投票参照

第67期予選時の、#26川野(川野)への投票です(3票)。

2008年4月30日 23時51分49秒

「愉しい。」という終わり方がいいです。

参照用リンク: #date20080430-235149

2008年4月22日 21時41分50秒

※批評っぽくやってみます。

 この作品には「こんなものは小説のモチーフになりやしない」ということが示されている。
「僕」は、遡行してきた「お茶漬け海苔」と、「海退」とを結び合わせようと試みるが、その行為がえもいわれぬ可笑しさを漂わせている。「僕」は「六千年前には海」また「一日のあいだにも海は満ち干を繰り返していて、河口から二十キロも離れた浦和における荒川の水位が、潮位の変化に合わせて上下しており、川下から川上に向かって水の流れる時刻がある」と、妄想するが、どう考えても結びつきやしないのだ。何故ならそれに対応するのは「お茶漬け海苔」である。ここに対置の上手さがある。生活に密着した、通俗的な「お茶漬け海苔」と、壮大なイメージを喚起する「六千年前」の「海」とでは照応のしようがない。それは意図的に用いられた仕掛けであろう(例えば「お茶漬け海苔」が恐竜の化石、であったとしたら、妄想がそれ以上のものとして成り立ってしまう、それを基にしたSF小説が出来上がるかもしれない)。
 だから「僕」は
>土地がいつか海に戻り、お茶漬け海苔がいつか流されて海に戻り、僕と友人がいつかの釣りをしていた中学生には戻らないことも、ひどくつまらない当り前のことだから話さない。
のである。何故ならそれは妄想でしかなく、他に何らの意味を持ったものでもないからだ。この点において「僕」は自覚的だ。そして「僕」は、「話さないけれど僕自身が忘れないように書き留める」、それは皆に見せるためなんかではなく、「書き留めておけば、あとで読み返した僕と、僕の子どもたちが愉しい」為で、つまるところ「僕」個人に還元される、ただそれだけのものなのである。故にタイトルが作者名を表す「川野」なのだろう。それ以上の、何か意味ありげな小説に仕立て上げようとの意思は見られない。
 なのであるが、それだって、書かれてしまえば小説なのだ。小説にならないものだって小説になる、あるいは小説になってしまう、というパラドキシカルな魅力を孕んでおり、「小説」というものに対しての深い洞察が覗える。

 よってこの作品に一票を投じたい。(K)

参照用リンク: #date20080422-214150

2008年4月15日 22時12分42秒

これまでの作品を受けて書かれた作品と私は読んだが、ここ数期の作品はすべてこの作品のために計画的に書かれていたのだろうか。そうであれば、すべて読み直さなければならない。
最近は川を見に出かけることなどなく、昔住んでいたのは遡行など考えられない土地だったので、遡行という現象を教えてもらえて得をした気分になった。(黒田皐月)

参照用リンク: #date20080415-221242


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