第69期予選時の、#14愛と汚穢(qbc)への投票です(3票)。
「元恋人」と「わたし」の文章は見た目だけなら「黒い」と「白い」という違いがありますが音感的にはとても似通っていて、「元恋人」も「わたし」も同じ一人から分かれた人間ではないだろうかという気がしてきます。そこからもう少し踏み込んで、「元恋人」の文章には「俺」や「私」といった人称が出て来ないこと、その文章に対する反応というかたちで「わたし」の文章が構成されていること、これらを踏まえると「元恋人」が「主」の立場にあり「わたし」が「従」の立場にあるように読めてきます。そうすると、「わたし」の文章の音感が「元恋人」の文章と似通っているのは「元恋人」との同化がまだ解けていない(或いは再び生まれた)状態であることを示しているように読めてきます。以上のことを踏まえれば、「わたし」が「元恋人」に見せた弱みに対するその反応が「嘲弄の言葉の渦」であり、それに対して「わたしは安心した」のも当然のことだと思われますし、「元恋人」のメールの送信先が「わたし」だけであるとは明言されていないことから「わたし」は「元恋人」にとって何人かのうちの一人、何十人かのうちの一人である可能性、そしてそういう立場にありながら「子宮役をもとめられているのに羊水に彼をひたさず、彼に父性的斧鉞のひとふりをくわえるのは、いったい、ひととして、おんなとして、どうなのか」と考えてしまう「わたし」という人間、というところにまで考えを広げていけると思います。ちょっとこわいですね。
参照用リンク: #date20080629-012720
「現代文」の試験でなくてよかった、と思う。もしテストでこの作品を読んで<作者の設定しているテーマは何か?>と出題されたとしたら、私は正解を答える自信がない。たとえればこの小説は全部で5駅しかないような路面電車の走る田舎町に住んでいる人間が、或る日、東京メトロの大手町駅半蔵門線改札に置き去りにされて、「がんばって竹橋駅まできてください」とメモを渡されるような、そんな小説だと私には思えたからだ。えーとつまり、東西線に乗り換えれば一駅でつくにもかかわらず、田舎の人間にはその乗り換えすらも、複雑な迷路にしかみえない……。
しかし、小説が大都市の入り組んだ迷路と違うのは、電車に乗るための改札口が見当たらなければ眼をとじてそのまま天井をすりぬけ空を飛んでいけばいい。まったくもって想像力というのは万能な翼のようなもので、読むというのはなんとも自分勝手な行為だと、罰せられざる悪徳であると、こういう感想を書くときに思う。
で、私はこの作品の情景をよく思い描けなかったけれど、一人の女が男にメールを送っている姿を思い浮べた。この女はおそらく、いつも誰かにお世辞ばかり言っている気がした。女自身も常に会う人からは社交辞令的な挨拶をされていて、人と会うときにウソをつくことが当たり前になっているような、というよりも、ウソをつかない人間などいないだろう、という人間観のようなものが、しっかりと確立されている、わりかし自立した女性の姿を思い浮かべた。そして、乗り換えひとつにも迷路を歩かなければならない大都会の女は、きっと多かれ少なかれ誰もが彼女のようであるんだろう、根がまともであればあるほど、ウソをつかないと生きられない仕組みになっている、と思った。
そういう女が、夜中に元恋人とメールを交わしている。女も温もりがほしい。だが、女の欲しい温もりというのは、ウソが前提の甘さではない。社交辞令の優しさよりも、ベールにくるまない火傷しそうな本心をぶつけられることのほうが、むしろ愛だろう、というような考え方を彼女はしているように思える。それで、元恋人に送ったメールへの返事で自分が存分に罵倒されていることを確認して、<わたしは安心した>と結ばれる。
私はなんとなく、この作品を読んで、その文章の7割くらい意味がわからなかったにもかかわらず、頭ではなく体をつかってこの話を読んだような、体験した感覚を味わった。それはまるでその人の話のほとんどがわからないのに会って話をしているといつのまにかひきこまれる経験に似た、現場の感覚にちかいものがあって、頭でぜんぶを理解してそれでおわってしまう噛まない読書とはまったくちがう感じの読後感だった。
作者の自己評価はともかく、私には作者の小説群のなかでの傑作だと思う。一人の女の描写をとおして、現代の人間全体、あるいはその人間の背後にある大都市、社会……といったあらゆる要素が、しつこいけれど一人の女に集約されている。
今期の傑作「なんて憂鬱な日常!」とならんで、「短編」に残る一本であると思った(その文体になじめればもっとよかった、と個人的に残念)。
参照用リンク: #date20080624-123242