第35期 #16

電車がまいります

 妻の水紀は機嫌が悪い。夕食が始まってから一言も口をきかない。こういうときは下手に話を聞き出すより黙っているのがいい。何度もスプーンであんをすくっていると、やっと水紀が話し始めた。
「やられちゃった」
「蚊取り線香買うの忘れたのか」
ゆうべは思わぬ蚊の出現で、夜もろくに眠れなかった。
「踏切の手前でね、後ろから車でシバノさんが来たの」
ラッコのような愛くるしい目のシバノさんは、隣の高級マンションに住んでいる。
「それで?」
スプーンを置いて合いの手を入れる。この話が終わらないうちは、ゆっくり眠ることもできないような気がした。
「窓がすぅっと開いて『山田さん、こんにちは』って」
水紀は大きく目を見開いて、斜めに頭を下げる仕草をした。
「でね、立ち止まって『こんにちは』って返したの」
「うん」
窓からなま暖かい風が吹き込んだ。
「スーパー『もなか』でアイスが四割引でしょ、あとね、薬屋でノーマットの試供品があるんですって先着十名様。コンセントに差すだけなの、ちっちゃくてかわいらしいデザインよ」
水紀のエプロンがゆったりと波打つ。
「シバノさん貝叩くようなリズムで言うのよ、カンカンカンって警報機でしょ、じゃあって窓が締まってシバノさん遮断機の向こうに消えてしまったの」
天津飯からはみ出ているグリンピースみたいに取り残されて、水紀は予感通り試供品を目にすることはなかったし、四割引のキャラメルアイスをカウンターに忘れて来てしまったらしい。普通の蚊取り線香でいいのにと言いかけてやめた。なにもシバノさんと色違いのワンピース買わなくてもと言ってしまって水紀の機嫌を損ねたのは先週のことだ。そそくさと風呂に入り、弘恵より先に布団に潜り込んだ。

 風呂上がりの身体に布団がまとわりつく。おまけに耳元で蚊がうなり始めた。何度か振り払ったが、すぐにまた現れる。寝返りを打ってようやく眠れそうだと思っていたら、いきなりぱしっと頬に平手打ちをくらった。
「なにすんだよ」
神妙な顔の水紀がいた。
「だめよ動いちゃ、蚊がいたのよ」
「蚊?」
「血吸ってたの」
叩かれた頬に手をやってみるが、蚊に刺された痕はなさそうだった。
「そうだ」
水紀が立ち上がった。
「アイスがあったんだ」
先週買った小豆バーがあるのだと言う。汗をかいたからだろう。身体が熱っぽかった。喉も渇いていた。
「食べる?」
開いた窓から、電車のやって来る音がはっきり聞こえた。
 今夜も眠れそうにない。



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