第69期 #13

雲の上

 梅雨入りして雨日が続いた今週、休日の今日も分厚い雲が空を覆っていた。隣の家に半分柴犬の血を持つ雑種が飼われていた。ケンと云った。僕が庭に出ると、いつもケンは柵の向こうの庭から鎖に繋がれた首を僕に向けてきた。散歩に出掛けるケンを僕は見たことがなくて、ケンは鎖が繋がる杭に決まってションベンを掛けているようだった。雨が降るとションベンの臭いが僕の家にまで来た。今日はその苦言を隣に云おうと決めていた日だった。犬は悪くない。隣の家族が悪い。電車で出掛けた後、帰ってきたら云いに行くつもりだった。
 CDを買いに定期を使って栄まで出掛けた。思いを寄せる子がカラオケで「これ歌えない?」と聞いた曲のCDを探しに来た。いつもは通りすぎる栄に久しぶりに降りて、高層ビルが低い空を支える街の中を歩いた。栄は汚かった。ショップに入ってCDを探した。今週のイチオシの棚にあってすぐに見つけられた。その歌手KKを知らなくて、その彼女から聞いて始めて知った。棚の前にKKの紹介があって、僕よりも年下と知った。彼女は僕の一っこ下だけど、その彼女よりもまた年下だった。
 そんなKKが一押しの恋の歌を歌う。棚の隅の視聴機で聞いてみた。最近僕と同い年や年下のスポーツ選手が日本代表に出てくるようになった。また、以前に大江健三郎の『死者の奢り』を読んだ。この前は、それまで興味のなかった村上春樹を始めて読んだ。『風の歌を聴け』だった。今の僕を三十歳になった僕から見た時後悔したくないと、まだ文章を読み、いつか芽を出す蓄積を続けようと選んだ。KKの歌の歌詞を聴いた。この曲を買う気になれなくて、何も買わずに電車に乗った。
 栄は汚さと幼さが溜まった嫌な所だった。栄から同じ電車に乗った女の子の、口に付いた銀の玉のピアスが、まだ僕にまざまざと突きつけて来た。特急の通過待ちする車両からホームに降りて、続く線路の分岐点を見つめていた。街が混濁する浅い池のように見えた。――僕も雲の上へ飛び出したい。重苦しい空気を脱ぎ捨てて……。

 家に帰った僕に母さんが声を掛けた。
「隣のケンちゃんがいなくなっちゃったんだけど。」
 僕は庭に降りてケンのいた隣の庭を見に行った。奥さんのケンの行方を案ずる憂苦な声が聞こえてきた。杭の鎖が切れて地面で寝ていた。僕はそのションベンで錆びた鎖を見ながら、僕に振り向くことも忘れて遠くの闊達な地を走っていくケンを思った。



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