仮掲示板

第200期を読む その1

 三浦と申します。
 「短編」初投稿が第2期なので、ずいぶん古株です。未だに「短編」に投稿している者としては一番の古株になります。

 さて、これから第200期の全作品を読んでいこうと思います(ただし私の作品は飛ばします)。何がどのように書かれているか、という観点で書いていくので、感想とは少し違うものになります(良し悪しは判断しません)。皆様が第200期の作品を読まれる叩き台にでもなれば幸いです。

 ※文字数が多くなるため、1つの記事で取り上げるのは2作品までです。
 ※尚、この一連の記事が全作品を網羅することは確約できませんので、ご容赦ください。(この投稿の時点でまだ書き終わっていないため。第200期終了までを期限としています。はたして…)

 それでは、#1から始めていきます。



#1 200 八海宵一
http://tanpen.jp/200/1.html

 この小説は以下のように分けることができます。

   現在:1段落目〜10段落目と、27段落目〜33段落目
   現在に至る経緯の説明:11段落目〜26段落目

 間に挟まっている説明がそのまま語り手の回想になっており、単なる説明で終わらない、感情面もフォローしたものになっています。
 さて、この小説の最も特徴的な箇所が、11段落目から12段落目にあります。以下に引用します。

   え? なんでそんなときに縄跳びしているのかって?
   いい質問だ。なぜぼくらが大縄跳びをしているのか、説明するとしよう。

 ここでは語り手が、大縄跳びをしている事情を知らない何者かに話しかけられ、それに答えています。頓呼法と呼ばれる技法の一種ですが、では、ここで語り手が話している相手は何者でしょうか。

   「誰だよ、引っかかったの!」
    体育館横で何度となく聞いたセリフ。

 この引用のように、この小説では耳で聞き取れる台詞は鉤括弧で括られています。しかし、先程引用した頓呼法を用いた台詞(11段落目)は鉤括弧で括られていません。つまりこの台詞(11段落目)は、語り手の心内で発せられているものだと考えられます。
 語り手がテレパシーを使う異能者だとわかるような記述は見当たりませんので、テレパシーという線は無視します。すると、この心内の台詞は小説の登場人物に対して発せられたものではなさそうだと考えられます。
 ところで、Wikipediaの「頓呼法」のページには、以下のように書かれています。

   語り手または作者が語りを休めて、そこに存在しない人物または抽象的な属性や概念に直接語りかける、感嘆の修辞技法のこと。

   Wikipedia - 頓呼法
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E5%91%BC%E6%B3%95

 私は以前に、問題の台詞(11段落目)は頓呼法と呼ばれる技法の一種だと指摘しました。そう、私はそもそも、この台詞は小説内に存在しない人物に向けて語られていると考えており、その相手とはずばり、読者であると考えているのです!
 え? そんなこと説明されなくても普通にわかってたって?
 ……
 で、では、どうして語り手には読者の声が聞こえたのでしょう。
 しかし、その理由と考えられそうな記述を小説内に見つけることはできません。11段落目で読者の声を聞いたはずの語り手は、12段落目以降、そんな出来事などなかったかのように振る舞ったまま、語り終えてしまいます。
 え? 小説の中に見つからないなら小説の外に理由があるんじゃないかって?
 ところで、この小説が掲載されているサイト「短編」についてご存知でしょうか。TOPページには、こう書かれています。

   「短編」は、1000字以内の創作小説を毎月募集し、読者投票により優秀作品を選出するサイトです。

 第1期は、2002年8月20日に始まりました。今回で、なんと200期になります。200期……200……そう、この小説のタイトルでもある「200」です。
 これで、語り手に読者の声が聞こえた理由の目星がついたのではないでしょうか。
 この小説は「短編」に捧げられたものであると、私は解釈しています。大縄跳びが「短編」をあらわし、縄を飛ぶ小学生が「短編」参加者をあらわしているのだろうと。

   確かに200回はギネスじゃない。
   でも、誇れる記録だ。

 誇れることだと思います。
 「短編」200期、おめでとうございます。



#2 鮎 わら
http://tanpen.jp/200/2.html

 まず、冒頭の一文を引用します。

   崇がサイコキネシスに目覚めた日、大分県の玖珠川ではアユ漁が解禁された。

 「玖珠川(くすがわ)」という川の名前が登場しました。例によってWikipediaから引用します。

   筑後川水系の支流で大分県玖珠郡九重町、玖珠町および日田市を流れる一級河川。
   また、宝泉寺温泉、湯の釣温泉、天ヶ瀬温泉など、流域には温泉も数多い。

   Wikipedia - 玖珠川
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%96%E7%8F%A0%E5%B7%9D

 「サイコキネシス(念力)」という語句も登場しましたので、こちらもWikipediaから引用しておきましょう。

   超能力の一つで、意思の力だけで物体を動かす能力のこと。

   Wikipedia - 念力
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E5%8A%9B

 玖珠川の鮎の解禁日は5月20日のようですので、崇がサイコキネシスに目覚めた日も5月20日ということになるでしょう。
 この小説は「崇」を視点人物とした三人称で語られますが、以下に引用するように崇の心内の台詞も出てくるため、一人称寄りの三人称ということになります。

   サイコキネシスである。一人息子がサイコキネシスに目覚めたというのに、親父は大分まで一人で釣りに行きやがった。

 崇が男性であることは記述されていますが(「一人息子が」の箇所)、年齢に関する記述はこの小説内に見当たりません。両親と同居していること、洗い物をすることと洗濯物を干すことを日常的に任されているらしいことから、小学校中学年以上くらいの年齢かなと推測できます。

   一人息子がサイコキネシスに目覚めたばかりだというのに、なに順応してんだこのクソババア。

 そして上の引用のように母親に対して悪態をついていることから、思春期の少年だろうとも推測できます。思春期は、医学的には「第二次性徴の発現の始まりから成長の終わりまで」と定義されているらしく、また男子の第二次性徴の発現が始まるのは平均で11歳6か月ということなので、崇もだいたいそのくらいの年齢なのでしょう。

   洗濯物に含まれる水分子をひとまとめにして洗濯物から切り離せば数分とかからず全部乾くのだが、母には言わないでおいた。

 さらに上の引用のように分子を認識できているので、中学生以上になるでしょうか。
 さっきから崇の年齢にこだわっていますが、というのも、「一人称寄りの三人称」というこの語り口に、思春期の少年という視点人物がよく合っていると私は考えているからです。

   微粒子レベルで汚れが取り払われていく食器たちに目もくれず、母はそう言い残して洗面所へ去った。
   台所のシンクに両手を翳しながら崇はそれを見送る。一人息子がサイコキネシスに目覚めたばかりだというのに、なに順応してんだこのクソババア。

 上の引用箇所を一人称で書く場合、私なら以下のように書くでしょう。

   目覚めたばかりのサイコキネシスで洗い物をしてみせてるっていうのに、お母さんは目もくれずに洗面所に行ってしまった。
   なに順応してんだこのクソババア。

 (恣意的な変更ではありますが)「微粒子レベルで汚れが取り払われていく食器たち」の箇所が抜け落ちています。一人称というのは語り手の五感と感情を経由していることが前提となっているため、一歩引いた視点で小説の最初から最後まで進行することはあまりありません(ハードボイルド、というジャンルではそのように進行していきますが)。一歩引いた視点が確保できないとなると、「崇は染み付いた固定スキルの弱気を発動せざるを得なかった」というような記述は抜け落ちることになるでしょう。
 私はつまり、このような一歩引いた視点が、思春期である視点人物の両親に対する距離感とよく合っていると考えているわけです。



(#3へ、つづく)

第200期を読む その2

つづいては、#3です。(行数制限のため、2つ入りませんでした)



#3 My name is Matt Nelson. I'm from Atlanta, Georgia, USA テックスロー
http://tanpen.jp/200/3.html

 こちらもまず、冒頭の一文を引用してみましょう。

   クラブで声をかけた女は笑うと幼さが際立った。貼りついたように笑い続けるので、声をかける前の物憂げな表情はもう思い出せなかった。

 この段落では一人称なのか三人称なのか定かではありません。2段落目を引用してみます。

   マットはもともと日本人女性には特に思い入れはなかったが、実物を目の前にして、彼女らに入れあげる同郷人の気持ちがなんとなくわかる気がした。

 この「マット」を視点人物とした三人称小説であることがわかりました。#2の「鮎」のように視点人物の心内の台詞が出てきたりはしませんが、「なんとなくわかる気がした」と、「マット」の考えが記述されていますので、一人称寄りの三人称小説ということになるでしょう。
 では、内容に入っていきましょう。

   マットはスクールカーストの上位から転落したことはなかったので、下位に属する連中のようにねじ曲がった性癖を持ち合わせてもいなかったし、彼らのように米国で成就できなかった自分の支配欲を、二次大戦後すっかり仲が良くなったトモダチ国のメジャー級人材で昇華させる必要もなかった。

 「スクールカースト」とは、学校社会において形作られるヒエラルキーの序列のことです。「マット」は「上位から転落したことはなかった」ため、下位に属する連中の「ねじ曲がった性癖」を持ち合わせていなかったと語られます。ここで書かれている「性癖」は、一般的に誤用されている"性的嗜好"という意味ではなく、本来の"性格"に近い意味として使われており、それは「スクールカースト」および「支配欲」と並んで語られていることから推測できます。
(ちなみにアメリカ合衆国のスクール・カーストについては、Wikipedia「ジョック」の項にある「階層構造の図象」をごらんください)

   Wikipedia - ジョック
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF#

   彼らのうちの一人に招かれてその家と同じようにスタイリッシュに振舞う日本人女性を見、彼女たちが「正しい」自由を語るときのまっすぐな小さな目を見るとどうにもむずがゆく、歯の浮くような気持ちになり目をそらすと、スタイリッシュな部屋にすっかりなじんだ掛け軸が目に飛び込み、その時天啓のように、日本で日本人女性を抱かねばならぬと思った。

 「マット」は、アメリカ化した日本人女性を目の当たりにすると「むずがゆく、歯の浮くような気持ち」になり、目をそらしたその先で、アメリカの住宅に馴染んだ、アメリカ化された「掛け軸」を見つけます。そして「日本で日本人女性を抱かねばならぬ」と思うわけですが、これは、「日本人」が"自由の国"であるアメリカで「自由を語る」ことの裏返しになっています。
 2段落目のみ「マット」の回想になっており、他の段落はすべて現在の「マット」の視点になっています。現在の「マット」は日本におり、クラブで声をかけた日本人女性が住む「Dirty(不潔)」でも「Messy(乱雑)」でもないドールハウスのような部屋でその女性を抱きます。女性の肩甲骨には「free(自由)」という彫文字があり、この部分は2段落目で自由を語っていた日本人女性と照応しています。

   外に出る女についてダウンを羽織り、導かれるまま誰もいない神社の鳥居をくぐった。女の真似をして賽銭箱にポケットに入っていたくしゃくしゃの1ドル紙幣を投げ入れ、笑いながら女を見ると見返す女は真剣な顔で「ユアネームアンドアドレス、ファースト、ゼン、プレイ」「Play?」

 女は「マット」に、"pray"(祈り)について教えようとしますが、神社がどのような場所であるのかをおそらく知らない「マット」は、"pray"を「play」と聞き間違えます。

   女から返答はなかった。拝殿に向き直るとその後ろに朝日が眩しく、不意を突かれたマットはくらっとして目を瞑り、そのまま押さえつけられるようにして頭を垂れた。

 朝日に目がくらんだ「マット」は、目を閉じて頭を垂れるという祈りの姿勢になります。「押さえつけられるようにして」というのが、女の腕力によるものなのか、それとも他の何かによるものなのかを断定する記述はありません。興味深いのは、1行空いての5段落目とさらに1行空けての6段落目のみ、「マット」の心内が記述されていないことです。「日本で日本人女性を抱かねばならぬ」という「マット」の思いは、「天啓」のように訪れたものでした。神社というアメリカとは別の神がいる場所で「マット」を襲った上の引用の現象も、もしかすると「天啓」なのかもしれません。ただ、そこで「マット」に起こったかもしれない心内の変化については、語られていません。この、視点人物の心内を描かない、というのも、三人称小説における技法のひとつです。



(#5へ、つづく)

第200期を読む その3

つづきまして、#5です。(2つ載せるつもりでしたが行数制限の壁が)



#5 地平線の向こうでとびきり甘いケーキを焼こう 彼岸堂
http://tanpen.jp/200/5.html

 例によって人称を確認しておきましょう。

   母と会話しながら私はテレビをつける。

 15段落目からの引用ですが、この小説は一人称小説のようです。
 さて、語り手である「私」のプロフィールを探ってみましょう。

    小説を書けなくなって二週間が経った。
    目を瞑れば書きたいものが浮かんだのに、思い起こされるのはかつての上司の顔ばかり。
    全てから解放されて夢に向かってフルパワーとは何だったのか。
   「うん、いやマジで。一か月前。勢いで」

 1段落目から4段落目の引用です(実際は、3段落目と4段落目の間に1行空けてあります)。この小説は、これまで見てきた#2、#3のような一人称寄りの三人称小説よりも、さらに#1の一人称小説よりも、語り手の五感と感情が生のままに語られており、プロフィールが俯瞰的に語られることがありません。なので情報としては不確かですが、上の引用を見ると、どうやら語り手は1ヶ月前に退職しており、また、2週間前から書けなくなっているものの、小説を日常的に書く人物であると推測できます。

    実家にはいつ帰ってくるのか、だなんて言われると思わなかった。
    やっぱ都会で一人病んで死なれるより、穀潰しとして抱えた方がマシと考えたのかもしれない。

   「新幹線まだ買ってないしさ。え、いやそりゃ新幹線でしょ。ええ? 飛行機?」

 そして、語り手は現在、「都会」(場所は特定できません)で暮らしており、そこから「新幹線」で行くような距離に「実家」があり、さらに実家がある県あるいは隣接する県には空港があるということが推測できます。
 語り手のプロフィールについて探れるのはこのくらいです。では、物語に入っていきましょう。

   電話越しの母は優しかった。

   ソファで寝ながら、右耳にスマホを当てつつ、周囲を見回す(我ながら器用だ)。

 語り手は、実家にいる母とスマートフォンで電話をしています。私は先ほど、この小説の語りについて「語り手の五感と感情が生のままに語られており」と書きましたが、語り手が耳にしているはずの母の声についてはほとんど記述されていません。その理由を、以下の引用から探れそうです。

   これ以上、母の声を聞きながら部屋のもの一つ一つの存在を認識したくなかった。

 母の声を聞きながらでは認識することに耐えられない「部屋のもの」とは、何でしょうか。以下に引用します。

   高校と大学の時の文芸誌。何書いていたんだっけ。

   本棚。氷と炎の歌。夏への扉。陰陽師。杜子春。蜂蜜と遠雷。

 「高校と大学の時の文芸誌」、「本棚」、そして小説のタイトル(『氷と炎の歌』『夏への扉』『陰陽師』『杜子春』『蜂蜜と遠雷』)が挙げられています。語り手は、母の声を聞きながらでは小説を認識することに耐えられないと言います。なぜでしょう。その理由を、以下の引用から探っていきましょう。

   「私、小説書いてたんだ」

    私は通話を切った。

    窓の外で明滅する光。聞いたことのない音。
    ……そうだよ、思い出した。
    いつだって私は、コーヒーに砂糖。痛みに喜び。死に花を添えてきた。
    そしてそれは――――心の安寧なんて程遠いところから生まれるものだったんだ。

 語り手は、「いつだって私は、コーヒーに砂糖。痛みに喜び。死に花を添えてきた」ことを思い出し、それは「心の安寧なんて程遠いところから生まれるものだった」ことを思い出します。この引用の直後、語り手が小説の題名決めに取りかかることから、「コーヒーに砂糖。痛みに喜び。死に花を添えてきた」というのは、小説を書くことと関連がありそうだと推測できます。そして、小説を書くことが「心の安寧なんて程遠いところから生まれるものだった」のだと仮定すると、母の声を聞きながらでは小説を認識することに耐えられなかった理由も、推測できます。
 語り手は現在、退職したため「全てから解放されて夢に向かってフルパワー」な状況にあります。さらに、語り手を「穀潰しとして抱えた方がマシと考えたのかもしれない」母から「実家にはいつ帰ってくるのか」と言われていました。この状況を「心の安寧」と呼んでも構わないでしょう。2週間前から小説が書けなくなっている語り手は、母からさらなる「心の安寧」へと誘われることで小説を書くことから遠ざかることを、無意識に恐れていたのではないでしょうか。その恐れが、母の声についての記述が極端に少ないことの理由だと推測できます。

   そうさ、私は――――書かなきゃ生きていないのさ。

 恐れを脱却した語り手は、この小説の最後にこう宣言するわけですが、脱却のきっかけを作ったテレビ映像の描写が興味深いので、少し見ていきましょう。

   『――――り返します! これは、現実の映像です!』
   『――突如現れた――――未だ都心部を――』
   『こんなことが、ああ、そんな――』 
   『――――府はたった今――――』
   『緊急――――』
   『ただちに――――繰り返します。ただちに――』


 テレビの音声を記述していると思われる箇所です(間に挟まれる、母と会話する語り手の台詞は省いています)。興味深いのは、語り手は「テレビ上で繰り広げられているそれを見」ているのですが、記述されているのは音声のみという点です。母の声とは違い、この音声はしっかり鉤括弧で括られていますので、語り手の耳に実際に聞こえている音声だと考えられます。この途切れ途切れの記述は、実際に途切れ途切れの音声だからそうなっているのでしょう。しかし、「見る」と語り手が意識したにもかかわらず、実際に意識された(記述された)のは音声のみ、というのは一体どういうことでしょうか。考えられるのは、見ていたが実際には他のものを見ていた(だから音声のみ記述された)、ということです。他のもの、とは、おそらく以下の引用に見られるものです。

 炎。硝煙。慟哭。血。肉と骨。光。星。夜に闇。月。
 少女の手と髪。海。果て。地平線。
 きっと溢れてくる。すぐそこまでくる。

 引用の1段落目と2段落目が、おそらく語り手の頭に浮かんでいるイメージです。この引用文はテレビを消した後に出てくるものですが、テレビを見ている間も、このイメージ(あるいはその萌芽)を見ていたのだろうと私は考えています。
 さて、テレビで生放送された都市部の大惨事として、2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件における、ワールドトレードセンターの倒壊が思い浮かびます。

   Wikipedia - アメリカ同時多発テロ事件
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 おそらく、語り手が見ているテレビに映っている出来事も、似たようなものなのでしょう。これを見た語り手は、以下のように思います。

   ――本物がある今しか、私が書ける最高のものは生まれない。

 アメリカ同時多発テロ事件が当時、小説を書く者にとって創作の動機になっただろうことは、容易に想像できます。この小説の語り手もその口ですが、おそらくは現在進行形で人が死んでいっている状況を「本物」と呼ぶのは、自分の欲望に正直ではあるにせよ、倫理に反するものでしょう。

   そうさ、私は――――書かなきゃ生きていないのさ。

 思考はマッドサイエンティスト的ですが、語り手は、つい1ヶ月前まで会社勤めをしていた一般人です。この落差が、滑稽さ、あるいはグロテスクなものとして表れています。



(#6へ、つづく)

第200期を読む その4

つづきまして、#6と#7です。(ようやく2つ収まりました)



#6 そこまでドライブ ウワノソラ。
http://tanpen.jp/200/6.html

   私が道路に出た時には、目的地をナビに入れている所だった。

 この小説は、「私」を語り手とした一人称小説のようです。しかし、もう一人の登場人物である「小夜ちゃん」と話していても「私」の話はまったく出てこないと言っていいですし(中学校か高校の修学旅行で九州へ行った、という内容のみ)、「私」のプロフィールがわかるような記述も見当たりません。
 「私」と「小夜ちゃん」の会話を抜き出してみましょう。まずは「私」から。

   「大丈夫、大丈夫。てか、車なんかむっちゃいい匂いやね。なんか、女子の香りって感じ?」
   「ラーメンて、彼氏と一緒に食べてたんや?」
   「今日は彼氏さんと遊んでたんやねぇ」
   「へぇ。今度はどこ行くん?」
   「お、九州やん」
   「んー。あんま行く機会ないかな、修学旅行は九州やったけど」
   「きちんと一緒に計画練れてるだけ凄いやん」
   「うん」
   「あはは、ほんま」

 次は「小夜ちゃん」の台詞。

   「さっき豚骨ラーメン食べてたから、臭かったらごめんね」
   「そうかな? 鼻が慣れて全然わからん」
   「うん、すぐ西行ったとこのラーメン太郎ってとこ。美味しかったよ」
   「うん、旅行の計画一緒に練ったり」
   「福岡と長崎と」
   「なんかなぁ、私が九州行ってないって言ったら向こうが凄いビックリしててな。というか普通行ったことあるもんやろ、て言われて。そんな珍しいもんかな」
   「そうかなぁ、流石に九州は色々調べとかないとなぁって」
   「うちの彼氏、ずっと携帯ばっかり触ってるから『お得意のスマホで調べたら』って冷たい感じで言うてしまうんよ」
   「私ももっと寛大になりたいとは思うんやけど……」

 「私」の台詞から取れる情報量は少なく、「小夜ちゃん」の台詞から取れる情報量は多いことがわかります。「私」が「小夜ちゃん」の聞き役になっていると考えていいでしょう。「彼氏のこととなると、いつもどこか小夜ちゃんは愚痴っぽい」と書かれていますので、引用した会話のようなやり取り(「小夜ちゃん」が話して「私」が聞く)が日常的に交わされていると推測できそうです。
 そんな聞き役の「私」は、「小夜ちゃん」をよく観察しています。以下に引用していきましょう。

   彼女は手足が悪い。指に軽く拘縮があるので、ナビのタッチパネルを押すのも指の第二関節辺りを画面に軽くぶつけて、ノックするように器用にやっていた。

   小さな手足を軽々動かし、車が滑り出す。右手はハンドルを。左手はシフトレバーを握っている。ハンドルに取り付けてある革製の器具に手をはめることで、手首を捻らずとも腕を動かせばハンドルを回せるようになっていた。

   信号を見つめたまま小夜ちゃんはポツリ溢した。

 「拘縮」という語句が出てきました。Wikipediaによれば「関節包外の軟部組織が原因でおこる関節可動域制限のことである。生理学的には活動電位の発生の停止により筋が弛緩しなくなる現象」を指すようです。

   Wikipedia - 拘縮
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%98%E7%B8%AE

 「小夜ちゃん」の指に拘縮がある理由は書かれていません。「私」は知らないのかもしれませんし、知っているのかもしれません。ただ、「小夜ちゃん」がカーナビのタッチパネルを押したり、取り付けた器具で車のハンドルを回したりする様子に見入っていることから、「小夜ちゃん」の「拘縮」を、無視できない特別なものだと認識しているようです。

   彼氏のこととなると、いつもどこか小夜ちゃんは愚痴っぽい。しょっちゅう週末になると会っているのに、積もりに積もった不満がポロポロと会話の端々から溢れていく。
   それを若干内心面白がって聞いている私は、捻くれ者だ。

 「私」は、「小夜ちゃん」から聞かされる彼氏の愚痴を面白がっています。そして、「ラーメンて、彼氏と一緒に食べてたんや?」と「小夜ちゃん」に彼氏の話題を振ったのは「私」です。また、「内心」で面白がっている自分のことを、捻くれている(素直ではない)、と言っていますので、面白がっていることを「小夜ちゃん」にはっきり伝えてはいなさそうです。

   ちらちらと、小夜ちゃんはこの彼氏といつまで続けるのだろうと考えてしまう。何だかんだ仲は良さそうだけど、小夜ちゃん自体にこの人とずっと……という風な、期待のようなものは微塵もないし。

 「私」は、彼氏との交際を末永く続けたいという期待が「小夜ちゃん」から感じられないことを気にしており、いつまで続けるのか(いつ終わらせるのか)と考えています。「私」は、恋人関係は末永く続くほうがより良いものだと考えているようですが、その事を「小夜ちゃん」に伝える様子はありません。「小夜ちゃん」が信号を見つめたまま「私ももっと寛大になりたいとは思うんやけど……」と呟いても、「私」は何も答えないまま、この小説は終わります。
 聞き役の「私」には観察だけがあり、意見がありません。「小夜ちゃん」に伝えていない「内心」があるような素振りを見せてはいますが、この小説の記述に「私」の「内心」はほとんど見当たりません。恋人関係は末永く続くほうがより良いものだと考えている「私」は、はたして「小夜ちゃん」との関係についてはどう考えているのでしょうか。



#7 沼 志菩龍彦
http://tanpen.jp/200/7.html

 この小説には、視点人物が登場しません。いわゆる「神の視点」で書かれています。

   標高三百メートル程の山の中腹、暗い森の中にその沼はあった。

 この「沼」が主役です。

   山の麓には古い町があり、武家屋敷じみた古民家等が、時の流れに取り残されたようにひっそりと佇んでいた。

 沼が登場してすぐに「町」が登場します。沼のプロフィールを説明するためです。

   その沼は禁足地として彼等に忌避されていたからだ。

   当地に伝わる昔話の中に、沼のことを語ったものが一つだけある。
   豊臣秀吉が九州征伐をしていた頃、ある大名の姫が家宝の宝刀と供に山へ逃げ落ちて来た。

 沼は、麓の町の人間から「禁足地」として「忌避」されているようです。また、「禁足地」の由来となった「昔話」として、豊臣秀吉の「九州征伐」が出てきます。Wikipediaによれば「九州平定は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である」とのことです。

   Wikipedia - 九州平定
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A

 沼が少なくとも1586年頃にはあり、また、沼があるのが九州地方であることがわかりました。

   だが、姫の死体も宝刀も浮かんではこなかった。諦め切れない武者達は鎧を脱いで沼に潜ったが、その武者達までもが一人として戻らなかったのである。以来、この沼は恐れられ、入らずの禁忌が誕生したとされている。

 禁忌の由来がこのように説明されたすぐ後に、「しかし、事実は違う。この沼が実際に恐れられ始めたのは、もっと古い時代の話だった」と訳知り顔に「事実」が語られ始めます。

   人類の祖先がまだネズミの一種であり、それを食らう爬虫類が地上に跋扈していた頃、地殻変動の影響で海底が隆起し、山となった。
   その山に、沼は既に存在していた。
   何億年も昔から、沼は有象無象を飲み込んできたのである。

 「それを食らう爬虫類」というのが恐竜を指すのだとすると、恐竜が絶滅したとされているのが白亜紀(約1億4500万年前から6600万年前)の末期らしいので、それ以前から沼があっということになります。さらに、「その山に、沼は既に存在していた」と書かれており、沼ができた、とは書かれていないため、海底に沈んでいる頃から「沼」があったと考えられます。

   Wikipedia - 恐竜
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%90%E7%AB%9C

   ネズミが猿になり人間となり、村を作り町を築き国を作り上げる中、ただ、沼は沼として其処にあり続けた。
   この沼が何であるのか。その謎を、人類はついに解くことが出来なかった。人類が死滅し、この星がただ砂と風と奇妙な獣が彷徨うだけの世界となった後も、変わらず沼は黒い闇を湛えていた。

 「何億年」前に遡っていた時間が、麓の町の話の時間を追い越して人類が死滅した後にまで至りました。この後に1行空けて、以下のように続きます。

   この沼から距離にして幾億光年も離れた或る人類未踏の地に、巨大な白亜の霊廟があった。
   そこに眠る古代の王族の木乃伊の中に、古式の打ち刀を持った女人の木乃伊が奉られているのだが、人類がそれを知り得ることはついになかった。

 また「人類」が登場しました。「この沼から距離にして幾億光年も離れた或る人類未踏の地に」と書かれているので、この「人類」は地球人を指していると考えられます。前の段落で死滅したと語った「人類」という語句をまた登場させているのは、「人類がそれを知り得ることはついになかった」という結びの文を書くためであり、麓の町の「昔話」に出てきた「宝刀を抱いてこの沼に身を投げてしまった」姫と思われるミイラが「人類未踏の地」の「古代の王族」として登場するためでもあります。
 そう、いつの間にか「沼」ではなく「人類」の話になっています。始めに私は、この「沼」が主役です、と書きましたが、そもそも、この小説は以下のように始まっていたのでした。

   その沼のことを知る者は少ない。

 「その沼のことを知る者」とは、もちろん「人類」のことです。そして、以下のように結ばれていました。

   人類がそれを知り得ることはついになかった。

 この小説は、沼のことをついに知りえなかった「人類」の話だったようです。



(#8へ、つづく)

第200期を読む その5

つづきまして、#8と#9です。



#8 だから一緒に わがまま娘
http://tanpen.jp/200/8.html

 この小説は一人称で書かれていますが、「私」や「ぼく」などの主語が使われずに書かれています。語り手の名前も性別も不明です。語り手のプロフィールについてわかることは、高校に通っていたこと、大学に通っていたこと、卒業論文を書いたらしいこと、就職活動をしたらしいこと、そして大学を卒業したことです。
 そんな語り手は、現在、「友人」である「アイツ」の部屋にいます。この小説は、以下のように分けることができます。

   現在:1段落目と、17段落目〜20段落目
   回想:2段落目〜16段落目

 回想で語られるのは、「アイツ」とゲームをやった日々です。「アイツ」とは高校時代に出会ったこと、当時流行していたRPGゲームについて尋ねたのが最初の会話であること、その後、語り手の自宅に招いて一緒にゲームをやったこと、大学生になっても一緒にゲームを攻略したこと、しかし「一緒にいるとウザい」と思うようになり、また「自分の思うようにゲームがしたい」と思うようになったのもあって「どんどん会わなくなった」こと、その後「全然会わなく」なり、「大学を卒業したら連絡先さえも分からなくなっていた」こと、「アイツが読んでたゲーム雑誌」の「本当に小さな記事」に「アイツ」の名前を見つけたこと。
 「ゲームを作る側になりたい」と言っていた「アイツ」の名前をゲーム雑誌の記事で見つけた語り手は、以下のように思います。

   なんだか悔しい気持ちになった。あっちは自分のやりたいことを着々と進めていて、自分はどうなんだろうって。
   アイツと会わなくなって、何をしていたんだろうって。
   悲しい気持ちと悔しい気持ちが込み上げてきて、雑誌を手にしてレジに向かった。

 語り手には何かしら芽生えるものがあったようですが、この引用の1行空けた次の段落で、「アイツ」の葬式があると自宅に連絡が入ります。語り手は、一緒にゲームを攻略していた時期の「アイツ」とのやり取りを思い出します。

   一度、自分でゲームをしたいと思わないのか? と聞いたことがある。不器用だからうまくコントローラーが操作できなくてって困ったような顔をしていた。だから、コマンドを早く正確に打てるのが羨ましいって言っていた。

   いつかは自分もゲームを作りたいんだ。でも、考えることはできるけど形にするのはどうもできなくて。だから一緒に……。

 「アイツ」から「コマンドを早く正確に打てる」と評されているのは、語り手です。そして「アイツ」は、自分が「考えることはできる」ゲーム作りを「形にする」ために、語り手の力が必要だと誘います。しかし、その後、全然会わなくなったことから、この誘いには乗らなかったのでしょう。

   久しぶりにアイツの部屋に入った。膨大な参考資料とモノが所狭しと置かれたその部屋は、あの頃と何も変わってなかった。

 1段落目と同じ文章が、18段落目にも登場します。ここで回想から現在に戻ったのでしょう(17段落目は19段落目とつながりがありそうですから、17段落目も現在だろうと考えられます)。1段落目ではノスタルジックに感じられた「あの頃と何も変わってなかった」という文が、18段落目では「いつかは自分もゲームを作りたいんだ」という「アイツ」の思いがずっと変わっていなかった、というふうに取れるようになっています。

   今からでも、追いつけるだろうか?

 これで追いついた、とする具体的な目標は定かではありませんが、「アイツ」に追いつきたいと語り手が思ったところで、この小説は終わります。



#9 海から海へ 川野
http://tanpen.jp/200/9.html

 この小説は「僕」を語り手とした一人称小説です。この「僕」は「自営業者」で、「子どもたちの待つ家」があります。

   遠浅の海に足を浸しながら、ここにいるアサリの数を考える。広さを何平方キロと仮定し、などとフェルミ推定を使うよりも漁協に聞いたほうが早いのだろう。この海に棲みついている数より、潮干狩りのために撒いている数のほうがきっと多いのだ。

 そんな「僕」は、遠浅の海に足を浸しています。この小説には空想はあっても回想はないので、ずっと現在を描いています。アサリの数を考える中で潮干狩りのことに触れているので、潮干狩りができる遠浅の海にいるようです。また、誰かと一緒だという記述は見当たらないので、独りでいるのでしょう。
 「フェルミ推定」という語句が登場したので、Wikipediaから引用しておきましょう。「実際に調査するのが難しいようなとらえどころのない量を、いくつかの手掛かりを元に論理的に推論し、短時間で概算することを指す」もののようです。「広さを何平方キロと仮定し、などとフェルミ推定を使うよりも漁協に聞いたほうが早いのだろう」という文がシャレになっているのがわかります。また、Wikipediaには「コンサルティング会社や外資系企業などの面接試験で用いられることがある」とも書かれており、上の引用から1行空けた次の段落で面接の話が出てくるのと関連があります。

   Wikipedia - フェルミ推定
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%8E%A8%E5%AE%9A

   もしも面接官を務める機会があれば、遥々とアメリカ西海岸から日本まで旅をしてきたホンビノス貝の気持ちを考えましょう、などと小学生向けのような質問を投げかけたい。何の能力を測るのかは分からないが。

 「ホンビノス貝」については、1段落目ですでに「水揚げが低迷するアサリのかわりに、遠い海のかなたから船底に付着してきたホンビノス貝が、この海の新しい名産品になっているのだと聞いた」として登場しています。この2段落目には、1段落目で登場した「フェルミ推定」と「ホンビノス貝」の話題が引き継がれているのがわかります。また、「何の能力を測るのかは分からないが」と、1段落目に引き続き、この段落でもシャレが出てきます。「一昔前に採用面接で流行ったというフェルミ推定が実際にどんなものか自営業者の僕が知るはずもない」という、自営業者だからフェルミ推定を知るはずもない、という決めつけもシャレでしょう。(Wikipediaの「ホンビノスガイ」の項目には、「2017年には千葉県が「三番瀬産ホンビノス貝」を千葉ブランド水産物に選ぶまでになった」という記述があるので、「僕」がいる遠浅は千葉にある海なのかもしれません)

   Wikipedia - ホンビノスガイ
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%AC%E3%82%A4

   深く冷たい海の上を進み、海流に揉まれながら海中の国境を越えていく、そのあいだに貝は何を考えて……といっても高度な意識も視力も持たない貝たちは、異存もなく異国の海にあっさりと慣れ親しんだのかもしれない。

 2段落目で「遥々とアメリカ西海岸から日本まで旅をしてきたホンビノス貝の気持ちを考えましょう、などと小学生向けのような質問を投げかけたい」と語っていた「僕」ですが、3段落目では自分で考えはじめています。シャレが続いているわけですが、「そのあいだに貝は何を考えて……といっても」と、「ホンビノス貝」に入れ込みはじめた思考を制止し、4段落目では、

   遠浅の海に足を浸しながら考える。浮遊する稚貝たちが足にしがみついて、このまま僕が陸に上がれば彼らは干し貝になる。

 と、再び海に足を浸している自分に注意を戻し、これ以降、シャレは姿を消します。自分に注意を戻したところで、今度は自分の足に「しがみついて」いる「稚貝」のことを考えます。この「稚貝」が「アサリ」のことなのか「ホンビノス貝」のことなのか、ここではわかりませんが、5段落目でそれがわかります。

   稚貝たちと僕を外洋へ連れ出すような大きな船が、この干潟には乗り入れてこないのなら、かわりにカヤックでも浮輪でもいいから外洋へ、どこか遠くの海へ流されていき、どこかの見知らぬ干潟へ流れ着きたい。いや、思い返してみれば自分がいま立っている干潟が、いつか辿り着いた見知らぬ干潟なのだと気がついた。生まれる場所も暮らす場所も自分の意志では選べない、そんなのは貝にも人にも当り前のことだ。

 「外洋へ連れ出すような大きな船」というのが、3段落目に出てきた「岩礁や護岸でなく船体だった」のことを指していると考えられるため、ここに登場する「稚貝」は「ホンビノス貝」と考えていいでしょう。ここでは「僕」と「稚貝たち」がワンセットで考えられており、3段落目まではシャレの範疇だったものが、本気めいています。さらに、この段落の後半では、「いや、思い返してみれば自分がいま立っている干潟が、いつか辿り着いた見知らぬ干潟なのだと気がついた」というふうに、「僕」は「ホンビノス貝」とほとんど同化しています。

   海水に流されて稚貝たちは再び沖へ向かった。僕はもうどこへも向かわずに、子どもたちの待つ家へ帰る。

 「ホンビノス貝」と同化しかかっていた「僕」ですが、「稚貝たち」だけが沖に流されたため、また独りの人間に戻ります。そして、人間に戻るとともに「ホンビノス貝」のことを考えるのをやめ、家に帰ることにしたところで、この小説は終わります。
 ところで、「生まれる場所も暮らす場所も自分の意志では選べない、そんなのは貝にも人にも当り前のことだ」という文が気になります。生まれる場所を選べないのはわかりますが、どうして暮らす場所を選べないと考えているのでしょうか。考えられる理由は、「僕」自身が、自分の意志で暮らす場所を選べなかった、ということです。このように考えると、「僕」は自分の意志で選んだわけではない「家」に帰っていくことになり、「どこかの見知らぬ干潟へ流れ着きたい。いや、思い返してみれば自分がいま立っている干潟が、いつか辿り着いた見知らぬ干潟なのだ」という異邦人感が、ぐっと増すように思います。



(#10へ、つづく)

第200期を読む その6

つづきまして、#10です。(行数制限のため、#10のみ)



#10 迷いネコみるきー euReka
http://tanpen.jp/200/10.html

   秋のページに踏み出したスニーカーの足裏が、ぐんにゃりとした空想の地雷を踏んづけてしまった私は、きっと次の瞬間に爆発しながら砕けていくセカイの匂いや甘い殺意、そして食べかけのシュークリームにさよならを言うひまもなくただ地面に向かってぐきゅーと叫びながらその踏んづけている足元に目をやると、それは空想の地雷なんかじゃなく昔なじみの迷いネコみるきーの柔らかいお腹だった。

 この小説は、「私」を語り手とした一人称小説です。「私」のそばには「迷いネコみるきー」がおり、登場人物はこの二人だけです。上に引用した1段落目が少々ややこしく書いてあるので、内容を整理してみましょう。
 「秋のページ」というのは、9段落目にある「落ち葉が秋の絵を描き始めた地面」と、おそらく同じもので、落ち葉が地面にたくさんあるのでしょう。そこにスニーカーを履いた足を乗せたと思っていたところに「ぐんにゃりとした」感触があり、見てみると「迷いネコみるきーの柔らかいお腹」を踏んでいた、というのが起きている出来事の流れです。続いて出来事以外の箇所を見ていきましょう。
 「空想の地雷を踏んづけてしまった私は」と躊躇なく語っていることから、「私」は、空想したものに接触することが可能な異能者か、あるいは空想を現実と混同する者のどちらかと考えられます。
 続いて「セカイ」という語句ですが、5段落目にも「セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹」という文で出てきます。この小説では1段落目と5段落目の2箇所に出てきますが、どういった意味で使われているのか定かではないため、推測してみましょう。世界、ではなく、セカイ、と片仮名で書かれてあるところを見ると、セカイ系、という語句が思い浮かびます。Wikipediaの「セカイ系」の項目にある「東浩紀らの定義によるセカイ系」の項では、「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と書かれています。しかし、この小説がセカイ系と共通性があるのかはまだわかりません。

   Wikipedia - セカイ系
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

 2段落目以降は、「私」と「迷いネコみるきー」の会話が主となっています。拾えそうな情報を探ってみましょう。

   「夏は終わったんだね」と、みるきーは私を見上げながら言った。「ほら、彼岸花が揺れて」

 夏が終わっているようです。15段落目に「ラジオ体操」「秋ナス」という語句が登場するので、舞台は日本だと考えていいでしょう。そして、ここに登場する彼岸花が花を咲かせているのだとすると、「日本では9月中旬頃に赤い花をつける」とWikipediaにはあるので、その頃だろうと考えられます。

   Wikipedia - ヒガンバナ
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8A

 以降の出来事をざっと拾っていきます。「私」は「迷いネコみるきー」を踏んづけていた足をどけると、地面に寝そべり、「迷いネコみるきー」の体に指を滑らせます。「迷いネコみるきー」は、「私の空想の地雷に付き合ったせいで内臓が破裂」しており、「肋骨も折れてる」ようです。体を起こした「私」は「缶ビールを飲みながら、食べかけのシュークリームを食べ」ながら「迷いネコみるきー」の話を聞いています(「食べかけのシュークリーム」は、1段落目に「食べかけのシュークリームにさよならを言うひまもなく」として登場しています)。「迷いネコみるきー」が「仰向けに」なって「滝のように血を吐き出し」ながら、「だけど今は、僕を抱きしめて欲しいんだ。君が僕にくれた、お気に入りのバスタオルにくるんで」と「私」に頼むところで、この小説は終わります。
 さて、気になるのは、以下の文です。

   迷いネコみるきーは、私の空想の地雷に付き合ったせいで内臓が破裂し、咳に血が混じりはじめていた。

 「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」したのは、「私の空想の地雷に付き合った」からだと書かれています。爆発に巻き込まれた、ではなく、「付き合った」から、です。「空想の地雷」は、1段落目では「ぐんにゃりとした空想の地雷」と書かれていました。この「ぐんにゃりとした」は「迷いネコみるきー」のお腹の感触で、「私」は踏んづけた「迷いネコみるきー」のお腹を「空想の地雷」と勘違いしていたのですが、声に出してそう言ったわけではなく、考えていただけです。ということは、「迷いネコみるきー」には、「私」が自分のお腹のことを「空想の地雷」と勘違いしていたことはわからないはずです。わからないことに「付き合」うことはできませんから、「付き合った」というのは「私」の一方的な考えであると推測できます。「私」の考えだけにあった「空想の地雷」が原因ではないとすると、「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」したのは、「私」が「踏んづけ」たからだと考えられます。では、どうして「私」は、自分が踏んづけたことを「付き合った」と表現したのでしょうか。
 と、その前に、「私」が「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」するまで「踏んづけてしまった」理由を探ります。以下の引用が答えになりそうです。

   私は、セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹に、そのまま沈んでしまいそうな自分にハッとして足を引っ込めた。

 どうやら「私」は、「セカイが砕ける」ほどの心地よさに我を失っていたようです。ここでは「セカイが砕ける」ことが心地よさを強調する言葉として使われています。「セカイが砕ける」については、1段落目にも記述があります。引用してみましょう。

   きっと次の瞬間に爆発しながら砕けていくセカイの匂いや甘い殺意、

 これは、「ぐんにゃりとした空想の地雷を踏んづけ」たことで起こると「私」が考えたことです。つまり、「空想の地雷を踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことは連動しているのです。そしてここで、「私」が「迷いネコみるきー」の「お腹」を「空想の地雷」と勘違いしたこと、つまり「ぐんにゃりとした」感触において「空想の地雷」と「迷いネコみるきー」の「お腹」が同等であったことを引いてみると、「迷いネコみるきー」の「お腹」を「踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことが「私」の中で連動しているとは考えられないでしょうか。もう一度、以下に引用します。

   私は、セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹に、そのまま沈んでしまいそうな自分にハッとして足を引っ込めた。

   迷いネコみるきーは、私の空想の地雷に付き合ったせいで内臓が破裂し、咳に血が混じりはじめていた。

 「私」は、自分が踏んづけた事実を「付き合った」と表現しています。私は先ほど、「付き合った」というのは「私」の一方的な考えであって、「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」したのは「私」が「踏んづけ」たからだ、と書きました。しかし、「私」と「迷いネコみるきー」は初対面ではなく、「昔なじみ」なのです。「付き合った」と、言葉で確認を取らずとも確信できる関係性ができていたと考えることはできないでしょうか。「迷いネコみるきー」が実際に「付き合った」のだと考えた場合、「内臓が破裂」するためには「迷いネコみるきー」が「付き合」う必要があったことになり、「迷いネコみるきー」自身の意思が働いていたことになります。とすると、「迷いネコみるきー」は「私」の勘違いを忖度し、自分の「お腹」を「空想の地雷」に擬態(?)したと考えられます。もう一度、以下の引用を見てみましょう。

   私は、セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹に、そのまま沈んでしまいそうな自分にハッとして足を引っ込めた。

 「迷いネコみるきー」の視点でこの文を捉えてみると、前後の段落に抵抗している記述も見当たらないことから、「私」の足が「そのまま沈んで」いくことに納得しているように見えます。「ハッと」した「私」は「足を引っ込め」たわけですが、引っ込めずに「そのまま沈んで」いたら一体どうなっていたのでしょう。おそらく、途中で「足を引っ込めた」にもかかわらず「内臓が破裂」した「迷いネコみるきー」は、死んでいたのではないでしょうか。私は、「迷いネコみるきー」が自分の「お腹」を「空想の地雷」に擬態したこと、「私」の中では「空想の地雷を踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことが連動していることを書いてきました。そして、「迷いネコみるきー」の「お腹」を「踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことが「私」の中で連動していると仮定したわけですが、以上を踏まえると、「迷いネコみるきー」が死ぬことは「セカイが砕ける」ことと同義であり、「迷いネコみるきー」が自分の意思でそのことに協力し、それは「私」の考えを忖度した結果で……ということは、「私」が「セカイが砕ける」ことをある程度は望んでいる、と「迷いネコみるきー」が思っている、と考えられるのではないでしょうか。(あるいは、「セカイが砕ける」ことを望んでいるのは「迷いネコみるきー」の方なのかもしれません。)
 最後に、もう一度、セカイ系、の定義を引用してみましょう。

   「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」

 この小説は、「私」と「迷いネコみるきー」を中心とした小さな関係性の問題が、「空想の地雷」を挟んで、「セカイが砕ける」といった抽象的な大問題につながっています。言い換えれば、「私」と「迷いネコみるきー」を中心とした小さな関係性の問題が、「空想の地雷」に擬態した「迷いネコみるきー」を挟んで、「迷いネコみるきー」の死、という「私」と「迷いネコみるきー」にとっての大問題につながっている小説、と呼ぶことができそうです。



(#11へ、つづく)

第200期を読む その7

つづきまして、#11です。(行数制限のため、#11のみ)



#11 C'est tout とむOK
http://tanpen.jp/200/11.html

 この小説は「あたし」を語り手とした一人称小説です。まずは、「あたし」のプロフィールを探ってみましょう。

   濡れた黒い舗道をローファーで蹴って、高校前のバス停、古い物置を縦に割ったような待合所にかけ込む。

   一瞬あたしを見上げた顔は同じクラスの(誰だっけ)。

 「あたし」は高校生だと考えられますが、性別は明らかではありません。「小六の夏」に中学生の「男の子」を好きになったことが、9段落目に書かれているだけです。上の2つ目の引用に登場する「(誰だっけ)」は、「いたって普通の男子」のことであると、6段落目に書かれています。「あたし」の両親についての記述はありますが、現在、両親と同居しているなどの家庭環境はわかりません。
 さて、この小説は、以下のように分けることができます。

   現在:1段落目から8段落目と、16段落目から22段落目
   回想:9段落目から12段落目
   語り手の思い、あるいは心象風景:13段落目から15段落目

 それでは、流れを追ってみましょう。季節は「初夏」です。「午後遅く」に、「あたし」は「高校前のバス停」がある「待合所にかけ込」みます。「鮮やかな空が、急に昏くなった」ことから、夕立にでもあったのでしょう。待合所の「板壁の傍」には「同じクラス」で「バスの人」ではない「いたって普通の男子」が「屈ん」でおり、「あたし」に声をかけられても「膝を抱え」たまま「スマホを見」ているだけです。「あたし」も「そこに誰もいないみたいに、ヘッドフォン」でチェロの演奏を聞きながら外の「雨音」に意識を向け、目をつむり、「森の奥」にある「泉」を思い描き、そこで「手を伸ば」します。しかし、「野太いほどのアルトの不協和音。麦茶色のいかつい膝、膝」と書かれた複数の人物が持つ「ぱんぱんのスポーツバッグ」に押されて「あたし」の「膝」が「(誰だっけ)の脇腹に当た」り、彼の「呼吸」を意識してしまうと、そのことが「小六の夏、好きだった男の子」との思い出を呼び起こし、回想に入ります。「好き」だった「中学生」の「男の子」が住んでいるらしい「スナックの二階」に招かれた「あたし」は、「キッチンで電話をしている、甘ったるい、化粧くさい声」を聞きながら、「男の子」にさわられそうになります。「触れられるのはまだ怖」かった「あたし」が拒むと、「お前って、普通んちの子だもんな」という「ざらりとした虚ろな拒絶」に遭います。この言葉に「あたし」が「軋んだ」のは、「どうでもいい、と、普通、は似ている」からだと説明されます。回想が終わると、今度は「あたし」の両親について語られ、「家族のために家族を見失った」「仕事中毒のパパ」と、「パパがいない夜を」「空っぽの段ボールで埋めた」「通販依存症のママ」が登場します。そこからさらに、「泉」のイメージが、「幼い頃」「最後に」「家族で見た」「古い映画のシーン」であるという告白が続き、「スクリーンの中と外」で「あたし」が「繰り返し」「手を伸ば」しては「何度も絶望」していることが語られます。ここで再び現在に戻り、「機銃掃射みたいに荒々しいディーゼル音」を響かせてバスが到着します。「湿ったスニーカーの重い足音が、次々とステップを昇り、箱の中へと呑まれて」いき、「麦茶色のいかつい膝、膝」たちが「待合所」を出ていきます。しかし「あたし」はバスには乗らず、「いま乗った麦茶色の顔たち」を見送ります。そして、同じく「待合所」に残っていた「(誰だっけ)」の「頑なな背中」に「手を伸ば」し、「指先」で触れます。以上が、この小説のあらすじです。
 次に、細部を拾っていきます。

   そこに誰もいないみたいに、ヘッドフォンから低く流れるチェロと、雨音に体を預ける。

   野太いほどのアルトの不協和音。

   膝から聞える。灰色の背中、濡れた呼吸に息が詰まる。

   キッチンで電話をしている、甘ったるい、化粧くさい声。

   機銃掃射みたいに荒々しいディーゼル音が、目の前の路上に止まる。湿ったスニーカーの重い足音が、次々とステップを昇り、箱の中へと呑まれてゆく。

   チェロの旋律と雨音が戻り、瞼の裏で彼の呼吸に混じりあう。

 この小説には、音の情報がよく出てきます。その理由は、6段落目にある「瞼の裏に森が広がってゆく」以降、「あたし」がほとんど目をつむっているからでしょう。「あたし」は、「そこに誰もいないみたいに」目をつむり、「雨霧に煙る森の奥、慈雨を湛えた泉」のイメージを見ています。
 続いては、「あたし」の目線についてです。

   濡れた黒い舗道をローファーで蹴って、

   埃まみれの板壁の傍で屈んだ、二十日鼠みたいなワイシャツの背中。

   麦茶色のいかつい膝、膝。

 上の3つの引用から、「あたし」の目線が下を向いているらしいと推測できます。「同じクラス」の「男子」が、「待合所にかけ込」んだ「あたし」の目にまず留まったのも、下を向いていたからでしょう。
 「あたし」が、どのように「同じクラス」の「男子」を捉えているか、見てみます。

   一瞬あたしを見上げた顔は同じクラスの(誰だっけ)。

   (誰だっけ)は目立たない。背が小さい。月に何度か勝手に休む。

 1つ目の引用では、「同じクラス」の「男子」のことを「あたし」がよく知らないような口ぶりになっていますが、2つ目の引用では、「男子」を「目立たない」と評しながらも「背が小さ」くて「月に何度か勝手に休む」ことを意識して覚えていることから、1つ目の引用の「(誰だっけ)」が、そのままの意味ではなさそうだと考えられます。

   それくらいの、いたって普通の男子。踞る背中なんて見たことない。見たくもない。

   どうでもいい、と、普通、は似ている。だから、軋む。

 自分が言われれば「軋む」と感じる言葉を、「あたし」は「同じクラス」の「男子」に対して使っています。そして、「どうでもいい」に似ている言葉を使いながらも「あたし」は、「見たことない」「男子」の「踞る背中」を見て、「見たくもない」と憤っているようです。(「背が小さい」「男子」の「背中」は、はじめに「二十日鼠みたい」と評されています。ハツカネズミは実験用マウスとも関連があるため、単に小さい様を言っているというわけではないのかもしれません。)2段落目で「一瞬」「顔」を見せた「同じクラス」の「男子」ですが、その後は最後まで、「背中」として「あたし」に認識されていきます。

   泉の幻影は古い映画のシーンだと思う。幼い頃、家族で見た最後の。スクリーンの中と外で、あたしは手を伸ばす。繰り返し、何度も絶望する。

   彼は動かない。チェロの旋律と雨音が戻り、瞼の裏で彼の呼吸に混じりあう。深い森、雨に煙る泉。あたしは手を伸ばす。頑なな背中に、指先が触れた。

 1つ目の引用では、「泉」のイメージが「古い映画のシーン」と「家族」に結びつけられています。「スクリーンの中と外で、あたしは手を伸ばす」というのは、「泉」のイメージの中で「手を伸ば」している「スクリーンの中」と、イメージの「外」、つまりは現実、もっと言えば「家族」に向かって「手を伸ば」すことを指していると考えられます。それが「繰り返し、何度も絶望する」ことに終わっているのは、何ものにも触れられなかったからでしょう。2つ目の引用では、「あたし」は「泉」のイメージの「中」で「手を伸ば」しています。そして、その「指先」がイメージの「外」であるところの「頑なな背中」に触れたところで、この小説は終わります。「スクリーンの中と外」で「手を伸ば」した「あたし」が、ようやく何ものかに触れた、という締め括りですが、どうして「彼」ではなく、「背中」なのでしょうか。

   一瞬あたしを見上げた顔は同じクラスの(誰だっけ)。

   いま乗った麦茶色の顔たちが、高い車窓のなかで一斉に揺れた。

 「あたし」は「顔」を認識していますが、それは体の部位としての「顔」であって、表情が読み取れる「顔」ではないようです。表情は、その人の内面を探る手がかりになります。表情を読み取らない、ということは、内面を探る気がない、内面が存在しないものとして扱う、ということでしょう。2つ目の引用にある「麦茶色の顔たち」というのが、それに当たります。では、1つ目の引用にある「(誰だっけ)」は、どうでしょうか。「誰」かを問うということは、内面が存在する人間として、相手を認識しているということにならないでしょうか。であればこそ、「踞る背中なんて見たことない。見たくもない」と、「あたし」の心が動いているのではないでしょうか。
 ここで、「同じクラス」の「男子」について探っておきましょう。

    埃まみれの板壁の傍で屈んだ、二十日鼠みたいなワイシャツの背中。

   「チャリ盗られた」
     別に、それだけ、という風に。膝を抱え、スマホを見ながら。

    (誰だっけ)は目立たない。背が小さい。月に何度か勝手に休む。

    背中は踞ったまま、動かない。動けない。それ以上壁には寄れない。

   「乗らないの?」
    と、踞ったままの背中。

    彼は動かない。

 自転車を盗まれたと説明する「同じクラス」の「男子」は、バスにも乗らず、歩いて去るわけでもなく、「二十日鼠みたいなワイシャツの背中」を「あたし」の方に向けたまま、ずっと「埃まみれの板壁の傍で屈ん」でいます。「同じクラス」の「男子」に、「チャリ盗られた」以上の悪い出来事があったと想像しても行き過ぎではないでしょう。このことは、「踞る背中なんて見たことない」という「あたし」の記憶からも推測できます。そして、自転車を盗まれ、「待合所」の「板壁の傍で」ずっとうずくまっているような人が「月に何度か勝手に休む」のは、奔放な性格だから、というようなポジティブな理由からではないだろうことも推測できますし、さらに、すべてを受け入れられているというわけではなく、何かしらの「拒絶」に遭っているのだろうとも推測できそうです。
 そう、私は、「あたし」が体験した「虚ろな拒絶」と、この「同じクラス」の「男子」の「拒絶」を結びつけようとしています。「あたし」は、「同じクラス」の「男子」の「背中」に「見たくもない」「拒絶」された人間のイメージを感じ取ったからこそ、「普通」という、自分が「虚ろな拒絶」を感じ取った言葉を「同じクラス」の「男子」に対して使ったのではないでしょうか。そして、「あたし」の「指先」に触れるのが、「同じクラス」の「男子」である「彼」としてではなく「頑なな背中」であるのは、「背中」が「拒絶」のイメージをあらわしており、「家族」と結びつけられた「泉」のイメージを通して、「あたし」がその「拒絶」と向き合ったことをあらわしているからではないでしょうか。



(#12へ、つづく)

第200期を読む その8

つづきまして、#12と#13です。(全作品網羅の道行きがあやしくなってきました…)



#12 急いでる ハギワラシンジ
http://tanpen.jp/200/12.html

 まずは、会話以外の記述を見ていきましょう。

   6931。
   二階堂はスマホにpinコードを素早く打ち込む。

 パスコード、ではなく「pinコード」と書かれているので、「6931」はSIMカードに設定された暗証番号だと考えられます。スマホの記述が続きますので、残りも追ってみましょう。

   二階堂は Chromeを立ち上げて、何かしらのブックマークページを開く。

   二階堂はChromeを閉じた。そこで、じっと考えたあと再びChromeを開く。

   二階堂はtwitterを平行で立ち上げる。

   Twitter を閉じる。

 「二階堂」がスマホを操作する記述は、これで全部です。上の引用の間に挿入されている会話の進行具合を見て、「二階堂」が以上の操作をしている時間は短いだろうと考えられます。タイトルの通り「急いでる」ことが読み取れますが、どうして急いでいるのかは明らかにされません。「二階堂」が持っているのは他人から盗み出したスマホで、そこから何かしらの情報を引き出そうとしている、などといった事件性を妄想することもできますが、仄めかしと取れるほどの記述も見当たらないので、「急いでる」ことに重きが置かれていると考えるべきでしょう。
 さて、残りは会話です。見ていきましょう。

   「話聞いてる?」
   「ああ」

   「ほんとうに?」
   「本当だよ」

   「プログラミングがしたいんだ」
   「わかるよ」
   「意味わかってる?」
   「ああ」

   「なぁ、プログラミングがしたいんだよ」

   「冬だけど」二階堂はtwitterを平行で立ち上げる。「暖かいな」

   「なあ」

   「えっと?」
   「急いでるんだ」

 会話はこれで全部です。発話する人物が容易に判別できるようには書かれていませんが、上の引用の5つ目に「二階堂」の動作が挟まれているので、5つ目の台詞は「二階堂」のものと考えられそうです。そして、会話の内容を見ると、どうやら交互に喋っているらしいことがわかります。それを踏まえて、会話を「二階堂」の台詞と、その話し相手の台詞とに分けてみましょう。まずは「二階堂」から。

   「ああ」
   「本当だよ」
   「わかるよ」
   「ああ」
   「冬だけど」
   「暖かいな」
   「えっと?」

 続いて「二階堂」の話し相手。

   「話聞いてる?」
   「ほんとうに?」
   「プログラミングがしたいんだ」
   「意味わかってる?」
   「なぁ、プログラミングがしたいんだよ」
   「なあ」
   「急いでるんだ」

 「急いでるんだ」の言葉通り、「二階堂」の話し相手は急いでいるようです。こちらも「二階堂」と同様、どうして急いでいるのかは明らかにされません。ここでも「急いでる」ことに重きが置かれているのでしょう。
 地の文では「二階堂」が、会話文では「二階堂」の話し相手が、それぞれ違う理由で「急いでる」らしいことがわかりました。さらに見ていけば、地の文の塊と会話文の塊が交互に配されており、交互に喋る会話と相似形になっていることが見え、しかし、その調和が終盤にかけて乱れ、二つの「急いでる」がぶつかり、「急いでるんだ」で停止する様子が見て取れます。



#13 スキップ、スキップ たなかなつみ
http://tanpen.jp/200/13.html

 この小説は、「スキップの仕方を教えている」らしい語り手が、「おまえ」に呼びかける二人称小説となっています。以下のように分けてみます。

   1段落目から4段落目:語り手が「おまえ」と「影」に「スキップの仕方」を教える
   5段落目から6段落目:影から生まれた光が影を消し去り、続いて影に埋もれていた「おまえだったものの塊」を溶かして「断片」にする
   7段落目から9段落目:「断片」になって「軽さを取り戻した」「おまえたち」が、「もう何を手本として真似することなく、ただもう思うとおりに」「スキップ」する

 では、細かく見ていきましょう。まずは「影」について。

   影は軽々と手本を真似して跳び始め、

   影はあちらからもこちらからも集って跳ね始め、

   積み重なった黒い影を溶かしてしまう。影の断末摩の叫びもその苦しげな揺らめきも、

   かつては重たくて分厚い影だったものが、鋭い光に照らされ、どろどろと流れ落ち気化してその場から消えてしまうと、

 1つ目の引用にある「手本を真似して跳び始め」は、スキップのことを指しています。上の引用からまとめると、「影」は「スキップ」を「真似」ることができ、あちらこちらに複数存在し、叫んだり揺らめいたりすることができ、「積み重な」ると「重たく」なり、「光」に「溶」け、やがて「気化」する物質でできていることがわかります。
 続いて、「光」について見ていきます。

   積み重なった影の隙間から、小さな細い光が漏れ出てくる。生まれたての光はまだなんにも知らず、けれども、ただそこに在るだけで強い力をもちうるもの。未熟な光はなんらの意図もなく、無邪気にその明るさで、積み重なった黒い影を溶かしてしまう。影の断末摩の叫びもその苦しげな揺らめきも、幼い光にはまだその意味も痛みもわからない。光はただそこに在るだけ。そして、周囲を照らすだけ。

   光が跳ねる動作を繰り返して、意図せずスキップの仕方を教えている。

 こちらも上の引用からまとめると、「光」は「積み重なった影の隙間」から生まれ、「ただそこに在るだけで強い力を」持ち、「影」の「断末摩の叫び」や「苦しげな揺らめき」の「意味も痛みも」わからないまま「無邪気」に「意図もなく」「影」を「溶かし」、「跳ねる動作を繰り返して、意図せずスキップの仕方を教えている」存在であることがわかります。また、「未熟な」「幼い」「生まれたての光」は「まだなんにも知ら」ないようですが、照射する光は「鋭い」ようです。
 最後は、「おまえ」について見ていきましょう。

   ほら、影は軽々と手本を真似して跳び始め、肝心のおまえはよろめくばかり。
   ほら、影はあちらからもこちらからも集って跳ね始め、肝心のおまえは怖がって目を塞いでひとり蹲るばかり。
   ほら、影は上から幾重にも次から次へとかぶさっていき、肝心のおまえの姿はその下で覆い尽くされ見えなくなってしまう。

   かつては重たくて分厚い影だったものが、鋭い光に照らされ、どろどろと流れ落ち気化してその場から消えてしまうと、その下から、おまえだったものの塊が現れる。

   おまえだったものは影だったものと同じように、表面から徐々に溶解してぐずぐずと崩れ落ちていってしまう。おまえだったものはすでにもう塊ですらなく、個々に分かたれてしまった断片になりはててしまっている。

   けれども、断片は、軽い。そう、おまえたちは、軽さを取り戻したのだ。

   何にもつながらずに影さえも従えることがなくなり全く意味のない欠片となったおまえたちは、

 5つ目の引用から、「おまえ」が「影」を「従え」ていたことがわかります。しかし、1つ目の引用では、「おまえ」は「従え」ているはずの「影」のように「手本を真似して」「スキップ」することができず、集まった「影」を「怖がって目を塞いでひとり蹲」っている状態で、主従関係が転倒しています。そして、「影」に「上から幾重にも」覆われた「おまえ」は、「重たくて分厚い影」の下に埋もれて「姿」が「見えなくなってしま」います。1つ目の引用では、単に「おまえ」ではなく、「肝心のおまえ」と語り手に呼ばれています。重要な主である「おまえ」の存在が、重要ではない従の「影」に消された、ということでしょう。そこへ、「積み重なった影の隙間から」「漏れ出」た、という以外に出所がわからない「光」が登場し、「重たくて分厚い影」を「溶かし」て「気化」させ、「その場から消」してしまいます。「溶」けた「影」は「影だったもの」と呼称が変わり、「影だったもの」の下敷きになっていた「おまえ」は「おまえだったもの」と呼称が変わっています。「影」の場合は「光」を受けて「溶」けた結果「影だったもの」になったわけですが、「おまえ」の場合は「光」を受ける前に「影」によって「おまえだったもの」になっています。影響関係をあらわすと、以下のようになるでしょうか。

   光 > 影 > おまえ

 今度は、「影」によって「おまえだったもの」になった「おまえ」が「光」を受けます。すると、「個々に分かたれてしまった断片」になり、呼称が「おまえたち」に変わります。ということは、「おまえ」は個々の「おまえたち」が集まってできた存在だったということになります。さらに、「おまえたちは、軽さを取り戻したのだ」と語られていることから、「おまえ」は決して軽くはなく、「重た」かったのだろうと考えられます。「軽さを取り戻した」「おまえたち」は「スキップ」ができるようになるのですが、ということは、「重た」かったために「おまえ」は「スキップ」ができなかったのだと推測できます。「スキップ」という項目で関係をあらわすと、以下のようになるでしょうか。

   光(「意図せずスキップの仕方を教え」られる) > 影(「軽々と手本を真似して」「スキップ」できる) > おまえ(「スキップ」できない)

 「スキップ」の出来の良し悪しの関係が、影響関係と同じ形になっているのがわかります。
 では、「スキップ」の出来を左右する「重」さ、「軽さ」とは、一体、何なのでしょう。「軽さ」に関しては、以下の引用が答えになりそうです。

   何にもつながらずに影さえも従えることがなくなり全く意味のない欠片となったおまえたちは、てんでばらばらに、全くもって好き勝手に、もう何を手本として真似することなく、ただもう思うとおりに。

 「何にもつなが」っていないこと、「影さえも従えることがなくな」ること、「全く意味のない」存在であること……これらが「軽さ」なのだと考えられます。とすると、「重」さとは、何かしらに「つなが」りを持つこと、「影」を「従え」ていること、「意味」のある存在であること、になるでしょう。前者が「おまえたち」をあらわし、後者が「おまえ」をあらわしているとも言えます。「軽さを取り戻し」た「おまえたち」が、「てんでばらばらに、全くもって好き勝手に、もう何を手本として真似することなく、ただもう思うとおりに」「スキップ」するところで、この小説は終わりますが、7段落目以降の語り手の口ぶりは、どこか喜んでいるようにも読めます。「おまえ」に「軽さ」を取り戻させること、そして「おまえ」に「スキップの仕方を教え」る必要がなくなることが、語り手の望みだったということなのでしょうか。
 そもそも、語り手は一体、何ものなのでしょう。語り手と共通点を持つものが登場しています。そう、「光」です。

   スキップの仕方を教えている。
   ほら、影は軽々と手本を真似して跳び始め、肝心のおまえはよろめくばかり。

   光が跳ねる動作を繰り返して、意図せずスキップの仕方を教えている。

 1つ目の引用では、語り手が「スキップ」を「教えてい」ます。2つ目の引用では「光」が「スキップ」を「教えてい」ますが、両者の違いは、「意図」的か、「意図」的ではないか、です。「光」について、もう一度、確認しておきましょう。

   生まれたての光はまだなんにも知らず、

   未熟な光はなんらの意図もなく、無邪気にその明るさで、積み重なった黒い影を溶かしてしまう。

   幼い光にはまだその意味も痛みもわからない。

 語り手が「光はまだなんにも知らず」と語れるということは、「生まれたて」ではない「光」のことを知っているということでしょう。そして、「まだその意味も痛みもわからない」とも語っており、「光」が成長すれば「影の断末摩の叫び」と「その苦しげな揺らめき」の「意味」と「痛み」がわかるようになる、ということも知っていると考えられます。どうして語り手は、「光」について詳しいのでしょう。
 私は、語り手もまた「光」だったからだ、と考えています。「生まれたて」で「未熟な光」には「なんらの意図」も存在しませんが、語り手には「おまえ」に「スキップの仕方を教え」るという「意図」があります。つまり、「おまえ」と「つなが」りを持っていることになり、「軽さ」の条件から外れています。「生まれたて」の頃の「軽さ」を失った語り手は、「生まれたて」の「光」のような「鋭い光」も失っており、「おまえ」に「軽さを取り戻」させるほどの光も「照射」できなかったのかもしれません。そのため、「影」に「スキップの仕方を教え」、「おまえ」を「覆い尽くさ」せ、「光」の誕生を促した、とは考えられないでしょうか。



(#14へ、つづく…?)

Re:第200期を読む その7

 三浦さん、解説ありがとうございます。
 逐語でここまで細密に分析していただけるというのは、滅多にないことなので、実にありがたいです。何を書いて、何を書かずに表現するか、その拘りどころを驚くほど正確に見抜いておられます。
 私が「結びつけたかった」ものが何かについては、主人公が男の子に使った「普通」という言葉を、私がもっと気をつけて扱っていれば、違った読み方をしていただけたかも知れません。


サトゥルヌス 三浦さん


 「サトゥルヌス」はローマ神話の農耕神ですが、有名なゴヤの(トラウマティックにグロい)絵「我が子を食らうサトゥルヌス」に描かれた如く、「子殺し」の神でもあります。
 wikiでは「自己の破滅の恐怖」が子どもを食らい殺す原動力であるとの解釈ですが、それを残虐に描いたゴヤと、同じ時代の人びとが「子どもを殺す親」をどう見ていたのだろうか、という想像も膨らみます。
 神話の語られたであろう古代に遡ってみると、飢餓と隣り合わせの日々の暮らしの中で人減らしのために堕胎や嬰児殺しが行われていた状況があります。「農耕神が子殺しの神でもある」というのは、その状況を反映しているのでしょうか。子どもが親の所有物としてその命に軛をかけられ、親のサバイバルの犠牲になっていたわけですが、神話を語り継いだ人びとは、そのようなやるせない自分たちの世界を、どのように感じていたのでしょう。

 現代の三浦さんの「サトゥルヌス」の物語では、主人公は女性、この女性による「父親殺し」で物語が始まり、最期に「六人」の男女(子ども)を鎌で斬殺する「子殺し」の結末になっています。
 文中で誰をサトゥルヌスに擬しているのかは明示されませんので、私は最初は父親をそれと見て読みましたが、どうやらそうではない。では女性の方かと思うと、単純にそうとも思えない。
 そこで私は「連鎖」と捉えることにしました。

 親子関係をテーマに論じる社会評論家の芹沢俊介氏が、
「親殺しの前に、親による子殺しが先立つ」
というニュアンスのことを著作で繰り返し述べていたのを漠然と覚えているのですが、これは昭和後期に社会問題化した「家庭内暴力(親殺し)」の背景にある親からの圧力をみごとに指摘していますし、現代では親子の加害・被害の関係が逆転した形で顕在化していることがわかります。つまり「児童虐待(子殺し)」です。「殺す」は物理的に命を奪うことだけを指してはいません。殴り、謗り、子どもの人格を傷つけ損なうことも含まれます。
 また、児童虐待は「連鎖」する――つまり、親から虐待を受けた子が自分の子を虐待するようになることが少なくない、と、言われています。親子の間で「子殺し(虐待)」から「親殺し(家庭内暴力)」に反転するだけでなく、次世代の「子殺し」に連鎖するのです。「殺し、殺される親子」の関係は、世代を超えて連鎖してゆきます。
 三浦さんの物語はまさに、この「殺し、殺される親子」の連鎖の風景、「親に殺され、親を殺した子どもがどう生きてゆくか」を丁寧に追って描いています。罪なき被害者が復讐者となり、それで満たされることはなく、寄る辺ない放浪者となり、やがて被害者意識のまま同じ加害者の立場に辿り着く。
 だから、主人公に子どもが生まれると「その子が成長していくにつれ、父を殺す夢を繰り返し見るようになった。」のであり、最後には子どもを殺して「父を殺した理由なら一つ一つ挙げられる気がした。」のでしょう。
 この苦しい遍歴は、主人公を変え、あらゆる時間、空間で繰り返されています。決して他人事ではありません。


 一読者として欲を言えば、ということになりますが、この連鎖の先に何を提起するのか、というところが気になります。もちろん簡単なことではないと思いますが、三浦さんの物語が、連鎖の中で生きる苦しみ(あるいは、虚無?)に寄り添っているのだとすれば、連鎖を断ち切って生きようとしている人びとに寄り添って書いたなら、どんな物語になるんだろう。そんなことを空想しました。

(とむ)

第200期を読む その9

つづきまして、#14です。(残り2つ、書き切れるだろうか…)



#14 君の記憶を見せて 塩むすび
http://tanpen.jp/200/14.html

   ある晩、私は目覚めた。夢の中でさえ祖母の顔を思い出せなくなってしまっていた。私は祖母が可愛がっていた犬の首輪と出かけることにした。

   かつての散歩ルートを祖母の墓に向かって歩く。

   私は首輪を墓に供えた。

 この小説は、「私」を視点人物とした一人称小説です。どういうわけか「晩」に「目覚めた」「私」が、「祖母が可愛がっていた犬」がしていた「首輪」を持って、「祖母の墓」を参る、という出だしです。この「晩」は「なんだか生ぬるい夜」で、「満月」が出ているものの「靄のような雲が絡みついていて薄暗」いようです。「私」が「祖母の墓」に「出かけ」た理由は、おそらく、「目覚め」る前まで見ていた「夢の中」でさえ「祖母の顔を思い出せなくなってしまっていた」からでしょう。「首輪」だけ持っていくのは、「犬」がすでに「死ん」でいるためです。

   いうことを聞かない犬と力任せにリードを引く私が思い出された。顔を変形させながら抵抗する犬、その脇腹を蹴り上げる私、悲愴な鳴き声。あれから犬は私が手を伸ばすと怯えるようになった。

 2段落目では、「私」と「犬」の関係が語られます。「犬」は、「私」に「散歩」してもらっても「いうことを聞かな」かったようですが、3段落目に書いてある「もともと犬は祖母の持ち物だった」ということと、「犬」よりも「祖母」の方が早くに死んだこととを併せて考えれば、元々は「祖母」が「犬」の「散歩」をしていたので、「祖母」ではない「私」の「いうことを聞かな」かった、と推測できます。「祖母」が存命の頃に「犬」が「私」に懐いていたのかどうかはわかりませんが、「脇腹を蹴り上げ」たことで「私が手を伸ばすと怯えるようにな」るほど関係は悪化していたようですし、16段落目に「手を上げ」るという記述があることから、その関係のまま「犬」は死んでいったのでしょう。

   祖父を喪った祖母の空洞を癒すために譲ってもらった犬だった。それから祖母は明るさを取り戻していったはずだが、もう思い出せない。遺影の中の切り取られた笑顔からはうめき声しか聞こえない。祖母は苦しんで死んだ。

 「私」は「顔」だけではなく、「犬」を「譲ってもら」い「明るさを取り戻していったはず」の「祖母」のことも「もう思い出せな」くなっているようです。しかしこれは、「うめき声」を上げるほど「苦しんで死んだ」「祖母」の姿に上書きされていると考えられそうです。

   私は首輪を墓に供えた。思い出せないならもう忘れるしかない。
   そのときだった。星屑が墓と首輪に降り注ぎ、そこから女の子が生えてきたのだ。
   ははーん、さては犬が化けて出たのだな。

 「思い出せないならもう忘れるしかない」というのは、「祖母」のことを「思い出」そうとするのをやめ、積極的に「忘れ」ようということでしょうから、「思い出」そうとしても「思い出せない」ことが、「私」にはおそらく苦しいことなのでしょう。その後、「星屑」が「降り注」いだと続くのですが、「星屑」についての記述はこれだけなので、隕石の欠片ではなく、"星屑かと思うような光る何か"だと考えてもいいでしょう。その"何か"が「降り注」いだ結果、「そこから女の子が生えてきた」と「私」は語るのですが、この「そこから」というのが、どこからを指しているのかがよくわかりません。答えは、以下の引用から探れそうです。

   背後で物音がした。振り返ると少女は消えていた。首輪が地面に落ちていた。

 「私」にしろ「女の子」にしろ「首輪」を持ったというような記述は見当たりませんし、「首輪」が動いたという記述もありません。また、「私」は「女の子」の姿を見て、すぐに「さては犬が化けて出たのだな」と考えています。以上のことから、「女の子」(上の引用の「少女」と同一人物です)が「首輪」を身につけていた、もっと言えば「首輪」を首につけるような形で「女の子が生えてきた」、と考えられそうです。ということは、「女の子が生えてきた」「そこから」というのは、「首輪」が「供え」られていた場所、と推測できます。

   あれから犬は私が手を伸ばすと怯えるようになった。

   私は思い切って手を上げたが、少女は無反応だった。

 「少女」のことを「祖母」の「犬が化け」たものだと考えている「私」は、 「お手!」 「おすわり」 「ハウス!」と「少女」を犬扱いし、やがて「思い切って」「手を上げ」て探りを入れますが、「少女」は反応しません。それもそのはず、「少女」は「祖母」の「犬が化け」たものではなかったからです。

   ふと私たちの目の前を祖母と犬がゆっくりと通り過ぎていった。

 この「私たち」は、「私」と「少女」のことです。では「少女」は一体、何ものなのか、というのを、以下の引用から探ってみましょう。

   「キャッチボールでもするか」
   「フリスビーじゃなくて?」
   「前にもこんなやり取りがあったような」
    少女は思い出すようにして続けた。
   「確か、フリスビー投げるやつがすっごいヘタクソでさ。結局球に変えたんだよ」
   「そうなんだ」
   「とりあえずおやつくれよ」
   「どんなの貰ってたの?」
   「ジャーキー。少し歩いたらちょっとだけくれるの。ズルいよな」

 「祖母」の「犬」ではなかったにせよ、「少女」は犬ではあったのだと推測できます。「前にもこんなやり取りがあったような」と「少女」の記憶は曖昧なようですが、「祖母」に関する出来事を「思い出せない」「私」と、記憶という点では似た者同士だと言えます。「私」は、「少女」が「祖母」の「犬」ではなかったとわかって、どう感じたのでしょうか。「私」の心情の記述がないため、はっきりしませんが、犬扱いする横柄な態度から一転して「少女」の発言に頷いたり質問で返したりと、遠慮がちな態度に変わったことはわかります。

   ふと私たちの目の前を祖母と犬がゆっくりと通り過ぎていった。祖母は穏やかな顔で犬を見つめ、犬は祖母を窺いながらトコトコと歩いていた。信頼し合っているようだった。祖母と犬はやがて四つ辻を曲がってどこかに消えた。

 「うめき声」を上げるほど「苦しんで死んだ」「祖母」の姿しか「思い出せな」かった「私」は、「祖母」の「穏やかな顔」を目にします。そして、自分とは「手を伸ばすと怯えるようになった」関係だった「犬」が、「祖母」と「信頼し合っているよう」な様子を目にします。「思い出」の中では「苦し」み「怯え」ていた「祖母と犬」が幸福な様子でいるのを目にした「私」は、「祖母」に声をかけるわけでも、追いかけるわけでもなく、見送ります。それは、呆気に取られていた、というよりも、必要だと感じなかったからでしょう。「思い出」が幸福な形で上書きされたことで、満足したのかもしれません。

   背後で物音がした。振り返ると少女は消えていた。首輪が地面に落ちていた。靄はいつしか晴れていて、月は輪郭を丸く光らせながら世界を青く明るく照らしていた。

 「私」の「背後で」した「物音」というのは、おそらく「首輪が地面に落ち」た時のものでしょう。「少女」が「消え」た理由は定かではありませんが、「私」に気にしている様子はありません。「私」が、それまで意識していなかった空に注意を向けると、「満月」に「絡みつい」ていた「靄のような雲」が「晴れて」おり、「満月」が「輪郭を丸く光らせながら世界を青く明るく照らしてい」ることに気がつきます。「月は輪郭を丸く光らせながら」「明るく照」っていた、と言えば、単純に光が強く出ていることを言うことになりますが、「世界」を「明るく照らしてい」る、となると、「私」の内面の「世界」が「明るく照ら」された、と解釈できるでしょう。



(#15へ、つづく…かな…?)

第200期を読む その10

つづきまして、#15です。



#15 唾とばしちゅる qbc
http://tanpen.jp/200/15.html

 この小説は、「私」を視点人物とした一人称小説です。以下のように分けてみました。

   現在� �1段落目から7段落目
   政府が始めた結婚相談所について:8段落目から14段落目
   現在�,梁海�と、政府が始めた結婚相談所についての補足:15段落目から30段落目

 「私」の「年下の恋人」が「私」の「休日」に、おそらくは「私」の自宅に「やってきて」、「突然ケーキ」作りを始めています。「年下の恋人」こと「彼女」は、「私」と「二人でいる間中はほとんど嬌態ばかりをしめ」しているようで、「私」の「鼻」に「メレンゲ」をつける「悪戯」をするのも、どうやらその一環のようです。

    私たちは運命の二人だった。互いに互いが自分の半身だ。
    うそじゃない。

    まだケーキ作りをしている彼女に、私は言った。
   「唾とばし」
   「ちゅる」
    私たちは性格も合っていたし、体の相性も抜群だった。何より一番驚いたのが、この唾液交換に一切嫌悪感がないことだった。
    私の唾を、彼女は飲むのに抵抗がなかった。
    唾とばしちゅる。この行為の名称。

 「私」が上の引用のように思うほどの「彼女」との出会いが、8段落目以降で明らかになります。

   政府が結婚相談所を始めた。

   この革新的行政サービスは、誰でも受けられるわけではなかった。他人が決定したことに従順であることが、受給資格の必須条件だった。

   そして一か月後、私は役所から彼女の連絡先を教えられた。

 「私」は、「行政サービス」としての「結婚相談所」を通じて「彼女」と知り合ったようです。「性格診断アンケート」への回答、「何百という異性の画像を見」ることでの外見の好みの回答、男性器の「形状」および「性欲傾向」の調査などを受けさせられた「私」は、その結果「彼女の連絡先」を得たようですが、何よりも「私」が「他人が決定したことに従順であ」ったため、「彼女」と出会えたようです。

   またこれもすごいが、このサービスを受けても結婚を強制したり、追跡調査をしたりされない。
   ごくわずかの例外を除き、あまりにベストカップルなので結婚しないはずがないからだ。

 「ごくわずかの例外を除き、あまりにベストカップルなので結婚しないはずがないからだ」と「私」が語っていることから、この「結婚相談所」の利用者の婚姻率は非常に高いのだろうと推測でき、また、サービスが開始されてから日が浅いものでもなさそうだと考えられます。

   「私たちは国家に飼われた幸福な羊だ」
    綿密な調査に基づく結婚マッチングは、研究開発に膨大な費用がかかったらしい。しかしそれでも帳尻は合うそうだ。
    従順な二人の人間は大人しく税金を納め、やがて子供を作る。そして羊の子は羊だ。

 「やがて子供を作る」「従順な二人の人間」と語られていることから、女性側も「結婚相談所」で「私」と同じような審査を受ける必要があるのだと推測できます。つまり、「私」も「彼女」も「他人が決定したことに従順である」のでしょう。この「他人が決定したこと」には、もちろん、「結婚相談所」が「マッチング」した「異性」のことも含まれると考えるべきでしょう。

   結婚は時間の問題だった。

   まあ結婚を政府が強制したら人権侵害だが。

 「結婚相談所」による「マッチング」の「受給資格」者全員が「他人が決定したことに従順である」わけですから、当然「政府が強制」しなくても「ごくわずかの例外を除き」「結婚」に至るでしょう。これでは「政府が強制」するのとほとんど変わらないわけですが、「私」は、「結婚」するかどうかの最終決定権は「二人」にあるのだと考えているようで、「強制」されていることを意識していません。

   「私たちは国家に飼われた幸福な羊だ」

    従順な二人の人間は大人しく税金を納め、やがて子供を作る。そして羊の子は羊だ。

 「私」は、自分と「彼女」が「国家に飼われた幸福な羊だ」という認識を持っていますが、それは「大人しく税金を納め、やがて子供を作る」という意味での「羊」のことのようです。しかし、何か血なまぐさいことが脳裏をよぎったのか、以下の引用のように考えます。

   あと、それからきっと、まちがいなく戦争もなくなるだろう。
   メスの奪いあいは争いの火種なのだから。

 引用の1行目の「戦争」は、"平和"の対義語としての「戦争」だと思われますが、2行目の「争い」は、個人的な「争い」をあらわしていると思われます。#10を読んだ時に引用した"セカイ系"の定義を、ここでも見ておきましょう。

   主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと

 これを言い換えれば、「私」と「彼女」を中心とした小さな関係性の問題が、「メスの奪いあい」という「争いの火種」を挟んで、"平和"の対義語としての「戦争」といった抽象的な大問題に直結している、となるでしょう。これをさらに言い換えて、以下のようにしてみます。

   「私」と「彼女」という小さな関係性が、「政府が強制」するのとほとんど変わらない「結婚マッチング」によって生み出され、その結果、"平和"がもたらされるだろう

 こう並べてみると、「国家」による「人権侵害」の果てに"平和"がある、というのと、ほとんど同じです。



(#16へ、つづく…はず!)

第200期を読む その11

ラスト! #16です。



#16 そこに怪物はいる 世論以明日文句
http://tanpen.jp/200/16.html

 この小説は、いわゆる「神の視点」で書かれていますが、「奴」を視点人物とした三人称の部分と、「あなた」に語りかける二人称の部分とが、まざり合っています。これを以下のように分けてみます。

   「奴」視点の三人称:1段落目から3段落目
   神の視点:4段落目から5段落目
   「あなた」などに語りかける二人称:6段落目から7段落目

 では、1段落目から見ていきましょう。

   奴は大化の元号と共にやって来た。深い谷から姿を現し、最初は一枚の田を襲った。米を喰い尽くし腹を満たすと、荘園を治める領主を襲って、脳をNoと言わせずに乗っ盗った。

 Wikipediaによれば、「大化」とは「日本で最初の元号。白雉の前。西暦でいう645年から650年までの期間を指す」とのことですので、「奴」が「深い谷から姿を現し」て「やって来た」のは645年だと考えられそうです。「奴」は、「一枚の田を襲」い、「米を喰い尽くし腹を満たすと」、「荘園を治める領主」の「脳」を「乗っ盗」るのですが、「大化」の時代の「領主」が「No」とは「言わ」ないでしょうから、「奴」視点の三人称で語られていることを踏まえて、「奴」は少なくとも日本語圏の存在ではないと考えられそうです。

   Wikipedia - 大化
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96

 2段落目では、「奴」の「姿」が列挙されています。「アメンボの態」をしており、「体高は七尺」、「竿のように長い足を伸ばすと二丈余りに広が」る大きさのようです。それで、「領主」の「脳」を「乗っ盗った」「奴」が何をしているのか、というのが、以下の引用になります。

   その巨躯を領主だった者の頭の上に乗せ、光を吸い込む真っ黒な瞳でいつも人間を見下ろしていた。床の前で操る体を厚い座布団に座らせ、家中に命令をしていた。
   領主の体は欠かさずにキセルを吹かしていた。奴はその紫煙を吸い込み、自分の卵の養分としていた。必要な身振りは領主の体にさせ、養分を摂って卵を産むことに専念していた。

 「奴」は、「必要な身振りは領主の体にさせ」て「家中に命令を」する一方、「領主の体」に「吹か」させた「紫煙を吸い込」んで「自分の卵の養分とし」、「卵を産むことに専念してい」るようです。「奴」は「最初」「米」を食べていましたが、1段落目以降で「奴」が「米」を食べている記述はありません。「腹を満たす」という感覚があるのですから、空腹を覚えることもきっとあるはずですが、「紫煙」で「腹を満た」したという記述は見当たりませんので、「紫煙」はあくまで「卵の養分と」するためのものなのでしょう。しかし、「紫煙」が、どうして「卵の養分」になるのかの理由になるような記述は見当たりません。

   奴自身は巨躯だが卵は小さく、白くて米粒と見分けがつかなかった。卵は収穫された作物に混ぜられ、一緒に宮古に納められた。

 「奴」が「産む」「卵」は、「奴」が一度だけ食べた「米」と「見分けがつかな」い見た目をしているようです。ところで、「卵は収穫された作物に混ぜられ」ていた、という記述を読むと、ある疑問が湧いてきます。そう、「奴」は目に見えるのか、「卵」は目に見えるのか、ということです。「奴」は「七尺」ある「巨躯を領主だった者の頭の上に乗」せているわけですが、「脳」を「乗っ盗った」のが「領主」一人だけで、「家中」は含まれていない以上、「奴」が「家中」に見えていれば当然、攻撃されているでしょう。攻撃された、とも、別のやり方で「家中」を制圧した、とも書かれていないのですから、「奴」は目に見えない、と推測できます。続いて「卵」ですが、「領主だった者の頭の上」で「卵を産むことに専念してい」る「奴」が、自ら「卵」を「収穫された作物に混ぜ」ているとは考えにくいですし、「奴」がサイコキネシスを使って「作物に混ぜ」ているという記述も見当たりません。とすると、「家中に命令をして」「作物に混ぜ」させていることになると思いますが、「脳」を「乗っ盗」られているわけでもない「家中」が、目に見えない「卵」を「作物に混ぜ」るなんてことはできそうにないため、「卵」は目に見えている、と推測できます。

   時は令和、奴は活動を息長く続けている。村では米、麦、蕎麦を生産している。年中、それを村から無数のトラックが運び出している。

 「大化」が出てきたのですから、「令和」というのは2019年5月以降を指していると考えられます。「奴」は「活動を息長く続けている」そうですが、「領主の体」が1400年近く腐敗せずに残っているとは考えにくいので、「領主」に代わる何者かの「脳」を「乗っ盗っ」て「活動」しているのでしょう。そして、同じ段落に続けて「村」が出てくるので、その"何者"は「村」の人間なのだろうと推測できます(しかし、6段落目に「今も領主の躯の上でこちらを見下ろす奴の姿」という記述があります。「領主の体」は「今も」健在?)。また、「村では米、麦、蕎麦を生産している」とありますが、「卵」が似ているのは「米」だけなので、「無数のトラックが運び出し」ているという点で重要なのは、「米」だけです。
 さて、「米」に紛れた「卵」を食べた人間が、どのような状態になるのかが、5段落目に書かれています。以下に、症状として書き出してみます。

   「少しずつ気力を失っていく」

   「同じ言葉を繰り返すようになる」

   「自分と他人の意思に境がなくな」る

   「何かに属することに生きがいを得る」

 これらの症状は、6段落目で「気力」という問題に集約されます。そして、その際に、「卵」に代わって「奴の虫」が登場します。(「卵」が目に見えるのですから、「卵」から孵った「奴の虫」も目に見えると考えられます。)

   全ての人間が奴の虫を体内に飼っている。気付かずに卵を摂取し、育て続けている。

   そいつはあなたの気力を好物にして育っていく。すると人間はだんだん、夢を持ったり、自分の道を進もうとしたりすることに、気力が注げなくなっていく。

 「少しずつ気力を失っていく」という症状は、「奴の虫」に「気力」を吸い取られることで起こることがわかりました。(ところで、「奴」が「産」んだ「卵」から「虫」が孵るのだとすると、「奴」もまた「虫」だということになりそうです。)「奴の虫」がおこなうのは「気力」を吸い取ることだけなので、「夢を持ったり、自分の道を進もうとしたりすることに、気力が注げなくなっていく」というのは、「卵」を「摂取」したことで直接、出る症状というわけではありません。だからこそ、語り手は、以下の引用のように「あなた」に呼びかけるのでしょう。

   そんな時は、今も領主の躯の上でこちらを見下ろす奴の姿を思い起こせ。真っ黒い瞳が今もあなたを見ている。屈しようとするあなたを、もの言わず奴は見下している。

 「思い起こ」す、というのは、"思い出す"のと同じ意味ですから、語り手に呼びかけられている「あなた」は、以前に「領主の躯の上でこちらを見下ろす奴の姿」を目にしていたことになります。では、唐突に登場する「あなた」とは一体、何者なのでしょう。「あなたも嫌な虫に吹かれるのを感じることがあるだろう」と呼びかけていることを考えると、おそらく"読者"を指しているのだと推測できます。とすると、「領主の躯の上でこちらを見下ろす奴の姿」を目にした"以前"とは、2段落目の記述のことを言っているのだと推測できます。(ところで、この段落まで来ると、2段落目にあった「光を吸い込む真っ黒な瞳」の「光を吸い込む」の部分が、「気力」を吸い取る、を言い換えた表現なのかもしれないと推測できます。)

   人間よ。抗え。負けるな。臆病風という怪物に。

 最終段落では、「気力」の問題が「臆病風」という言葉に集約されています。この「臆病風」は、「夢を持ったり、自分の道を進もうとしたりすることに、気力が注げなくなっていく」ことを指していると考えられます。「臆病風という怪物に」という文は「臆病風」を「怪物」に例えた比喩表現ですので、以下のように言い換えられるでしょう。

   人間よ。抗え。負けるな。臆病風に。

 さて、「奴」から「臆病風」までの流れをまとめてみましょう。

   「奴」(目に見えない)  > 「卵」(目に見える) > 「奴の虫」(目に見える) > 「臆病風」(目に見えない)

 これを、以下のように言い換えてみます。

   脳を乗っ盗られる(目に見えない) > 気力を失う(目に見える) > 夢を持ったり、自分の道を進もうとしたりすることに、気力が注げなくなる(目に見えない)

 どうやら、「怪物」に「屈し」た「人間」は、「気力を失っ」たように見えるようです。



(おしまい)

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