第35期 #17

オクトパシー

不況は売上に響く。ノルマをこなすのに、週六日骨を削るように働かなければいけない。立ちっぱなしの足には疲労が溜まっている。世間が日曜日だ、祝日だと浮かれているときこそ売らなければいけない。

由紀子の楽しみは寝ること。休みをベッドですごすことが、明日の元気になる。布団のぬくもりを味わったあと伸びをして起き上がり、熱いシャワーを浴びてバスタオルに包まれる。そして近くのデパートの蛸の天ぷらを温めて、ビールを飲む。

目を覚ますと夕方の五時を過ぎていた。いつもより眠ったなあ冬だったらもう暗くなってるよまったく夏だね夏だよ、と呟いた。

「そうですね」

誰かが返事をした。
由紀子がそっとふすまを開けると大きなタコがいる。叫ぼうとしても声がでない。

「コーンポタージュ、飲みます?」

タコは人間の言葉できいた。その声は太く低い声で優しかった。

タコにスープをつくってもらうなんて初めてだ。由紀子は猫舌だったから、何度かふーふー吹いて冷まさないと飲めない。けれど、いざ飲んでみるとほどよい甘さとコーンの食感に満足した。今なら走って逃げることもできるし声だって出せる。どうしよう?

「他にも食べます?」
 
タコが聞いてきたから、冷蔵庫を指さした。
「天ぷらがあるんだ。温めてくれる?」
「わかりました」

数分後、テーブルには冷えたビールと天ぷらが並び、タコと由紀子は乾杯した。タコは美味しそうにビールを飲み干し、何も気にせずに蛸の天ぷらを食べた。

「さあ、肩でも揉みましょう」

タコの八本の手にちょっと惹かれた。

「優しいのね」
「いえ普通です。ところでコーヒー飲んでもいいですか?」
「いいよ。あたしがいれてあげよう」

由紀子は台所へ向かった。くつろいでいるタコが人間に思える。

「あなた、本当にタコ?」

タコはコーヒーを思わず噴き出して、笑った。
「はっはっは。人間に見えますか? そうです私はタコです」
「人間だったらいいのに」
「またお会いしましょう、私は物語の中にいます」
「物語?」
「はっはっは」

タコの輪郭がぼやけ、姿を消した。

由紀子は呆然と座り込んだかと思うと次の瞬間には着替えていた。そして飲みにいった。休日に着飾って出るなんて久しぶりのことだ。

バーテンダーと話をしていると、
「いいですか、ここ」
と声が聞こえ、それはタコの声だった。
「さっきのタコ」
由紀子が振り向くと同じ歳くらいの青年だった。酔いも手伝って「あなた私のタコになれ」とこづきまわした。



Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編