこちらが思って読み返せば、それは作者の体験とは違っても私の体験に基く私なりの理解、という形である程度、作品に近づけるような、そんな普遍的な内容をこの作品は持っている気がする。
具体的には、
「賭けに乗るなら振り返ってはいけない。背伸びしてし続けたなら、それがあたしの身の丈だとおもわれて望まれても仕方がない。あなたはあたしの隣にいない。あなたはいつでも向こうの正面。ここまで来れるかと余裕の笑み。」
の一部分を抜き出してみると、ここには何かを捨ててその代りの何かを手に入れたいけれど、(はたしてそれは可能だろうか、今の嘘でない本当のあたしで
も可能だろうか)と迷いながらも踏み出そうとしている一人の女の姿が浮んできたりする。ここでは一人の女であるけれども、それを男に変えて、男である私のコトバとして自分を同一化して読んでしまってもかまわない。文章が単語の羅列でありながら、そこにつながりがあるからだ。
誤解されないように、これは作者その人の人格をさしているわけではないと強く明記しておくが、文体が女ざかりであると思った。それも若さ一辺倒の力まかせであるよりも、一度倦怠を通り越したうえでの盛りだ。何かをあきらめた挫折の思いと、その痛みをむやみやたらにイヤしてしまうのではなく、大事に内側で爛熟させていった感じを私はこの文体から受け取った。
桜もそうであるかもしれないが、パッと咲き誇った花の姿は美しいが、散り終えて、雨にうたれているところもまた(あるいはそっちがむしろほんとうに)美しい……と徒然草にあった(気がする)。そういうことを連想させてくれる小説だった。とてもいい。
(この票の参照用リンク)
2008年4月25日 9時34分18秒
- 推薦作品
- 夕鶴異聞(新井)
- 感想
- 掲示板の方に、感想票に記名するのは「馴れ合い」の元だから止めるべきというような意見があったので、あえてそれに反対するために投票する。念のため断っておくが、投票内容そのものは一応まじめに考えたつもりなので、決して当てずっぽうに選んだわけではない。
太宰治に「御伽草子」というよく知られた作品があるが、誰もが知っているお話を書き換えるというのは一つの手法である。しかし元が有名であればあるほど、よほど工夫して料理する必要があるが、この作品は語りの視点といい、象徴的な新しい意味といい、なるほどと思わせる独自のものがあるかと感じられた。(海)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- 記念日(でんでん)
- 感想
- さて「馴れ合い」という言葉がいま局地的に旬であるかのようだが、馴れ合わないで文学活動なんかあるのかと思わないでもない。私の記憶によると(なんて言い出すのが嫌われる所以か)「短編」はコンテストサイトなんだから、と言い出した人は、たいてい波乱を巻き起こした挙げ句去っていったような気がする。一般に文学活動においてコンテストなどあくまで方便にすぎない。こう堂々と言ってしまってはいけないかも知れないが、私はなんとなくそう思っていて、そういう考えはポケットに隠しつつ、自分の文学的な眼と手をなんとか上手に働かそうと努める。
長話になり作者には申し訳ないとおもう。この作品は段落がなく、ぜんぶ一続きの構成でありながら、むしろその効果によってと言うべきか、映像が非常に鮮明にうかんだ。最初は、そんな無茶なことがあるかいなと思いつつ、読み終えたときには、確かにそういうことがあったのだと納得させられていた。言葉の力である。(海)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- ゴドーと歩きながら(三浦)
- 感想
- 掲示板に書き込むのは何かと面倒なので、こうして票感想の中に他事記載しているが、掟破りではあろうとおもう。別に誰かの応答を求めているのではないが、ただ自分の立場を確認するためにこのような形をとらせて頂いた。
極端なことを言うようだが、「馴れ合い」をぜんぶ厳密に排除するならば、誰が作り誰が使うかもわからない工業製品のようなあり方がいちばんよいという事になりはせぬかと思う。馴れ合いという危険性はつねに自覚しておく必要はあるが、感想に記名するとかしないとか、そういう基準を一律に立てるのは如何かと思う。
さてほとんど作品について語る余地がなくなった。「ゴドー」と言われただけで叩頭してしまうような意識があって、言うまでもなくそれは私じしん未読であるかの世界文学に対する劣等感であるに違いない。ただいささか生かじりの知識をつけ加えれば、「ゴドー」とは「ゴッド」のパロディというか「ずらし」(?)であったそうで、その一点でこの作品もまた、伝統につながりつつ自分の世界を切りひらいたと私には読めた。
いずれにせよ「短編」では、掲示板の言い合いよりも小説ははるかに筋が通っていると改めて確認できたことは収穫であった。全ての作品に敬意を表して感想を終わりたい。(海)(この票の参照用リンク)
2008年4月22日 21時41分50秒
- 推薦作品
- ゴドーと歩きながら(三浦)
- 感想
- ※批評っぽくやってみます。
サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」をモチーフとしていることは、誰の目にも明らかだが、「待ちながら」ではゴドーを待つ二人が主人公だったのに対して、この作品ではゴドーが主体となっているところが面白い。
「ゴドーを待ちながら」では、ゴドーを待つ理由を明らかにしないままに、「待つ」という行為の中で不条理を生み出しているが、この作品には「歩く」という不条理がある。「歩く」ことは、精神的に前進することで、対置された「家」はその場に留まることの暗喩だろう。
第二段落で、麻里の「家」に入らず歩くことを選んだ後藤君はエレキギターによる感電死によって死を迎えたことが明かされる。一体どうやって死んだんだよ!と思わず噴き出してしまいそうにもなるが、ここに不条理のダイナミズムがある(この一幕から、ゴドーが「死者」であるとの推論も成り立つが、それはどちらでもいいことだろう、歩いた後藤君は不条理な死を迎えたということが重要である)。目を覚ましたゴドーは歩き続けることに理由などあるのだろうかと考える、それは間違いなく歩かない方が楽だからである。彼を歩かしめるものは「自分を待っているものがあるという感じ」というひどく曖昧な理由であり、歩き続けることに明確な理由などない、と示唆されているようでもある。
最終的に、思い悩むゴドーを歩かせる契機となったのは「駱駝」=「寝床」という「家」の代替物があるということだ。彼を悩ませていた、精神的な面における「留まるもの」としての「家」ではなく至極物理的な「寝床」としての「家」というすり替えの納得であり、ゴドーは放心状態にあるとも言えるだろう。帰結として、「おびただしい数のゴドーが、闇につつまれて歩きつづける。」と全体にまで敷衍させる風刺的な一文で締められており、半ば絶望をしながらも「歩き続けなければならない」不条理は見事に表現されている。
よってこの作品に一票を投じたい。(K)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- 川野(川野)
- 感想
- ※批評っぽくやってみます。
この作品には「こんなものは小説のモチーフになりやしない」ということが示されている。
「僕」は、遡行してきた「お茶漬け海苔」と、「海退」とを結び合わせようと試みるが、その行為がえもいわれぬ可笑しさを漂わせている。「僕」は「六千年前には海」また「一日のあいだにも海は満ち干を繰り返していて、河口から二十キロも離れた浦和における荒川の水位が、潮位の変化に合わせて上下しており、川下から川上に向かって水の流れる時刻がある」と、妄想するが、どう考えても結びつきやしないのだ。何故ならそれに対応するのは「お茶漬け海苔」である。ここに対置の上手さがある。生活に密着した、通俗的な「お茶漬け海苔」と、壮大なイメージを喚起する「六千年前」の「海」とでは照応のしようがない。それは意図的に用いられた仕掛けであろう(例えば「お茶漬け海苔」が恐竜の化石、であったとしたら、妄想がそれ以上のものとして成り立ってしまう、それを基にしたSF小説が出来上がるかもしれない)。
だから「僕」は
>土地がいつか海に戻り、お茶漬け海苔がいつか流されて海に戻り、僕と友人がいつかの釣りをしていた中学生には戻らないことも、ひどくつまらない当り前のことだから話さない。
のである。何故ならそれは妄想でしかなく、他に何らの意味を持ったものでもないからだ。この点において「僕」は自覚的だ。そして「僕」は、「話さないけれど僕自身が忘れないように書き留める」、それは皆に見せるためなんかではなく、「書き留めておけば、あとで読み返した僕と、僕の子どもたちが愉しい」為で、つまるところ「僕」個人に還元される、ただそれだけのものなのである。故にタイトルが作者名を表す「川野」なのだろう。それ以上の、何か意味ありげな小説に仕立て上げようとの意思は見られない。
なのであるが、それだって、書かれてしまえば小説なのだ。小説にならないものだって小説になる、あるいは小説になってしまう、というパラドキシカルな魅力を孕んでおり、「小説」というものに対しての深い洞察が覗える。
よってこの作品に一票を投じたい。(K)(この票の参照用リンク)
2008年4月15日 22時12分42秒
- 推薦作品
- 川野(川野)
- 感想
- これまでの作品を受けて書かれた作品と私は読んだが、ここ数期の作品はすべてこの作品のために計画的に書かれていたのだろうか。そうであれば、すべて読み直さなければならない。
最近は川を見に出かけることなどなく、昔住んでいたのは遡行など考えられない土地だったので、遡行という現象を教えてもらえて得をした気分になった。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- 夕凪(長月夕子)
- 感想
- 私が夕凪の時刻を感じたのは、五段落のうちの第二段落だけ。それは置いておいて。
この五つがほぼ字数を同じとしているバランス感覚と、それでいてどの段落の登場人物も浮き彫りのように描かれていることが、良いと思った。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- 仄あかり(K)
- 感想
- テレビを見ているとき、画面の外は見えていますか。
はいと答えられる方には、是非感想を述べていただきたい。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
2008年4月12日 11時9分58秒
- 推薦作品
- 記念日(でんでん)
- 感想
- 昨日は昔好きだった人と数年ぶりに会って夜遅くまでお酒を飲んでいました。ひさしぶりに会うと好きなのかそうじゃないのか、あるいは思い出をきれいなままにしておきたいからという気持ちからか、俺はこの人のことが好きなんだと無理に思おうとしている気分になります。
なのでちょっと間がもたないようになったので共通の友人に電話して来てもらうことにしました。(続)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- ゴドーと歩きながら(三浦)
- 感想
- そもそもその友人は女の子なのですが、というか、昔好きだった女の子には好きだと既に三年前に言っていて、その友人の女の子のことも俺は口説いていて、しかもその好きだった女の子のことを相談すると言うのを口実に誘って口説いたという、複雑なようでぜんぜんそうでもないような関係だなと思います。
ただ、昔好きだった方は、友人の女の子のことを俺が口説いたというのは知らないんだな。こういうのって学校とか友達集団ではよくあるよね。だからグループとかまじで嫌いなんだよ。(続)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- 甘い起業計画(戦場ガ原蛇足ノ助)
- 感想
- ただそんな関係だからといって、べつに特別なことがあるわけでもなく、変わったことといえば俺が二人から邪慳にあつかわれるといったことくらいで、その程度のことです。
帰りは友達の女の子を送っていつもと違う駅に降りて帰ろうとしたら迷子になってしまい、タクシーで帰りました。酔いすぎ。(終)(この票の参照用リンク)
編集:短編 / 管理者連絡先: webmaster@tanpen.jp