第69期予選時の投票状況です。12人より23票を頂きました。
# | 題名 | 作者 | 得票数 |
---|---|---|---|
1 | 我等普遍の子供 | くわず | 3 |
12 | なんて憂鬱な日常! | 水野 凪 | 3 |
14 | 愛と汚穢 | qbc | 3 |
8 | ROLLは何処へ消えた? | 影山影司 | 2 |
9 | 水たまり | K | 2 |
15 | 空が走る | (あ) | 2 |
16 | iCon | るるるぶ☆どっぐちゃん | 2 |
17 | 熱帯夜 | 三浦 | 2 |
3 | 青春だらだら | 藤袴 | 1 |
6 | 自己責任 | 笹帽子 | 1 |
11 | 小人レシピ | 柊葉一 | 1 |
13 | 雲の上 | bear's Son | 1 |
面白かったです。しかし母親はすごいなあ。(この票の参照用リンク)
次々と何か起こる事が予想できてもおもしろいです。(この票の参照用リンク)
思わず、人数の減り具合を検算してしまいました。楽しかったです。(この票の参照用リンク)
落ちがいい。(この票の参照用リンク)
最後の猫に威嚇される、間が好きです。 タイトルでもったいない気がしました。(この票の参照用リンク)
今期の「青春だらだら」を読んで、平成文化の爛熟ということを考えていた矢先にこの作品を読んで、私は個人的にとても楽しませてもらった。一言でいってしまうと、今期のイチオシである。
内容を要約してしまうと、これは退屈している女の話だと思う。だが「退屈」にもいろいろと種類と質がある。本人は退屈しているふりをしていても、実は退屈どころか、メディアに踊らされている場合など、私などしょっちゅうである。つまり、私が退屈だなあ、と思ってぼんやりとインターネット散歩をしているつもりが、実はひたすら商品広告やオークションやらに気をとられていて、そういうのは振り返ると「退屈」どころか一生懸命の「消費者」にすぎない。
そういう私の頭の退屈に比べて、この主人公は本当に退屈を全身で味わっている。ひまだ、ひまだ、と普通なら独りごとを言って寝ころんでテレビに退屈時間を奉仕するところが、彼女は自分の言葉で退屈を思考する。胃が口から出てきそうとたとえてみたり、風船になりたいと空を見あげたり、雨のしょっぱさを味わったりする。
何よりも退屈だと鬱屈しているときに、「お気に入りの」靴をはいて(そのまえにはきなれたスニーカーを蹴飛ばしたりしている……可愛らしい)散歩に出るところなど、とても上級な退屈者である。
「ああアタシ、猫になりたいんだわ!」
というのが彼女が着替えて、散歩して、雨をのみこんで、そうして出した結論だったが、私は詩人というのはこうした感性の持ち主であると思った。成り金をセレブ!と礼賛する世の中になってしまったが(そしてそれもまた平成文化の爛熟を支えている重要な要素だから否定はできない)そんな中で、こうした一流の詩人が生れていることを68期の作品にも感じたけれど、実は私は今期のこの作品のほうが好きかもしれない。わざとうまくなく書いているところが逆にこっちを本気にさせる。時間を湯水のごとく自分のためだけに使うということが、本来どのくらい快楽であるかということを、それを知らない読者にも教えてくれる作品。なのに、繰りかえすがわざと下手そうに書いているところが、とても上品で、そして優雅だ。
私が竹久夢二なら、このヒロインに絵のモデルになってもらいたいところである。
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論じたくないと申しておきながらのことだが、伝えたいことに対して作品に隙がないと思う。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
「元恋人」と「わたし」の文章は見た目だけなら「黒い」と「白い」という違いがありますが音感的にはとても似通っていて、「元恋人」も「わたし」も同じ一人から分かれた人間ではないだろうかという気がしてきます。そこからもう少し踏み込んで、「元恋人」の文章には「俺」や「私」といった人称が出て来ないこと、その文章に対する反応というかたちで「わたし」の文章が構成されていること、これらを踏まえると「元恋人」が「主」の立場にあり「わたし」が「従」の立場にあるように読めてきます。そうすると、「わたし」の文章の音感が「元恋人」の文章と似通っているのは「元恋人」との同化がまだ解けていない(或いは再び生まれた)状態であることを示しているように読めてきます。以上のことを踏まえれば、「わたし」が「元恋人」に見せた弱みに対するその反応が「嘲弄の言葉の渦」であり、それに対して「わたしは安心した」のも当然のことだと思われますし、「元恋人」のメールの送信先が「わたし」だけであるとは明言されていないことから「わたし」は「元恋人」にとって何人かのうちの一人、何十人かのうちの一人である可能性、そしてそういう立場にありながら「子宮役をもとめられているのに羊水に彼をひたさず、彼に父性的斧鉞のひとふりをくわえるのは、いったい、ひととして、おんなとして、どうなのか」と考えてしまう「わたし」という人間、というところにまで考えを広げていけると思います。ちょっとこわいですね。(この票の参照用リンク)
「現代文」の試験でなくてよかった、と思う。もしテストでこの作品を読んで<作者の設定しているテーマは何か?>と出題されたとしたら、私は正解を答える自信がない。たとえればこの小説は全部で5駅しかないような路面電車の走る田舎町に住んでいる人間が、或る日、東京メトロの大手町駅半蔵門線改札に置き去りにされて、「がんばって竹橋駅まできてください」とメモを渡されるような、そんな小説だと私には思えたからだ。えーとつまり、東西線に乗り換えれば一駅でつくにもかかわらず、田舎の人間にはその乗り換えすらも、複雑な迷路にしかみえない……。
しかし、小説が大都市の入り組んだ迷路と違うのは、電車に乗るための改札口が見当たらなければ眼をとじてそのまま天井をすりぬけ空を飛んでいけばいい。まったくもって想像力というのは万能な翼のようなもので、読むというのはなんとも自分勝手な行為だと、罰せられざる悪徳であると、こういう感想を書くときに思う。
で、私はこの作品の情景をよく思い描けなかったけれど、一人の女が男にメールを送っている姿を思い浮べた。この女はおそらく、いつも誰かにお世辞ばかり言っている気がした。女自身も常に会う人からは社交辞令的な挨拶をされていて、人と会うときにウソをつくことが当たり前になっているような、というよりも、ウソをつかない人間などいないだろう、という人間観のようなものが、しっかりと確立されている、わりかし自立した女性の姿を思い浮かべた。そして、乗り換えひとつにも迷路を歩かなければならない大都会の女は、きっと多かれ少なかれ誰もが彼女のようであるんだろう、根がまともであればあるほど、ウソをつかないと生きられない仕組みになっている、と思った。
そういう女が、夜中に元恋人とメールを交わしている。女も温もりがほしい。だが、女の欲しい温もりというのは、ウソが前提の甘さではない。社交辞令の優しさよりも、ベールにくるまない火傷しそうな本心をぶつけられることのほうが、むしろ愛だろう、というような考え方を彼女はしているように思える。それで、元恋人に送ったメールへの返事で自分が存分に罵倒されていることを確認して、<わたしは安心した>と結ばれる。
私はなんとなく、この作品を読んで、その文章の7割くらい意味がわからなかったにもかかわらず、頭ではなく体をつかってこの話を読んだような、体験した感覚を味わった。それはまるでその人の話のほとんどがわからないのに会って話をしているといつのまにかひきこまれる経験に似た、現場の感覚にちかいものがあって、頭でぜんぶを理解してそれでおわってしまう噛まない読書とはまったくちがう感じの読後感だった。
作者の自己評価はともかく、私には作者の小説群のなかでの傑作だと思う。一人の女の描写をとおして、現代の人間全体、あるいはその人間の背後にある大都市、社会……といったあらゆる要素が、しつこいけれど一人の女に集約されている。
今期の傑作「なんて憂鬱な日常!」とならんで、「短編」に残る一本であると思った(その文体になじめればもっとよかった、と個人的に残念)。
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笑いながら一気に読みました(この票の参照用リンク)
「熱帯夜」とどちらに投票しようか迷いましたが、こちらにします。もう少し文章にリズム感があれば、とも思いますが、面白かったです。(この票の参照用リンク)
「次第に前後不覚に陥ってしまう」のは少し解るなと思いました。
「不純物が水たまりの中には混入しているのだろう」の辺り、もう少し詳しく書いてほしい。
雪が結晶を作るためには空中を漂うホコリを核にする話とか、あるいは溜め息の主成分が窒素であるとか、そんな感じで。
水たまりのかさが減るのは、蒸発だけでなく、地中に滲み入る分も考えられるかと思います。水たまりを支える地面が、砂地か粘土か礫か、ということにも考えが及びます。(この票の参照用リンク)
「水」という字は元々流れる水を表した象形文字だという。しかしひとたびそれが決まると、「水」と書けば流れない水も指すことができる。そうして言葉を使っていくうちにふと、「水」とは何だったのかと思うときがある。そういう感性が描かれているのだと思った。
最後の一文は、別に目に見えていなくても良いだろうと思うのだが。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)
さわやかでよいです。しかし転んだらえらいことになりそう。(この票の参照用リンク)
こ(この票の参照用リンク)
ニヤつきながらゆっくり読みました(この票の参照用リンク)
れ(この票の参照用リンク)
読んでいた本が『不思議の国のアリス』だったらもっとよかった(この票の参照用リンク)
だ(この票の参照用リンク)
中学生くらい(?)の恋人たちが駆け落ちを試みる話だと読んだ。
この小説を「上手いか面白いか」の点、つまり評価する立場で読むのをおすすめしない。そういう読み方をしてしまうと多分、この作品はつまらないしおもしろくない…ような気がする(失礼)。なぜならツッコミどころは満載であるからだ。駆け落ちする緊迫感も感じられないし、「どうせどこにもいかない」と諦めている主人公の態度などしらけるばかりである。焼け野原の戦後世代が読んだとしたら、「作者でてこいっ!」と木刀を持ったガクランが押し寄せてきそうな軽さである。
だが、そうした彼ら主人公たちの親や先生のような視点ではなしに、自分もまた彼ら主人公たちのような無計画性、やる気のなさ、詰めの甘さ、を持っている(持っていた)ことを一度認めて読みかえしてみると、私は(こいつらあほやなあ)と思いつつも、なんとなく親しみがわいてくる。そして、こういう親しみの感じが、吉本新喜劇をみているときにも感じるなあ……となんとなく脱線して新喜劇を連想してしまった。たしかに人間的に全然しっかりしていない二人ではあるが、この飄々した感じは、昔の若旦那のようにも思えてくる。むしろ24時間働けますか! と連呼していた昭和時代より、文化ははるかに爛熟したのだなあ、と私は平成文化についてだらだら思ってしまった。
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誰しもが?一度は通るパラレルワールド。ネタ的に目新しさは感じませんでしたが、話がすっきりとまとまり好感が持てました。(この票の参照用リンク)
おもしろかったです。最後が気になり、いそいで読んだ短編でした。(この票の参照用リンク)
「街が混濁する浅い池のように見えた」と「僕も雲の上へ飛び出したい」の対比が良かった。もちろんそれは、そう思わせるだけ混濁というものがうまく描かれているからである。(黒田皐月)(この票の参照用リンク)