第67期 #18

夕凪

  静寂は透明な青、薄いベールが少しづつはがれていく。彼は息を殺してその瞬間を待つ。今日が生まれるのだ。一枚一枚はがれたベールが木の枝へひっかかり影になっていく。彼はそれらの現象を、誰にも気づかれないようにひっそりと見ているのだ。この一連の儀式のために、日々は激しく燃えながらいつも尽きていくのだろうと、夕日の残酷さを憂い朝日の静謐さに胸を焦がす。

 暮れ方のまだ青い時間、賭けに乗るなら振り返ってはいけない。背伸びしてし続けたなら、それがあたしの身の丈だとおもわれて望まれても仕方がない。あなたはあたしの隣にいない。あなたはいつでも向こうの正面。ここまで来れるかと余裕の笑み。今すぐにでも裸足になってここから逃げ出してしまいたいけど、時限装置のような確かな強さで空は群青を帯びていくから。つま先の痛みに気づかないふりをして、あたしは走り出すつもりなのか?

 20世紀のタバコの煙、耳をさらうのは黒いオルフェ。散漫な人々の談笑。僕は黙って、グラスの中を泳ぐ氷を見つめる。彼女の息づかいを感じながら。僕は待っている。滑らかな青いスカートで、20世紀の煙を切り開き、真昼の日差しのようにするりと現れるその瞬間を。ローランド・ハナも聞こえない。喧騒も置き去りに。そうして僕は20世紀を飲み干して、21世紀に帰っていくのだ。

 春に天気が良かったら、青い匂いのするあの広場へ、死んでしまった彼の曲を聞きながら、死んでしまった彼女の漫画と死んでしまった彼女の小説を持って散歩に行こう。陽光のまぶしさ、鮮やかな草の海へ身を沈めて、僕もその深遠に触れてみたい。覗き込んでみても、大きく滑らかな魚のようにゆっくりと僕の手をかすめるのは、果たしてタナトスだろうかエロスだろうか。傾いていく日、影はより濃く僕を縁取る。ある春の晴れた日、僕の果てはまだ太陽の向こう。

 雪がこの手の内へ舞い落ちる。ふわりと丸く暖かいおまえの魂のように。新しい風がやってきて、またどこかへと連れ去る。なあ、おまえはどこにいるんだろう。そんなにもろい魂抱えて、たよりにするのはたよりのない風ばかり。気が付くと消えてなくなる雪みたいに、おまえは生きていこうとする。今度会えたら立ち止まって、今度会えたら聞いてくれ、これでいいのかと。空がまた青くなる前に。

 夕凪【ゆう‐なぎ】 夕方、日中の海風から、陸風へ変わる時に見られる一時的な無風状態



Copyright © 2008 長月夕子 / 編集: 短編