で、第四弾。
10 例えば千字で刹那を 黒田皐月さん 1000
刹那という言葉が出てきたので最近読んだ本から少し引用してみる。「せつない話」(結構古い)というアンソロジーを編んだ山田詠美は、巻末で「せつない」という気持ちについて、「五粒以上の涙では解決できない複雑なもの」と表現している。ここで私が注目したいのは五粒という数ではなく言葉ぜんたいから伝わる感覚のほうであるが、ここであえて数に注目して思考してみた。つまり――「それでは五粒の涙とは何ミリリットルを指すのか」「正確に五粒以内であると誰が決めたのか。どのように測定したのか。統計を取ったのか」「では小説家として、どれだけ少ない涙でせつないが表現できるのか」――私は何だか、乾いた砂を手の中でこすり続けているような気持ちになってしまった。おそらく今の主人公の感覚も、これに近いものではないだろうか。徹底的に極小時間を追い求めることで、自分に何かの意味を見出そうとているような、血のにじむ孤独な努力。
言葉での語りを志向する者が言葉に意味なり解釈なり感覚なりを見出し、それを自分の表現にしようと志した時、物理学的に定量できるものだけを求めているわけにはいかなくなるのだと思う。qbcさんの感想でも時間の感じ方について言及されていたけれど、時・分・秒あるいはコンマ以下の数字そのものではなく、その時間のなかにあるものについて書かれていたそのことばが私には印象深かった。もし黒田さんが「千字で刹那を」という物理的に限定された環境を先に設定することなく、自由奔放な感性で「刹那」を求めようと志向した時に、やはり同じ事をお思いになるのではないか。そんなことを考えた。
11 男たちのヤマト 大股 リードさん 781
> 「極上のを頼む」
今度何かの折に使いたい。
ところで昔戦艦大和について少年向けに書かれた本に書かれたある水兵さんの言葉「一番でっかい船に乗せてください」を少し思い出した。だからなんだというわけではなく、血気にはやるお殿様な若僧の大艦巨砲主義には参るぜ、みたいなことを思ったり思わなかったりした。そんなわけで、最近の映画タイトルのまんまで、しかも中身が全然違ってるくせに、奇妙にマッチしているのが愉快痛快だった。
12 ジョー淀川 vs 峰よしお 頭をわしづかみされるハンニャさん 999
峰よしおが出版社に全く愛されている感じがないところは、筒井康隆っぽくてよくあると思ってスルーしてしまったのだけれど、戦場ヶ原さんの感想を読んで、そうかそこもツッコミどころだったのか、と改めて自分が鈍ってるなあと感じた。「よしおのちょうしを、どれだけのせることができるか、」はわざと違和感を出したのだと思うけれど、まあ瑣末はいいとして。
本物しか愛せない男が愛していたのは文書化された規則であった。本物しか愛せない男は言いすぎだろうと思う。社則なんて社長の一声で変わるものだってことは、新入社員でも気づく。そういうツッコミ方をしてしまって楽しめなかった。どうも自分は笑いのポイントが人とずれているらしい。でもハンニャさんの作品に通底するつきぬけて明るいテンションは好きで、自分もこういうのが書けたら人生変わるなとかなり本気で思っている。