投票参照

第9期決勝時の、#20猫のドイさん((あ))への投票です(11票)。

2003年5月19日 23時56分34秒

 これしかないでしょう。
 『ナオミ』は、記述の「あいまいさ」を「ぶきみさ」に転用しようとするのはホラーの愚形だと思うし、さらには主人公がじつは死人であるという真相の伏せかたにも転用しているがために、あざとく思えてしまった。こういうホラー的あるいはショートショート的な手法に注力するのではなく、歳を取りたくないという生前の思いを遂げさせてくれた相手を愛してしまう、という複雑な心理のほうをもっと細やかに描くべきだったのでは。おそらくそれがこの作品のメインであって、いっそ初めから死人だと明かしてしまってもよかったとまで思う。筆力、センスのある作者のようなので次作に期待。
 『園芸論』は単純につまらなかった。この作品はいったいなんなんだろう、と考えてみると「園芸論だ」としか言いようがないというナンセンスが、おもしろさに転じればよいのだけれど、個人的にはそうならなかった。挙げられている話いずれも記憶すべきほどの内容ではない。そういう意味では、つまらないものとしての完成度が高いが、しょせん、つまらない、である。
 『猫のドイさん』は、猫型宇宙人なのかしゃべる猫なのか、いずれにせよ人々はそれを猫と認識するよりほかないという、なにやら諦念じみてさえいるおかしさと、しかしぬぐいきれないかすかな違和感に、あっさりしていながら深い味わいがある。あっさり読み流してしまえるのが難点というか弱点か

参照用リンク: #date20030519-235634

2003年5月19日 23時31分5秒

 とくにどうということのない日常が、ほんのちょっとの気分の揺らぎがわかるような文章で描かれているところに惹かれました。『ドイさん』は、『テレビや新聞で盛んに取り上げ』られるぐらいの有名な存在ではあるらしいのですが、かといって語手が大仰に騒ぐ必要を感じるほどのものでもなく、あるいは騒いでは失礼なのではと恐れているのか、ちょっとの好奇心、戸惑いをみせながら、でも基本的にはごく普通の日常と変わらない感じで話は進んでゆきます。しかし、淡々、とはしていません。どこか、ふわふわと、語手の気分は、やはりいくぶんかは昂っているように見受けられます。そういった、具体的に何が書かれているというわけでもないのに、語手の気分、が読めるといったところにこの作品の魅力を感じました。

 他の作品につきましては、『ナオミ』については、「オチ」のようなものを読んだときに、私は少しがっかりしました。この後にじつは殺される、といった話の方が面白いような気がしましたので。『愛してしまったから』というのは、説明としては陳腐で安易な表現に思われます。そういった言葉を使わないでそれをより真実に近い形で伝えるのが、小説ではなかろうかと思います。「愛している」という言葉で、それほどの愛が読者に伝わるものでしょうか。
 『園芸論』については、単調になんとなくといった感じで読んでしまいました。読んでいて気持が揺すられるということもあまりなく、文章の面白さを見い出すことができませんでした。

参照用リンク: #date20030519-233105

2003年5月19日 23時7分6秒

ミキ君の素直すぎで想像力豊かすぎなところが良いと思った。ドイさんもさることながら、ミキ君のこのキャラクタがいい味出しています。

参照用リンク: #date20030519-230706

2003年5月19日 16時54分33秒

もう、なんとなく好みで、というしかない。他の二作品が悪いというのではなく、最後に残った三作品の中でどれが一番好きか、といわれたらこれだ。

参照用リンク: #date20030519-165433

2003年5月18日 15時38分15秒

話す猫が違和感なくこの世界に溶け込んでいるという気持ちよさがあります。動物が人間のようにふるまうという話はよく見かけるし、強いインパクトというものもないのですが、文章が安定しており、読んでいて安心できました。ただひとつ、最後の「今日の商談よりも手ごわい難題が今僕に課されようとしている。」という文が俗っぽくて残念でした。

『ナオミ』は話自体は面白いと思いますが、雰囲気が好きでない。好みの問題です。
『園芸論』は「へーなるほど」とは思うけれどそれだけで、文章を読むこと自体の喜びが少なかったです。

参照用リンク: #date20030518-153815

2003年5月18日 0時57分22秒

『ナオミ』
 「愛して」いるなら顔見ただけで満足しそうな気がする。恨みがないということはそういうことではないかと。
『園芸論』
 奇植物挿絵入り園芸本?の文章部分を読んでいるような感じ。おもしろいのだが、たまたま知っている植物が多いから楽しめるのだろうと思う。
『猫のドイさん』
 良く出来ているために、かえってサラリと流れて頭に残りにくいかもと思った。自分は、『ドイさんはえへへと笑う。』が心にひっかかったのでこの作品を推すのだが、ドイさんが接待モードを解いたのはここかしら。ここで話が終わってもまったく問題ないのだが、最後に困るミキ君を見てまたえへへと笑うのかな。

参照用リンク: #date20030518-005722

2003年5月15日 19時35分17秒

予選で投票した作品は一つも決勝に残りませんでした(よくある)。そういう場合、決勝投票はけっこう迷うんですが、今回はわりとあっさり『猫のドイさん』に。予選で投票しなかったのは、ただ好みじゃなかっただけなので(というか他の作品のほうが好みだっただけで)。いちばん情景を思い浮かべやすかったです。

参照用リンク: #date20030515-193517

2003年5月14日 0時24分47秒

「ナオミ」は、皆さんご指摘の台詞が好みに合わず。作者も、賛否両論あってしかるべきだと思いながら書いたのだろうと推察はするが。
「園芸論」は、さらに字数を埋めて面白くなる可能性を作者自ら中絶してしまっている(予選で推薦した点を、決勝では逆に欠点として述べているわけだが)。
「猫のドイさん」は、この作者のこの作風を、萌芽の頃から知っている者としては、ここに至って開花した(あるいは満開に近づいている)と感じ、強力にプッシュしたい衝動に駆られた。予選の評を繰り返す形になるが、シリアスとユーモアと絶妙なバランスに一票。

参照用リンク: #date20030514-002447

2003年5月13日 18時14分52秒

予選で三つとも外してしまったので気がひけるが、

身も蓋もない言い方をすると、他の二作も予選開始当初からあちこちで評価が高かったのだが、
それを見て私は首を傾げていたので、単なる好みの問題かもしれない。
両方とも私にはよくわからない作品だったので、無理に背伸びせずそのままにしておく。

これだけだとさすがに申し訳ないので、ドイさんについて。
そつなく無難にまとまっている印象をうけたので予選の際は外してしまったのだが、
私はとくに文句をつけるところはない。
他の人の意見を読んでいると、なるほどそうした方がよかったかもしれない、
などと思わないわけではないけども、私は私で今のままのドイさんが気に入ったので。

参照用リンク: #date20030513-181452

2003年5月9日 12時22分58秒

■『猫のドイさん』
私は映画を観たり小説を読んだりして怖いと感じることがあまりなく恐怖に鈍感な人間なのだと思うが、この作品のラストは怖かった。つまり、非日常的な話であるにもかかわらず、すんなり主人公に感情移入できていたのだと思う。ユーモア小説として見ると、「猫背」のくだりはベタか。

■『ナオミ』
まず、主人公に感情移入できず、できたとしても、この話怖くないのではなかろうか。といって男の方にも感情移入できず、結果として全然怖くなかった。それと、やはり「愛してしまったから」が、唐突な印象を受け違和感を覚えた。

■『園芸論』
各章はそれなりに面白いが、鼻で笑う程度の面白さ。このなうな構成・内容なら、最低一つは爆笑できるネタを仕込んで欲しい。

参照用リンク: #date20030509-122258

2003年5月7日 9時23分43秒

「ナオミ」について。これは痴人の愛をしっててナオミなのかなあ。まあそれはいいとして。「恨んでいるからではない。愛してしまったから……。」でアウト。明らかに「恨みでは陳腐な怪談になっちゃううんでアンビバレントなことにして深みをもたせさせてください」ちゅう説明以上に悪い読者への嘆願になっちゃってる。ここはちゃんと「あのとき私のことを好きだと言ってくれたから」という描写(小説という約束事のなかでの’事実’と言い換えてもいい)をしたうえでこのせりふをもってくるなどすべきだろう。というかそう組み立てにするべきだろう。まあたとえばの話ではあるが、仮にそういう工夫が上手くいくとすると副次的にこうなる。「強姦殺人をして復讐されるのは当たり前だが、そうじゃなくて犯しながら或いは扼殺しながら「好きだ」と言ったがために復讐される」。もっと鋭利な恐怖感を生む。これを古人は「口は災いの元」と称した。

次に「園芸論」。面白いとは思う。しかしこの1,000文字という文学形式の下では「猫」に負ける。この作品、所詮は100文字の緊張を7回繰り返したに過ぎない。「猫」は1,000文字の緊張を耐えている。100文字×7回と1,000文字とはその努力の量だけでなく質も違ってくるのではないか。1,000文字という枠組みを単なる短い小説ととらえてしまうとなんか新しさが出てこない。これがなんのルールもない条件下での優劣検討であればまた違った観点が出てこようが現実というのは常に具体的な前提条件下にあるものなのだ。早い話、「園芸」はこのまま続けることが可能だがその結果もっと面白くなるのは自明なのだ。そういう意味で「猫」こそこのコンテストでは勝つべき作品であろう。あとから「敵に塩を贈られた」などといわれては癪なので名を明かせば私は瑕瑾である。瑕瑾はプライドを持って「猫」を支持する。ああでも今後1,000文字近辺の文字数以外の作品を一貫して低評価するというわけではないです。たまたま「園芸」が文字数になんら左右されない結構ラクした作品だと判断したまでです。作者がいうんだから間違いはない。

ところで中里さんの「猫」評は解せない。そここそが面白いところで文章もそこをさらっとクリアしているのが上手いところだと思う。そのかぎは冒頭の一文、すでに座っているというあつかましさというか図太さなんだが。その一文を読ませた時点であとの矛盾はぜんぜん気にならなくなるようできているんだが。他の方で中里さん的拒否感をもたれたかたいます?ロキさんあたりもそういうんかなあ。たしかにそこのところをクリアするかどうかで評価わかれるかもしれないが、それはアタゴオルなり宮澤賢治なりあたりの経験があるかないかかもしれない。またな中里さんの作品はホラーなので地の文や登場人物の心理描写は正確・厳密でなければならないので基本ファンタジーの「猫」「園芸」みたいな暴力的なねじ伏せは通用しない。「園芸」にしても「猫」にしても、また、基本ファンタジーなんで根本的に「簡単に数値化できるようなシンメトリー」、「日常的な意味での合理性」を無視します。ていうかそれに対する否定が根底にあります。中里さんの評はこの2作に対する「部分否定」ではなく「全否定」を意味しています。

と、一旦おわり。しかしすまん。言わねば気がすまない。瑕瑾的決勝戦をここでやらせてもらう。(以下、下書き済みの文章)

銀糸のごとき繊細な骨格に透明な肉体の文体をまとわせた「雨」対ゆたかなユーモアを樫材の木組みのどっしりした文体でつつんだ「猫」。好対照な2作の対決。どちらも捨てがたい。しかしあえてこの2作に優劣をつけるなら仕上げのわずかな差で「雨」を勝ちとす。単純に「彼女」を語り次に「私」を語っているようで、しかし実は私に「決断の時」を静かにもたらすラスト2行。いやそこにあるのは「諦観」か。「彼女を眺めていた私」(歩く=動く彼女/座す=静止する私)が、実は反対で、確固たる存在である彼女(=静止)を眺めることで一瞬ゆらぎそしてついさっきまでのあたりまえな自分に戻る「動かされる私」であったという動と静の逆転。これを素直に受ける自然さがよい。内容もよい。「止揚」というテクニカルタームさえ想起させる。つまりラストの’傘を差し出す「私」’とはいつもの私(=行動)ではあるがもはや以前の私(=内面)ではないのだ。彼女を見た後では。或いは彼女に揺さぶられた後では。対して「猫」。淡々とした運びの末に「年頃の娘」という通俗が忍び込んだ。ここで「商談より手ごわい難題」と落としたところが読者をしてふと我に返らせるように思う。手垢のついた’笑いの型’が。 ’「話す猫」(センセーショナル)を非センセーショナルに叙述する’という違和感(=この作品の面白み。独自世界)がここで一瞬くずれてしまう。ちょっと残念。しかしこの瑕瑾(注:「玉にキズ」の意です本来は。)もあえて「雨」と対戦させることで浮かび上がる程度のもの。致命的な欠点ではない。普通であれば「ここで物語りはおわりだよ」と明示するための記述レベルの意図的落としともとれる。伝統的な昔話が'とっぴんぱらい’’どっとはらい’など特殊な専用語でおわるようなもの。(民俗学的には明示的に終わらせることで言霊信仰的観点からすると危機を回避しているとされる)。この作品を読むと異常な事態を平静な意識/視点を通して書くというのがこれほど面白いのだと思わされる。この文章自然にみえてむずかしいと思う。異常な自体だけにどうしても説明的文章を書きたくなるところうまく描写でしのいでいる。ジェットコースターに対して最近よくある「上下左右に動く乗り物に乗ってジェットコースターの映像を見てジェットコースターに乗った気になるアトラクション」みたいな感じ。なんていうんだ?あれ。ああいう感じで面白かった。文体も文章の運びもとことん落ち着いているので「たかが猫がしゃべるだけ」という些細な異常事態を効果的に演出できた。文章のゆらがないところが魅力だったんだけど最後のところでちょっとゆらいだ感じがする。しゃべるネコという異常事態に動じない文体が実は「そんな状況を冷静に記述していること自体が一種の異常であり浮世ばなれ」していて面白かったんだが最後に「浮世」レベルの文法が現れてちょっと揺らいだ感じ。読者をこの世界のただ中に置き去りにしてくるような終わり方が理想だった気がする。(ごめん。勝手やけど私としては例えば「ドイさんが差し出した写真に写っているのはやっぱりただの猫だった。果たしてこの猫もしゃべるんだろうか」などといったニュアンスでとすっとぼけたままで終わらせてほしかったと思います)。

参照用リンク: #date20030507-092343


編集:短編 / 管理者連絡先: webmaster@tanpen.jp