第62期決勝時の投票状況です。8票を頂きました。
# | 題名 | 作者 | 得票数 |
---|---|---|---|
3 | 闇夜の果てへの旅 | 三浦 | 4 |
7 | キメラ | qbc | 3 |
1 | 8本足の秘密 | YUKI | 1 |
キメラとどちらに投票しようかとても悩みました。両方好きです。
ぶつくさと呟きながら、それでも前に進む様が、なんだかかっこいいなあと思ってこちらに決めました。(この票の参照用リンク)
これでたぶん間違いないだろうと思うのですけど、なにしろ暮れにかけ個人的な野暮用が降り重なってきていて、テンパッている所なので、あまり信用しないで下さい。
蟹が蛸になる話、おもしろかったです。ただ最初の出だしで引っかかります。「この」はやはり「ある」の方がしっくり来るのではないでしょうか。それから、何度読んでもお話全体が茫洋としているのは、上記の通り私の条件が悪いのですが、無用な細部をごたごた書いているからかと思ったりしました。いや、決して悪いことではなくて、いわゆる物語というものは民話でも昔話でもそういう作りになっていますね。
で、比べてみると同じ分量でもqbcさんのは明らかに物語ではなくて小説だなとわかります。独特のシーンが鮮やかに印象に残る。ただ私にはなんとなく、言葉の端々が切りっぱなしのような感じがしました。たとえば「気違い」という語を使うには、今ではある決意のようなものが必要とされると思うのですが、何度も連発される必然性が薄いような気がしました。もちろん言葉狩りとかではないつもりですが。
そんなわけで墓場うろつく話、よかったです。予選でも推したのであまり書くことがありません。私にはできない言葉の使い方だなと思いました。(海)(この票の参照用リンク)
決勝の三作品からひとつ選べといわれれば、「闇夜の果てへの旅」に投票しますが(文章がうまいので)、これは・・・・・・さびしい話ですね。それとも今の世界はさびしいのだろうか。
<屍たちは私を取り囲んで、墓穴が深くなってゆくのを今か今かと物欲しそうに見つめるのだった>
<その屍たちが、下から私と墓守を見守っていた。厭な目つきだ。憐れまれているんだ、屍に。>
というところなどを読んでいると、この主人公が人を軽蔑する人物だということがよくわかるし、軽蔑だけして無視すればいいのに、それでも「憐れまれている私」を意識していて、こういう人、嫌いだと思った(もちろん主人公=作者ではないはず)。
しかしながら、勝ち猫だの負け犬だのと、誰かと比較してしか世界と自分との共通点を保てないのが大多数の世の中なのだとしたら、作者の物語はある意味では負の普遍性、みたいなのがあるのかもしれません。そこを評価させてもらいます。
しかし繰り返しますが、こういう作品を書く方はともかく読む側としては疲れる。それとも、その疲れさせることで「精神の運動」をさせることが純文学? とか、思ったりしましたが、こういう傾向はなんだか80年代あたりのヨーロッパ映画がすでに描きつくしている気がしないでもないです。作者の文体、文章は好きですが目指しているところは違っていると思いましたが、くどくなりましたがそれでもいろいろと考えさせて(あそばせて)もらったぶん、えーと、まるでこっちが屍みたいですが、ありがとうございました。
(ロチェスター)(この票の参照用リンク)
三浦さん大好き(この票の参照用リンク)
物語のための題名、題名のための物語、どちらと言うべきか、あるいはそれは渾然としているべきことなのか、わかりませんが、そのことだけでも良い作品だと思いました。
それだけでなく、物語世界が成立していることなど、賞賛すべきことはいろいろあると思います。(この票の参照用リンク)
コーラの作り方は確かに子供の頃知りたかったような気がする。(この票の参照用リンク)
「闇夜の果てへの旅」
冒頭「夜の背中を裂き、私は羽化を果たした」ということは、まだ羽をつかっていないはずだが、同じ段落の最後「くたびれた羽を伸ばす場所を求めて」とある。つかってもいないのにくたびれている。そこに意味を読み取れなかった。同じく最後の文「歩いてゆくしかなかった。脚か! 厄介なものがついているものだ」羽をつかって飛んでいけばいいものを、と思ってしまう。羽が付いているのに使わないことの意味は?
中盤「あんた、そっちにはなんにもないよ。それより墓を掘ってくれないか。眠れない奴らがいて可哀相なんだ」と墓守に呼びかけられる必然性が感じられない。
「ありがとう。最近じゃ、墓を掘ってくれる奴もいなくなってな」
なぜ墓を掘ったのか? なぜ、墓守のいうことをきく? 羽化したばかりなのに。
「それは半端な希望だった」
たしかに、これは半端な小説だった。
「8本足の秘密」
「そこは頭のいいクモですからすぐ思いつきました「この地球は海が7割、陸が3割だ。大きな海に行けばもっと大きな獲物がいるぞ」クモは海に行くことに決めました。」
理屈がよくわからない。海へ行けば大きな獲物がいるぞと、単純に確信してしまう。頭は良くないのではないか。しかも、海はにがて。面白い設定だけど、これはギャグだろうか?
基本的にここで読む気が失せたが、最後まで読んでみれば、クモがカニになり、さらにタコになるというは面白い。でも、ああ、どれも8本足なんだね、と納得したところで、だからなに? と思ってしまう。内容のない話を読ませるには文章が弱すぎる。
「キメラ」
「俺は無職だった」の直後に「碌無し返上の為に必死で新聞配達をした」は少々変ではないか。
「私達はキメラの一部にもなれなかった部品なんですよ。気違いが呟いた。」
出会っていきなり、「私達」と相手を自分と同じ仲間にしてしまうのは強引で不自然だが、ふたりとも酔っていること、と、「俺」が個人的な経緯を告白したあとだから、変ではあるが許される。しかも、ここだけ発話を示すカギカッコがついていない。地の文で語っている。
ここがこの小説のキモだ。
上手いというのは、こういうことだ。
この作品のキメラとは、社会のことを示す。モザイク状に不気味にさまざまな動物が合体した怪物=キメラ=我々の社会のなかの、部分にすらなれなかった。しかし、そいつは怪物じゃないか、そんなものの一部になんかならなくてもいい。そう思いながらも、求職して、またキメラの一部になりたいと思っている「俺」。だれもが持つ生きることの悲しみの一端が、巧妙に隠されて、表現されている。
「俺」と「気違い」だけでなく、「子供達」も重要な登場人物だ。彼らは、「俺」に職が見つかったかきく。常識的で、おせっかいで、しかし押し付けがましい。「気違い」がなんにでも「知っている」ということに怒ることもなく、寛容だが、しかし、多少のあざけりをもって「この人なんでも知ってるぜと騒ぐ」世間そのものを子供達という無垢な無名な複数の人物に設定したのも効果的だった。この子供達もまた成長すればキメラの一部として生きていくことになる。「俺」は「子供達」と「気違い」のどちらになるのか、「キメラとなり社会にとけ込むのか」「馬鹿にされても気違いとして生きるのか」、そういう緊張感を物語に作り出すことに成功している。
最後の段落は、物語を収束させるための、伏線を使ったお約束。ここでもうひとひねりあれば、もっといい作品になった。(この票の参照用リンク)
こうと決めたからそういうことなのだ、という具合にクモからタコへまっしぐら、「なんでそうなるの」という私のこまかい疑問は置いてきぼり、どんどん進むこのお話の、そんな子供っぽい強引さと飛躍に惹かれました。
クモとカニとタコが八本足という共通点で結ばれていることを発見した子供が、情熱たっぷりに自分がつくりあげたお話を語って聞かせている。そんな情景が浮かぶようなつくりに変えてみると面白いかもしれません。力不足で私にはできないだろうけれど。(三浦)(この票の参照用リンク)