第67期予選時の、#22ゴドーと歩きながら(三浦)への投票です(6票)。
全体の構成、発想が面白かった。
文章が上手ならさらによかった。
冒頭部に意味がわからない文があり、残念。
「ゴドー」が活きているのかどうかは判断できなかった。
後藤君の死に対する麻里の感傷はもっと別のところで感じられるとよかった。安房直子「きつねの窓」を思い出した。あの喪失感に負けている。
参照用リンク: #date20080429-084136
ギターで感電死した男が夢の中で、女に会いにくる。二人は手をつないで外を歩き、他人が聞いたらどうということもないが、当人たちにとっては、お互いの心にちゃんと届く、温度のある会話をする。男の手は湿っていて、夢だとはまだ気づいていなかった(気づきたくなかった)女は、その男の手の湿り気にちょっと生理的な不快感を覚える、だが目がさめて、トイレへ行った寝惚けた頭ですべてが夢だと気がついたころ、女は手を洗ってしまっていて、真っ先に思うのは手を洗いたくなかった、という後悔だった……という部分が私の中に私だけにしか見えない映像として強く残っている。
作者がこの箇所にどんな思いを込めているのかはわからないが、おそらく、文頭と文末にあらわれる「ゴドーのひとり」とその仲間たちのゴドーという存在(まるでゴドーのひとりは記憶をすべて失って魂となった後藤君みたいだ)が、麻理の夢のエピソードを足下からしっかりと支えているように思える。生と死はつながっている、なんて明確に書かれると興ざめするけれど、この物語を読んでいるあいだ、私が言葉にならないコトバで考えていたのは、実はそのことかもしれなかった。これこそ物語を読む楽しみだとはっきりいえる。
もっと「短編」の枠を超えて、こんな物語を読みたい、と思っているのにうまく気づいていない未知なる読み手のところへ、こういう話が届いてほしい、飛んでけ! と、自分のことのように思った。
(以下おまけ・某小説家風書き出し)
最初に麻理と寝たとき、彼女はつばを手につけてわざと僕の手を握った。
「ねえ、あなた耐えられる? 起きたときこんな風に手がヌルヌルしてたら」
「よくわからないな」
「汗とか唾とかついてたとしたら」
「相手によるんじゃないかな」
「私だったら?」
「その手を洗わない」
「本当に?」
「うん」
「寝惚けていても?」
「月の輪熊にちかってもいい」
「……私は洗ってしまったの」
そうして麻理は僕の前でもう一度ブラウスを脱ぎ始め、ゆっくり話をはじめた。後藤君というのが彼の名前だった……
参照用リンク: #date20080425-123910
掲示板に書き込むのは何かと面倒なので、こうして票感想の中に他事記載しているが、掟破りではあろうとおもう。別に誰かの応答を求めているのではないが、ただ自分の立場を確認するためにこのような形をとらせて頂いた。
極端なことを言うようだが、「馴れ合い」をぜんぶ厳密に排除するならば、誰が作り誰が使うかもわからない工業製品のようなあり方がいちばんよいという事になりはせぬかと思う。馴れ合いという危険性はつねに自覚しておく必要はあるが、感想に記名するとかしないとか、そういう基準を一律に立てるのは如何かと思う。
さてほとんど作品について語る余地がなくなった。「ゴドー」と言われただけで叩頭してしまうような意識があって、言うまでもなくそれは私じしん未読であるかの世界文学に対する劣等感であるに違いない。ただいささか生かじりの知識をつけ加えれば、「ゴドー」とは「ゴッド」のパロディというか「ずらし」(?)であったそうで、その一点でこの作品もまた、伝統につながりつつ自分の世界を切りひらいたと私には読めた。
いずれにせよ「短編」では、掲示板の言い合いよりも小説ははるかに筋が通っていると改めて確認できたことは収穫であった。全ての作品に敬意を表して感想を終わりたい。(海)
参照用リンク: #date20080425-093418
※批評っぽくやってみます。
サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」をモチーフとしていることは、誰の目にも明らかだが、「待ちながら」ではゴドーを待つ二人が主人公だったのに対して、この作品ではゴドーが主体となっているところが面白い。
「ゴドーを待ちながら」では、ゴドーを待つ理由を明らかにしないままに、「待つ」という行為の中で不条理を生み出しているが、この作品には「歩く」という不条理がある。「歩く」ことは、精神的に前進することで、対置された「家」はその場に留まることの暗喩だろう。
第二段落で、麻里の「家」に入らず歩くことを選んだ後藤君はエレキギターによる感電死によって死を迎えたことが明かされる。一体どうやって死んだんだよ!と思わず噴き出してしまいそうにもなるが、ここに不条理のダイナミズムがある(この一幕から、ゴドーが「死者」であるとの推論も成り立つが、それはどちらでもいいことだろう、歩いた後藤君は不条理な死を迎えたということが重要である)。目を覚ましたゴドーは歩き続けることに理由などあるのだろうかと考える、それは間違いなく歩かない方が楽だからである。彼を歩かしめるものは「自分を待っているものがあるという感じ」というひどく曖昧な理由であり、歩き続けることに明確な理由などない、と示唆されているようでもある。
最終的に、思い悩むゴドーを歩かせる契機となったのは「駱駝」=「寝床」という「家」の代替物があるということだ。彼を悩ませていた、精神的な面における「留まるもの」としての「家」ではなく至極物理的な「寝床」としての「家」というすり替えの納得であり、ゴドーは放心状態にあるとも言えるだろう。帰結として、「おびただしい数のゴドーが、闇につつまれて歩きつづける。」と全体にまで敷衍させる風刺的な一文で締められており、半ば絶望をしながらも「歩き続けなければならない」不条理は見事に表現されている。
よってこの作品に一票を投じたい。(K)
参照用リンク: #date20080422-214150
そもそもその友人は女の子なのですが、というか、昔好きだった女の子には好きだと既に三年前に言っていて、その友人の女の子のことも俺は口説いていて、しかもその好きだった女の子のことを相談すると言うのを口実に誘って口説いたという、複雑なようでぜんぜんそうでもないような関係だなと思います。
ただ、昔好きだった方は、友人の女の子のことを俺が口説いたというのは知らないんだな。こういうのって学校とか友達集団ではよくあるよね。だからグループとかまじで嫌いなんだよ。(続)
参照用リンク: #date20080412-110958