第24期決勝時の、#17とにりさられる午後(朝野十字)への投票です(5票)。
最初、この作品が上がってきたことに疑問を感じました。
それでもじっくり3作を読み返す中で、一番何度も読み返したのがこの作品です。しかし何度読み返してもよく解らない。
個人的に、意味は解らずともリズムや世界でもって書かれた作品は大好きなのですが、それは意味が解らないということが気にならないというのが条件のもとであり、この作品のように、いつまでも意味が解らないということが引っかかっているようでは、ダメだねと思っておりました。
ところが、ふと、とにりさられる午後か、と真昼間、呟くように頭の中に出てくるではありませんか。ちょうど今この瞬間がまるで「とにりさられる午後」かもしれないとまで思えるではありませんか。自分の中で自分の好きなように意味を作ってしまったのであります。やられたという感じです。
参照用リンク: #date20040820-114613
予選で推した作品はいずれも残らなかったので、改めて三作品を読み比べてみたが、どれもそれぞれにいい。
『ハチミツ23号』日々なにげなく流れている生活の時間と、その中でふと立ち止まって振りかえった時に見えてくる時間の堆積とが、うまく重ね合わされている。それがハチミツという豊潤なイメージで捉えられているのが、また独特であるとおもった。時の流れというと昔からよく川で象徴されるものだが、すみやかに流れ去って帰らぬ水の前では人はただ嘆くよりない。甘くとろりとたゆたうハチミツが、またいいのである。そういえば「経験の蜜」という詞を残した詩人もいた。
『遠雷』描かれているのは、遠雷、ホームレスの引きずる空き缶の音、車の音、と、どれも何の変哲もなさそうな日常的な音でありながら、話者の異常なまでに研ぎ澄まされた神経を通ると、何か鬼気迫るものとして定着される。『ハチミツ23号』とは全くちがった息ぐるしさで、最後まで持ちこたえられた緊張感は、予選を通っただけのことはある。
『とにりさられる午後』公開された票感想の中に、「二度目になれば、もう結構」という言葉があったが、であればこそ是非ともこの作品は残したいという気がする。二度使えない手口をぶつけた覚悟のほどをまず買う。
作品そのものについても、確かに何だかよく判らないくだりもありながら、言葉のリズムが生み出す快感は大いに伝わって来た。こういう擬音みたいなのは笙野頼子とか町田康あたりもよく使っていて、意味が通らなくなると私はたいてい読み飛ばしていたものだが、この作品は乗って読めた。ふしぎな優雅さがある。(海)
参照用リンク: #date20040819-182501
表現を行うということの限界をうまく取り込み、周到にかつ大胆に綴り倒した。形なきものに形を与える、それが創造であるが、形なきものの代表である「心」の不定形さを強引に象り、よく切り取った。心と言葉は常に境界を滲ませながら移ろい、たゆたい、己の正しき位置を探す。それがこの「とにりさられる午後」の魅力である。
参照用リンク: #date20040818-010407
予選の通りこの作品を推します。
が、1000字としてのこの作風は、二度目になれば、もう結構と私としてはなります。
そういった作品でした。
参照用リンク: #date20040811-235812
「とにりさられる午後」にしようと決めた。またおなじような趣味の感想の繰り返しになるけど好きな筒井康隆の掌編を思い起こさせ、さらにそれには似ていないところも気に入った。真似して書いてみたいけど真似の出来ない作品。
参照用リンク: #date20040809-153053