第200期 #7
その沼のことを知る者は少ない。
標高三百メートル程の山の中腹、暗い森の中にその沼はあった。微かな木漏れ日すらも反射しない黒黒とした水面は、まるで大暗黒の穴のようであり、見る者全てに耐え難い恐怖を呼び起こした。
山の麓には古い町があり、武家屋敷じみた古民家等が、時の流れに取り残されたようにひっそりと佇んでいた。
この町で沼のことを知っている人間を見つけるのは難しい。居るには居るが、その殆どが意識の曖昧な余命幾何もない老人である。しかも、実際に見たことのある者はさらに少ない。何故なら、その沼は禁足地として彼等に忌避されていたからだ。
当地に伝わる昔話の中に、沼のことを語ったものが一つだけある。
豊臣秀吉が九州征伐をしていた頃、ある大名の姫が家宝の宝刀と供に山へ逃げ落ちて来た。彼女等を狙う沢山の武者がその後を追ってきたので、進退窮まった姫はついに宝刀を抱いてこの沼に身を投げてしまった。
だが、姫の死体も宝刀も浮かんではこなかった。諦め切れない武者達は鎧を脱いで沼に潜ったが、その武者達までもが一人として戻らなかったのである。以来、この沼は恐れられ、入らずの禁忌が誕生したとされている。
しかし、事実は違う。この沼が実際に恐れられ始めたのは、もっと古い時代の話だった。
そも、この沼は何時から存在したのだろうか。書物には何も記されておらず、人の口にも微かにしか伝えられてはいない。
だが、人間の想像力の及ばぬ遙か太古から、この沼は其処にあったのである。
人類の祖先がまだネズミの一種であり、それを食らう爬虫類が地上に跋扈していた頃、地殻変動の影響で海底が隆起し、山となった。
その山に、沼は既に存在していた。
何億年も昔から、沼は有象無象を飲み込んできたのである。
ネズミが猿になり人間となり、村を作り町を築き国を作り上げる中、ただ、沼は沼として其処にあり続けた。
この沼が何であるのか。その謎を、人類はついに解くことが出来なかった。人類が死滅し、この星がただ砂と風と奇妙な獣が彷徨うだけの世界となった後も、変わらず沼は黒い闇を湛えていた。
この沼から距離にして幾億光年も離れた或る人類未踏の地に、巨大な白亜の霊廟があった。
そこに眠る古代の王族の木乃伊の中に、古式の打ち刀を持った女人の木乃伊が奉られているのだが、人類がそれを知り得ることはついになかった。