まず読んでくださった方に感謝申し上げます。
ありがとうございます。
> 海坂さま
山括弧と不等号の違いについては全く意識しておりませんでした。大変失礼いたしました。
国歌・国旗というと、過敏に反応なさる方がおられることは承知しております。しかし本作にそのような方を挑発する意図がないことは読み取っていただけるものと思います。
なお「特殊学級」について描くことが「相当な冒険」だとおっしゃるなら、第60期のqbc氏の作品
http://tanpen.jp/60/16.html
こそ非常にきわどい「冒険」でしょう(かの作品を拝読して私は気分が悪くなりました)。私は子どもたちの“特殊”性には重点を置かなかったつもりです。「舞台」が「特殊学級」とは記述していませんし。
「単純に『世界』という言葉に置き換えられている」と言われますが、狭義の「世界」をお考えなのでしょうか。もう少し広義に解釈していただければ幸いです。
> 匿名さま
挙げておられる「パーツ」をパーツとは考えておりませんでした。それほどまとまった、説明文のような文章にはなっていないと思います。ゆえにそれらが「結び付」いてはいないでしょうし、そのことによって「達意力が不足している」と言われれば反論の余地はありません。
どうも初めまして。何だか私が感想を書いたとたんに掲示板の動きがフリーズしたんじゃないかと思っていたんですけども、こうしてお話しできる機会があって嬉しく思います。
テクストには「作者の意図」と言うより、テクストそれ自体の示す方向性があると私は思うのですが、そういう観点からすると、この千文字の中に国歌・国旗の占める比重はやはり大きいと言わざるを得ません。個人の自己実現というか帰属意識というか、そういうものの対象として国家が扱われています。
確かに「世界」の意味にはゆれがあって、「愛ちゃんのように世界に行く」「お父さんのようにオーストラリアにサーフィンに行く」と言った場合は、明らかに国家の色はほとんど抜けています。ところがその直後にまた国歌斉唱で「世界を輝かしいものに」云々と来てラスト、というのはなんとも違和感があります。
どうもうまく説明できてない気がしますが、もう作品そのものから離れて勝手な話をしますと、国家というものは油断しているとこうして私たちの意識の中に潜り込もうとして来るものなんです。本来仮象であるものが、知らないうちに正当な位置を占めようとして狙っている。たとえばバレーにせよサッカーにせよ、子供たちが格好良いと見て憧れるのはまず選手一人ひとりの超人的な技であるのが自然だし、そうあってほしいと私は思うのです。
この作品でも、子供たちが真剣にバレーの練習をするシーンはたいへん魅力的に描かれていまして、それだけに、どうしてこの子たちは日の丸君が代をこんなに意識するのかなあと。
そしてさらに、その子たちは障碍者であるという設定によって、それらの〈夢〉がいっそう仮想のものとなるために、同じくフィクションである〈国家〉が馴染みよく見えてくるわけです。今思いつきましたけども、文学のフィクションを強くするために〈国家〉を道具立てとして使っているという意味で、三島由紀夫に似たものがあるかと思えます。
で、やはり私としてはそういう行き方は不健康じゃないかと思うわけです。障碍者を書いちゃいけないと言うのではなく、作者の実体験のあるなしを問うているのでもなく、創作意識の問題としてどうなんだろうかと。
いろいろ長々書き連ねましたが、結局は思想信条のバイアスという話になるのかも知れません。「国家国旗に過敏に反応する方」だと思って聞き流して下さればと思います。しかしこの辺の問題については、他の方の意見もぜひ聞いてみたい気がするのですが。
> 海坂さま
「テクストそれ自体の示す方向性」は、書き手よりも読み手、批評する人々(作品に意味づけをしていく人々)が示していくものだろうと考えています。書き手はどんなにがんばっても限界があります。それは本作についての海坂さまのご感想からも明らかなように。
ですから、読み手の中に「国歌・国旗の占める比重はやはり大きいと言わざるを得」ないとおっしゃる方がおられるのであれば、それはそれで書き手としては手の出しようのないところです。
せいぜい、書き手にはそんな意図はないけれどもそう読まれてしまうだろうことも覚悟した上で書きたいことを千字で書いたらそうなってしまった、とぶつぶつ言うくらいが関の山であります。
これは海坂さまの文章に対する私の感想ですが、国歌斉唱と「世界を輝かしいものに」という表現に、ある特定のつながりを読んでしまうことこそ恐ろしいと思います。敏感な方がいらっしゃるだろうと想像しながら、本当にいらっしゃることに、改めて驚いています。
> どうしてこの子たちは日の丸君が代をこんなに意識するのかなあ
という部分は少し首を傾げました。
そんなに意識しているように書いていないと思います。逆に無意識でしょう。この「国」について教育を受けているわけでもないのに無意識に、自然な範囲の愛国心というか、日本人としての自覚というか、そういうものを抱いているらしいことを「教員」は新鮮に感じたのでしょう。
余談ですが三島の政治色は独特ですね。政治結社をつくるほどですから。対比したりしたら三島に怒鳴られそうです。
海坂さまの中では、彼らの夢と国家とが、同程度の虚構なのですね。
「世界に行く」というのは子どもの表現ですから幼いものです。まさかワールドカップに出場することはできないでしょう。しかしさまざまな国の人と、彼らの望む手段で(バレーなり手紙なり何でも)自由に交流できる世の中にしておく義務が、大人にはあると「教員」は考えています。
子どもには、大人の想像を超える夢があるのだと思います。「教員」はその夢を実現する努力をしたいと思っているだけです。
個々の感想へのお礼を止めると言った矢先から感想書きまで止めてしまった黒田皐月です。発言しないならしないと徹底できず、意見を申し上げます。
三島由紀夫つながりで、未だ新たな仮面の構想はありません、ではなくて、三ヶ月前に初めて三島作品を読みました。『女方』。
海坂氏の二回の発言で二回とも言及のあった「左寄りのバイアス」、文壇に関わっておられる方は同じ「言葉」を用いる政治に対して敏感なのだろうかと思いました。氏のご意見はそのようなものであると読むべきではないかと、私は思います。
私の『<叶う>の反意語は<破れる>ではなく』の感想ですが、障害者がバレーボールの試合を通じて世界を垣間見たことに感動して自分もそこを目指す姿を中心に据えさらに教員の想いも描いた良作だと思いました。すべてが不可分であると思いますため、匿名氏の「結びつきが弱い」とのご意見には賛成できません。
議論は作品中の国歌の扱いのことですが、私は「バレーボール選手に付随しているもの」と読みました。世界を見せてくれた選手たちの一部であり、それを真似ることが憧れに近づくことだと主人公は信じているものだと読みました。だから、そこには国家観はないと思います。
「テクストそれ自体の示す方向性」については、作者の意図を伝えられる書き方を目指すべきだということでしょうか。確かに文章は、言葉とは即ち記号であり、意図を完全に包括させられないものです。ですが、海坂氏のご意見は、本当に「方向性」という言葉で論ずるべき事項なのでしょうか。作品中に国歌に関する言葉が、多かったと言えるでしょうか。私には「読み方」という言葉で論ずるべきことのようにしか思えません。
それから、作品感想から離れますが、ここまでの海坂氏の発言からは「彼らの夢と国家とが、同程度の虚構」とはとても思えません。ふたつの虚構性はまるで異質のものであると思われます。そうであればこそ、違和感を持ったのかもしれません。「国家の虚構性」については、国民のために国家があるのであり、それをすり替えて国家があるからこそ国民が存在できるとして本来は実体のない「国家」を実体のあるものにしようとする全体主義への反論と読みました。
まとまりのない発言ですが、最後にqbc氏の『少年たちは薔薇と百合を求めて』はまた異質なファンタジーで、同列に扱うべきものではないと思うことを申し上げまして、終わりにしたく思います。
投票数三票の決まりは早期に実行すべきだと思う、黒田皐月でした。
こんにちは。議論とまったく関係ないのですが、
〉三島由紀夫つながりで、未だ新たな仮面の構想はありません、ではなくて、三ヶ月前に初めて三島作品を読みました。『女方』。
という黒田さんの書込みに反応させてください。黒田さんが現代のアニメ系(? ←言葉足らずで申し訳ありません)だけではなく、古典への道を歩みはじめたことに注目しています。その独特の文体は今後の<読書>を通じてさらに深みを獲得することでしょう。楽しみにしてます。
〉まとまりのない発言ですが、最後にqbc氏の『少年たちは薔薇と百合を求めて』はまた異質なファンタジーで、同列に扱うべきものではないと思うことを申し上げまして、終わりにしたく思います。
qbcさんの『少年たちは薔薇と百合を求めて』に投票はしてませんが、それは私の好みの問題であって、作品として読み応えがあるーーというか、現代の雰囲気をうまくつかんでると思います。この点で同意見です。
話が広がってきていい具合だとひそかに喜んでいます。
〉三ヶ月前に初めて三島作品を読みました。『女方』。
私も三島には実はあんまり詳しくないんですよ。『潮騒』止まりですね。あああと『仮面の告白』もなんとなく読んだか。『金閣寺』と『禁色』と、豊饒の海四部作は、いつかきっと読みたいと思っています。
〉海坂氏の二回の発言で二回とも言及のあった「左寄りのバイアス」、文壇に関わっておられる方は同じ「言葉」を用いる政治に対して敏感なのだろうかと思いました。
関わってませんから(笑)。正確には、戦後文学に今さら感化された人ってことですね。
〉私の『<叶う>の反意語は<破れる>ではなく』の感想ですが、障害者がバレーボールの試合を通じて世界を垣間見たことに感動して自分もそこを目指す姿を中心に据えさらに教員の想いも描いた良作だと思いました。
私もそう思いました(ぉぃ)ただ、筆者があまりに無邪気というか、無邪気でなければ逆に底意があるんじゃないかいという気がしてならないのですね。また語弊がある言い方で申し訳ないと思いますが、現実にこの日本という国が、障碍者を初めとする弱者が生きやすいかどうか、と考えてみますと、決してそうは言えないと思うわけです。そういう中で、国家の象徴たる国旗国歌を、無垢なる子供たちに賛美させる、というのは一体どういう意味を持つかと考えざるを得ない。
ま、そこでラストの教員の科白が生きてくるという理屈もありますけども、やはりその辺は漠然と処理されていて、「自然な」愛国心の方だけが強調されているのではと私には見えました。
〉「テクストそれ自体の示す方向性」については、
この辺は私の書き方がわるくてうまく伝わらなかったようで申し訳ないです。要するに作者さん自身がどういう信条を持っているかは別にして、というつもりでした。そういう事を問い出すと、やはり現実と混同することになってよくない。
〉qbc氏の『少年たちは薔薇と百合を求めて』はまた異質なファンタジーで、同列に扱うべきものではない
これは私もまさに同感でありました。先の発言でこのことは言い忘れたなと思っていました。
qbc氏の作品について。
私は作品の質について言ったのではありません。ファンタジーであれば何でも許されるとは思えません。
まさに筆者の無邪気さからくるらしい表現、あるいは障害者(特殊学級)の扱い方に疑問を覚えたのみです。障害者を描く、扱うという意味では、海坂さまが問題として取り上げられても不思議ではないと思ったために敢えて触れました。海坂さまが
> 舞台を特殊学級に持っていったというのは相当な冒険
と書かれているからです。
素材の扱い方、描き方について(筆者の姿勢について)言うのであれば、作品ジャンルは関係ないはずです。ファンタジーかどうかの話になると問題がずれていきますので止めます。
最後に。
> 国旗国歌を、無垢なる子供たちに賛美させる
という海坂さまの発言。これがあなたのご意見を一言でまとめたものでしょう。この一言が本作を読んで出てくることに驚くしかありません。
「教員」が「賛美させ」ていますか。子どもが自然に歌い始めたものです。少なくとも本作では「教員」は子どもの国旗国歌受容に関与していません。
ここまで言われると、ではいったいどういう方法でなら「国旗国歌」を扱えるのかと別のことを考えはじめそうになります。
いい勉強になりました。
ご意見をくださった方々、ありがとうございました。
こんにちわ。qbcです。
「少年たちは薔薇と百合を求めて」という作品は、
>障害者(特殊学級)
を扱った作品ではありません。
この作品は、
人物の性格を端的に表す名前(【うちゅう】や【妖怪】)や設定をつけてお話を作ることにより、人間の姿が鮮明に浮かび上がるのではないか、
という意図のもとに書きました。
※従って【うちゅう】や【妖怪】といった人物は、本当に宇宙人や妖怪ではなく、また障害者でもありません。
ただ「特殊学級」というワードに関して、
私の配慮不足があったと反省しております。
作中の「特殊学級」は、単純に「特殊な学級」という意味で使用しました。
しかし現在の日本での「特殊学級」という言葉への認識を考えると、このワードの使用は避けるべきだったと反省しております。
作品を読んでご気分を悪くされたとのこと、たいへん申し訳ないです。
「海坂さまへ」というタイトルの記事に返信するなんて横レスもいいとこですが、他に適当なものがなかったので。
国家に関する描写について僕はほとんど気になりませんでした。それよりも、やはりどういうつもりで障害者を題材にしたのかなあというのが不思議でしょうがありません。
〉 「世界に行く」というのは子どもの表現ですから幼いものです。まさかワールドカップに出場することはできないでしょう。しかしさまざまな国の人と、彼らの望む手段で(バレーなり手紙なり何でも)自由に交流できる世の中にしておく義務が、大人にはあると「教員」は考えています。
〉 子どもには、大人の想像を超える夢があるのだと思います。「教員」はその夢を実現する努力をしたいと思っているだけです。
これが翻車魚さんの書こうとしていたことなのでしょうが、これを書くのに主人公が障害者である必要は全くありませんよね。こどもが夢を見るという点において、健常者も障害者も関係ありません。
ですから、「夢見るのがこどもの仕事、それが実現し得る世界を整備するのが大人の仕事」というありふれた(本当にありふれた)話を、「障害者」を登場させることで何か感動でも引き出そうとしたのだろうな、としか読めませんでした。24時間テレビと同じような居心地の悪さを感じました。
また、作者としては特に意識していなかったのかもしれませんが、
>「私は卓球で世界に行くんだ。愛ちゃんみたいに」
この部分がすっごく残酷だなあと思ってしまいました。車椅子の少女にサーフィンを夢見させるのはいくらなんでもなあ、と。
> 級友たちに「世界」が広がった。Gの真摯さが伝染したらしい。彼女たちにとって「世界」は遠くない。
>「私はサーフィン。お父さんが昔、オーストラリアでサーフィンしたんだって」
「さま」はちょっと居心地わるいなあと感じている海坂です。そろそろ筆名変えたい。
えーとまず、私が61期作品の感想を書いた時にはqbcさんの作品は未読でした。いささか不真面目な読者なものですから、この頃は全期全作品克明に読んでおりませんで、全感想書いてみたのも久しぶりでした。言われて初めて読んでみたというわけです。
〉 「教員」が「賛美させ」ていますか。子どもが自然に歌い始めたものです。少なくとも本作では「教員」は子どもの国旗国歌受容に関与していません。
ああいやそうではなくて、テクスト自体がそういう意識を持っているということです。確かに私のあの書き方では主語が明示されてなくてわかりにくいですね。
作品の中で、登場人物が何か行為をするわけですが、実際それを操っているのは「言葉」です。でさらに、その言葉を書きつけるのは作者であるわけですが、この作品内世界――テクスト――作者の三つの層は区別しないといけない。
今の場合で言うと、当然作中の「教員」は主導しておりませんが、この世界を表現するテクストが、子供たちにそういう事をやらせていると考えられます。
そして結局、それを書きつけた作者が、「国家の象徴たる国旗国歌を、無垢なる子供たちに賛美させ」たというわけですが、じゃ作者もそういう、日の丸君が代万歳みたいな思想を持っているのか、というと一般的にはそうはなりません。まさにそこが虚構の自由さといえます。
とは言うものの、今の場合、
〉 ここまで言われると、ではいったいどういう方法でなら「国旗国歌」を扱えるのかと別のことを考えはじめそうになります。
ということで、やはり作者さんは国旗国歌を扱いたかったんだなあと思った次第です。つまりこの作品の戦略は、作中にあからさまに子供たちを教唆する存在は出さずに、テクストの外側から、世界観を表現する道具として子供たちを操ったというわけです。ここで彼らが障碍者であるという設定がまた、別の感動を呼び起こして、国旗国歌の称揚から読者の目を逸らさせる効果があるわけです。
何やら悪意しか感じられないコメントになっていたら申し訳ないです。読者の感じ方なんて勝手なものです。
> qbc様
「特殊学級」は「特殊な学級」とは読めませんでした。「自閉する」という表現もありましたし。
今年度から日本では特殊学級ではなく特別支援学級と名称を変えていますが、もともと法律で使われる用語ですから。
もしおっしゃるような筆者独自の世界観を描きたいのなら、造語をつくるなり、世間一般に流通していない語を使うなり、他の方法をとるべきだと思いました。
> もぐら様
記事件名はもちろん便宜上のものですのでお気になさらないでください。
私が障害者を描こうとした意図は単純明快です。「私が望むような障害者観による作品がないから」です。
車椅子に乗っている子にとってサーフィンをしたいと思うことが残酷(つまり、叶うはずのないことという意味なのでしょう)と切って捨てるような方がいるから、あえて書こうと思うのです。
書き手から読み手への問題提起と捉えてくださって結構です。
24時間TVのように、万人が感動できるよう操作したつもりはありません。私の感覚では、そう簡単に感動などできません。「教員」の決意は相当に厳しい未来を示唆していると思います。解決のめどの立たない問題へ首をつっこんでいるわけですから。
「こどもが夢を見るという点において、健常者も障害者も関係」ない、というのは、おっしゃるとおりだと思います。しかし現実にそうなっているでしょうか?「車椅子の少女にサーフィンを夢見させるのはいくらなんでも」と切られてしまう世の中なのです。実に象徴的な一文です。
今回いただいたご感想には、それぞれの方の、問題への考え方が如実に顕れています。そのご意見・ご感想が提出されたことで、本作を発表した意義が高められたと思います。
読んでくださっただけではなく、考えを提示してくださった方には、深く御礼申しあげます。
> 海坂様
敬称、漢字表記ならお許しいただけるでしょうか。
国旗国歌について書きたいとは思いません。ただ、書くまいと思うこともなかろうというだけのことです。
テクストの方向性について、おっしゃることは理解しているつもりです。本作品に、海坂様が懸念されるような方向性はないと私は考えます。あなたの批評文こそが作品をそのような方向へ導く力を持つのだと思います。
議論がだんだん作品そのものと離れていっていますが、まあせっかくなので。
〉 車椅子に乗っている子にとってサーフィンをしたいと思うことが残酷(つまり、叶うはずのないことという意味なのでしょう)と切って捨てるような方がいるから、あえて書こうと思うのです。
社会的な問題と肉体的な問題を混同されているようですが、足が不自由な人がサーフィンをすることは不可能です。それは肉体的な問題であって、切って捨てるも何も、どうしようもない事実です。あるいは、足が不自由な人用に改良したサーフィン用具を作れば、とも思うかもしれませんが、それは少女が夢見た「サーフィン」とは別物ですよね。
そもそも僕が残酷だと言ったのは、「少女が夢を見ること」それ自体に対してではなく、それを描いた作者さんに対して言ったのです。実現不可能な夢を少女に語らせて、その後の葛藤も苦悩も受容も、なにひとつ描かない投げっぱなしに対して残酷だと思ったわけです。
(海坂さんの言葉を借りれば、これもまた「テクストの指向性」ということになるのですね。あの記事はとても簡潔にまとまっていて参考になりました。)
〉 「こどもが夢を見るという点において、健常者も障害者も関係」ない、というのは、おっしゃるとおりだと思います。しかし現実にそうなっているでしょうか?
現実の世界では、誰もが限定された自由の中で未来の選択を迫られています。障害者においては、肉体的問題から、その自由の枠組みが一段狭まっている、ということは既に述べました。しかし、こどもの時代には、自由の枠組みなんて無視して(または無自覚に)好きな夢を見ることができるのです。そういう意味で僕は「こどもが夢を見るという点において、健常者も障害者も関係」ないと書きました。
翻車魚さんがどの程度この問題について考えているのかはわかりません。しかし、残念ながら、「私が望むような障害者観」というのが一体何なのかほとんど見えてこないなあという感想を持ちました。
> もぐら様
私の考える障害者観について伝わらない方に、これ以上なにを申し上げる必要もありません。一つの評価として受け留めます。
ただ、
> 少女が夢見た「サーフィン」とは別物
について一言だけ。
「少女が夢見たサーフィン」がどんなものであるかなんて、誰にもわかりません。作品中に表現されていないのですから。どんな想像をされてもご自由ではありますが。しかし「少女が夢見たサーフィン」を具体的に捉えようとする考え方では、建設的な未来はないのでしょうね。
社会的な問題も肉体的な問題も、混同するもなにも、関係しあっている、不可分であると私は考えております。
私の考え(障害者観を含め)について具体的にご説明する場ではないと思いますので、これでご返答とさせていただきます。
はじめまして、長月です。
〉 私の考え(障害者観を含め)について具体的にご説明する場ではないと思いますので、これでご返答とさせていただきます。
できたらお聞かせ願いますか?
翻車魚さんの作品、何度も拝読させていただきましたが
作品の意図がどうもつかめないのです。
1000字というのは非常に難しい舞台です。
私が書くような単純で簡単な世界観なら、字ずらのまま読んで、それだけしかないような作品なんですが
翻車魚さんの作品はまずその背景から、そして演出から鑑みてぶれの少ない固定した核を伝えたいのだなという感を受けます。
しかしそれがでは一体何なのかがわからず、ざらついた違和感を覚えます。
翻車魚さんに内在する障害者観というものがポイントであるなら
一読者としてお聞かせいただければ幸いです。
一人の子の親として、この教室の風景はいささか気になるところがあるんです。
またqbcさんの作品では、私、登場人物は本当に「宇宙人」「妖怪」なのかと思いました。そのまま読んでしまいました。そういう特殊な人々を集めた特殊学級なのだなと思って読みました。
私は障害児の学級を特殊学級とおそわった記憶がありませんので(確か養護学級。でもこれは学校内正式名称で普段は一番最後の学級で呼んでました。例えば普通学級が7組までなら8組と言った具合)そういう風に取れるものなのかとかえって驚きました。
「自閉する」という言葉も自閉症を意味しているとは読めず(Shutting from the skyという歌もあるし)世の中のずれというものを感じました。
その「ずれ」のようなものが翻車魚さんの障害者観の一つなのかもしれませんがいかがでしょう?
> 長月様
障害者観というほど大袈裟ではないのですが、私の意図はごく単純なことです。
障害があろうがなかろうが、誰とでも同じように生きていけること。それを目指していきたいということです。
現実にはあまり達成されていないこの目標を、作品では達成させていきたい。
今回はごく普通の一場面を書いたつもりです。でもこれは「ごく普通」ではないのだと、さまざまなご感想から感じました。
障害者に夢を見させるのは残酷だという意見がありました。しかし子どもの夢を、大人は「ありえない」こととして切り捨てていくものでしょうか。
子どものころにプロのスポーツ選手を夢みて、叶う人はほんの一握り。それを「ありえない」から夢を見るなと言えるでしょうか。別の形(プロではない場など)で叶えたり、夢みた気持ちを糧に生きたりするのでしょう。
障害があってもなくてもそれは同じ。でも障害があるのだから「残酷」と思う人がいる。違和感を抱く人がいる。
そういう方に、「ごく普通」に読んでいただけないかと思って提出しました。
私の望む障害者像が描かれていない、というのは、障害者を描くときには「ある特別なもの」「普通とは違う異質なもの」を象徴させる場合が多いからです(qbc氏の作品も同様と考えました)。障害者も健常者もともにある空間を「普通のこと」として描きたいと私は思ったのです。
qbc氏の作品について。
「特殊学級」については先にも述べました。
「自閉する」は「Shut」ではなく「autism(自閉症)」。挙げておられる歌では「閉所恐怖症」という語がその後にくるようですね。
自閉症は単に「閉じる」のとは違います。訳語のため日本人には本来意味するものと違う印象で受け取られがちなようです。
他のものを描写して「自閉する」という表現が使われたのなら私も何も思わないかもしれませんが「特殊学級」と並べて使われると、障害者を象徴的に描いたものと捉えてしまいます。ちなみに自閉症やその傾向がある場合は特別支援学級のうち情緒障害学級に在籍することが多いでしょう。
現実の問題として、最近は解体傾向にあるコロニーや、施設も想起しました。障害者は歴史的に人気のないところへ追いやられたり隠されたりしてきました。
学級の便宜上の呼び名はいろいろあります。実務学級と呼んでいるのを見たことがあります。小学校では植物の名前などをよく目にします。特別支援学級は障害別に設置されるので学年をまたいで生徒が在籍することが多いのです。
いずれにしても法律上は特別支援学級(旧・特殊学級)と書きます。
彼の作品は小説というより戯曲のような形式で書かれており、「文章」というよりは「設定」「説明」のように読めて、より具体的に印象づけられてしまいました。レトリックではなく、まさに私も「そのまま読ん」だのです。
なかなか伝わらないようで、自分の文章力のなさにほとほと呆れます。
〉 障害があろうがなかろうが、誰とでも同じように生きていけること。それを目指していきたいということです。
〉 現実にはあまり達成されていないこの目標を、作品では達成させていきたい。
〉 今回はごく普通の一場面を書いたつもりです。
「誰とでも同じように生きていけることを目指すこと」が目標ということでしょうか。それだったら、既に誰もがそう望んでいると思います。「誰とでも同じように生きていけること」が目標なのだとしたら、現実においてまだ達成されていませんし、この作品中でも達成されていませんね。
〉 障害者に夢を見させるのは残酷だという意見がありました。しかし子どもの夢を、大人は「ありえない」こととして切り捨てていくものでしょうか。
前回のレスでも書きましたが、こどもが夢を見ること自体はごく自然なことだと思います。しかし、叶わないことがわかっていながら夢を見るように誘導する行為はどうなのでしょう。夢を見させたことに対して責任が取れるのでしょうか。
〉 子どものころにプロのスポーツ選手を夢みて、叶う人はほんの一握り。それを「ありえない」から夢を見るなと言えるでしょうか。別の形(プロではない場など)で叶えたり、夢みた気持ちを糧に生きたりするのでしょう。
〉 障害があってもなくてもそれは同じ。
同じではありません。歩けない人が50m走のオリンピック選手になることは残念ながら無理です。どうやらこの「同じではない」という単語に過剰反応されているようですが、その人が歩けるようになるかどうかは純粋に肉体的(医学的)問題であって、「社会」とはほとんど関係ありません。つまり、障害者であるという問題の核には肉体的問題があって、それを治すことが唯一の根本療法なわけです。で、現在の医学では治せない、という時点で、ようやく「社会」が出てくるわけですね。つまり社会的問題を解決するという行為は対症療法なわけです。この二つの問題点はもちろん互いに関係しあっていますが、不可分というほど複雑に絡み合っているわけではありません。
何が言いたいかというと、「障害者も健常者も同じように生きられる」ことを実現するには大きくわけて二つのアプローチがあるということです。また、一言で「肉体的問題」「社会的問題」と言っても、その中はさらにいくつかの問題に細分化することができます。何故そんなに細かくわけるかというと、それぞれの問題に対して別個にアプローチされてるからなんですね。肉体的問題で言えば、治療法の研究、手術療法、投薬療法、リハビリ(も更に細かく言えば物理療法、作業療法など)といったようなことが挙げられます。
もちろん、それらの問題を総括的に捉えることは重要ですが、そのためにも、まず問題点をそれぞれ明確にしていく必要があるわけです。問題が不可分だと言って、おぼろげな全体像だけを追いかけても何もできないのです。
同様に、
>しかし「少女が夢見たサーフィン」を具体的に捉えようとする考え方では、建設的な未来はないのでしょうね。
と書かれていますが、この少女の夢を具体的に捉えることは非常に重要なわけです。二本足でボードの上に立って波に乗りたいのか、ただ波に浮かぶことがしたいのか、夢を具体的に把握した上で、少女の現在の状況と照らし合わせて最善のサポートを尽くすことが建設的な未来と言えるでしょう。
この少女の夢に関して、翻車魚さんは
>「少女が夢見たサーフィン」がどんなものであるかなんて、誰にもわかりません。作品中に表現されていないのですから。
と書かれていますが、作品中には
>お父さんが昔、オーストラリアでサーフィンしたんだって
とキーワードがしっかり提示されています。また、他の二人の少女の夢が「テレビのバレー」や「愛ちゃん」のように「自分の足で立って」活躍する選手に憧れているという内容であるため、この少女も同様に「自分の足で立って」サーフィンに乗る夢を見ているのだと判断しました。読者としては、このように作中に書かれている言葉を元に読み取っていくしかないので、翻車魚さんが意図した内容と異なるかもしれません。だとすればそれは僕の読解力が悪いのであって、もっと精進しないといけないと思いました。
おそらく、翻車魚さんはまだ何となく「障害者も健常者も同じように生きていけたらいいなあ」という理想を思い浮かべたに過ぎない状態だと思います。ですから、「同じではない」「残酷」「違和感」など、その理想と相反する要素を持つ単語に対して過剰に反応してしまっているのではないでしょうか。
>もぐら様
「誰とでも」より「誰でも」のほうがよいようです。失礼しました。
「誰でもが同じように生きていけること」が目標です。漠然としていますから、すぐに達成できるものではありませんし、本作のみで達成しようとするはずもありません。そのような考え方で書き継いでいく、というだけにすぎません。当然ですが。
「既に誰もが望んでいる」とおっしゃいますが、私はそうは思っていません。望みの内容は違うでしょうから。
> 夢を見るように誘導する行為
は作品中のどの部分を指すのかわかりません。
サーフィンの例を挙げておられますが、文中の少女が具体的にどういう夢を見たかを追求することを本作では目指していないということです。
夢を抱く子どもは具体的にイメージしていないことも多いと思います。スポーツをするのに必要な能力を、はじめから具体的に考えられる子ばかりではないでしょう。だからそこを書く必要は、本作ではないと考えています。具体的な(PTやOTの)サポートを事細かにイメージしていただく必要を感じません。
たとえばサーフィンの例を実際の問題として考えると。子どもには、父親が楽しい思い出として語った経験を、自分も共有したいという願いが強いと思います。ならば実は「サーフィン」と固定する必要がなくなってくるのです。
障害があっても「こんなことは無理だ」と決めつけずに、自由に他者に話せる雰囲気を書こうとしました。これまでの文学作品では、そういうことに気をつけられたものがないと感じています。先に書いたように障害者の特殊性が扱われることが多いと思っています。障害者だから感動した、というように。
夢を受けとめた上で、その夢のためにどんな手伝いができるかを考える、という順序が、私にとっては基本です。
健常者に近づこうとすると限界があり、健常者と全く同じになることはほぼ不可能と言えます。原則として治らないものを「障害」と呼ぶのですから。
理想は、障害があっても治療なんかせずに健常者とともに生きられることです。障害者=少数者、健常者=多数者で、社会は多数者に便利なようにできています。そこを見直してもいいと思っています。
> キーワードがしっかり提示されています
キーワードは、読者が読み取るものですから、そのことについては何も申し上げられません。しかし書き手としては意図しておりません。
もぐら様のおっしゃることは理解しているつもりです。むしろ私の意図が伝わらないのでしょう。それはそれで仕方のないことです。問題の捉え方が根本から違うのですから。ここですり合わせる必要を感じていません。違う考え方を提出し合えばそれで充分だと思います。
曲名についてわざわざお調べいただいて恐縮です。
私が障害児と教室を同じくしたのは、おそらく小学校のみだと記憶しています。
障害のある彼と共に生きるには、私たちが多くの手を差し伸べなければならないこと、我慢強くあらねばならないこと、言葉にならぬ思いをくみ上げなくてはならないこと。教室ではそういったことを、経験的に学ぶことができました。それをごく普通の教室の風景と認識している時、今回のこの作品の風景を「ごく普通」と思うことはとても難しいと思います。
いってみればファンタジーです。障害児と先生だけの教室を想像するのは非常に難しい。養護学級では実際どんな授業であったか私たちは知る由もないし、障害児のいる風景として思い出せるのは、やはり私たちと障害児と先生という集団なのですから。
そこでは私たちは彼に遠慮するし、言ってはいけない事をやってはいけない事を頭で計算しながら接していたように思います。
だからこそ、この作品の端々に見られる「ごく普通」と思われる描写に、これでいいのだろうかという疑念が浮かび上がってきてしまうのだろうと思います。微妙な問題を生じさせる国歌斉唱もからんできて、不可思議な作品という印象を与えてしまうのかもしれません。
教育テレビで、筋肉が萎縮していく病気の少女とクラスメートのかかわりを放送したのを思い出しました。(娘が騒ぐので最後まで見れませんでしたが)彼女はしゃべることができないので、パソコンで言葉を打ち込んで(手ではなかったような気がします)それをパソコンに発声させているんですが、給食の終わりのときに皆と一緒に「ごちそうさま」が言いたいと学級会で提案します。彼女は飲み込むことができないので、口に入れて噛んで吐き出す事が給食時間にしていることなんですが、タイミングが合わず、なかなか「ごちそうさま」ができません。 クラスメートも一生懸命考えて提案していろいろ試すのですがうまくいきません。最終的には「いちにのさんはい!」のような掛声でタイミングを合わそうという提案が通ったのですが、彼女は納得しません。そういうことは抜きで、一緒に自然に「ごちそうさま」が言いたいというんです。そこで生徒の一人が言います。「それは○○ちゃんのわがままなんじゃないんですか?」
私が見たのはそこまでです。これからどうやってこのクラスがこの問題を乗り越えていったのかはわかりません。
この子の言葉や今回の作品に対応する術をもたないのは「想像力を欠いた狭量さ非寛容さ」がやはり私の側にもあるからかも知れません。
取り留めのない文章になってしまいましたが、翻車魚さんの障害者観をうかがっての私の、今作品に対する感想とさせてください。