北村さん、皆さん、こんにちは。
しばらくご無沙汰しておりましたが、今期はやけにたくさんの感想が出ていますね。そう思って、あらためて読んでみると皆さんやはりおもしろい。久しぶりに感想も書いてみたんですが、どういうわけだか随分長くなってしまいました。こまごまと書いてますが、そういう奴もいるってことで、隅っこの方にでもこっそり置いてやってください。
収束に向かう議論にあえて言葉を差し挟むようで申し訳ないですが、短編小説に何を求めるかは、やはり様々あってよろしいのじゃないでしょうか。ここに並んでいる秀作たちを読むだけで、そう思います。
掌編について私の読書遍歴は大雑把に言って星新一→川端康成でした。川端康成の「掌の小説」を最初読んだと時は一体どこがどう面白いんだろうと思ってしまいましたが、いろいろ読み方を変えてみると味が出て、ああこれはこういうところが素晴らしいんだなあと一人合点してたりしていました。まだ読み終わってません。
どのようなものが優れているのかについて、私にはわかりません。ただ、感覚的には、わかろうとする時に、わかりやすさを与えられることから経験していると、わかりにくさを排除しがちになり、わかりにくさを与えられることから入っていると、わかりやすさをあえて避けたりするのかもしれません。自分の場合はそうです。
なんでもいいとかいろいろあっていいとか言っても、読んでもらえないことには話にならない、という切実さは物書きをしている以上、一生ついて回るものですよね。つらいところです。私もここで感想をいただけたことが、とても励みになりました。
1 葬列 藤田揺転さん 826
こういう物語は、自分の体のどの部分をどのように使って読めばよいのかいまひとつわからない。途中の会話から意味を拾ってみようと頭をひねったけれど一貫したものはどうやら見つけられない。雨の振りそうな空、どこへ行くかわからない長い徒歩のいらだちで舞台の背景を灰色に塗り、後の台詞や人物の動き、小道具などは、ひとえにラスト一段落の不条理な賑わしさを引き立てるための(実際私の中に何か盛り上がる感覚があった)、色の悪い落書きのようなものとして配置されている気がする。私にこういう作品についての感覚が育っていないわけであるから、今後も精進が必要と反省した。こういうのが書けるってうらやましいなあ。
2 ねがいごと チョコボール2001さん 1000
死に別れた母子がお互いとの出会いを願い、それが叶うという爽やかな物語である。青少年向けの短編としてきれいに書けているしこれでよいのだと思う。
《:3ミ <これでいいのだ
細かい構成として気になる点は二点。ひとつは「僕」の年齢がわからないことである。狐が願い事をきいてくれるまで、ずいぶん時差があるようだが、時差があるならあるで、その意味づけがされていると物語に厚みができると思う。もうひとつは、かんざしの位置づけ。拾ったかんざしを息子がそのまま持っていてしまっては、形見となるかんざしを成長したヨウコが持っていることがかなわず、ここにパラドックスが発生するのではないか。
なお、以下は聞き流していただいていいのだが、大人向けの小説としてはやや物足りない感がある。「母と子が求め合う」のは、果たして当たり前のこととして良いのであろうか。「母子」が「求め合う母子」であるにはさまざまな経験を積み重ねなければならず、また求め合う形も多様でまた時とともにうつろうものであると思う。その経験が断ち切られ渇望する主人公を設定するには、それなりの人物像が具体化される必要がある。
3 枕の下にある枕 鏡 もちさん 431
かわいらしいお話である。枕のやさぐれた語りが印象に残る。この字数でこの物語を書くなら、これでよいのではないかと思う。
なお、以下は余計なことだが、次回投稿されるなら、1000字の字数制限を生かしてもう少し物語を広げてみることをお勧めしたい。例えば主人公のキャラが薄いので、彼(彼女?)がどれほどの変態でどれほどの変態ではないのか、とか。枕と主人公で出るとこ出たっていいし。そこにまた違った意味を持たせるのも愉快だ。
続けていきます。
4 スペース・リビドー 灰人さん 859
お名前はハイドさんとお読みすれば良いので? 長月夕子さんが怒るか喜ぶか…いやそれはともかく。
地の文の拙い語り口は、繰り返しをうまく使って効果を出している。括弧書きの中で「おろかな兄の願望でしょうか」という文学的スタンダードセンテンスが一種奇妙な盛り込まれ方をしていて、このアンバランスさがまたよい。計算して書いているのだとすればなかなかすごい。「短編」作家さんで言えば、テンポが曠野さんっぽい。リビドーたっぷりの語りはqbcさん。ちんこへ手紙を書いてるところも可笑しい。
なお、作品のおかしさとは別に、骨組みだけを読み取ろうという試みをしてみると、この話は流れるような言葉遊びを愉しませることが目的で、実際ほとんど意味らしい意味はないのではないかと思う。らしきものを解釈しようとあえて言うならば、このちんこはちんことしての意味が実に薄い。どれくらいかと言うと、冒頭の一行で一瞬にして星になり、ラストの一行で「かしこ」と書いて終われる程度にしかちんこでない。作中に書かれる手紙も、子どものおもちゃを擬人化したような「存在の薄っぺらいちんこ」に対して書かれているのである。ちんこの意味より音から想起されるイメージ(それも幼児的な)で遊んでいるのだろうと思う。来月は妹の……を地に埋めてみてはどうか。
5 贖罪 TMさん 1000
多重人格か何か、少年を取り巻く性格づけされた影との議論に、担任が巻き込まれて困惑している図、ととりあえず状況を整理するところから始めてみた。過去に投稿された作品も幾つか拝見しているが、こういうスタイル――私が思うところの「アメリカンスタイル(偏見)」――つまり対話によって小説を構成し思想を織り込むという作風、を得意とされているようである。ここに登場する担任という人は実に薄っぺらく描かれている。冒頭で少年の抱える「連中」についてシニカルな口調で批判して見せたかと思えば、少年の台詞で一転口調が弱弱しいものに変化し、冒頭の言葉は少年におもねるものであったのかと気づかされる。その後はただひたすら情けなくあり続ける。この薄っぺらさは担任という人の教科書的真面目志向に起因するのだ。
冷静な判断をすれば、こんな薄っぺらい担任という人物に議論を吹っかけたところで、勝っても負けてもどうにもならない。少年がそれでどうにか溜飲を下げるというのであれば、それは、ただひたすらに相手をやり込めてやりたいというだけである。
決め台詞は少年の
> 「は! 贖罪は貴様が悪である限り成し遂げられない、永遠にな!」
しかし担任は教科書的糞真面目一徹、何ら恥じるところが無い。恥のない彼には贖罪という感覚など持ちようが無い。つまり彼は(意識された)悪ですらない。悪であると思っているのは少年であり、贖いを求めるのも少年であり、それらは全て少年の支配感情に起因するひとりよがりなものに終わってしまっている。
まとまらない感想だが、教科書的糞真面目と支配感情との議論は不毛であると思う。現実に、過去に両方の性格の人物それぞれと議論したことがある(いうなれば自分だって双方兼ね備えたところがあるわけだが)。しかしいかなるテーマで議論しても結論は変わらない。つまり「お前が悪い。俺に罪を償え」「僕は真面目で正しいことをしている。なのに君が僕をいじめるんじゃないか」という水掛け論を続けることになるのである。自分が勝たないと終われない相手と話をするのは疲れるし、わかってもらえないんだから話をする方だって疲れるはずだ。これは悪意ある心理的なゲームである。対話のルーティンにはまり込み、不毛な結論が見えているのに、それでもこういう対話を何度でも繰り返すのだ。そんなの疲れる。だからやりたくない。そう思って暮らしているくらいなので、個人的にはあまり好きな作品ではない。しかし、意図的にこうした作品を書いているとすれば、それは成功していると思う。
6 爪 仙棠青さん 1000
「爪ピアス、スプリット爪は言うに及ばず」これは金原ひとみの「蛇にピアス」あたりであろうか。あれは爪でなく舌だったけれど。文章が流麗で表現も的確、かつ読みやすい。カレーライスに爪が立つ瞬間など、おお、と思った。
個人的な意見でしかないが、そこまではよかったので、後半が実にもったいない。「爪なし流行」に逆転するのは、わりとよくある流れだと思う。そして「実際爪が無いと不自由なことだって多いのだから。」という現実的な帰結点。それはそうだよね、としか言えない。そもそも深爪には、切っちゃったりとか食べちゃったりとか、やや小児神経質な原因を想定してしまうのだが、そのへんのところは最初にもう少し書き込んであるとよかった気もする。しかし字数は限られるし、出発点が「メディアとそれに追従することを是とする民衆」だから、仕方ないのだという気がするけれど。うまくて、わかりやすいからかえってそう思えてしまうのかもしれない。ごめんなさい。
第三弾。冗長で読みづらいとか、こんなの違うとかお思いの方は、遠慮なくとばしてくださいませ。
7 宝の部屋 鳩さん 1000
表現は荒くて、やや読みづらさを感じる。しかしまっすぐな物語である。心の飢えを満たすために人は何かを為そうとし、その結果を収集しようとするのだけれど、実はそれは全く解決にはならない。根底にある存在性そのものに不安があるわけだから。ラストがスパムメールかも知れない女の子からの誘い文句であり、それでも「今日は安らかに眠れそうだ」ということが、主人公の心理をぴったり物語っていると思う。
ミサイルだか隕石だかは主人公の家だけを壊したはずはないと思うのだが、それでも独りを貫くというのは以外に強い人なのではないかとか、余計なことを思ったりする。皆が等しく危機的状況に陥ったとき、彼は不特定多数の周囲と感情を共有でき、断裂した関係を回復する、かもしれないしそうでないかもしれない。
8 4minutes silence 公文力さん 1000
> 「私には何とも言えません。でもあの時の友達の顔がまるで彼自身ではなかったということが先日の私ではない私自身の姿に符号しているようで奇妙なのです」
他のところは読点が無くても読めたけれどここだけ意味を掴みづらかった。ここで話の流れを確認するために脳内でストップがかかってしまったからだ。「私」はかつて継続的に薬を飲んでいたわけだから、一度だけ薬を飲んだ友達に起こったことを薬のせいとすることに無理があるのではないか、と解釈してしまった。
では無理であることを知っていてそれを前提に物語を構成しているとすれば、四分間の沈黙と、その後のため息とは何だったのか。精神科医は「私」の薬についての語りを、関係妄想あるいは加害妄想であると診断しており、煙草によって落ち着いた後に「私」にどのように切り出していくかを考えていて、それで「溜息」だったのではないか。その「精神科医が(吐いた)長い溜息」を「性交の後の心地よい柔らかな風に似ている」と表現した(その繋がりは掴みづらかった)「私」は、医師のため息をどう思っているのか。いくつかの解釈が可能なように思えるし、この後いっそ、「私」にとっての真実である、薬に起因する加害行為に手を染めてもかまわないのだろう。灰皿がいい感じだし。
いずれにしても、この物語が意味を持つとすればそれは何なのか、ということについては、私の経験からは何も語ることができない。
9 とある日常 fengshuangさん 720
こういう上司のキャラはわりと好きで、しかも時計の針が全部左半分というセンスもわりと好きである。
「六時四十五分五十秒」「固定電話にかけた上司」「新車の上司と会社までドライブ」については、タイトルどおり日常であるとも取れるし、非日常であるとも取れる。上司が「脳を開けてみたい」と思わせるような些か特殊な感覚の方らしいので、そういう上司であればそれもまた日常なのであろう。しかし。もしも。上司が脳内電波でかけてきても、マフラー巻いて星に乗って現れても、「この人の行動だったらしかたがない」の一言で全てを「とある日常」にしてしまえるとすれば、それはとても恐ろしいことだ。何を書いても日常。創作作家は雁首揃えて食いっぱぐれることになるだろう。
ところで私が生まれたのが某年某月某日六時四十五分らしいけれど、私は覚えていない。私も脳を開けてみたい。そこから携帯電話でない固定電話にでんぱを飛ばして、朝早くから新しい車に同僚を乗せて会社までドライブする。そんな日常も結構素敵だと私は思うけれど、同僚はこの主人公のように寛容ではないから、多分私を警察に通報すると思う。
で、第四弾。
10 例えば千字で刹那を 黒田皐月さん 1000
刹那という言葉が出てきたので最近読んだ本から少し引用してみる。「せつない話」(結構古い)というアンソロジーを編んだ山田詠美は、巻末で「せつない」という気持ちについて、「五粒以上の涙では解決できない複雑なもの」と表現している。ここで私が注目したいのは五粒という数ではなく言葉ぜんたいから伝わる感覚のほうであるが、ここであえて数に注目して思考してみた。つまり――「それでは五粒の涙とは何ミリリットルを指すのか」「正確に五粒以内であると誰が決めたのか。どのように測定したのか。統計を取ったのか」「では小説家として、どれだけ少ない涙でせつないが表現できるのか」――私は何だか、乾いた砂を手の中でこすり続けているような気持ちになってしまった。おそらく今の主人公の感覚も、これに近いものではないだろうか。徹底的に極小時間を追い求めることで、自分に何かの意味を見出そうとているような、血のにじむ孤独な努力。
言葉での語りを志向する者が言葉に意味なり解釈なり感覚なりを見出し、それを自分の表現にしようと志した時、物理学的に定量できるものだけを求めているわけにはいかなくなるのだと思う。qbcさんの感想でも時間の感じ方について言及されていたけれど、時・分・秒あるいはコンマ以下の数字そのものではなく、その時間のなかにあるものについて書かれていたそのことばが私には印象深かった。もし黒田さんが「千字で刹那を」という物理的に限定された環境を先に設定することなく、自由奔放な感性で「刹那」を求めようと志向した時に、やはり同じ事をお思いになるのではないか。そんなことを考えた。
11 男たちのヤマト 大股 リードさん 781
> 「極上のを頼む」
今度何かの折に使いたい。
ところで昔戦艦大和について少年向けに書かれた本に書かれたある水兵さんの言葉「一番でっかい船に乗せてください」を少し思い出した。だからなんだというわけではなく、血気にはやるお殿様な若僧の大艦巨砲主義には参るぜ、みたいなことを思ったり思わなかったりした。そんなわけで、最近の映画タイトルのまんまで、しかも中身が全然違ってるくせに、奇妙にマッチしているのが愉快痛快だった。
12 ジョー淀川 vs 峰よしお 頭をわしづかみされるハンニャさん 999
峰よしおが出版社に全く愛されている感じがないところは、筒井康隆っぽくてよくあると思ってスルーしてしまったのだけれど、戦場ヶ原さんの感想を読んで、そうかそこもツッコミどころだったのか、と改めて自分が鈍ってるなあと感じた。「よしおのちょうしを、どれだけのせることができるか、」はわざと違和感を出したのだと思うけれど、まあ瑣末はいいとして。
本物しか愛せない男が愛していたのは文書化された規則であった。本物しか愛せない男は言いすぎだろうと思う。社則なんて社長の一声で変わるものだってことは、新入社員でも気づく。そういうツッコミ方をしてしまって楽しめなかった。どうも自分は笑いのポイントが人とずれているらしい。でもハンニャさんの作品に通底するつきぬけて明るいテンションは好きで、自分もこういうのが書けたら人生変わるなとかなり本気で思っている。
久々のご感想を、ありがとうございました。
「刹那」は「切ない」に起源を持つのかと疑ってしまいました。BookShelfにはなかったから、違いますよね。
〉10 例えば千字で刹那を 黒田皐月さん 1000
〉 言葉での語りを志向する者が言葉に意味なり解釈なり感覚なりを見出し、それを自分の表現にしようと志した時、物理学的に定量できるものだけを求めているわけにはいかなくなるのだと思う。qbcさんの感想でも時間の感じ方について言及されていたけれど、時・分・秒あるいはコンマ以下の数字そのものではなく、その時間のなかにあるものについて書かれていたそのことばが私には印象深かった。もし黒田さんが「千字で刹那を」という物理的に限定された環境を先に設定することなく、自由奔放な感性で「刹那」を求めようと志向した時に、やはり同じ事をお思いになるのではないか。そんなことを考えた。
どうでも良さそうなことですが、言葉には定義があるということが理系崩れの私の感性の基礎にあります。きっとそれが、物理的に限定された環境という枠を最初に設定してしまったのでしょう。
しかし、その枠の中で、「言葉に意味なり解釈なり感覚なりを見出し、それを自分の表現にしようと志す」ことは試みていきたいと思います。いやそう言ったものの本当に追いたいのは、例のとおりの女装少年なのですが。
さてついでですが、以下の感想について異見を提示したいと思います。今期は本当はそういうことがやりたかったのに、放棄宣言をした後にこれとは、うまくいかないものです。
〉12 ジョー淀川 vs 峰よしお 頭をわしづかみされるハンニャさん 999
〉
〉 本物しか愛せない男が愛していたのは文書化された規則であった。
この考え方は柔軟性に欠けると思います。規則とは、法律とは、ルールとは、即ち道具。秩序を維持するために制定された道具ではありますが、これを文字通り盾にとって利用することもあるものです。誤解を恐れずに言えば、それが争議の方法なのです。
ジョー淀川が規則を持ち出したのは、彼がそれを愛していたからではなく、自分の正当性を主張するために過ぎないのです。
それにしても、ハンニャ氏は「峰よしお最高Tシャツ」のような小道具が好きだなあ。
感想の分量は書く人ごとにあるものなのかと思う、黒田皐月でした。なぜなら自分の書く分量も進化しないから。
「刹那」と「せつない」の語源の違いについては、そういえば忘れておりました。違うというご指摘のとおりですね。
仏教における「刹那」の考え方は、それの定める時間を決める派と、定量的に表すものではないとする派とで分かれるようです。私はどちらかといえば後者に賛成です。
ところで刹那とせつないとは、語源が違うからといって両者を完全に分離し得ないような気がしています。せつないという感情は「刹那に生じ消えさる」そういう性質を持っているのではないでしょうか。せつないが昂じればかなしいになり、せつないが去ればまた異なる感情が生まれる。「五粒の涙」ですね。
一瞬に生まれ、消え去るもの、その儚いものを捉えようと心が揺さぶられる。刹那に生まれ、去る感情。この心の動きとせつないという気持ちとは、完全なイコールではないのですが、どこか似ている。これが「刹那」と「せつない」という二つの言葉に強い縁を感じる理由です。
より仏教に近い言葉にしてみると、悟りを得る過程で、己の業に気づきはらりと涙する心、というところになるのでしょうか。専門ではないのでわかりません。あくまでアナロジーです。
黒田さんの作品で言えば、「擬装☆少女 千字一時物語9」に出てきたかわいらしいネグリジェを着る少年の、その袖を通し肌を包む至福の時間。その時主人公が感じているものが、「せつない」という感覚だったのではないかと思います。肉体的に男性であるという自分を意識しながら、女性の服を身に纏うことで、自らの存在を確かめ、安らぎを得る。矛盾であるという感覚を抱えながら、ありのままに生きようとする少年。あの一瞬には、少年のすべてがあったのではないでしょうか。
すると黒田さんは一度、刹那をその筆の上にのせて文字にしたことがある。しかもそのことで短編読者の共感を得てさえいる。そうとも言えるのかと思います。
このようにして、ことばは意味を少しずつ転じてゆくのかも知れませんね。あるいは自分が知らないだけで、既に同じ思想がより洗練された表現で語られているという可能性もあります。どなたかご存知であれば、ぜひ教えてください。
蛇足ながら。
>> 本物しか愛せない男が愛していたのは文書化された規則であった。
これは、ジョー淀川が「本物しか愛せない男」と書かれていたから、編集部のみんなも等しく愛していない峰よしお最高Tシャツを愛せないというだけなんだろうか、ハンニャさんのことだからキャラの設定を生かす仕掛けがもっとあるんじゃないか、と思って読んだためです。読み返してみると、切羽詰って取り出しただけという風ですね。ジョー淀川は単に、峰よしお最高Tシャツの持つ何かが許せないということなのでしょう。