第200期 #11

C'est tout

 午後遅く。初夏の鮮やかな空が、急に昏くなった。濡れた黒い舗道をローファーで蹴って、高校前のバス停、古い物置を縦に割ったような待合所にかけ込む。
 埃まみれの板壁の傍で屈んだ、二十日鼠みたいなワイシャツの背中。一瞬あたしを見上げた顔は同じクラスの(誰だっけ)。その背中に、一応、
「バスの人じゃなくない?」
「チャリ盗られた」
 別に、それだけ、という風に。膝を抱え、スマホを見ながら。
 (誰だっけ)は目立たない。背が小さい。月に何度か勝手に休む。それくらいの、いたって普通の男子。踞る背中なんて見たことない。見たくもない。そこに誰もいないみたいに、ヘッドフォンから低く流れるチェロと、雨音に体を預ける。瞼の裏に森が広がってゆく。雨霧に煙る森の奥、慈雨を湛えた泉。あたしは手を伸ばす。

 野太いほどのアルトの不協和音。麦茶色のいかつい膝、膝。ぱんぱんのスポーツバッグに押されて、あたしの膝が(誰だっけ)の脇腹に当たる。背中は踞ったまま、動かない。動けない。それ以上壁には寄れない。
 膝から聞える。灰色の背中、濡れた呼吸に息が詰まる。

 小六の夏、好きだった男の子。一つ上の、中学生。好きだった、としか言えない、夢のような、好き。スナックの二階の、西日の射しこむ一間。学習机と化粧台。キッチンで電話をしている、甘ったるい、化粧くさい声。
 触れられるのはまだ怖くて、そしたら、
「お前って、普通んちの子だもんな」
 ざらりとした虚ろな拒絶に、軋んだ。
 仕事中毒のパパと、通販依存症のママ。家族のために家族を見失ったパパがいない夜を、ママは空っぽの段ボールで埋めた。
 どうでもいい、と、普通、は似ている。だから、軋む。

 泉の幻影は古い映画のシーンだと思う。幼い頃、家族で見た最後の。スクリーンの中と外で、あたしは手を伸ばす。繰り返し、何度も絶望する。

 機銃掃射みたいに荒々しいディーゼル音が、目の前の路上に止まる。湿ったスニーカーの重い足音が、次々とステップを昇り、箱の中へと呑まれてゆく。
 その横腹に開いた、黒い大きな口。
「乗らないの?」
と、踞ったままの背中。

 ドアが閉まる。
 バスが走り出す。いま乗った麦茶色の顔たちが、高い車窓のなかで一斉に揺れた。もうこちらを見ていなかった。
 彼は動かない。チェロの旋律と雨音が戻り、瞼の裏で彼の呼吸に混じりあう。深い森、雨に煙る泉。あたしは手を伸ばす。頑なな背中に、指先が触れた。



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