初めに。本投稿は第58期全作品の感想ではありません。
今期の黒田皐月は、思ったときに思ったことを投稿しようと考えております。そしてそれに否定の方向性を持たせて行おうと思っております。
その最初の矛先は、『線形虚構の解体(おためし版)』。なぜならば、前期の作品を面白くなかったと言ったのが私だから。
最初に言っておく。この作品が作品として存在していることは、それはそれで一種の挑戦として評価しておきたい。この内容が例えば掲示板に投稿されたとすれば、それはただの言い訳に過ぎず、見苦しいものでしかなくなるだろう。
その内容であるが、これは読者に、ある、と言うよりも作者の理想とする読み方を強要しているようにも見える。「虚実を重ねて読む」ということは、ある作品に対して複数の見方で読むことを薦めていることではあるが、それはそれが可能である力を持つ読者は是非試みるべきことなのだろうが、すべての読者に要求すべきことではないはずである。このことが本作品の前提条件として挙げられており、それは私には承服できかねることであったため、それだけで私は本作品を好きにはなれなかったのである。
次に第二段落であるが、ディレンマに陥れることによって連作の関係性を想像させることにこの作品群の意義があると言う。しかし、前三作に決定的な矛盾があっただろうか。どれが作者の本当の姿だろうかと疑わせることができていただろうか。三作は並列ではなく、どれかがどれかを内包するようなものになっていただろうか。私は、否であると思った。
第三段落は、読者ごとの読み方があることを認め、それによって階層性は目に見てわかるようなものではなくなると言う。このことを、読者の感想を作者が取り入れることによって、後発の作品に反映させたときに、作品群がより複雑な色彩を帯びることは、正しいと思われる。ただし、ひとつの視点しか持てない読者を切り捨てる結果になる危険性も孕むことになるかもしれない。
そしてその次、面白くなかったという意見に対して、それはメタ化あるいはネタ化が上手くいかなかったためと言う。それを言ったのは私であるが、その理由はそこまで高尚なものではなかったつもりである。ただ単純に、ひとつのネタとして斬新さを持つほどのものではなかったと、それだけのことを言いたかったのに過ぎなかった。
最終段落と言うよりも最後の括弧書きに、作品群がまだ続くことがほのめかされている。<うんこ三部作>がそうであったように、作品群としての面白さも併せ持つことになることを期待して、本作品の感想を締めたいと思う。
次に意見を述べておきたいのは、7月14日14時30分の白紙投票にある感想について。
短編に大切なことを「オチ」「スピード」「意外性」と明示したが、大切なことがそれでなくてはならないとは、私には思えない。
例えが漫画になってしまうことが口惜しくもあるが、ストーリー漫画と四コマ漫画とイラストでは、求められる要素は異なると思う。それぞれの中でも求められることは作品によって異なるとも言えてしまうが、挙げられた三つは四コマ漫画で求められるものではないだろうか。それに対して短編小説には、ストーリー漫画のような作品も、イラストのような作品も存在している。例えば、最近十期で私が名作として挙げたい作品に『回送』や『筒井筒』などがあるが、これらの作品には少なくとも「オチ」の要素を求めるべきものではないと思われる。
後段の主張にもある、評価側も目を養う必要があるということは、偽りのない事実である。ただし、『短編』は作家にしても評価者にしてもプロ集団ではない。そうであるため、評価側の目を養うために必要なものは、より多くの評価ではないだろうか。他の作品と並べられることによって作家に得られるものがあることと同様に、他の評価と並べられることによって評価者が得るものはあると、私は思うのである。
―――言うだけならば、簡単だ。
最初に、先の投稿で曠野氏の作品の題名を間違えて書いたことを、お詫び申し上げます。
否定をすべてに対して貫くこともなかなか難しく、とりあえずそういった方向性を持った感想だけを先に挙げてみようと思います。それはつまるところ、全作品の観想を小出しにすることに過ぎないような気もします。
選出基準にぶれがあるかもしれませんが、このような感じで。
#3 枕の下にある枕
これだけでは足りない。その後枕と主人公がどうなったのか、あるいはどう思ったかが、この物語には必要だと私は思う。思うのであるが、さて同程度の字数で私が投票した『僕と猫』と比べてどう違うのかと問われると、なかなか難しい。
ところで、人間の作り出した道具に使われる想像というのは、扱いが難しいものだと私は思う。それならばあれはこれはそれは、とそう考えなければならなくなると思うからである。そう書いているうちに思いついたのだが、あの後主人公が他の何かに思いを馳せても良かったのかもしれない。
qbc氏の感想を読んでから思いついたことなのが、「突然、きつい調子の声が鼓膜を打った」の表現に、「枕元で」もしくは「耳元で」の言葉があると良いと思った。
#4 スペース・リビドー
『灰人』とは、『廃人』のことなのか、はたまた『灰燼』のことなのか。この種のペンネームは一時の思いつきでつけるべきものではないだろう。違う作風のものを描きたくなったときに足枷になりかねないと、私は思う。
さてなぜペンネームに難癖をつけたかというと、黒田皐月はこの種の作品にはほとんどの場合批評を下さないため、お茶を濁しておきたかったからである。一言だけ言うとすれば、漢字の使い方がわからなかった。
#5 贖罪
言ってしまえば毎回良くわからないのであるが、本作が最もわからないように思える。雰囲気はいつもの調子であるが、本作の後半は論理が乱れてしまっているようにしか思えなかった。なぜそう思ったかと言えば、「連中のことなんかほうっておこう」と言いながら、最後には「闘うんだ」として、それは連中に対してではないのかもしれないが、何かと向き合うことを言っているからである。
「脳内の電気信号が一方向にしか流れない、それが本当の病気なんだ」の言葉は面白いと思った。それは受信方向がないこと、即ち他者からの干渉を受け付けない、自分だけのことしか考えていないことを常套ではない言葉で表現しているものである。
#7 宝の部屋
不毛から砂漠、砂漠から砂、砂から砂時計の連想なのだろうか。それにしても砂時計の中の砂の量を変えてしまえばそれは時計としての機能を失ってしまうのだから、「砂時計の中の砂時計を満たす」の心情描写は適切なものなのだろうか。
ひとりの空間から他人との接点をもって安らかに眠るという展開は悪くはないと思う。ただしかし、その転換の手段がミサイルである必要はない。隕石の飛来でも火山の噴火でも地震の発生でも、人為的ではないもので十分だと思う。それから、「ついに僕は自分の世界から出れなくなった」の表現はいかがなものだろうか。それ以前からも、自分の世界から出ることなど、していなかったようにしか見えないのであるが。
#8 4minites silence
『短編』で連作は、少なくとも最近ではあまり見られないと、宇加谷氏の作品を連作とは異なる作品群だと考えている私は、そう思う。どこが異なるのかと問われれば、単品での評価が可能であるかという点だろう。
ところで、気がつくと主人公の周りには幾人もの脇役たちが登場している。彼らの間に関係はあるのだろうか、それが今後の展開の鍵となりそうに思える。
#10 例えば千字で刹那を
それで、現在の人類が捉えている最小の時間がどの程度であるのか、そしてそれはいかなる計測方法を用いたものであるのか、実は調べていない。例えは、決して良くなかったであろう。
テーマとしては永遠の方が簡単だったように思う。それに、「刹那」という言葉は、あるいはその漢字は、観念的なものであるように見えるのである。
#11 男たちのヤマト
何なのだろうかと思われたこの作品の中で異彩を放っているのは、題名にもあることでもあり異彩を持たせることを意図しているのではあろうが、最後の一文である。さてこれが何であるのか、あまり変な方向に期待してはいけないだろう。
ところで、電話番号は九桁ですか。
#12 ジョー淀川vs峰よしお
最初の第二文と第三文がハンニャ節だと思った。だが、その後がついてきていない。ジョー淀川の最初の一声が、やさぐれ編集者とは思えない台詞になっている。だがそれもまた、狙ってそうしているものなのかもしれない。しかしそうであるならば、突き飛ばされた後の豹変の瞬間をもう少し丁寧に描くべきではなかっただろうかと思う。
#17 松の木のおじさん
おじさんが折ってしまった松の木に戻ってきたことと名付け親が「弟子にしてください!」と言ったことの動機がわからない。そのことがこの物語で最も重要なことであるはずなのだが、それがわからなかったので感想が言えず、残念に思う。
#20 Dreamer
緩和とは何だろう、緩慢ではいけないのだろうか。
情景描写、その行動の動機は何ひとつわからない。わからせる必要のある種の物語ではないと言えばそれまでだが、何ひとつ意味がわからない。
死んだ男に対して「男の断りなしに勝手に見当をつけた」という物言いは、面白かったと思う。どんな人物に対してでも使えるものではないが、参考にして良いと私は思う。
#23 くろぐろとうろこを
るるるぶ☆どっくちゃん氏の作品で何が本当で何が嘘かを考察することは、無駄かもしれない。せめて、美しいのか醜いのか、希望なのか絶望なのか、それくらいは知りたいのだが、ほとんどの場合それもままならない。
#24 線的虚構の解体(おためし版)
私は第45期以前の作品のほとんどすべてを読んでいないが、実は例外的に件の『第10期感想一番乗り』は読んでいた。あの作品は、あの時期のあの雰囲気(私は当時は『短編』に参加していなかったので、より正確に言うならば当時の掲示板の内容から私が推測した雰囲気)の中でしかありえない作品であり、普遍的に良い存在ではないと、今の私は思うのである。だから、普遍的に良い、メタ化によるネタは、自分で作りあげるしかない。それを成し得るか否かは、これからの纏め上げが勝負である。
作品中に他の方の名前を使用することに、許可はもらっているのかしら。それこそあの時期のあの雰囲気でしかありえないと思うのだが。
―――破壊は、創造よりもはるかに容易である。
無視されると思っていたので、お返事があり誠に感動しております。
プロの作家の一般的な形で慣れ親しんできた私にとっては、オチのない作品はどうも不安定な気分になってしまうのです。ですが、プロを目指している方々がいないのであれば、オチ云々は確かに野暮です。こういう世界もありです。プロを目指さないのであれば。
ですが、気になる「美しい」とか「綺麗だ」という感想は、小説に向けられたものではありません。これは、大自然の産物や風景に対する感嘆符です。小説というのはその大自然の産物や風景を見た作者の主観が入って然りです。主観つまりテーマ。確かに「オチ」「スピード」「意外性」を抜きにしても物語は伝わります。しかし、このテーマだけは欠かせない。テーマがない作品、テーマに気づかすことが出来ない作品は小説ではありません。ただの文章の羅列です。そしてそのテーマを読み手により的確に伝える要素として「オチ」「スピード」「意外性」をあげました。
自分に意味が分からないから、それはすばらしいんだという短絡的思考はなしです。
相対性理論は本当にすばらしいですか? そう思い込んでいるだけではありませんか? 以上です。
宣言をしておきながら手詰まり感がありましたので、変な題名で転機を自作自演。批評とは、肯定だけに非ず、否定だけでも非ず。故に、批判を無視することは、是に非ず。
〉 無視されると思っていたので、お返事があり誠に感動しております。
投票で、ご意見を意識しているといったものもありましたことから、それを読んだ方は各自それぞれに受け止めているかと思います。それを掲示板に載せたのが、偶然に私だったと、そういうことかと思っております。
〉 プロの作家の一般的な形で慣れ親しんできた私にとっては、オチのない作品はどうも不安定な気分になってしまうのです。ですが、プロを目指している方々がいないのであれば、オチ云々は確かに野暮です。こういう世界もありです。プロを目指さないのであれば。
プロとアマと指向が異なるべきなのか、根源的には同じであると思いますが、違うところもあるのかもしれません。プロでないからこういう世界もあり、とは、異なる見地からすれば、プロがやらない裾野にアマがいるとも言えるでしょう。もっともこれは、黒田皐月の同人漫画に対する見解ですが。
かく言う黒田皐月は、プロ指向ではありません。
〉 ですが、気になる「美しい」とか「綺麗だ」という感想は、小説に向けられたものではありません。これは、大自然の産物や風景に対する感嘆符です。小説というのはその大自然の産物や風景を見た作者の主観が入って然りです。
追体験に「美しい」などとという言葉を用いて良いか否かという議論かと思いますが、「美しい」が個々人の感覚によるものであり、このことも感覚的なことであると私は考えますので、絶対的な答えはないかと思います。
〉 主観つまりテーマ。確かに「オチ」「スピード」「意外性」を抜きにしても物語は伝わります。しかし、このテーマだけは欠かせない。テーマがない作品、テーマに気づかすことが出来ない作品は小説ではありません。ただの文章の羅列です。
これについては貴見のとおりかと。
しかし、それを満たさないものでも他人に見てもらいたいという欲求が実現される、悪く言えば実現されてしまうのが、ネット世界に代表されるような現代社会の姿かと、私は思うのです。と、それはきれいごとで、そうあって欲しい。
〉 自分に意味が分からないから、それはすばらしいんだという短絡的思考はなしです。
〉 相対性理論は本当にすばらしいですか? そう思い込んでいるだけではありませんか?
正に。そちら方面の成り損ないとしては特に耳の痛い言葉。
考えることを放棄してはいけないということ。
さて完結している意見にコメントをして何の意味があるのかは実は考えていない、黒田皐月でした。
タンソさんはじめまして、qbcです。
タンソさんのおっしゃられる、
>テーマを読み手により的確に伝える要素として「オチ」「スピード」「意外性」をあげました。
という部分にはとても納得します。
ところで、よく私は書く上で悩むのですが、
プロの書いた1000字小説というのを、
あまり読んだことがありません。
そもそも作品数じたいが少ないとは
思うのですが。
今後の参考と、興味のために、
プロの書いた1000字小説をタンソさんが
ご存知であれば、たいへんお手数を
おかけしますが、お教え願えないでしょうか?
発言の趣旨と関係の薄いご質問で、
申し訳ありません。
〉ところで、よく私は書く上で悩むのですが、
〉プロの書いた1000字小説というのを、
〉あまり読んだことがありません。
〉そもそも作品数じたいが少ないとは
〉思うのですが。
〉
〉今後の参考と、興味のために、
〉プロの書いた1000字小説をタンソさんが
〉ご存知であれば、たいへんお手数を
〉おかけしますが、お教え願えないでしょうか?
プロ作品でもなく、千字でもなく、そもそも小説でもないのですが、詩投稿サイト『文学極道』が、あるいはご参考になるかもしれないと思い、報告します次第です。
詩と小説は異なるものですが、中には物語のような作品もあるように見受けられました。分量としては、文字数を数えてはいませんが、感覚として千字程度かそれ以上のものが多いように思いました。
このサイトの最も恐ろしいところは、「批判上等!」の風土です。私の実力をはるかに超えているためそのレベルを見極めることはできないのですが、恐らく『短編』に投稿されている作品のうちの相当数は歯牙にもかけられないかと思われます。
題名どおり、三度程度サイトを流し読みしただけでしかないくせに発言してしまう、そんな黒田皐月でした。
黒田さん
早速の返信、ありがとうございます。
私もざっくりと読ませていただきました。
しかしながら、黒田さんのおっしゃるとおり、
サイトにも「詩を発表する場」とありますし、
私が求めているものとは違うように感じました。
「プロの書いた1000字小説」を
教えていただけるとありがたいです。
〉〉ところで、よく私は書く上で悩むのですが、
〉〉プロの書いた1000字小説というのを、
〉〉あまり読んだことがありません。
〉〉そもそも作品数じたいが少ないとは
〉〉思うのですが。
〉〉
〉〉今後の参考と、興味のために、
〉〉プロの書いた1000字小説をタンソさんが
〉〉ご存知であれば、たいへんお手数を
〉〉おかけしますが、お教え願えないでしょうか?
〉
〉プロ作品でもなく、千字でもなく、そもそも小説でもないのですが、詩投稿サイト『文学極道』が、あるいはご参考になるかもしれないと思い、報告します次第です。
〉詩と小説は異なるものですが、中には物語のような作品もあるように見受けられました。分量としては、文字数を数えてはいませんが、感覚として千字程度かそれ以上のものが多いように思いました。
〉このサイトの最も恐ろしいところは、「批判上等!」の風土です。私の実力をはるかに超えているためそのレベルを見極めることはできないのですが、恐らく『短編』に投稿されている作品のうちの相当数は歯牙にもかけられないかと思われます。
〉
〉題名どおり、三度程度サイトを流し読みしただけでしかないくせに発言してしまう、そんな黒田皐月でした。
タンソさん、はじめまして。
〉 プロの作家の一般的な形で慣れ親しんできた私にとっては、
〉プロを目指している方々がいないのであれば、オチ云々は確かに野暮です。
〉プロを目指さないのであれば。
・・・・・・とありますが、ちなみにタンソさんの書かれる「プロ」って具体的に名前を挙げれば誰のことですか? 興味があるので教えてください。「テーマに気づかすことが出来ない作品は小説ではありません」とありますが、読者って小学生からお年寄りまで、労働者から大学教師まで、いろんな立場な人がいると思うのですが、その全員が「すばらしい!」というような本ってあるんでしょうか? あるなら教えてほしい。
あるいは小説でメシを食っているというのがタンソさんの「プロ」の定義ですか? だとしたら、その「プロたち」の小説をタンソさんは理解できてます? そうですね・・・・・・イギリスのすばらしい「プロ」にチェスタトンという人がいますが、タンソさんは彼の「木曜の男」なんて理解できるでしょうか?
〉テーマがない作品、テーマに気づかすことが出来ない作品は小説ではありません。ただの文章の羅列です。
しかし、たとえ現段階でタンソさんが「木曜の男」のすばらしさを理解できなかったとしても(勝手ながらそう過程して)、それはタンソさんにとっては文章の羅列であるかもしれなくとも、ある人々にとっては小説です。「木曜の男」はたまたま思い浮かんだだけで、そうですね・・・・・・デュラスの小説とかでもいいです。
〉 自分に意味が分からないから、それはすばらしいんだという短絡的思考はなしです。相対性理論は本当にすばらしいですか? そう思い込んでいるだけではありませんか?
たしかに意味がわからないからすばらしい、というのは短絡的だと思うけども、それ以上に「今の自分には完全に理解できないけれども、もう少し読解力がついたらわかるかもしれない。もうちょっと気長によんでみよう」という姿勢のほうをおすすめします。理解できないからクズだ、と書かれるほうがまさに短絡的じゃない?
<「美しい」とか「綺麗だ」という感想は、小説に向けられたものではありません。>
とも書かれていますが、それも「短絡的」でしょう。あの厳格な「クラシック音楽」の世界でも現代ではピアノを弾かずにピアノの弦をひっぱったりするような音楽があるんですよ? どうして小説が「美しく綺麗で」あることを目指してはだめなのか、わかりません。
でもタンソさんの意見は個人的に興味深く拝読しました。芥川龍之介と菊池寛という正反対の小説家の友人の間で「小説とはこういうものだ!」と吠えている小島政二郎という文士を連想します。「眼中の人」という本ですが、彼も「プロ」です。よかったらお読みください。
最近は私自身は作品も感想も書けていなくて、掲示板に書くのはよそうかと思っていたのですが、興味深い論点がいろいろ出ているように思うので、いささか考えを述べてみたいと思います。
まずそもそも「オチ」とは一体何であろうか、ということであります。「オチ」のある短い話として、すぐに思い浮かぶのは落語というジャンルですが、これは笑いを必須条件としていて、オチはそれと不可分のものといえます。すなわちオチの役割としては相当限定されたものです。
では私たちが一般的に、話に落ちが付いたと感じるのはどういう時かと考えてみますと、一つの安定点に至ったという感覚であり、具体的には謎の開示、あるいは、新たな意味の付与、という言い方が仮にできるように思います。
――この辺はいま個人的に浮かんだことを咄嗟に書いています。おそらく研究するつもりであればすでにいろいろ先行があるでしょう。物語論とかいう分野になるはずです。
そうすると、『短編』作品にはこの意味での落ちのある作品は、けっして少なくないと思うのであります。むしろ私の見るところ、きっちり落ちている作品の方が多いのではないか。今期から一つだけ例を挙げるとすればNo15『わくわく』など、まさに意外性を持ったオチと言えるでしょう。もちろん他にもきちんと決着したと感じられる作品も多いのはないでしょうか。
そしてもう一つの論点は、オチのある作品が本当にすぐれているのか、あるいは、オチのない作品は駄目なのか、ということであり、さらには、プロの小説は必ずオチているのか、ということです。
さて、票感想では「オチ」「スピード」「意外性」が挙げられていたのに対して、掲示板では改めて「テーマ」という概念が持ち出されています。テーマがないと小説ではないという論ですが、これも一考の余地があります。
と言いますのは、古い話ですがかつて菊池寛の一部の作品はまさに「テーマ小説」と言われました。(長文書いてるうちにロチェスター氏に先越されちまったぜ。『眼中の人』は私も読みたいです)『恩讐の彼方に』とか『父帰る』などですね。こういうのは大衆も含めて広く受けたのですが、一方に、本当の文学は、一言で語れるテーマやわかりやすいオチがあってはいかん、という考え方もあったのです。ついでに言えば虚構も使っちゃいかん。自分の経験した事実だけ書く。今ではいささか混乱してきていますが、大体こういう暗黙の約束事に基づいて成立したのが純文学という奴ですね。
今日にありましても、この二つの潮流は相容れがたく併存しているのでして、重松清とか石田衣良なら常にわかりやすいテーマがあるかも知れないけれども、一方には……誰でもいいんですがたとえば笙野頼子だってプロの作家なわけです。
――笙野頼子の小説にはテーマがない、と言ったら間違いになるでしょう。男社会への異議申し立てという強烈な主題があるのですが、明らかに大衆文学(というのも問題のある用語ですな)的なテーマのあり方とは違うわけです。
〉テーマがない作品、テーマに気づかすことが出来ない作品
という言い方をされていますが、この後半に注目で、『短編』には確かにテーマがわかりにくい作品がありますね。必然的に判りにくくなってしまったのか、私の読みに穴があいているのか、と色々考えてつい深読みしてしまったりしますが、一面それは純文学中毒でもあって、こんな風にすこーんと叩き斬ってくれる読者は貴重なのであります。本当に。
最後にしかし、オチ・テーマ等があるかないか、とプロ志向とは、全く関係がないのではないかと思います。かくいう私だってプロを目指しているのですけども、問題はオチ・テーマではないと考えています。じゃ何か? それが判れば苦労はないのですが(笑)一つだけ言えることは、まず原稿用紙百枚書けないと話が始まらない(泣)それが実は千字を封印している理由だったりします。
以下別件ですが。
黒田皐月さんが『文学極道』なるサイトを紹介されていますが、
〉恐らく『短編』に投稿されている作品のうちの相当数は歯牙にもかけられないかと思われます。
というコメントにピキッと反応したのは私だけでしょうか(笑)。謙譲の精神の発現と思いますが、仮定の話で、十把一絡げにサイト全体を評定するような言い方は如何なものかと感じました。
言っちゃ何ですけど、向こうだって寝言みたいな作品はいくらもあると思いません?
題名をつけるのが苦手とたびたび言っておりますが、それで後悔するのは実は投稿作品ではなく、掲示板であったりします。この度もまた然り。
さて本題の感想の前に、以前にも感じたことがありそのときには言わずに抑えたことなのですが、今回は言ってしまいます。
私の知っている時期の『短編』の掲示板は、批判に対して態度が厳しい、あるいは冷たいと言っても否定的と言ってしまっても良いのかもしれません、そのように思うのです。
タンソ氏の意見は、テーマを感じさせる作品が良い作品であり、それを目指すべきであるということだと私は受け止めました。私が過去に使った言葉で、何かを感じさせる作品が良い作品、という言葉がそれに近いものだと、自分では思っております。ただし、私の場合は読み解くことはしないので、感じることは必ずしもテーマのようなはっきりしたものではないのですが、それは読み方の問題ですので、やはりテーマを感じさせるべきの意見は是であると思います。
このような意見が出されたときによく挙がることが、ではどうすれば良いのか教えてほしい、ということかと思います。それは、プロは問うてはいけないことなのでしょうが、アマチュアの身としては情報交換などもしたいと思うのです。しかし、それらの意見は押しつけになってはいけないと思います。交流を持つことによって情報を得て、あるいは発信もできれば良いかと思います。異分野ではありますが『文学極道』を挙げたのは、せめて多少なりとその役に立てればと思ったからです。
否定することは簡単です。しかし、それだけに留まるべきではないでしょう。
自分は『文学極道』に手を出さないで良かったと安堵している、黒田皐月なのです。
結局のところ進化もせず、深化もしなかった感想を、提出します。
怨の念を称していたところに含まれていなかったからといって、実は必ずしも好きになった作品ばかりとは限りませんと、余計なことを付け足しておきます。
#1 葬列
私が未だできていない多くのことのひとつに、天気の描写がある。本作ではそれを直接に描写せずに登場人物の台詞を用いて表しており、それは上手い書き方だと思う。雨でも良かったのかもしれないが、降りそうでまだ降っていないという天気を選んだことも、情景の構成に上手く作用していると思う。
前半はただの会話のようでもあるが、そこにもすでに異様なものが散りばめられていて、恐ろしげなものになっており、特に「写真の中では少年が死んでいた」の表現は怖いと思ったのであるが、さてどうしてわざわざ運んできた棺が置き去りになってしまったのかは、わからなかった。
#2 ねがいごと
私がこの作品で上手いと思ったことは、油揚げの量に変化をつけていることである。即ち、ヨウコのときの「結構大量」から、ヨウイチのときには「大量」に増やしていること、これが祖母の気持ちを表現している。
子供の頃の記憶が蘇った後の最初の行動があった方が良かったかもしれない。しかしそれは非常に難しく、並大抵のことではせっかくの良さを壊してしまう。それならば、本作のようにあえて描かないことが、正解なのかもしれない。
#6 爪
爪を失う場面の描写は詳細に描かれているものではないが、恐ろしいと思った。それはあるいは、物語が生々しく描かれているということなのだろうか。
そこまで周囲に合わせて生きなければならないのかと、そういったことにはおよそ無頓着な黒田皐月は思った。しかし本作は、そんなステレオタイプの悲哀を描いたものである。
#9 とある日常
さて鷹山がなぜ天野の携帯電話に電話をしなかったのかは、結局わからない。そのあたりが、脳内を一度見てみたいと思わせるところなのだろう。だが、同時にその時刻が記憶に残っている天野もまた、脳内を見てみても良いのかもしれない。
「キレ者だが、頭の線が一本切れている」は上手いと思った。
#13 チュベローズ
ヘトヘトになりながら書類の整理をするのは、もっとスマートなイメージのある古田さんらしくはないかなと思った。そうではあるが、この作品群は時系列に並んでいるものではない。すべて整理して並べ替えをしたことはないが、本作はかなり初期に属するはずである。そうすると、まだスマートに仕事ができていない頃と言うこともできるのかもしれない。
#14 晴雨
なぜ途中から改行のさせ方を変えているのかはわからない。
最後を除けばこれは単なる手記に過ぎないのだが、これに狐の嫁入りの逸話を織り込んで物語とさせている。そうすると今度は手記であって、事実以外が入り込まないものであることが重要となる。私にはこれが戯曲の一場面のように見えたが、そういう構成で良いのかという疑問もあるかもしれない。
#15 わくわく
悪く言えば前期の『見えない出口』のポジティブ版の二番煎じ。
私は、最後の行を読むまで出稼ぎの話だと思っていた。「かつての友はライバルとなり…」では、どんな仕事だろうかと首を捻ったりもした。だから、最後まで結論を予測させないことには、成功していると思う。
さて、それを知った上でもう一度読むと、「男は帰ってきてもまだ仕事がある。」の一言は男尊女卑に聞こえるのだが、どうだろうか。
#16 僕と猫
人語を解した猫は、私たちが現実に知っている猫であり続けられるだろうか。それを探せばいろいろな作品が挙げられるだろう。しかし、『吾輩は猫である』のような猫が人語を発したら、可愛くないだろう。
本作の猫は、現実の猫から大きくは外れていないと思う。それが良いことか否かはわからないが、柔らかい物語になっていることは、良いことであると私は思った。
#18 きれいな円が描きたい
円は平面状の図形であり、立体的に存在するものではない。
この物語の良さは大きく三つあると、私は思う。ひとつは、『よいとこさ、よいとこさ』に対して同じことを言ったが、本当に創作なのかと思わせるくらいに劇中の行動に上手く当てはまっているその行動の由来、劇中では風習としているものである。ひとつは、第二段落のような、行動を読者に鮮明に想像させるに足る描写の上手さである。そしてもうひとつが、「円の姿に好悪はない」という含蓄の深い言葉である。さて、この言葉に込められていることは「円を描くということの難しさ」だけなのだろうか。「堅苦しいことではないから」と言ったことにつながるが、これによって処罰を受けることは今はないからきれいな円が描けなくても良いということもあると思うし、また、海坂氏の感想につながることだが、描かれた円よりも描いた者の精神が肝要であることを言っているようにも思える。
ところで、上から時計回りと反時計回りの半周ずつで描いたらどうなるだろうか。
#19 メフィストフェレス
古参の庶務の女性とキレ者の新入社員の男の子、この二人の関係をさて他の言葉で表そうとすると、これが難しい。即ち、この例えは巧い。恐らく美人でもなく、結婚適齢期も過ぎてしまった女性でも呼べばすぐに来るのだから、もはや女たらしの域を超えており、悪魔としか言いようがないだろう。
その悪魔の世間の飛翔術を盗んだものが、課長のお猪口を取ってしまったことなのだろう。意味のない羅列にも見えるが、決してそうではない構成をしている。
#21 美空ひばり評
わたなべ氏の作品に対して「嘘みたいに幸せな家族」という評がある。それは本作にも当てはまる。それは必ずしも悪いことではないが、読者によって好悪がわかれることも生じる。黒田皐月はこの種の作品は好きであり、私の評はすべてそのことが基盤にある。
温かいと言わずにそう思わせることが、最も上手いことなのかもしれない。しかし私は、描写を積み上げて頂点にその言葉を持ってくる手法が好きである。本作は、すべての描写がそのために用いられているように私には思えて、その積み上げられた温かさが、私は好きである。
#22 部活動生22
これが22番目に位置していることは、偶然のはず。
本作について考えさせられることは、現実では主人公は何歳なのかということである。それによって夢の内容が、まだ来ない未来に怯えているのか、過ぎ去った過去に後悔しているのかということで、まるで違うことになってしまう。ただ、それは必ずしも必要ではないことかもしれず、それが面白みなのかもしれない。その夢に母親が登場したのは、なぜだったのだろうか。現実にも登場させておかないと、マザコンのように見える。
さて、食パン一斤など、どうやって食べるのだろうか。
海坂氏の所感には実はあまり読んでいないからと逃げることにして、先のタンソ氏の「美しい」や「綺麗」といった言葉遣いや相対性理論への向き合い方の意見を一般論だと思って読んでしまっていた、黒田皐月でした。そんな言葉を使うのは実は私ばかりだったことに、後になって気がつきました。
qbc様、フレドリック・ブラウンの「ノック」(『宇宙をぼくの手の上に』『さあ、気ちがいになりなさい』所収)などはいかがでしょう。たったの二文です。原本が手元にあれば、全部書いて紹介も出来るのですが、残念ながらないのです。ちなみに、これは星新一の「ノックの音が」(新潮文庫)のあとがきにも載っています。
ご返答ありがとうございます。
読んだことがありませんでしたので、
早速アマゾンで『さあ、気ちがいになりなさい』を
注文いたしました。
タンソさんのご推薦を読むのが楽しみです。
ところで、タンソさんは、
> ただの文章の羅列
とおっしゃいました。
私は、小説は「ただの文章の羅列」に
過ぎないと考えています。
結局、「ただの文章の羅列」に
読者が反応するかしないかでしか
ないと考えています。
そしてタンソさんの「なし」票という
「ただの文章の羅列」に対して、
いくつか返信がつきました。
これは、タンソさんの文章を読まれた方の
> 心の中でスイッチが押され
たからではないでしょうか?
一連のやりとりの中に、
> 「オチ」「スピード」「意外性」
はあったでしょうか、そして
> 主観つまりテーマ
はあったでしょうか。
私はあったと思います。
すべての要素を満たしていた
わけではないのでしょうが、
短編というサイトに参加している
方々の心理の文脈に対して、
タンソさんの発言は感ずるところの
ある意見を放ったということだと
読みます。
タンソさんは、「鍛錬投稿室」
というサイトをお挙げになりましたが、
そちらに愛着がおありではありませんか?
やはり「短編」に参加する方も、
「短編」に愛着があるのだと私は
思っています。
このあたりの一連を小説と名づけて
「ただの文章の羅列」を書けば、
面白いものになるのではないのかなと
考えます。
〉 qbc様、フレドリック・ブラウンの「ノック」(『宇宙をぼくの手の上に』『さあ、気ちがいになりなさい』所収)などはいかがでしょう。たったの二文です。原本が手元にあれば、全部書いて紹介も出来るのですが、残念ながらないのです。ちなみに、これは星新一の「ノックの音が」(新潮文庫)のあとがきにも載っています。
みなさま、1000字小説を
教えてくださいとの私の願いに
お答えいただき、誠にありがとうございます。
「掌の小説」川端康成
「夢で会いましょう」村上春樹と糸井重里
「SUDDEN FICTION」外国作家の人たち
「夢十夜」夏目漱石
「めくらやなぎと眠る女」村上春樹
「テレビピープル」村上春樹
「よるのくもざる」村上春樹
「ノック」フレドリック・ブラウン
星新一の短編集
以上の作品、読んでみたいと思います。
特に「掌の小説」は読もう読もうと思って
いたので、良い機会になりそうです。
ちなみにタンソさんにお薦めいただきました
「ノック」ですが、早速読まさせていただきました。
ご紹介では「2文」とのことでしたが、
実際は「2文」を中心にした短編でした。
しかしこの作品を読むことで、タンソさんが
おっしゃられていた「オチ」や「スピード」
の重要性に関するお話がよく理解できたように
思います。
鮮やかに裏切られる「オチ」はやっぱり
面白いものでした。これは、短いからこそ
の利点かもしれません。
ただ、私は、1000字きっかりの小説をできれば
読みたいと思っていたので、そういう意味では
やはり1000字形式そのものの参考になる作品は
これから作っていかなくてはならないのだなと
認識を新たにしました。
私からも、1000字ではないが、
短い文章の作品ならば知っているものが
ありますので、紹介させていただきます。
「カフカ寓話集」カフカ
「博物誌」ルナール
「悪魔の辞典」ビアス
「しゅじゅの言葉」芥川龍之介
「超短編アンソロジー」本間祐