投票参照

第24期決勝時の、#27遠雷(市川)への投票です(4票)。

2004年8月21日 10時1分45秒

 予選のとき『人生を擦り減らす様な生き様では足らずに、さらに死をも削るとはどの様な生き様なのだろうと面白い視点』に着目して推薦しました。小説としての良し悪しに判断はできないので、決戦でも視点について感想を添えて推薦します。あらためて読み返してみて、カン音と作者の鼓動がどれもが"命"の音なのに気が付きました。缶を潰す音は街の音で、鼓動は作者の音で、遠雷は地球の生きる音なのでしょう。
 面白いのは、遠雷とカン音や鼓動を同じ"命"としてつなげる視点だと観念的で、どこか言葉遊びのようでもあり媒介の無い間接の絵空事になります。しかし、ここでは「昼間ずっと空き缶を蹴潰している人」を媒介にして直接を扱っており、これが作品の独特の明るさになっています。
 テレビをつけて見聞きする世相は目を背け、思わず耳を塞ぎたくなる事が多いように思います。バス釣りでの水音は環境破壊の音であり、現代戦争での機器の電子音は殺人の音です。こういった命の重さを引き受けないゲームのなかの音は"命"の音の対極にあります。耳をすませば、"命"の音が聞こえるのがどこから壊れてゆくのか。それが「次に削られてゆくのは生ではなくて、死であるような」気持ちなのかもしれません。

参照用リンク: #date20040821-100145

2004年8月20日 23時29分49秒

「彼が彼の日常を厭い、その何分の一かの気持ちでそれを愛しているのではないか」という一文が印象に残りました。
流れるような文章が素敵でした。

参照用リンク: #date20040820-232949

2004年8月9日 13時35分6秒

 結論としては一作に落ち着かなければならないが、今期も佳作が並び、とても辛い選択を迫られている。どのように辛いかと言えば、以下を参照、長文御免・・・
○市川さん「遠雷」
 予選票に書いた理由から、今期はこの小説を推したい。
 あえて言うなら、「この音が、彼のものであるとは言えないのだけれども、」「なにか余韻を含んでいた。」「やや驕った見方だけれど」といった言葉づかいには、まだ大胆な表現に徹しきれない、作者のためらいや逡巡がうかがえると思う。
 眠れぬまま膝に顔を埋め、空き缶の鳴る音にも神経を尖らせずにおかない主人公の、深夜の内省なのだから、うんと偏った方向に傾斜していい、孤独な黙考の中へもっと大胆に落ちこんでしまっていいはずだ、と僕などは考えるが、どうだろうか。
○朝野さん「とにりさられる午後」
 全編にわたって飛翔感が充溢し、楽しませてもらった一編。予選でとりあげなかったこの短編にこれほど心を動かされてしまうとは、僕の一票もなんとも頼りのないものだと思う。このタイトルは僕の中でさらに変格し、とりにさられる、とらにりされる・・・と増殖することをやめない。作者は鋭敏な耳を駆使して、なかなか変化に富んだ言葉の花火を打ち上げているし、読者もそれを堪能するのではないだろうか。
 ところで、こうした異形の言葉を作り上げる側の立場として、まず一方には、「正確な正確の正確さがまず正確であること」を言葉に突きつけ、ぎりぎりまで締め上げ、なおも言い当てられないじれったさに身悶えし、その果てに、ついに異形の表現へと抜けてしまう――そういう吃音性に由来する変形があると思う。もう一方には、そういった苦行とは無縁に、ひたすら軽やかに、まるで自分一人で作った韻律のルールに自ら嬉々として従う具合に、遊びとしての言葉の連鎖に興じる、という向きもある。どちらがよくてどちらが悪い、というものではもとよりなく、それぞれに魅力的なのだが、さて、この作者はいずれに立つのか。
 あなた以上のあなた、友だち以上の彼方、愛している以上のその先の、大切なもの以上の・・・と、言葉を問い詰めていく姿勢はまっとうに真摯だが、前半の言葉のはしゃぎぶりは、僕の目には、この真摯さとは不釣合いであるように見える。また、逆に、思い切りはめをはずして飛び跳ねるなら、「ちっかいよ。ちっちいかいよ。とりするかちのくるしゅうるよ」の快調な疾走の果てに、「大好きだよ」と意味の世界に戻ってくるのは、いささか無粋な減速だと感じる。
 もっとも、こうした図式的な枠にとらわれず、むしろ両者を気ままに往還する、意味と無意味との距離のとり方の自在さがこの短編の魅力なのだ、と主張する声もありうるだろうし、僕はそれを否定しない。僕としては上述の理由からこの小説に少し飽き足りなさを感じ、この小説を推すことを最終的に断念したけれど、でもこの小説を、作者の言葉を借りて「大好きだよ」と言うのは躊躇しない。
○安南さん「ハチミツ23号」
 優しくほのぼのとしたイメージ、といえば安易かもしれないが、しかしそういうイメージを退屈さ抜き・物語抜きで持続させ、最後まで読ませる手腕はたいしたもの。末尾の一行、親子に寄り添っていた視点が離れて大きな時間と空間の中へゆるやかに溶けこんでいくあたりも、巧い。
 イチャモンを承知であえて言うなら、誰に読ませても好き嫌いがあまり分かれそうにない、という点が、この作の長所でもあり短所でもあると思う。異形で異質なものを小説の中にあえてとりこもうとした他の二作(「遠雷」の中で主人公の心に転がりこんでくる空缶の音。あるいは「とにりさられる午後」で展開される鮮やかな非?言語群)に比べると、こういう美しいが静的で均質なイメージは、僕の中では、やや部が悪かった。とはいえ、ここで垣間見られる言葉への感性の鋭さ(「ハチミツ」というカタカナ表記の秀逸さはすでに指摘されていますね)は、他の二作に劣らないと思う。
(以上、でんでん)

参照用リンク: #date20040809-133506

2004年8月9日 9時52分29秒

実は予選で推したのはこの三作中『とにりさられる午後』だけだった。しかし読み返してみると『遠雷』の方がよい。頼りのない一票である。
ハチミツ23号は、最後の段落で視点にブレが生じている。違和感があった。しかし総体的に秀作であることは間違いない。

参照用リンク: #date20040809-095229


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