第35期 #20

セルロイド

 片胸を露わにした女が、乳を与えるようにセルロイドの赤ん坊を抱きかかえている。精巧とはとてもいえないどこからどうみても安っぽいただのセルロイドの人形だ。その人形の赤ん坊に何やら話しかける女の顔は、成る程、これが母親の顔というものか。と、思わず頷いてしまう程なのだけど、やはりそれはセルロイドの人形なのだ。不思議なのは、ほとんど目の前に女がいるに関わらず、人形に話しかけるその声がどこか遠くから聞こえてくることで、何を言っているのやらはっきりとしない。
 ちらりと女がこちらを見遣る。その顔は先程のものとはまた違う何かドキリとするもので、そうかこの女は私の妻なのだと当然のようにそう思うのだけれど、妻であるはずの女の名前がまるでわからない。わからないといえば、いまいるこの部屋は一体どこなのか。部屋の隅に文机があるような畳敷きの小さな和室で、私と女は薄紫色した座布団に座っている。見覚えがまるでないようで、記憶のどこかに微かに引っかかるものがあって、ひどくもどかしい。
「……この子は……お祖父さまの……」 
 おそらくは私の妻であろう女が私に向かって何かいうのだか、相変らずどこか遠くから聞こえてきて、わずか数語しか聞き取れない。この子というのがセルロイドの赤ん坊のことだとすれば、お祖父さまというのは私の父のこととなるのであろうか。いや、そもそもその赤ん坊が私たちの子である筈がないのだ。なにせその赤ん坊はセルロイドで出来ていて、まんまるとした目は、絵具か何かで描かれたもので、半開き造作された口はあてがわれた乳房を口にふくみはしない。それなのに私は、女の言葉に鷹揚に頷いていて、何ごとか人形に話しかけていた。その言葉は女の言葉同様にどこか遠くから聞こえてきて、判然としないのは何故なのか、私にはもうまるでわからない。
 不意にどこか遠くで名前を呼ばれた気がして、見れば妻である筈の女が、セルロイドの赤ん坊に何ごとか話しかけていた。私は腰をあげ、女の隣でかがみ込むようにして、人形を覗き込み、その頭を撫でてやった。暖かみのまるでないセルロイドの感覚が伝わってきたかと思うと、耳元でぎゅるうんと大きな音がして、驚いて目を見開いてみれば、大きくてひどく恐ろしいものが二つ、目を爛々とさせて、私を覗き込んでいて、あまりの恐ろしさにたまらず鳴き声をあげると、破れんばかりの笑い声が降りかかってきた。



Copyright © 2005 曠野反次郎 / 編集: 短編