第24期決勝時の投票状況です。17票を頂きました。
# | 題名 | 作者 | 得票数 |
---|---|---|---|
13 | ハチミツ23号 | 安南みつ豆 | 8 |
17 | とにりさられる午後 | 朝野十字 | 5 |
27 | 遠雷 | 市川 | 4 |
投票する直前に読みなおし、最後まで退屈しなかった作品に投票する。
「ハチミツ23号」は、最後まで退屈しなかったばかりか、このまま読みつづけていたいと思うほどであった。ハチミツの町や母親とハルキのエピソードはほかにも数多くあり、それがどれも魅力あるものではないか、と思わせる力があった。
他の二作については、半ばまでは作品世界の魅力が読みつづけようとする私の意思をひっぱってくれていたが、どちらも後半は、おなじことの繰り返しと思えて、退屈だった。(この票の参照用リンク)
どれもよくて悩んだ。
好みというよりはむしろ作品として
今期はこの作品を押したい。(この票の参照用リンク)
素敵な作品でした。
独特の世界観に引き込まれました。(この票の参照用リンク)
すごく好きです。
かわいらしい雰囲気の中で、胸がチクンとしたりもしました。
リアルな世界とファンタジーの具合、圧巻!(この票の参照用リンク)
最後が早口で終わってしまった感あれど、舌足らずな
子供の描写の的確さ(と可愛さ)に決勝の一票をいれ
たいと思います。あと世界観と。
個人的な話、安易に「綺麗なもの」を使う作品には、
反発を覚えたりもするのですが、上手く消化されて
いると感じました。
ちょっと羨望とかしながら投票。(この票の参照用リンク)
ハチミツが好きだから。(この票の参照用リンク)
おもしろかったです。
どうでもいいことですが、先日ものすごいいっぱいハチミツが置いてあるお店をみつけました。
なんか買おうかと思いましたが、種類がありすぎて選べませんでした。
家に帰ってからあんまりハチミツ好きじゃないことをおもいだしました。(この票の参照用リンク)
「ハチミツ色」という語感の美しさに尽きる。「はちみつ色」や「蜂蜜色」だったら投票しなかった(予選と同じ感想)(この票の参照用リンク)
最初、この作品が上がってきたことに疑問を感じました。
それでもじっくり3作を読み返す中で、一番何度も読み返したのがこの作品です。しかし何度読み返してもよく解らない。
個人的に、意味は解らずともリズムや世界でもって書かれた作品は大好きなのですが、それは意味が解らないということが気にならないというのが条件のもとであり、この作品のように、いつまでも意味が解らないということが引っかかっているようでは、ダメだねと思っておりました。
ところが、ふと、とにりさられる午後か、と真昼間、呟くように頭の中に出てくるではありませんか。ちょうど今この瞬間がまるで「とにりさられる午後」かもしれないとまで思えるではありませんか。自分の中で自分の好きなように意味を作ってしまったのであります。やられたという感じです。(この票の参照用リンク)
予選で推した作品はいずれも残らなかったので、改めて三作品を読み比べてみたが、どれもそれぞれにいい。
『ハチミツ23号』日々なにげなく流れている生活の時間と、その中でふと立ち止まって振りかえった時に見えてくる時間の堆積とが、うまく重ね合わされている。それがハチミツという豊潤なイメージで捉えられているのが、また独特であるとおもった。時の流れというと昔からよく川で象徴されるものだが、すみやかに流れ去って帰らぬ水の前では人はただ嘆くよりない。甘くとろりとたゆたうハチミツが、またいいのである。そういえば「経験の蜜」という詞を残した詩人もいた。
『遠雷』描かれているのは、遠雷、ホームレスの引きずる空き缶の音、車の音、と、どれも何の変哲もなさそうな日常的な音でありながら、話者の異常なまでに研ぎ澄まされた神経を通ると、何か鬼気迫るものとして定着される。『ハチミツ23号』とは全くちがった息ぐるしさで、最後まで持ちこたえられた緊張感は、予選を通っただけのことはある。
『とにりさられる午後』公開された票感想の中に、「二度目になれば、もう結構」という言葉があったが、であればこそ是非ともこの作品は残したいという気がする。二度使えない手口をぶつけた覚悟のほどをまず買う。
作品そのものについても、確かに何だかよく判らないくだりもありながら、言葉のリズムが生み出す快感は大いに伝わって来た。こういう擬音みたいなのは笙野頼子とか町田康あたりもよく使っていて、意味が通らなくなると私はたいてい読み飛ばしていたものだが、この作品は乗って読めた。ふしぎな優雅さがある。(海)(この票の参照用リンク)
表現を行うということの限界をうまく取り込み、周到にかつ大胆に綴り倒した。形なきものに形を与える、それが創造であるが、形なきものの代表である「心」の不定形さを強引に象り、よく切り取った。心と言葉は常に境界を滲ませながら移ろい、たゆたい、己の正しき位置を探す。それがこの「とにりさられる午後」の魅力である。(この票の参照用リンク)
予選の通りこの作品を推します。
が、1000字としてのこの作風は、二度目になれば、もう結構と私としてはなります。
そういった作品でした。(この票の参照用リンク)
「とにりさられる午後」にしようと決めた。またおなじような趣味の感想の繰り返しになるけど好きな筒井康隆の掌編を思い起こさせ、さらにそれには似ていないところも気に入った。真似して書いてみたいけど真似の出来ない作品。(この票の参照用リンク)
予選のとき『人生を擦り減らす様な生き様では足らずに、さらに死をも削るとはどの様な生き様なのだろうと面白い視点』に着目して推薦しました。小説としての良し悪しに判断はできないので、決戦でも視点について感想を添えて推薦します。あらためて読み返してみて、カン音と作者の鼓動がどれもが"命"の音なのに気が付きました。缶を潰す音は街の音で、鼓動は作者の音で、遠雷は地球の生きる音なのでしょう。
面白いのは、遠雷とカン音や鼓動を同じ"命"としてつなげる視点だと観念的で、どこか言葉遊びのようでもあり媒介の無い間接の絵空事になります。しかし、ここでは「昼間ずっと空き缶を蹴潰している人」を媒介にして直接を扱っており、これが作品の独特の明るさになっています。
テレビをつけて見聞きする世相は目を背け、思わず耳を塞ぎたくなる事が多いように思います。バス釣りでの水音は環境破壊の音であり、現代戦争での機器の電子音は殺人の音です。こういった命の重さを引き受けないゲームのなかの音は"命"の音の対極にあります。耳をすませば、"命"の音が聞こえるのがどこから壊れてゆくのか。それが「次に削られてゆくのは生ではなくて、死であるような」気持ちなのかもしれません。
(この票の参照用リンク)
「彼が彼の日常を厭い、その何分の一かの気持ちでそれを愛しているのではないか」という一文が印象に残りました。
流れるような文章が素敵でした。(この票の参照用リンク)
結論としては一作に落ち着かなければならないが、今期も佳作が並び、とても辛い選択を迫られている。どのように辛いかと言えば、以下を参照、長文御免・・・
○市川さん「遠雷」
予選票に書いた理由から、今期はこの小説を推したい。
あえて言うなら、「この音が、彼のものであるとは言えないのだけれども、」「なにか余韻を含んでいた。」「やや驕った見方だけれど」といった言葉づかいには、まだ大胆な表現に徹しきれない、作者のためらいや逡巡がうかがえると思う。
眠れぬまま膝に顔を埋め、空き缶の鳴る音にも神経を尖らせずにおかない主人公の、深夜の内省なのだから、うんと偏った方向に傾斜していい、孤独な黙考の中へもっと大胆に落ちこんでしまっていいはずだ、と僕などは考えるが、どうだろうか。
○朝野さん「とにりさられる午後」
全編にわたって飛翔感が充溢し、楽しませてもらった一編。予選でとりあげなかったこの短編にこれほど心を動かされてしまうとは、僕の一票もなんとも頼りのないものだと思う。このタイトルは僕の中でさらに変格し、とりにさられる、とらにりされる・・・と増殖することをやめない。作者は鋭敏な耳を駆使して、なかなか変化に富んだ言葉の花火を打ち上げているし、読者もそれを堪能するのではないだろうか。
ところで、こうした異形の言葉を作り上げる側の立場として、まず一方には、「正確な正確の正確さがまず正確であること」を言葉に突きつけ、ぎりぎりまで締め上げ、なおも言い当てられないじれったさに身悶えし、その果てに、ついに異形の表現へと抜けてしまう――そういう吃音性に由来する変形があると思う。もう一方には、そういった苦行とは無縁に、ひたすら軽やかに、まるで自分一人で作った韻律のルールに自ら嬉々として従う具合に、遊びとしての言葉の連鎖に興じる、という向きもある。どちらがよくてどちらが悪い、というものではもとよりなく、それぞれに魅力的なのだが、さて、この作者はいずれに立つのか。
あなた以上のあなた、友だち以上の彼方、愛している以上のその先の、大切なもの以上の・・・と、言葉を問い詰めていく姿勢はまっとうに真摯だが、前半の言葉のはしゃぎぶりは、僕の目には、この真摯さとは不釣合いであるように見える。また、逆に、思い切りはめをはずして飛び跳ねるなら、「ちっかいよ。ちっちいかいよ。とりするかちのくるしゅうるよ」の快調な疾走の果てに、「大好きだよ」と意味の世界に戻ってくるのは、いささか無粋な減速だと感じる。
もっとも、こうした図式的な枠にとらわれず、むしろ両者を気ままに往還する、意味と無意味との距離のとり方の自在さがこの短編の魅力なのだ、と主張する声もありうるだろうし、僕はそれを否定しない。僕としては上述の理由からこの小説に少し飽き足りなさを感じ、この小説を推すことを最終的に断念したけれど、でもこの小説を、作者の言葉を借りて「大好きだよ」と言うのは躊躇しない。
○安南さん「ハチミツ23号」
優しくほのぼのとしたイメージ、といえば安易かもしれないが、しかしそういうイメージを退屈さ抜き・物語抜きで持続させ、最後まで読ませる手腕はたいしたもの。末尾の一行、親子に寄り添っていた視点が離れて大きな時間と空間の中へゆるやかに溶けこんでいくあたりも、巧い。
イチャモンを承知であえて言うなら、誰に読ませても好き嫌いがあまり分かれそうにない、という点が、この作の長所でもあり短所でもあると思う。異形で異質なものを小説の中にあえてとりこもうとした他の二作(「遠雷」の中で主人公の心に転がりこんでくる空缶の音。あるいは「とにりさられる午後」で展開される鮮やかな非?言語群)に比べると、こういう美しいが静的で均質なイメージは、僕の中では、やや部が悪かった。とはいえ、ここで垣間見られる言葉への感性の鋭さ(「ハチミツ」というカタカナ表記の秀逸さはすでに指摘されていますね)は、他の二作に劣らないと思う。
(以上、でんでん)
(この票の参照用リンク)
実は予選で推したのはこの三作中『とにりさられる午後』だけだった。しかし読み返してみると『遠雷』の方がよい。頼りのない一票である。
ハチミツ23号は、最後の段落で視点にブレが生じている。違和感があった。しかし総体的に秀作であることは間違いない。(この票の参照用リンク)