全投票一覧(日時順)
第35期予選時の投票状況です。15人より27票を頂きました。
2005年7月14日 13時16分34秒
- 推薦作品
- ぼうぼう(くわず)
- 感想
- 堅牢な描写、方言の導入によるリズムの変化のつけ方、物語の意外な進行。王道を行く骨太な作風。前半の文章にはザラリとした粗さがあるが、それすらもむしろプラスに転じているような勢いがある。病に臥した孫の姿を幻視する、物語としては暗い先行きだが、にもかかわらず、全編をアッケラカンとした明るさが貫いている。「人で無いものの時間」に目覚められる身体になったことに、「有難さ」を感じる――こんな観点はユニークだし、どことなくユーモラスでもあるが、いずれにせよ、こんな文章はおいそれと書けるものではない。思わずはっと立ち止まってしまう、きらりと光るセンテンスは、こんなところに隠れている。なお、当方としてはところどころ中上健次の文体、その呼吸のリズムを想起しました――例によって、当方の勝手な思いこみか?あるいは、くわずさんもそのあたり意識したかしらん?(でんでん)(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- 夏の葬送(佐倉 潮)
- 感想
- ちょっと気取っているかな? とは思う。一つのイメージに固着しすぎるあまり、世界がなかなか拡がっていないことを、物足りなく感じもする。それでも、黒い服の男たちが、「ぞろり、ぞろり」と参集し、一群となって歩いていくイメージは、鮮明に伝わってくる。「どこかで人が死んだのだ――そう思うことに、きっと慣れている」僕、とか、「ミニチュア大の人生が演じられている」といった独白はありきたりだけれど、「どこかで人が死んだから人が集まり、また離れる」と、うんと思い切った距離から鳥瞰してみせる視座には、そんな類型的なニヒリズムから頭ひとつ分抜き出た力を感じる。遠くから見ていると分からないことがあるように、遠くから見て初めて見えてくることもあるわけだ。そう考えながら読み返してみれば、作者の健闘が見えてくる。末尾、八月十五日という決定的な日付のさりげない提示を、唐突かつあざといと見るか、それとも至極まっとうな着地点と見るか? 僕としては、全体を貫流する不吉さと虚脱感を敗戦のイメージへと収斂させるこの締めくくりに、無理はないと思う。ともあれ、今期、この小説に一番可能性を感じた。(でんでん)(この票の参照用リンク)
2005年7月14日 6時14分57秒
- 推薦作品
- セルロイド(曠野反次郎)
- 感想
- なぜ「鳴き声」なのか引っかかったので投票しておこう。(この票の参照用リンク)
2005年7月12日 2時28分55秒
- 推薦作品
- クリックせよ(千葉マキ)
- 感想
ざあっと読んで、いちばん楽しめたのがこの作品だった。そして、この落ちはどういう意味だろうと考えさせられた。
文章はところどころ日本語としておかしな所があるし、描写や展開もあらっぽい。では、他に推す作品があるかというと、残念ながら、ないのです。
「おめでとうございます大当たりです、インターネット使い放題、電気代も無料です、こんなこと他ではありません」
随分シュールな話に思える。いったいなんなんだろうという疑問が残る。
「そして、勝手に起動され画面には「クリックおめでとう」と写し出されていた。」
このシュールさが日本語の稚拙さからくるのか、それとも作者の才能なのか、判別がつかない。けれども、とにかく楽しめた。
作品とは関係ないが、掲示板などでこの作者や作品にたいする意見を読んで、話題になるというのはやはり一種の才能だろうと思う。個人的には、これからにも期待している。
(逢澤透明)(この票の参照用リンク)
2005年7月10日 17時47分38秒
- 推薦作品
- クリックせよ(千葉マキ)
- 感想
- 落ちに驚きました。不吉な落ちかとおもってどきどきしたら・・・いい感じですねー。(この票の参照用リンク)
2005年7月10日 15時22分43秒
- 推薦作品
- クリックせよ(千葉マキ)
- 感想
- とても面白かったです。
パソコン、30万は高いだろう、、、と思いつつ、
読んでいると
特別なアイコンがあって
クリックすると大当たり!
落ちが甘いかな?と一瞬、思ったけど
「そんなこと他ではありません」
でキメテくれました。^^)v
短編小説でも、いい作品は創れるのですねぇ、、、
楽しかったぁ〜
僕もそういうパソコンほしいです^^;>
(この票の参照用リンク)
2005年7月10日 0時43分25秒
- 推薦作品
- ぼうぼう(くわず)
- 感想
- ぼくも木や草に近しい存在になりたいです。
「粂」は国字でしたっけ。(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- セルロイド(曠野反次郎)
- 感想
- 昔、似たような人形が家にあり、ひどく恐ろしかったことを想い起こさせる話でした。(この票の参照用リンク)
- 推薦作品
- オクトパシー(宇加谷 研一郎)
- 感想
- >タコはコーヒーを思わず噴き出して
墨が混じっていたらいやだなと思いました。
少々読みづらいので改行を減らしてほしい。(この票の参照用リンク)
2005年7月5日 22時47分12秒
- 推薦作品
- 電車がまいります(真央りりこ)
- 感想
- 水紀の心中奥深くにある想いとは、「何故私はシバノではありえないのか」という苛立ちではないか。シバノへと近づきたい、シバノになりたいという志向性と、しかし自らは水紀であり続けねばならないという閉塞性とが、「蚊」「アイス」「遮断機」という比喩によって語られる。
では何故水紀はシバノになりたいのだろうか。それはシバノが「高級マンションに住」み、おそらく、水紀の家とそう変わらない距離にいながら徒歩での水紀とは対照的に、夕飯の買い物に「車」を使う(と、とりあえず私の中で想定している)という、経済的な富裕層にいるからではない。経済的格差は、何かもっと根源にある潜在的なものが顕れたに過ぎない。その潜在的なものとは、二人の存在の起源にまで遡及し得るような原始性にあるのではないかと、私は考える。二人の格差は、根源的・存在論的な次元にまで及んでいる。
シバノが告げたお買い得品に関して、水紀は「ノーマットの試供品」を「目にすること」もできず、「四割引のキャラメルアイス」を「忘れて来」る。前者は宿業的な格差であり、後者は無意識的・先天的性質による格差である。つまり、いずれにせよシバノとの格差は、水紀が意識的に縮められるようなものではないのである。その絶対的な格差を表す最も象徴的な語が「遮断機」である。決して超えられない深淵を前に、「警報機」の奏でる「カンカンカン」という単調なリズムが、水紀をその根源性へと引き戻していく。その先で自らの(シバノに対しての)存在論的な劣位を目の当たりにしながら、「遮断機の向こうに消え」ていくシバノを見送り立ちすくむ。
が、水紀の意識が及ぶのは、あくまで冒頭に挙げた「何故シバノであり得ないのか」という苛立ちやもどかしさであり、存在論的格差を自覚するには至らない。その格差を言語化し、あるいは言語化に至らないまでも、意識に上らせるのが「夫」である。この物語の語り手である夫は、シバノを「ラッコのような愛くるしい目〔……〕隣の高級マンションに住んでいる」と表現する。夫にとって、シバノはそれ以上でも以下でもない存在である。「高級マンション」という語によって、一見(経済的な意味に限られるが)格差を自覚しているようにも思えるが、それは全く存在を異にするものへの言及でしかなく、そこに水紀のような切実さは感じられない(それが、“夫”と“妻”という立場の違い、ひいては男性性/女性性という相違に基づくのかもしれないが)。その意味で、夫は水紀よりも自足している存在として描かれているように見える。
シバノとの格差を縮めよう、シバノになろうと(無意識にも)懸命になっている水紀の苛立ちは、当然夫へと向かう。本来この苛立ちはシバノや水紀自身へと明確に向けられているものではなく、水紀を取り囲む漠然とした環境、水紀がその都度その都度「私はシバノではない」という事実を確認させられる日常へと向けられているからである。つまり、「私がシバノではない」のは、「私が“夫”の妻である」からである。
物語の後半、水紀が夫の頬を打つシーンは象徴的である。シバノとの格差を顕在化させつつ(結局、“亭主の稼ぎ”という意味合いの経済的格差を決定づける役割を、夫は担っているわけだが)、自らは全く無頓着である夫を打つ理由が、「蚊」である。かなり強引だが、蚊を何か“原始生物”として捉えれば、格差の根源である水紀の原始性にいつまでもつきまとう(シバノに対する)劣位と、そこから生じる劣等感の表れが、蚊であるとも取れるのではないだろうか。
このシーンで本当に蚊がいたという描写はない。だが、それを打つという行為自体によって、格差への意識、劣等感が振り払われる。すなわち、夫には二つの機能がある。一つは水紀−シバノ間の格差を顕在化させる機能。そしてもう一つは、シバノへの志向性を強めるあまりに起こる自己疎外を解消する機能である。とはいえ、後者の機能も、シバノとの格差を顕すものである。しかし、その機能は、格差とは別のものを水紀に見せる。
水紀は夫を打った後、「小豆バー」を食べようと誘う。和解である。劣等感たる蚊を排し、水紀は夫と一体化する。すなわち、自らの(シバノに対する)劣位をも含めた存在と環境とを受け入れるのである。「四割引のキャラメルアイス」だろうが、(おそらく定価で買ったか、割引で購入したとしても不本意な品であろう)小豆バーだろうが、アイスはアイス、ということである。夫は自らを打たせることにより、水紀は水紀であるということ、全てはそこから始まるという至極当たり前のことを、日常的な所作の中で知らしめるのである。が、それは無論妥協的で、刹那的な気づきであるが。
その水紀の存在論的充足とも言うべき事態を端的に表しているのが、タイトルにある「電車」である。此岸の水紀と彼岸のシバノとの間を同じ勢いで駆け抜ける電車は、両者の格差を無きものにし、同じ根源へと引きさらう、生の潮流を思わせる。何もかもをゼロに帰する電車が来る、それを知らせる警報機の音は、シバノを見送った時よりも、夫と聞いた時の方が、心地よく感ぜられているのではないか。
また「色違いのワンピース」を買った水紀に“脱シバノ”的要素を見たり、“金持ちがセール品なんか気にするのだろうか”という疑問についても勘案すると、より深い考察、あるいは全く違った考察ができるかもしれないが、いい加減長々と書き過ぎたのでここまでにする。(この票の参照用リンク)
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