第9期決勝時の投票状況です。28票を頂きました。
# | 題名 | 作者 | 得票数 |
---|---|---|---|
20 | 猫のドイさん | (あ) | 11 |
9 | (削除されました) | - | 10 |
2 | ナオミ | 中里 奈央 | 5 |
- | なし | 2 |
これしかないでしょう。
『ナオミ』は、記述の「あいまいさ」を「ぶきみさ」に転用しようとするのはホラーの愚形だと思うし、さらには主人公がじつは死人であるという真相の伏せかたにも転用しているがために、あざとく思えてしまった。こういうホラー的あるいはショートショート的な手法に注力するのではなく、歳を取りたくないという生前の思いを遂げさせてくれた相手を愛してしまう、という複雑な心理のほうをもっと細やかに描くべきだったのでは。おそらくそれがこの作品のメインであって、いっそ初めから死人だと明かしてしまってもよかったとまで思う。筆力、センスのある作者のようなので次作に期待。
『園芸論』は単純につまらなかった。この作品はいったいなんなんだろう、と考えてみると「園芸論だ」としか言いようがないというナンセンスが、おもしろさに転じればよいのだけれど、個人的にはそうならなかった。挙げられている話いずれも記憶すべきほどの内容ではない。そういう意味では、つまらないものとしての完成度が高いが、しょせん、つまらない、である。
『猫のドイさん』は、猫型宇宙人なのかしゃべる猫なのか、いずれにせよ人々はそれを猫と認識するよりほかないという、なにやら諦念じみてさえいるおかしさと、しかしぬぐいきれないかすかな違和感に、あっさりしていながら深い味わいがある。あっさり読み流してしまえるのが難点というか弱点か(この票の参照用リンク)
とくにどうということのない日常が、ほんのちょっとの気分の揺らぎがわかるような文章で描かれているところに惹かれました。『ドイさん』は、『テレビや新聞で盛んに取り上げ』られるぐらいの有名な存在ではあるらしいのですが、かといって語手が大仰に騒ぐ必要を感じるほどのものでもなく、あるいは騒いでは失礼なのではと恐れているのか、ちょっとの好奇心、戸惑いをみせながら、でも基本的にはごく普通の日常と変わらない感じで話は進んでゆきます。しかし、淡々、とはしていません。どこか、ふわふわと、語手の気分は、やはりいくぶんかは昂っているように見受けられます。そういった、具体的に何が書かれているというわけでもないのに、語手の気分、が読めるといったところにこの作品の魅力を感じました。
他の作品につきましては、『ナオミ』については、「オチ」のようなものを読んだときに、私は少しがっかりしました。この後にじつは殺される、といった話の方が面白いような気がしましたので。『愛してしまったから』というのは、説明としては陳腐で安易な表現に思われます。そういった言葉を使わないでそれをより真実に近い形で伝えるのが、小説ではなかろうかと思います。「愛している」という言葉で、それほどの愛が読者に伝わるものでしょうか。
『園芸論』については、単調になんとなくといった感じで読んでしまいました。読んでいて気持が揺すられるということもあまりなく、文章の面白さを見い出すことができませんでした。(この票の参照用リンク)
ミキ君の素直すぎで想像力豊かすぎなところが良いと思った。ドイさんもさることながら、ミキ君のこのキャラクタがいい味出しています。(この票の参照用リンク)
もう、なんとなく好みで、というしかない。他の二作品が悪いというのではなく、最後に残った三作品の中でどれが一番好きか、といわれたらこれだ。(この票の参照用リンク)
話す猫が違和感なくこの世界に溶け込んでいるという気持ちよさがあります。動物が人間のようにふるまうという話はよく見かけるし、強いインパクトというものもないのですが、文章が安定しており、読んでいて安心できました。ただひとつ、最後の「今日の商談よりも手ごわい難題が今僕に課されようとしている。」という文が俗っぽくて残念でした。
『ナオミ』は話自体は面白いと思いますが、雰囲気が好きでない。好みの問題です。
『園芸論』は「へーなるほど」とは思うけれどそれだけで、文章を読むこと自体の喜びが少なかったです。(この票の参照用リンク)
『ナオミ』
「愛して」いるなら顔見ただけで満足しそうな気がする。恨みがないということはそういうことではないかと。
『園芸論』
奇植物挿絵入り園芸本?の文章部分を読んでいるような感じ。おもしろいのだが、たまたま知っている植物が多いから楽しめるのだろうと思う。
『猫のドイさん』
良く出来ているために、かえってサラリと流れて頭に残りにくいかもと思った。自分は、『ドイさんはえへへと笑う。』が心にひっかかったのでこの作品を推すのだが、ドイさんが接待モードを解いたのはここかしら。ここで話が終わってもまったく問題ないのだが、最後に困るミキ君を見てまたえへへと笑うのかな。(この票の参照用リンク)
予選で投票した作品は一つも決勝に残りませんでした(よくある)。そういう場合、決勝投票はけっこう迷うんですが、今回はわりとあっさり『猫のドイさん』に。予選で投票しなかったのは、ただ好みじゃなかっただけなので(というか他の作品のほうが好みだっただけで)。いちばん情景を思い浮かべやすかったです。(この票の参照用リンク)
「ナオミ」は、皆さんご指摘の台詞が好みに合わず。作者も、賛否両論あってしかるべきだと思いながら書いたのだろうと推察はするが。
「園芸論」は、さらに字数を埋めて面白くなる可能性を作者自ら中絶してしまっている(予選で推薦した点を、決勝では逆に欠点として述べているわけだが)。
「猫のドイさん」は、この作者のこの作風を、萌芽の頃から知っている者としては、ここに至って開花した(あるいは満開に近づいている)と感じ、強力にプッシュしたい衝動に駆られた。予選の評を繰り返す形になるが、シリアスとユーモアと絶妙なバランスに一票。(この票の参照用リンク)
予選で三つとも外してしまったので気がひけるが、
身も蓋もない言い方をすると、他の二作も予選開始当初からあちこちで評価が高かったのだが、
それを見て私は首を傾げていたので、単なる好みの問題かもしれない。
両方とも私にはよくわからない作品だったので、無理に背伸びせずそのままにしておく。
これだけだとさすがに申し訳ないので、ドイさんについて。
そつなく無難にまとまっている印象をうけたので予選の際は外してしまったのだが、
私はとくに文句をつけるところはない。
他の人の意見を読んでいると、なるほどそうした方がよかったかもしれない、
などと思わないわけではないけども、私は私で今のままのドイさんが気に入ったので。(この票の参照用リンク)
■『猫のドイさん』
私は映画を観たり小説を読んだりして怖いと感じることがあまりなく恐怖に鈍感な人間なのだと思うが、この作品のラストは怖かった。つまり、非日常的な話であるにもかかわらず、すんなり主人公に感情移入できていたのだと思う。ユーモア小説として見ると、「猫背」のくだりはベタか。
■『ナオミ』
まず、主人公に感情移入できず、できたとしても、この話怖くないのではなかろうか。といって男の方にも感情移入できず、結果として全然怖くなかった。それと、やはり「愛してしまったから」が、唐突な印象を受け違和感を覚えた。
■『園芸論』
各章はそれなりに面白いが、鼻で笑う程度の面白さ。このなうな構成・内容なら、最低一つは爆笑できるネタを仕込んで欲しい。(この票の参照用リンク)
「ナオミ」について。これは痴人の愛をしっててナオミなのかなあ。まあそれはいいとして。「恨んでいるからではない。愛してしまったから……。」でアウト。明らかに「恨みでは陳腐な怪談になっちゃううんでアンビバレントなことにして深みをもたせさせてください」ちゅう説明以上に悪い読者への嘆願になっちゃってる。ここはちゃんと「あのとき私のことを好きだと言ってくれたから」という描写(小説という約束事のなかでの’事実’と言い換えてもいい)をしたうえでこのせりふをもってくるなどすべきだろう。というかそう組み立てにするべきだろう。まあたとえばの話ではあるが、仮にそういう工夫が上手くいくとすると副次的にこうなる。「強姦殺人をして復讐されるのは当たり前だが、そうじゃなくて犯しながら或いは扼殺しながら「好きだ」と言ったがために復讐される」。もっと鋭利な恐怖感を生む。これを古人は「口は災いの元」と称した。
次に「園芸論」。面白いとは思う。しかしこの1,000文字という文学形式の下では「猫」に負ける。この作品、所詮は100文字の緊張を7回繰り返したに過ぎない。「猫」は1,000文字の緊張を耐えている。100文字×7回と1,000文字とはその努力の量だけでなく質も違ってくるのではないか。1,000文字という枠組みを単なる短い小説ととらえてしまうとなんか新しさが出てこない。これがなんのルールもない条件下での優劣検討であればまた違った観点が出てこようが現実というのは常に具体的な前提条件下にあるものなのだ。早い話、「園芸」はこのまま続けることが可能だがその結果もっと面白くなるのは自明なのだ。そういう意味で「猫」こそこのコンテストでは勝つべき作品であろう。あとから「敵に塩を贈られた」などといわれては癪なので名を明かせば私は瑕瑾である。瑕瑾はプライドを持って「猫」を支持する。ああでも今後1,000文字近辺の文字数以外の作品を一貫して低評価するというわけではないです。たまたま「園芸」が文字数になんら左右されない結構ラクした作品だと判断したまでです。作者がいうんだから間違いはない。
ところで中里さんの「猫」評は解せない。そここそが面白いところで文章もそこをさらっとクリアしているのが上手いところだと思う。そのかぎは冒頭の一文、すでに座っているというあつかましさというか図太さなんだが。その一文を読ませた時点であとの矛盾はぜんぜん気にならなくなるようできているんだが。他の方で中里さん的拒否感をもたれたかたいます?ロキさんあたりもそういうんかなあ。たしかにそこのところをクリアするかどうかで評価わかれるかもしれないが、それはアタゴオルなり宮澤賢治なりあたりの経験があるかないかかもしれない。またな中里さんの作品はホラーなので地の文や登場人物の心理描写は正確・厳密でなければならないので基本ファンタジーの「猫」「園芸」みたいな暴力的なねじ伏せは通用しない。「園芸」にしても「猫」にしても、また、基本ファンタジーなんで根本的に「簡単に数値化できるようなシンメトリー」、「日常的な意味での合理性」を無視します。ていうかそれに対する否定が根底にあります。中里さんの評はこの2作に対する「部分否定」ではなく「全否定」を意味しています。
と、一旦おわり。しかしすまん。言わねば気がすまない。瑕瑾的決勝戦をここでやらせてもらう。(以下、下書き済みの文章)
銀糸のごとき繊細な骨格に透明な肉体の文体をまとわせた「雨」対ゆたかなユーモアを樫材の木組みのどっしりした文体でつつんだ「猫」。好対照な2作の対決。どちらも捨てがたい。しかしあえてこの2作に優劣をつけるなら仕上げのわずかな差で「雨」を勝ちとす。単純に「彼女」を語り次に「私」を語っているようで、しかし実は私に「決断の時」を静かにもたらすラスト2行。いやそこにあるのは「諦観」か。「彼女を眺めていた私」(歩く=動く彼女/座す=静止する私)が、実は反対で、確固たる存在である彼女(=静止)を眺めることで一瞬ゆらぎそしてついさっきまでのあたりまえな自分に戻る「動かされる私」であったという動と静の逆転。これを素直に受ける自然さがよい。内容もよい。「止揚」というテクニカルタームさえ想起させる。つまりラストの’傘を差し出す「私」’とはいつもの私(=行動)ではあるがもはや以前の私(=内面)ではないのだ。彼女を見た後では。或いは彼女に揺さぶられた後では。対して「猫」。淡々とした運びの末に「年頃の娘」という通俗が忍び込んだ。ここで「商談より手ごわい難題」と落としたところが読者をしてふと我に返らせるように思う。手垢のついた’笑いの型’が。 ’「話す猫」(センセーショナル)を非センセーショナルに叙述する’という違和感(=この作品の面白み。独自世界)がここで一瞬くずれてしまう。ちょっと残念。しかしこの瑕瑾(注:「玉にキズ」の意です本来は。)もあえて「雨」と対戦させることで浮かび上がる程度のもの。致命的な欠点ではない。普通であれば「ここで物語りはおわりだよ」と明示するための記述レベルの意図的落としともとれる。伝統的な昔話が'とっぴんぱらい’’どっとはらい’など特殊な専用語でおわるようなもの。(民俗学的には明示的に終わらせることで言霊信仰的観点からすると危機を回避しているとされる)。この作品を読むと異常な事態を平静な意識/視点を通して書くというのがこれほど面白いのだと思わされる。この文章自然にみえてむずかしいと思う。異常な自体だけにどうしても説明的文章を書きたくなるところうまく描写でしのいでいる。ジェットコースターに対して最近よくある「上下左右に動く乗り物に乗ってジェットコースターの映像を見てジェットコースターに乗った気になるアトラクション」みたいな感じ。なんていうんだ?あれ。ああいう感じで面白かった。文体も文章の運びもとことん落ち着いているので「たかが猫がしゃべるだけ」という些細な異常事態を効果的に演出できた。文章のゆらがないところが魅力だったんだけど最後のところでちょっとゆらいだ感じがする。しゃべるネコという異常事態に動じない文体が実は「そんな状況を冷静に記述していること自体が一種の異常であり浮世ばなれ」していて面白かったんだが最後に「浮世」レベルの文法が現れてちょっと揺らいだ感じ。読者をこの世界のただ中に置き去りにしてくるような終わり方が理想だった気がする。(ごめん。勝手やけど私としては例えば「ドイさんが差し出した写真に写っているのはやっぱりただの猫だった。果たしてこの猫もしゃべるんだろうか」などといったニュアンスでとすっとぼけたままで終わらせてほしかったと思います)。(この票の参照用リンク)
ナオミ……文章がどうにも好みじゃ無かったです。いかにもそこらへんのあんちゃん(ねえちゃん)が気取って書いた、っていう感じ。ソツはないけれど、でもあってもなくてもどっちでも良い小説に思えてしまった。ストーリーも、別に展開が唐突とは感じなかったけれど、愛しているとか愛していないとかそんなことは個人的にはどうでも良く、またシックスセンスか、とだけ思いました。
猫のドイさん……これもあまり面白いとは思えませんでした。
園芸論……これは凄く面白かった。だけどあと一味欲しいな、とも思ったけれど。同じような作りの今回のツチダさんの作品と比べると、こっちには一味がある気がします。作者には、あと一味ないのがこの作品の味じゃよ、とか言われてしまいそうだけれど、ああそうじゃなくてえ。そういうんじゃなくてえ。
ああ、あと! 投票状況を見れるようになったのは何故でしょうか(ごめんなさい、あまり掲示板を見ていないので)。個人的には面白味に欠けます。
例えば、
1 飲む 4票
2 打つ 3票
3 買う 2票
のような状況や今回のような接戦なら投票する気になれますが、
1 喰う 100票
2 寝る 2票
3 遊ぶ 1票
のような状況だと、「喰う」の支持者も「寝る」「遊ぶ」の支持者も、ああ、これじゃあ投票してもしなくても同じだなあ、とかにならないでしょうか。
ていうか単にドキドキ感が欲しいです。予選も公開制になるんでしょうか。ううむ。
議論を蒸し返すようで申し訳ありませんが、なにとぞご一考の程を。また馬鹿がいるよ、くらいのテンションで構いませんので。
まあ単に見なければ良いだけでしょうけれど。(この票の参照用リンク)
面白かったから。(この票の参照用リンク)
作品の余裕を愉しませて貰いました。(この票の参照用リンク)
短編にはなかった作品を提出したということ。奇妙なユーモアのセンスを買う。(この票の参照用リンク)
よいね。(この票の参照用リンク)
三作品とも自分が予選で推したものではないので、「優勝のための一票」というのはどうにも心情的にやるせないものもあるのだけど。まあ硬く考えずによく出来ているのと、『短編』で今までになかった新鮮さを推します。あと次作が楽しみというのも理由に追加。
「ナオミ」もよかったんだけど、これだけ長い期間いろんな意見が出たり、作者自身の言葉があったりで多少風化してしまった感が否めない。かっちりとした作品である分、不利なのかなあという気もする。「園芸論」もその点同種なんだけど、ナオミのように仕組みがさらされていくというのではなく、読むほどによりよく作者の意図が見えるという、微妙なニュアンスの差ではあるけども、そんな感じがしました。
「猫のドイさん」はこれほどの評価があること自体不思議である。如才なくまとまってはいるけども、それ以上のものはないし、新鮮さもないし、笑えないことはないけど、よほど山篭りでもしてたのでなければこれを読んで笑うほど干乾びてないぞ、と別に悪気はないけれども。笑えなければこの作品にそれ以上意味を求めるのはちょっと深読みすぎるんじゃないだろうか、と一連の感想やらをみて思うのです。(この票の参照用リンク)
これでいく。
「猫のドイさん」に心傾きそうになったけれども、これでいく。
「園芸論」の作品本体については、予選感想にてほぼポイントは語りつくされているので詳述しない。誤解も曲解もしようのない作品。そのストレートな異彩ぶりに票を託す。ところで「猫のドイさん」について若干補足すると、私のイメージでは漫画チックなデブネコを想像していたので、4本足で歩いて欲しくはなかった。ドイさんは堂々と二本足で歩いて欲しかった。本物の猫そのものなら、だいたい人間よりかなり小さい。その大きさにドイさんの鷹揚としたキャラクターを押し込めるのは、ややもったいないという気がした。話自体の飛び抜けた面白さはあるが、ビジュアル的な想像がどうしても作品本体を裏切ってしまう。
「ナオミ」はやっぱり「愛してしまったから」がしっくりこない。というのも私は一目惚れというものを信じない質の人間だからだ。男を連れて行くのが「あなたはあたしのバースデイプレゼント。この世で最後のバースデイプレゼント」というような不思議ちゃん的な理由だったら、私の感覚にビビビときたに違いない。
……迷いつつも。(この票の参照用リンク)
投票状況がわかるというのが、ここまでおもしろいとは。私(あ)は現在掲示されている7票目まで興味深く読了しました。
今回から私も記名投票を始めたのですが、他の記名投票をされた方々が予選通過作品を少なくとも一つは選択できているのに対して、私は3票全部だめでした。少し言い訳をすると、私は自分の読解が貧弱だと自覚しており、「おもしろいと思うけれども、自分はそれを評価するには適任ではないだろう」という作品には投票しませんでした。それが「ナオミ」と「園芸論」です、と書くとずいぶんと減らず口のようです。
■さて、「ナオミ」から。
やはり一行空けに触れないわけにはいかないでしょう。読み始めるとすぐに多分に詩的な印象を受けました。その後「十七歳」の段落が狭隘に感じられ、その先に進むことが難しくなりました。あと、「恨んでいるからではない。愛してしまったから……。」も同様に狭隘でした。
読後に考えたのですが、狭隘感こそがこの作品の「きも」なのではないでしょうか。そこでぐっと読者を惹きつけている、そう感じました。作者の緻密な計算がうかがえます。しかし、あまりにも強意の直接的な表現方法を選択してしまったがために、好き嫌いが分かれてしまうのではないかと懸念しました。
申し訳ないのですが、結局私は「つぼにはまらなかった」ほうで、というのも人が死ぬジャンル(ひとまとめにするには大変失礼だと重々承知しているのですが)に対する拒否感が人一倍強いのです。つまり、私のその拒否感を覆すほど「ナオミ」が優れているとは、思わなかったのです。
■次に「園芸論」ですが。
さくさく読み終わった後、にやりとはしましたが、どこかとっつきにくく、自分は全然理解できていないのではないかという漠然とした不安に襲われたので、予選では投票しませんでした。
実はそういった反応こそ作者が計画していたものなのではないかと、今は考えます。やられました。
ちなみに「藪北茶」だけはなぜか非常に気になって検索を色々かけたのですが、本説らしきものには到達できませんでした。
というわけで、決勝投票は「園芸論」となるわけですが、私も「外は雨だよ」に触れたいと思います。ただし(あ)は少々否定的です。
■「外は雨だよ」と第7期「どっちもどっち」(朽木花織さん)の比較と考察
瑕瑾さんが「短編」の掲示板に登場して間もない頃、「どっち」を推していたことを思い出しました。どうしてそんなことを覚えているのかというと、第7期で唯一私だけが予選で「どっち」に一票を投じていたからです。(予選の頃瑕瑾さんはまだ登場していなかった)
両作品とも最後でふわっと浮いた印象を読み手に与えます。序盤を丹念に書き耕すことによってのみ可能な浮遊感です。登場人物という架空の存在の思考が、作品を読んでいる私の心に直接影響を及ぼします。並みの技巧ではありません。
「どっち」については第7期の時に、あちこちの感想ページで「主人公の性別が分かりにくい」という意見が出ていました。しかし、主人公の性別でいうと、「雨」のほうがさらに分かりにくくなっています。ここがちょっと「雨」の評価を下げた理由です。「私」にしても「隣のひと」にしてももっと描写できたのではないかと思うのです。そうすれば終盤近くの会話ももっともっと生き生きとして、そして、最後の浮遊感も強まったのではないでしょうか。
とはいえ、序盤の味わいでいえば個人的には「雨」>>「どっち」であり、「雨」はもっと評価されるべきだという点で瑕瑾さんに同意します。(この票の参照用リンク)
この3作品の中では、「園芸論」を推します。
7つの話からなっている。この7つのうちの最終章が特に好き。
この最終章が、ちょっと諸星大二郎っぽい所が好み。
誰かも書いていたけれど、せっかくだから1000文字ぎりぎりの、もうひとつエピソードを入れて欲しかったな。(この票の参照用リンク)
迷いに迷って園芸論。こいつには決勝に上がってきてほしくなかった。
この手の話は順序が命、どの順序で語るかが腕の見せどころだと思う。そして読者はついエピソードを並べかえてみて、順序が違っても同じ効果が得られるものだろうかと確認したくなるものだとも思う。そういう、読者のいじりたくなる心(校正したくなる心とはまた異なる)を刺激する、物語としてのコヒーレンスの脆弱さが気になったので予選では投票しなかった。
しかし決勝に上がってきた三作をあらためて見わたしてみれば、やはり群を抜いて読ませるのがこんちくしょう。淡々とした羅列も、順序を入れ替えても成り立つことも、すべて計算の内、そもそもそこがポイントじゃないんだよちっちっち、と言われているような気がして胸がざわつくのだが、それもこれもぐっと呑みこんで、今回は園芸論。(この票の参照用リンク)
「ナオミ」については、新味がないと言えばない。しかし新味を出そうとして色々な読みができるようにしようとすると、たった1000字なのだから、むしろその方が簡単じゃないかという気がする。たとえば「園芸論」を30枚とか100枚にしたらどうなるかというと、まず成立しないだろう。色々な考え方があると思うが、「園芸論」はネタが薄いのであり、1000字という枠内だから、読者が色々に補うことができるのであり、1000字の特性を生かしているとも言えなくはないが、むしろ小説の書き方としては袋小路である。「猫のドイさん」については、モチーフの珍妙さで読者の気を引こうとするところが安易である上に、その珍妙さの度合いも大したことがない。(この票の参照用リンク)
不安定で、危険極まりない少女の心理。 復讐の為か、もう一度浸りたい感触のためか。 自分でもわからぬままに行動に入って行く少女。
結末を委ねられた読者は、さあ、どちらに持っていきましょう。(この票の参照用リンク)
私が予選で推した三作のうち、残ったのはこの一作だけであるので、今回あまり考える余地がない。
『園芸論』については、私はそのおもしろさをよく理解する読者ではなかったようである。『猫のドイさん』は面白く読んだが、あまりにも据りが良くて自然で、人語を話す猫に違和感がなさすぎるかとおもえた。あえて言えば猫である必然性があまりなく、何かのメタファーとして読む意見が提示されるのも首肯できる。(海坂)(この票の参照用リンク)
●『猫のドイさん』
この作者は女子高生を巨大化させたり、猫を取引先にしてみたりと、結構無茶なことをやる割にはそつのない文章を書く。
私は不条理モノやコメディーは、面白さが最優先されると考えているので、設定の矛盾はあまり気にならなかった。ただ、この作品が人間を猫に置き換えたことで獲得した物は、単なる外見や言葉遊びに過ぎず、ドイさんが猫であるがゆえの物の見方や、考え方にまでは及んでいない。
●『園芸論』
この作品は、それぞれの章が面白く、技術的にも高いレベルにあると思う。しかし、果たしてこれが千字小説かと問えば、ちょっと違うような気がする。いわゆる部門賞的な作品である。
●『ナオミ』
計算された正統派の千字小説である。
『恨んでいるからではない。愛してしまったから……。』この小説の評価は、すべてこのフレーズにかかっている。もしも拾いきれていなければ致命傷になる。まず、殺されたことを恨んでいないのは、前半で主人公の早世願望を挿入することでクリアしている。そして、愛してしまったことは、冒頭の『雨の中で傘もささずに。』が、傘を借りる友さえいない表現であり、これもクリアしている。実際に、男の束縛や暴力でさえ、愛情表現として受け入れる孤独な女は多い。(山)(この票の参照用リンク)
他の2作品には見られない現実味のある物語ですね。
17才のあやふやな思考。 危険な少女が上手く描けているのおもいます。(この票の参照用リンク)
よほど「ナオミ」に投票しようかと思ったが推薦作なしにすることにした。やはり引っかかるのは「愛してしまったから」の部分で、私が男だからか知らないが、作者さん直々の解説を聞いても少しも腑に落ちなかった。
今回の一件を通して、それが正論であれどうあれ作者が自作品に関して掲示板等で語るのは投票者にあまり良い印象を与えないことがつくづくと分かった。ただ、中里さんはそれを行いつつでも優勝できる実力を秘めていると思われるので私の意見なんぞは気にせずに我が道を行ってほしい。
他の2作品について
園芸論は確かに面白く、目新しさもあるがそれだけという感じもするし、猫のドイさんはほのぼのとした秀作ではあるが他の2作品と比べればやや見劣りする感が否めない。(この票の参照用リンク)
自作以外の候補作。
私は、この2作品のどちらにも投票することはできません。
まず『猫のドイさん』
『話す猫が発見されたということぐらいは、テレビや新聞で盛んに取り上げていたので世情にうとい僕でも知っていた』
ということは、『話す猫』はまだ珍しい存在なわけです。
その猫が既にどこかに勤め、仕事をし、商談に出向く。しかも結婚して家庭を持ち、娘までいるらしい。私はこれに納得できません。
次に『園芸論』
『園芸は鉢に始まり鉢に終わる』ような構成だったら、投票したと思います。
これだけの短い文字数で一つの世界を構築するのですから、冒頭からの総ての言葉が一つの無駄もなく終わりの部分へと収束していく作品が私は好きです。そういう意味で、私の好みではありませんでした。(中里奈央)(この票の参照用リンク)