こんばんわ。
三浦さん、すてきな読解をありがとうございました。
自作への言及は避けますが、このあたり、
〉 文章がどことなく機械的に感じられて、
最近、自分で気にしているところです。どうも精製塩のような文章で、くちあたりが天然塩ではないようです。
あと、すこし逸脱しますが、現代文のテストをモデルとして小説を書くとよいのではないかといま仮説を立てています。問1。この一文は登場人物Aのどんな気持ちを示しているか以下の選択肢から選べ。選択肢。(ア)知人の佳作入選をよろこぶ気持ち。(イ)持たざるものが瑕はあれど持つものに対して羨望をいだく気持ち。(ウ)自分がこの世界の部外者だということを知っていながらも韜晦する気持ち。正解。(ア)。のような。正解だとぼくたちは嬉しいですから。
学生時代のことをふりかえるとなんだか涙がでてきます。良いということはその真逆にもまた良さがあると考えるのですけれども。
こんばんは。
qbcさんの精製塩のような文章によって人物が描かれると、みんな身も蓋もない存在として浮き上がって来るのですが、そうやって出来た作品が、身も蓋もない存在である人物のその紹介だけで終わっているような気がして、それが私がqbcさんの作品を読んでも満足できない原因かなと思ったりしています。
qbcさんが描くそんな人物と対極にあるのは、たぶんわたなべかおるさんが描く人物ということになるんじゃないかと思います。わたなべかおるさんが描く人物ならばその人の紹介だけでも作品は魅力的になると思うのですが、qbcさんが描く人物にはどんどん行動を起こしてもらうか大変な状況に放り込まれてもらわないと、なかなか作品が魅力的に見えないのかなという気がします。
言い換えれば、qbcさんが作り上げる人物は行動させるのに適した形をとっているんだと思います。
機械的に感じられる文章が悪いわけではないのだなと、これを書きながら思い至りました。
現代文のテストをモデルにして、というのはなんだか推理小説のようですね。
私は甘ったれているので、いつまでも正解が現れないほうが好みです。
今晩和。
コメントをありがとうございました。
今月の「糞の礼」は、特に「紹介」文の印象が強いと思います。サービスシーンを入れなかったので。
※サービスシーンと言うのは、たとえば「白髪頭は羞恥と周囲の無言の注目から自分と息子を衛るために怒っていた」の箇所で白髪頭の表情の詳細を観察したりするようなことです。あるいは「従業員たちは陰で相当あし様に白髪頭のことを噂したようだ」の箇所で、語り手の感情を「従業員に嫌悪感を抱いている」と設定し、「かれらは攻撃するのだ。相手のことをよく知りもしないくせに。たったひとつの誤謬でもってこきおろす。しかもその見出した瑕だとて、かれらの良識から見てのものだ」と考察させたり。
作品内に読者が踏み込みやすいようなフックを作ることです。
また「精製塩のような文章」は1000字の中でいかに展開を多くするかといった目的の為に作られた文章なので、「qbcさんが作り上げる人物は行動させるのに適した形」というのは正解なんだろうなと思います。
※私の感覚的な話ですが、私が「作り上げる人物」ではなくて、私の「書き方」になりますでしょうか。
今月のわたなべさんの「祖母の入院」の内容を、私でしたら、極端に言うと、冒頭の100字くらいで済ませると思います。「祖母が入院した。もうすぐ死ぬそうだ。見舞った。いま私が学者をしていることを教えると祖母はよろこんだ。むかし祖母は女の学問を嫌っていたのだが。どうも祖母が死ぬというのは事実のようだ。」ここに作中人物が思う感慨を挿入してもいいのですが、速度のために省きます。展開を優先させるために、結果的に作り上げられてしまった人物でしょうか。
なぜ「1000字の中でいかに展開を多くするか」と言えば、これはもう私の強迫観念だと思います。展開が速くないと書いていて死にたくなります。ともあれ「糞の礼」の語り手が冒頭と末尾にしか登場しない作品が、いまの自分の気分に近かったというのは確かなことです。とは言えその結果が色彩を遠ざけた味気のない作品になってしまってはしようがないのですが。
こんばんは。
図々しくてすみません。
コメントを読んで考えたのですが、私が感じているのは、寧ろ「フック」があることで「紹介」で終わっているような印象を生んでいるのではないか、ということです(サービスシーンを入れなかったという『糞の礼』でも、私にはフックがあるように感じられます)。
こう感じるのは、展開を速めるための速度に、フックの数や深さが合っていないからではないだろうか(もしくはフックに速度のほうが合っていないのではないだろうか)と考えました。
作品の速度とフックの数や深さが合っている例としては、るるるぶ☆どっぐちゃんさん、川野佑己さん、そして今期のハンニャさんの『さあ、みんなで!』が挙げられるでしょうか。
ただ私は、るるるぶ☆どっぐちゃんさんにも、川野佑己さんにも、ハンニャさんの『さあ、みんなで!』にも、それほど惹かれるものを感じているわけではありません。これらは速度とフックが上手く合っているのでとても安定しているのですが、安定しているが故に突出したものが少なく、私としては、安定していないが故に結果的に突出してしまったところがある作品のほうに惹かれてしまいます。
というわけなので、速度とフックが噛み合っていないかもしれないqbcさんの作品に対する私の違和感は、噛み合うことによって解消されるというよりも、噛み合っていないその逸脱の度合いが、適度なところに治まることによって解消されるのではないだろうかと思っています。
私にも「フックを作らず、話をつるつるにする」という強迫観念めいたものがあります。
真っ当なものを書かずにはいられない強迫観念がいずれは生まれることを夢見ながら、今は今の強迫観念に従って書き続けています。
こんばんは。
> 図々しくてすみません。
とんでもないです。お付き合いいただき、ただただ嬉しいです。
自分のテキストに関しての議論ですので、レスをいただけること自体が、ただただ、素直に嬉しいです。
今月の『糞の礼』を軸に話していたので迂遠な展開の議論となっておりましたが、この「精製塩のような文章」という問題の中心は、「1000字という枠内に内容を納めるということがルーティーン化してしまい、1000字執筆においてqbc自身が新鮮な気持ちで臨めなくなってしまった」ということになるかと思います。
※すなわち、題材を発見した時点で、構成、文体、フックが経験則から自動的に決定してしまう。これは1000字へのトライ&エラーの結果によるものなので、ある部分では到達点ではあると考えますが。
※※試行錯誤の過程が関心をくすぐるのであって、その結果として公式化された手法による、安定感のある工芸品には愛着を持てない。
また、るるるぶ☆どっぐちゃんさん、川野佑己さん、ハンニャさんに関して述べられた三浦さんの意見、「安定しているが故に突出したものが少なく」という部分には私も強く賛同いたします。
※その構成や作者の感性といった素晴らしい輝きをもった三者三様の作品への初見の驚きというものは、やはりいまや薄れてしまっています。つまらなくなったわけではない。ただ、より新しいものと出会いたいという欲求が上回ります。
「精製塩のような文章」という問題のゴールを設定すると、「書き慣れてしまい整理整頓されたものからいかに逸脱するべきか」となるかと思います。私も最初は1000字という枠に好奇心を持って邁進したものですが、現在の本心においては、いまや新たな試みを企んだ未知の書き手の出現を待ち望んでいるという、他力本願のていたらくです。
※コンテストにおいて複数回の評価を得ようという過程において、方向性の転換、読者への新鮮さの供給を意識して幾度も試みてなお、やはり人間一人の個性の枠を突破することはできないのではないかという恐怖感があります。
三浦さんの「フックを作らず、話をつるつるにするという強迫観念」も、おぼろげながら、そうであろうと認識しておりました。
これは私の間違った推測かもしれませんが、「みやび」(http://tanpen.jp/53/24.html)はフックをあえて設けた作品であり、「オチのない話が書きたい」(http://tanpen.jp/59/22.html)はあらためて三浦さん自身の方向性を確認したかった作品となりますでしょうか。
たけやん(http://tanpen.jp/authors/52-7.html)さんという投稿者がいました。たけやんさんの個性は短編において新鮮でした。なにかあるようでいて、なにも描いてないかもしれない作品を書く人でした。ただ、コンテストにおける勝者になる前に投稿をストップされてしまいました。ほかにも、稀有な個性の方々、桑袋弾次(http://tanpen.jp/authors/22-7.html)さん、戦場ガ原蛇足ノ助(http://tanpen.jp/authors/9-10.html)さん、曠野反次郎(http://tanpen.jp/authors/2-9.html)さん、紺詠志(http://tanpen.jp/authors/1-13.html)さんといった、私の好きな方々のお名前を挙げさせていただきましたが、このような方たち、強靭なインパクトで複数回のコンテスト制覇を果たした方たちも、現在は投稿を、一旦ストップされているようです。もっと書いて欲しい。しかし、常に新しいものを提供し続けるというのはしんどいのかもしれない。
とても脱線した話、随想になってしまいました。
ただ、結論は、「私は精製塩を作りたいのではなく、もうすでに自明となった作成方法を破壊して、まだ誰も知らぬ手ざわりの作品を提供したい」というところにあります。しかしそのためには、うんざりするほど、現在において自分が生みだせる作品をさらにひたすら書くだけなのではと思います。幸いながら、その端緒を感じてなくはないのですが。
こんばんは。
試行錯誤の過程にこそ関心があるというのは、私もまったく同感です。「書き慣れてしまい整理整頓されたものからいかに逸脱するべきか」、そのことを考えながら毎回書いてはいますが、私はqbcさんほど大胆に動けず、また要領も悪いので、遅々として進みません。
『みやび』と『オチのない話が書きたい』に関してはまったく仰る通りです。
たけやんさんの『僕と猫』は、現時点での私が理想とする到達点です。私が『休暇のはじまり』でやろうとしたことが、この作品では過不足なく実現されているという気がします。ここに辿り着くために、今は大回り中です。
「まだ誰も知らぬ手ざわりの作品を提供したい」という意欲はまだ私には生まれていません。これに関してはまったくもって他力本願ですね……。
こんばんは。
「糞の礼」が予選落ちしコンテストと関係がなくなりましたので、内容についての観点からもコメントを残しておきます。不粋で恐縮ですが、ここまで作品まわりのことを話したので、むしろこの外部の雑談の方に価値があると思いましたのでお許しをいただきたいです。
「糞の礼」は実体験に取材しました。起きたことも語り手が感じたことも私が見たこと思ったこと体験したことです。自分にしては珍しいのですが、川野くんが今期で最後の投稿をするという旨の発言をしていたので、それに合わせて自分も実体験に基づく川野くんの作風と思われる私小説風の話を書こうと思ったのが執筆動機です。
※もちろん言葉に起こした時点で、実体験も小説ということになりますし、意図的に描写を省いている箇所もあります。
※※川野くんが今月最後というのは私の勘違いで、来月までの投稿のようですが。このあたり、訂正ありましたら申し訳ないのですが川野くんよろしくお願いいたします。
※※※長月さんの感想(http://tanpen.jp/bbs/nbbs.cgi/temp/601)にありました「主人公の後姿を俯瞰している結果になる」、それを受けての三浦さんのコメント(http://tanpen.jp/bbs/nbbs.cgi/temp/603)「qbcさんの作品の語り手は、いつも読者の隣にはいなくて、常に小説の中にいるように私が感じていたからだと思います」というのも、既存作品と違うスタイル=私小説風で書かれているからだと考えます。だいたいの既存作品の場合、「作者であるqbc///小説の語り手///小説」という三層のレイヤーで分けられると思いますが、「糞の礼」の場合、それが二層から成っている――すなわち「作者であるqbc=小説の語り手///小説」――からではないかと考えます。
川野くんの投票感想にあった(http://tanpen.jp/vote/66/pre/5.html#date20080331-005758)一節なのですが、「みんな腹に溜まっている感情とか色々を文章にぶちまければいい」というあたり、「糞の礼」は自分の見たままを書き、「俺の名前がなぜ省かれていたのかは謎だ」と普段は出さない本心を吐露させたにも関わらず、「何をも語ってはいない文章」と評されたのにはショックでした。「糞の礼」において自分にとってどうでもいい世界に対してどうでもいい気持ちでアプローチし、しかし行為としては他人と同じようにしたというのに、結果としてなぜか自分だけが除外されてしまっていたという自分の気分を描くには、やはり、そのまま書くのでは伝わらなかったのではないかと考えます。
本心をぶちまけた「糞の礼」が受け入れられず、むしろ正反対に理解されるに及び、つまり「語る」とは「騙る」ことでは、という認識をあらたにしました。
※蛇足ながら「普段は上手く喋れない人(俺のようなやつ)が文章を書くと饒舌だったりする」と言うけれども、どんなに現実に饒舌であってもその饒舌さが限りなく表面的なものであるという人間もいて、言葉は言葉で、言葉にならない心情は言葉にならない心情で、小説は小説で、現実は現実で、人間は人間で、自分は自分で、他人は他人で、すべて別のものだと思う。どこかで満足できない不満を自分の得意な場所で違う形で発散しているだけだろうと思う。
※※また三浦さんの解説(http://tanpen.jp/bbs/nbbs.cgi/temp:t/587)ですが、これは「書いているもの以上のものを生み出す」(http://tanpen.jp/bbs/nbbs.cgi/temp:tn21/504)というもので、翻車魚(http://tanpen.jp/bbs/nbbs.cgi/temp:t/588)さんの仰るとおり、「作品そのものよりも興味深」いものだろうと、口惜しく思っております。
「糞の礼」のテーマを一言で表すならば、「世界と、なぜかその世界から除外されている俺」で、ただ世界に関しては、「生の営み」といったあたりを暗喩するよう、解釈にゆらぎがでるように場面、表現の取捨選択を行なっております。「笹川さんが言う。/「しかたがないよな」/笹川さんの結婚相手は不妊症で子供がいない。」という箇所の理解は特に読者の感覚に任せています。その「生の営み」を、先に述べたように三浦さんのようにあそこまで具体的にイメージされるとは意想外で嬉しく思いました。
「書き慣れてしまい整理整頓されたものからいかに逸脱するべきか」という問題の中で、先月の「せぶんてぃ〜ん」(http://tanpen.jp/65/22.html)という作品は個人的に面白い優勝の仕方をしたと思っております。そもそも「せぶんてぃ〜ん」は「短編」サイト自体に対する嫌がらせを念頭において投稿したもので、非現実的なハーレム状態を作品内に構築することによってまず読者に不快感を与えることを第一意としたものでした。
通例の投稿作品は読者に快感を与えることを前提にして書かれたものが多い中、不快を目的として書かれた「せぶんてぃ〜ん」が優勝したことは、まずもってqbc自身の執筆態度自体が「逸脱」問題と関係してくるのではということを示唆しているように感じます。
すなわち読者に対してどのような気分、気持、態度で接するかということ自体を変容させることが逸脱の契機となるのではないか。
※「せぶんてぃ〜ん」は不快を与える目標だけではなく、決勝にてmakiebaさんからいただいた投票感想(http://tanpen.jp/vote/65/fin/22.html#date20080307-215111)の「途轍もなく現実的な物語として読まれるべき」というあたりが、書き手としての狙いに対して正鵠を射ていると思っております。東大和市一夫多妻男事件(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%B8%82%E4%B8%80%E5%A4%AB%E5%A4%9A%E5%A6%BB%E7%94%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)が私の中で布石としてありましたし、作中にて「おうちにいるだけでいいからね」という台詞を放った人物のモデルの落合祐里香は「ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD」(http://www.edge-records.jp/title/nemurenai/02yandere.php)にキャステイングされています。
たけやん(http://tanpen.jp/authors/52-7.html)さんに関しては、三浦さんの感想(http://tanpen.jp/vote/58/fin/16.html#date20070803-215250)にありました「俳諧」というキーワードを見、これで正解だろうと思いました。「俳諧」について私は語れるほど豊かではないのでコメントしづらいですが、とまれ、私なりに解釈すれば、くだらなく、つまらなく、どうでもよいことを、すばらしく独特に上品に表現することではないのかと思います。
※戦場ガ原蛇足ノ助(http://tanpen.jp/authors/9-10.html)さんからもそのにおいがかすかにするように私は思います。
※※ところで三浦さんの作品はいつも既存から「逸脱」しているかと思います。同じテーマに対して、数回にわたりアプローチすることもありますけれど。しかしご本人にとっての認識では違うのかもしれませんが。
※※※2000年頃のテキストサイト全盛期においては、「日常」を個性的な視点で捉えたどこにでもいる普通人の書いた文章が愛好されていたように思います。なにか大儀があるわけでもなく、理論があるわけでもなく、ただただ風変わりであること、物珍しいこと、愉快であること、を中心に据えた文章が。ゆえに短編初期参加者ほど、そういった文章を指向する書き手が多かったように思います。
長文失礼。
こんばんは。
解説ありがとうございます。
私があのように『糞の礼』を解釈したのも、「日帰り温泉」が舞台ということにまず引っかかったからでした。私は私小説と銘打ってあっても原則として完全なフィクションとして読むようにしているので、単純に私小説である可能性を考えていませんでした。
川野さんの場合「純粋に語ることそのものを目的として書いている」ように感じられるのに対して、qbcさんの場合「どのように語るかというその方法を目的として書いている」ように感じられ、そういう意味で、私にとっては川野さんとqbcさんは表と裏(裏と表)という印象があります。
私小説は、「作者が体験した出来事が書かれている」ということに支えられているというよりも、「作者が体験していない出来事が恰も体験したことのように書かれている可能性がある」ということに支えられているような気がします。普通のフィクションならその「可能性」は自明なこととして読者に意識されないことが多いですが、私小説はその「可能性」を常に意識させることができるという点で有利だなと思っています。というわけで「語る=騙る」ということに関して私小説は便利だなという思いがあるのですが、その便利さの中でいかにとんがれるか、という大問題も発生してくるだろうと思います。私は『港町では』を書いてこれは無理だなと感じたのですぐに諦めましたが、川野さんはその茨の道を歩んでいるという感じがしています。
『せぶんてぃ〜ん』が「不快を目的として書かれた」ものだとは思いもしませんでした。あれはどちらかというとハンニャさん的な快感を与えるほうの作品だと思っていましたので。
「くだらなく、つまらなく、どうでもよいことを、すばらしく独特に上品に表現する」ことが、私がゆくゆくは1000字でやりたいことなんだろうと思っています。私が理想とする「独特」に今のところ一番近いのが、たけやんさんの作品ということになります。
既存の(自分の)思考を逸脱することを目指して毎回投稿しているので、遅々として進まないとしか言い様がありません。