第69期 #17

熱帯夜

 重々しい風が、ようやくあの甘美な夢魔が支配する屋敷の門戸へとたどり着こうとしていた千江美の魂を揺さぶった。彼女を乗せた馬車を曳く二頭の黒毛馬は、薄笑いを浮かべた三日月に向かって高々とその前脚を掲げると、海に漂う航跡のように白い小道を引き返していった。
 千江美は目を覚ますと、天井が見当たらないことに気がついた。蒲団がかかっておらず(だが、それは暑さのために蹴飛ばしたのだろうとすぐに了解した)、まるで診察台のように素っ気ないベッドの硬さに頭に来て、寝返りを打った時、死をカウントしているような赤い点滅が目に入った。彼女はようやくそこで自分が自衛隊の敷地内にある滑走路で寝ていたことを思い出したのだった。
 報道管制が敷かれているために、彼女の寝室は、鼓膜を打つヘリコプターの羽撃きも蚊柱のように現れる報道陣も寄せつけない、聖域と化していた。水を打ったような闇が、フェンスの陰で震えていた。
 千江美の力を見出した研究者達は、彼女を元の姿へ戻す試みを放棄した。それには彼らなりに十分な理由があったのだが――彼女が日に一度は必ず出撃すること、エネルギー維持に大気の摂取だけで事足りることが判明し、食料の確保を必要としないこと――巨大化したまま生きていくことになった彼女には、当然、無慈悲な行いにしか映らなかった。
 千江美は堪え切れずに泣きはじめた。自分の鼓動が、それだけで周囲の者の耳を聾する程であることを、彼女はわかっていた。手で口と鼻を覆い、嗚咽を封じ込めても、自衛隊機が離着陸する音と大差ないだろうということも、よくわかっていた。だが、悲しい事実が――今朝、敵に突き飛ばされた千江美の下敷きになって、黛くんが死んでいた――彼女から自制心を奪っていた。
 赤い点滅に追いやられた闇が、千江美がつくる陰の中にこっそり逃げ込んで来た。
 煮染めたような暑さだった。替えの服などなく、体を洗えるのは出撃後の海の中でだけ――もちろん、報道陣のカメラが狙っている――彼女の肉体は、魚が腐ったような酷い悪臭を放っていた。そのことに自覚的な彼女の心は、ヤスリをかけたように、日々、磨り減っていった。
 風がやんだ。
 あの二頭の黒毛馬に曳かれた馬車が、ゆっくりと姿を現した。千江美は読みさしの『アンの愛情』を閉じて脇に抱えると、やって来る馬車に、潤んだ視線を投げた。腰掛けていたベンチから立ち上がると、じっとそれを待った。



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