投票参照

第35期予選時の、#16電車がまいります(真央りりこ)への投票です(3票)。

2005年7月14日 23時22分17秒

さんばん。

参照用リンク: #date20050714-232217

2005年7月14日 11時48分2秒

いちばん趣味に合致した作品。
精神病者と読んだのですが、他の方々の解釈を読むと、私の丸投げっぷりがやや恥ずかしくもあったり…
なるほど他人に視点をゆだねることは興味深いかも、と。

参照用リンク: #date20050714-114802

2005年7月5日 22時47分12秒

 水紀の心中奥深くにある想いとは、「何故私はシバノではありえないのか」という苛立ちではないか。シバノへと近づきたい、シバノになりたいという志向性と、しかし自らは水紀であり続けねばならないという閉塞性とが、「蚊」「アイス」「遮断機」という比喩によって語られる。
 では何故水紀はシバノになりたいのだろうか。それはシバノが「高級マンションに住」み、おそらく、水紀の家とそう変わらない距離にいながら徒歩での水紀とは対照的に、夕飯の買い物に「車」を使う(と、とりあえず私の中で想定している)という、経済的な富裕層にいるからではない。経済的格差は、何かもっと根源にある潜在的なものが顕れたに過ぎない。その潜在的なものとは、二人の存在の起源にまで遡及し得るような原始性にあるのではないかと、私は考える。二人の格差は、根源的・存在論的な次元にまで及んでいる。
 シバノが告げたお買い得品に関して、水紀は「ノーマットの試供品」を「目にすること」もできず、「四割引のキャラメルアイス」を「忘れて来」る。前者は宿業的な格差であり、後者は無意識的・先天的性質による格差である。つまり、いずれにせよシバノとの格差は、水紀が意識的に縮められるようなものではないのである。その絶対的な格差を表す最も象徴的な語が「遮断機」である。決して超えられない深淵を前に、「警報機」の奏でる「カンカンカン」という単調なリズムが、水紀をその根源性へと引き戻していく。その先で自らの(シバノに対しての)存在論的な劣位を目の当たりにしながら、「遮断機の向こうに消え」ていくシバノを見送り立ちすくむ。
 が、水紀の意識が及ぶのは、あくまで冒頭に挙げた「何故シバノであり得ないのか」という苛立ちやもどかしさであり、存在論的格差を自覚するには至らない。その格差を言語化し、あるいは言語化に至らないまでも、意識に上らせるのが「夫」である。この物語の語り手である夫は、シバノを「ラッコのような愛くるしい目〔……〕隣の高級マンションに住んでいる」と表現する。夫にとって、シバノはそれ以上でも以下でもない存在である。「高級マンション」という語によって、一見(経済的な意味に限られるが)格差を自覚しているようにも思えるが、それは全く存在を異にするものへの言及でしかなく、そこに水紀のような切実さは感じられない(それが、“夫”と“妻”という立場の違い、ひいては男性性/女性性という相違に基づくのかもしれないが)。その意味で、夫は水紀よりも自足している存在として描かれているように見える。
 シバノとの格差を縮めよう、シバノになろうと(無意識にも)懸命になっている水紀の苛立ちは、当然夫へと向かう。本来この苛立ちはシバノや水紀自身へと明確に向けられているものではなく、水紀を取り囲む漠然とした環境、水紀がその都度その都度「私はシバノではない」という事実を確認させられる日常へと向けられているからである。つまり、「私がシバノではない」のは、「私が“夫”の妻である」からである。
 物語の後半、水紀が夫の頬を打つシーンは象徴的である。シバノとの格差を顕在化させつつ(結局、“亭主の稼ぎ”という意味合いの経済的格差を決定づける役割を、夫は担っているわけだが)、自らは全く無頓着である夫を打つ理由が、「蚊」である。かなり強引だが、蚊を何か“原始生物”として捉えれば、格差の根源である水紀の原始性にいつまでもつきまとう(シバノに対する)劣位と、そこから生じる劣等感の表れが、蚊であるとも取れるのではないだろうか。
 このシーンで本当に蚊がいたという描写はない。だが、それを打つという行為自体によって、格差への意識、劣等感が振り払われる。すなわち、夫には二つの機能がある。一つは水紀−シバノ間の格差を顕在化させる機能。そしてもう一つは、シバノへの志向性を強めるあまりに起こる自己疎外を解消する機能である。とはいえ、後者の機能も、シバノとの格差を顕すものである。しかし、その機能は、格差とは別のものを水紀に見せる。
 水紀は夫を打った後、「小豆バー」を食べようと誘う。和解である。劣等感たる蚊を排し、水紀は夫と一体化する。すなわち、自らの(シバノに対する)劣位をも含めた存在と環境とを受け入れるのである。「四割引のキャラメルアイス」だろうが、(おそらく定価で買ったか、割引で購入したとしても不本意な品であろう)小豆バーだろうが、アイスはアイス、ということである。夫は自らを打たせることにより、水紀は水紀であるということ、全てはそこから始まるという至極当たり前のことを、日常的な所作の中で知らしめるのである。が、それは無論妥協的で、刹那的な気づきであるが。
 その水紀の存在論的充足とも言うべき事態を端的に表しているのが、タイトルにある「電車」である。此岸の水紀と彼岸のシバノとの間を同じ勢いで駆け抜ける電車は、両者の格差を無きものにし、同じ根源へと引きさらう、生の潮流を思わせる。何もかもをゼロに帰する電車が来る、それを知らせる警報機の音は、シバノを見送った時よりも、夫と聞いた時の方が、心地よく感ぜられているのではないか。

 また「色違いのワンピース」を買った水紀に“脱シバノ”的要素を見たり、“金持ちがセール品なんか気にするのだろうか”という疑問についても勘案すると、より深い考察、あるいは全く違った考察ができるかもしれないが、いい加減長々と書き過ぎたのでここまでにする。

参照用リンク: #date20050705-224712


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