○#2「爆弾彼女」の感想(小出しですいません)
#2「爆弾彼女」
この小説が面白いのに泣けてくるのは、話を読み終えてもう一度タイトルに目をやったときの
<爆弾彼女>
というフレーズがもつ切実さだろう。主人公の恋人は近いうちに爆発してしまうのである。にもかかわらず、主人公の「僕」も、恋人の父親も、その恋人当人さえも、自爆する宿命の爆弾少女という存在をちっとも疑っていない。誰も止めようとしていない。たぶん、ここがポイントだ。
これは冷酷なようにみえるが、、ある意味では一番正直な態度でもある。この3人がそれぞれどんな状況にあるのかはわからないが、3人とも、人生においてあきらめなければならないことがあるということを、知っている人たちに思える。
テロリストの父親にとっては、自身の信念のために捨てなければならぬ宿命を受け入れているし、この主人公からは、なんとなくジゴロの哀しさのようなものを感じる。女を好きで、その女には尽すけれども本質的な部分では、女は別の男に身体を売って自分を食わせている、それを受け入れることには慣れてしまった……といった寂しさがこの主人公にはある。
そして、自分が爆発すると知っていて、しかもテロリストというほど信念があるわけでもなさそうなこの<爆弾少女>の存在のあきらめ加減こそが、もはや美しくさえある。死ぬこともあきらめているというのに、その一方で彼女はとてもユーモラスだ。いまさら彼氏ができたって、付き合ったってしょうがないのに、その彼氏のまえで、自爆のマネをして彼氏を驚かせようとするところなど、やはり爆弾人間につくりかえられたって、彼女は人間なのだ。深層においてはどこかで生きていたいということは思っているにちがいなく、まるで止めてほしいと思っている感情の表出のような、爆発の真似をして彼氏に精一杯甘えている。
しかし、彼氏も父親も彼女も、爆発することをやめようとは一言もいわない。
「ちゃんちゃん♪ なーんてね! けど本当に爆発したらどうする?」
「それでも好きだ」
↑このセリフでこの作品はしめくくられるが、これはただのオチ云々ではない。まず「それでも好きだ」と主人公は言うけれども、そこには
(好きだけど僕は君の身代わりにはなれないし、やはり僕は結局のところいわゆる普通の男のように君を心底では愛していないのかもしれないのだろう、いや……それでも僕の生き方においてはこれが僕の愛し方なんだ)
という書かれていない部分を補って読んでみると深みがでてくるし、
「けど本当に爆発したらどうする?」
ときいてくる女には、
(私はもうすぐ爆発するのよ、でもあなたがすべてを捨ててでも私をとめないことはわかっているわ。あなたは全部口先だけ。きっと、好きだ好きだでごまかすでしょう。だけどそのときのあなたの顔と声はやさしくて、それなのに内側では私だけではなくてすべての人間を心から愛することができない。ロボットと同じ。私と同じ。あなたのそんなところ好きよ……)
と読めてくる。そうしてくると、これはただの話ではない。私の誤読かもしれないが、こうした誤読を可能にさせるか、それとも作者の一方的な方程式をなぞらされるだけか、というところが、小説ならびに芸術の、いわゆる普遍性というやつであって、普遍性というのは広く流行してウケるという意味ではない、ということも作品とあわせて考えた。
とてもいい作品だったと思うし、この作品を読んでから前期の同作者の作品を読むと、これはもう泣けますねえ。
■読者の一人としての感想に徹したいのでHNは1002でいきます。よろしく。
■1002あてに感想希望の意思表示をしてくれた作品への感想となります、希望されるかたがいればどうぞ。
■「短編」掲示板へは平日のみ(例外あり)の投稿となります。返信は遅くなるかもしれません。
■「この作品を自分はこう考える」というやりとりについては、ひやかさずに加わっていただければ、と思います。どなたも参加可能のテーマです。
お願いするのもこっぱずかしくて今まで黙ってましたが、今期は読者がどう感じるかを自分なりに強く意識して書いたので、お時間ありましたら感想お願いしたいです。リアクションがほしかったんですが今期はちょっと感想方面が寂しかったものですから。酷評でもなんでもかまいません。普段どっちかと言えば酷評してばっかの人間なので。
〉■1002あてに感想希望の意思表示をしてくれた作品への感想となります、希望されるかたがいればどうぞ。
私もぜひお願いします!
↓今月の投稿作品です!↓
http://tanpen.jp/84/29.html
○わらさん、qbcさんへの返信
○#29サーカス、#26岩感、#27「愛なき者」の感想
●
わらさん、qbcさん、感想希望ありがとうございます。それでは今期より作品の感想を書かせていただきます。よろしくお願いします。
●
#29サーカス
後輩の結婚式における主人公「俺」の視点による人物批評の話、だと読みました。
この主人公はちょっとストレスがたまりすぎている気がする。たぶん根はいい奴なのだと思う――主人公は花嫁からの手紙で泣いてしまったり、そんなことを気楽に相談する相手もいれば、話を立ち聞きして加わってくるような友人もいる。
さらに大学時代にさかのぼると、「アルハンブラ宮殿の思い出」(感傷的だが名曲)を弾くために借金をしてまでもギターを手に入れたり、今回の結婚式もその借金相手でもあった後輩に、嫁と娘といっしょに招かれているのである。
――こういう設定だけを読むと、この34歳の主人公はとても幸福にさえ思えてくるというのに、話を読むかぎりでは、どうもそう単純ではないらしい。
まず、なぜか主人公は後輩に金を借りてまでギターを習ったことについて、「金を借りてしまった」ということに異常に執着して後悔している。ちゃんと金を返したならいいじゃないか、といいたいが、主人公の論理ではそうではないらしい。
私からすれば、そのおかげでギターもうまくなったのなら、この披露宴で「三島のおかげで俺はギターがひけるようになった、ありがとう。この曲を君たちに捧げます」とでもいえばいいじゃないか、と思うのだが、34歳のこの主人公がこだわるのはあくまでも金である。ここにこの主人公が社会生活で得たものと失ったものを想像することができる。だが、それはなんだかとても現実的でかなしいね。
しかし主人公の金をめぐる思いは「後輩への借金」のこだわりのみならず、出資者が後輩ではなく後輩の父親であったことが、さらに主人公には腹がたつことらしく、その父親をまるで恥をかかされた仇のように見つめていたりする。
冒頭に主人公は友人に囲まれる人気者だ、と書いたけれども、実は主人公自身はこの友人たちのことについても、まったく評価していない。一人は調子のいいおしゃべりものだと判断し、もう一人については話かけてきても無視している。
そして主人公は結婚式の主役でもある後輩夫婦を眺めながら、自分がすでに既婚者であることを忘れて、彼らが夫婦になるということについて、思いをめぐらしている。隣では子供を抱いた妻が、夫の無配慮さに呆れて文句を言うが、主人公にその声は届かず、このまま結婚式をめぐる描写はおわってしまう。
……これはちょっとさびしい話だな、と思った。話全体が主人公「俺」の一人称であるので、この小説を評価するには、読み手の私が「俺」の考え方や行動をどう思うか、ということが大きく関わると思うのだが、私はちょっとこの主人公「俺」の考え方は、どこか人間をなにかの枠に一面的に当てはめているように思えた。
もしも私がこの題材を元に話をつくるならば、
(1)やはりこの疲れてしまっている、元素直な主人公をなんとか救うための伏線をはりたい。それは偽善としての救いではないが、やはり作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべきだ、と個人的には思っている(昔はこの部分を宗教が担当した)。
(2)友人も三島夫婦もその父親も妻も娘も、でてくる人物すべてが主人公には不愉快に映っているが、それでは彼らの負の一面だけしか描かれておらず、全体のバランスが悪すぎるので、なんらかの彼らの長所を活かしたい。
(3)三島の親父はキーポイントだと思うが、活かされていない。たとえば彼がすでにボケてしまっていた、だとか、なぜ三島の父親は気持ちよく金をかしたのか、なにか活かしたい。
……ということを思いました。
#26岩感
今期、この作品の推薦感想に「ガーンときた」というのがあったと思いますが、この作品の要点を一言でピタリといいあてたすごいコメントだと思います。
私も「ガーン」ときました。話そのものは結構単純だと思う。別れ話をするために喫茶店にいる恋人たちであるが、男はなにか違和感を感じていて、それは喫茶店においてある「岩」が原因だったのであるが、よくみるとその「岩」はお地蔵さんで、別れ話がピークをむかえていくにつれ、主人公は自分自身がそのお地蔵さんになっていく心地がしてきて、しまいにはキレた女がスプーンを投げつけると、そのスプーンは地蔵になった主人公にぶつかって、ガーン、となる……。
多分、こういう話は、あまり1000字小説を読んだことのない、一般的な人がパッと手にとって読んだりすると、とってもウケるだろうし、他サイトのコンテストなどでは優勝したりするんじゃないかな、と思いました。オチがよめそうでよめないし、「こんな話を読んだんだけど」と、誰かに話せるくらいに、流れが整理されている。
ただ、1000字小説をこれまで累計で何百読んだのだろうか、という、ややひねくれた私などが読むと、「ガーンときた」だけでは物足りない。たった原稿用紙2枚半のなかなのに、そこに、「その文字数で大長編を予感させるような広がりや、複雑に織り込まれた伏線や、作者自身の深い観念が織り込まれていて、なおかつ単純であること」などなど、とても要求が多くなってしまう。
……そういうわけで、私はこの「岩感」は、本来なら投票候補になるほどのすばらしい作品だと思うけれども、深さにおいても広がりにおいても「爆弾彼女」に及ばないと思ったし、その「爆弾彼女」よりも文章に技とキレがあって、なおかつ読み手に、平凡な暮らしのなかに隠れているささやかなよろこびを意識させてくれた今期の「猫」、そして、なんといっても、「短編」では大人気だった<るるるぶ☆どっぐちゃん>の一連の言葉のマジックよりも私は、伝統を咀嚼したうえで自分の書きたいことをしっかり書いている、正統なシュールレアリスムを見事に1000字でつくりあげた今期最高傑作「rot ion ape = 面会 晩餐 仮」と比べると、やはりこの「岩感」はわかりやすぎた感が否めません。
私としては
(1)男は最初から最後まで受け身側であり、女は最初から最後まで怒鳴っている一本調子が気になる
(2)岩になるオチ一本だけで推していくのは……
の2点について考えました。蛇足ですが、私はこの岩男が
・ある日失業したばかりの主人公がうっぷんをはらすべく失業保険のもらえるあいだ身体を鍛えようとスイミング・スクールへ通う
・水泳後、室内プール付設のミストサウナに入っていたら練習場としてつかっている女子大水泳部のメンバーがやってくる
・男はおもわず顔を赤らめ、興奮を鎮めるべくお地蔵さんをイメージする。すると男の股間が岩となってもりあがり水着をぶちやぶる。その「岩の股間」に驚きながらも興味を持った女子大生の一人が男に「き、きっさてんにいきませんか」と声をかけ、付き合うようになるが「岩の股間」で男はモテまくり、
・いつしか出会った喫茶店にて女から別れ話を始める。女は「あんたなんか!」と何度もいいながら、店内に飾ってあるお地蔵さんをみるうちに顔を赤らめ、男はそんな女をみていると鉄のジーパンをはいていたというのに、岩股間が鉄のカーテンを貫通する。
・「お地蔵さんはみんなのモノだよ」という男の言葉でラストはしめくくられる。その様子をウエイトレスが柱の影からみている。
……という話がさっきから何度も脳内を画像付きで浮かんでくるので思わず書いてしまいました。
#27「愛なき者」
失業したが、退職金などで当面の生活に困ることがない男が主人公。悩みの種は食うことよりも、仕事をやめて(やめさせられて)はじめて自分が仕事以外の場で誰からも必要とされていないように思われて、それで自殺まで考えるがそこで両親の存在を思い出す……という話だとよみました。
書いてある内容はとても切実で、まさにこんな気持ちを抱いている人はたくさんいると思うし、これを読んだ私も、それほど他人事とはいえない。
でもだからこそ、あるがままをあるがままに書いても、私はそれでは人の心を揺さぶることができないのではないか、という気がする。
「泣きたい衝動は加速して、それがさらに思考を阻害した。そのうち、もう私は死ななければいけない、としか考えられなくなった。」
という部分などは、作者が直接書いてしまうと、読んでいる私は、たとえばもしも私が同じような状況であったとしたら、むしろリアルすぎて、ここから先を読む気がなくなってしまうだろう。
もう少しここのところを詳しくかくと
「泣きたい衝動は加速して……ってこんなん、自分で言うもんなん? 衝動は加速って、思考を阻害した……って、これって自分のこと書いてるんやろ? 自分のことを衝動加速とか思考阻害とか、そんな熟語で書くってなんかナルシストっぽくない? 私は死ななければいけない、なんか、そんなん書くのって恥ずかしいわ」
……というのが実のところ、私の本音の感想である。というのは、やはり、この話に書かれているようなことはみんな誰もがうっすらと言葉でない部分で思っていることで、それはこんなに簡単に言語化してほしくない。
「世界の中心で愛を叫ぶ」
という題名を本屋ではじめてみたときに瞬間に感じた恥ずかしさにとても似ている。でも、こういう直接的な言葉の痛さが一般受けする時代であるので、それを考えるとこの「私は死ななければいけない」みたいなのも今では普通なんだろうか、と考えると、なんとなくユーウツになってしまう。
本来、私はこのストレートさは嫌いではないがやっぱり扱っているテーマがナイーヴなことで、しかも最初から最後まで内面吐露に徹しているので、読んでいておもしろくなかった。ここまで深刻に悩む主人公が誰かが床におとしたバナナの皮でもふんでひっくりかえったりして、すべって転んでもまだ
「僕は……さびしい」
なんて呟く場面などがあったら、まだ私はその滑稽さに緩和されたナルシシズムを受け入れられるかもしれないが、笑えるところが少しもなかった。
ここに書かれたテーマはとても深刻で時事的であるので、もし私ならばこれを元にして内面の吐露部分をまるごとカットして、実際に主人公がおこなった行動の描写を丁寧にえがきたいと思う。
たとえば失業した主人公は、退職金もあるので、縁結びの神社にいった帰りに、スイミング・プールで泳いだりしたらどうだろう。するとそこに女子大の水泳部の連中がやってきて、ふいに股間が岩に……やがてモテモテになって知り合った彼女と結婚式をあげて、かつての先輩夫婦たちを呼んだ壮大な結婚式を行う結末とか……。
■読者の一人としての感想に徹したいのでHNは1002でいきます。よろしく。
■1002あてに感想希望の意思表示をしてくれた作品への感想となります、希望されるかたがいればどうぞ。
■「短編」掲示板へは平日のみ(例外あり)の投稿となります。返信は遅くなるかもしれません。
■「この作品を自分はこう考える」というやりとりについては、ひやかさずに加わっていただければ、と思います。どなたも参加可能のテーマです。
○#14 #19の感想
●#14 感情の中で。
今期の作品「愛なき者」のテーマを寓話化したらこの「感情の中で。」にちかい作品になるのではないだろうか、と思いました。私のなかでは、両作品は主人公の自分探し的なテーマをもろに前面に押し出している点で似ているように思いました。
この作品は読んでいて、作品世界にどっぷりと自分を入り込ませることができませんでした。正直なところ、主人公の「私」が森を歩こうが、ヒトらしき者と一緒に歩こうが、最後には淋しくなろうが、私はそのことについて何も感情移入できなかったのです。
なので、読後に考えたことは、これはどうしてだろうか? ということについてでした。
たとえば今期の作品もたくさんありますけど、その中には文章がさほど凝っていなくても、あるいは好きなテーマではなくても、読んでいるうちに自分もその作品世界の一員となって、作品内でおこった事件等について自分なりに考えてみた作品があるかと思えば、この作品のように、なにも思わなかったという作品もある。
……これは、私なりに思うところを書けば、たぶん作者は、この作品を書くにあたって、作者自身がどっぷりと自分の妄想のなかに浸かってしまっているからじゃないだろうか、と考えました。作者も主人公といっしょになって森で迷っているような印象がある。
作者=主人公 はもちろんアリだとは思うのですが、作品のトーン全体が作者と主人公のトーン中心で、主人公に同調できなかった場合はまったく入り込めなくなる。
どんなに美人が目の前にいても、その美人がかばんから何度も何度もしつこいくらいに鏡をとりだして、自分の顔をうっとりした表情でみつめているのを目撃すると、なんとなくげんなりしてしまうものです。それに比べればたとえ美人ではなかったとしても、さばさばとはっきりしていて笑顔がかわいかったりすれば、なんとなくそっちにひかれます。
それと同じで、この作品のテーマそのものは森に行ったりヒトがついてきたり、と、いろいろ寓話化されてておもしろいと思ったんですが、やはり「私は」「私は」「私は」で始まる文章が多かったりして、いささか読んでいると「また<私は>かよ」といいたくなりました。
主人公が迷うのは仕方ないけど、作者までいっしょに主人公といっしょに迷いはじめると作品はどろどろしてくるので、もう少し作者が主人公を突き放した視点で書いてあれば……。
(もしなにか内容について返信していただけるならば冒頭に全文引用されることは遠慮してくださると助かります←前回、前々回の件より)
●#19 rot ion ape = 面会 晩餐 仮
小説、物語、散文、文学……と、区分けはいろいろあるんでしょうが、創作物を読むたのしみのひとつは、文字をとおしてありえない世界を疑似体験できるということです。
この作品は、鉄板と鍋の横に生身の人間(修造)が横たわっていて、これから二人(彦麻呂と曽根)が彼の身体を切りひらき、その内臓を鑑賞しながら、順番に食べていこうとしている話です。
一般的な傾向として難解さを売りにした多くの作品は、こういう場合、まったく脈絡のつかない、言葉と言葉をてきとうに置いただけとも取られかねない作品になることが多いと思うのですが、この作品は、一応、ストーリーとして破綻していない。
人間が人間を食べようとしている――というシンプルな一言にまとめることができるという、単純さを維持しつつ、あとは作者がおそらく書きたかったある種の残虐性を思う存分腕をふるって盛り込んでいます。
ところが、それはまるで料理されたカエルを上品に盛り付けた仏蘭西料理のごとく、なんとも魅惑的に描写されている。臭くない。
内臓を「綺麗に詰まっていて、まるで宝石箱やなあ」というところなんかゾクゾクする。タバスコをかけるという発想の斬新さや、それを皿にかけるのでなく、勢いあまって臓物ごとタバスコ漬けにするところなんか、まさに作者が自分でも予想していなかった、作中人物たちの自律した行為にちがいなく、作者自身もここを書くときは思わず、書くというより、登場人物たちに書かされるような気持ちになったにちがいない。
しかも焼きすぎたレバー(といっても人間の肝臓)の味が、ぼそぼそとしている……なんてところの細部の描写が神がかっていて、私はもちろん人間のレバーなんて食べたことはないけど(作者もないだろうけど)、ここでは食べてるような気になる。目に見えない世界、起こりえない観念的世界に手ざわり肌ざわりを感じてしまう。これは文学の力ですね。
「そこにはわしの子が入ってるんや」
このあたりの3行ほどの展開は私には衝撃の極の極で。この作品については私の創造力ではとてもかなわないというか、すでに完璧に完成されている気がしました。しかも、これが、映像の世界の話で、この様子をビデオでみている二人がいる、という構造になっているなど、はたして1000字小説でここまですごい作品をつくった人いるのか、と感服しました。
正直なところ、私の解説は陳腐すぎて、書くのをためらうくらいでした。作者の作品についてはここ最近の作品はすべて拝読してますが、今までは「現代」が舞台の作品がおおく、まさかこんな作風や作品が書けるのか、と思わなかったので、その点についても驚きを隠せません。
原稿用紙2枚半に秘められた可能性を感じさせてくれる作品が読めてうれしかったです。そして私の感性も大いに刺戟を受けました。このクラスの作品を書いてしまうと、どうしても来期以降が書きづらくなると思いますが、こんなのを毎月かけたらそれこそ才能の最後のだしつくしのようなものです。来期以降も楽しみにしています。
■読者の一人としての感想に徹したいのでHNは1002でいきます。よろしく。
■1002あてに感想希望の意思表示をしてくれた作品への感想となります、希望されるかたがいればどうぞ。
■「短編」掲示板へは平日のみ(例外あり)の投稿となります。返信は遅くなるかもしれません。
■「この作品を自分はこう考える」というやりとりについては、ひやかさずに加わっていただければ、と思います。どなたも参加可能のテーマです。
〉●#19 rot ion ape = 面会 晩餐 仮
うーん。
気持ちの悪い小説、なら投票も辞さないのですが、本作品はただただ趣味の悪い小説にしか感じませんでした(修造や彦麻呂といった実在人物らしい人物名をもちいた誤誘導っぽい仕掛けとか)、すみません。
冒頭の“買いたての猫”が誤字っぽい感じでしたし。
題名もちょっと捏ね回しすぎている気がします。「operation」をぶった切った、という理解でいいのでしょうか。仮面舞踏会というのは耳にしますが、仮面晩餐会というのは、ちょっと狙いすぎ?
感想ありがとうございました。「サーカス」は発達障害ADHDの人の話し方が「まるでサーカスみたいにあっちこっちに話題が飛ぶ」というのをアイディアにしたお話でした。
そのアイィデアを枠にしてあとは自由に書いたので、自分の心象がそのまま文章になった感触があったのですが、ストレスがたまっていそうだったりさみしそうな感じがあったとのことで、自分の人生ってなんなんだろうな、やれんのかこれから、と思ったりしました。
話は変わりまして、1002さんだったら「こう書く」意見ですが、
〉(1)やはりこの疲れてしまっている、元素直な主人公をなんとか救うための伏線をはりたい。それは偽善としての救いではないが、やはり作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべきだ、と個人的には思っている(昔はこの部分を宗教が担当した)。
どうして1002さんは「作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべき」と考えるのでしょうか?
〉#29サーカス
〉
〉 後輩の結婚式における主人公「俺」の視点による人物批評の話、だと読みました。
〉
〉 この主人公はちょっとストレスがたまりすぎている気がする。たぶん根はいい奴なのだと思う――主人公は花嫁からの手紙で泣いてしまったり、そんなことを気楽に相談する相手もいれば、話を立ち聞きして加わってくるような友人もいる。
〉
〉 さらに大学時代にさかのぼると、「アルハンブラ宮殿の思い出」(感傷的だが名曲)を弾くために借金をしてまでもギターを手に入れたり、今回の結婚式もその借金相手でもあった後輩に、嫁と娘といっしょに招かれているのである。
〉
〉――こういう設定だけを読むと、この34歳の主人公はとても幸福にさえ思えてくるというのに、話を読むかぎりでは、どうもそう単純ではないらしい。
〉
〉 まず、なぜか主人公は後輩に金を借りてまでギターを習ったことについて、「金を借りてしまった」ということに異常に執着して後悔している。ちゃんと金を返したならいいじゃないか、といいたいが、主人公の論理ではそうではないらしい。
〉
〉 私からすれば、そのおかげでギターもうまくなったのなら、この披露宴で「三島のおかげで俺はギターがひけるようになった、ありがとう。この曲を君たちに捧げます」とでもいえばいいじゃないか、と思うのだが、34歳のこの主人公がこだわるのはあくまでも金である。ここにこの主人公が社会生活で得たものと失ったものを想像することができる。だが、それはなんだかとても現実的でかなしいね。
〉
〉 しかし主人公の金をめぐる思いは「後輩への借金」のこだわりのみならず、出資者が後輩ではなく後輩の父親であったことが、さらに主人公には腹がたつことらしく、その父親をまるで恥をかかされた仇のように見つめていたりする。
〉
〉 冒頭に主人公は友人に囲まれる人気者だ、と書いたけれども、実は主人公自身はこの友人たちのことについても、まったく評価していない。一人は調子のいいおしゃべりものだと判断し、もう一人については話かけてきても無視している。
〉
〉 そして主人公は結婚式の主役でもある後輩夫婦を眺めながら、自分がすでに既婚者であることを忘れて、彼らが夫婦になるということについて、思いをめぐらしている。隣では子供を抱いた妻が、夫の無配慮さに呆れて文句を言うが、主人公にその声は届かず、このまま結婚式をめぐる描写はおわってしまう。
〉
〉……これはちょっとさびしい話だな、と思った。話全体が主人公「俺」の一人称であるので、この小説を評価するには、読み手の私が「俺」の考え方や行動をどう思うか、ということが大きく関わると思うのだが、私はちょっとこの主人公「俺」の考え方は、どこか人間をなにかの枠に一面的に当てはめているように思えた。
〉
〉 もしも私がこの題材を元に話をつくるならば、
〉(1)やはりこの疲れてしまっている、元素直な主人公をなんとか救うための伏線をはりたい。それは偽善としての救いではないが、やはり作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべきだ、と個人的には思っている(昔はこの部分を宗教が担当した)。
〉
〉(2)友人も三島夫婦もその父親も妻も娘も、でてくる人物すべてが主人公には不愉快に映っているが、それでは彼らの負の一面だけしか描かれておらず、全体のバランスが悪すぎるので、なんらかの彼らの長所を活かしたい。
〉
〉(3)三島の親父はキーポイントだと思うが、活かされていない。たとえば彼がすでにボケてしまっていた、だとか、なぜ三島の父親は気持ちよく金をかしたのか、なにか活かしたい。
〉
〉……ということを思いました。
●或る投稿者さんへの返信
●qbcさんへの返信
●在る投稿者さん宛てに書き始めたものの、作品19の追記感想になった文章
○或る投稿者さんへの返信
84期作品19の感想を書いてくださってありがとうございました。私宛てのものだと思ってませんが、「気持ち悪いのではなく趣味が悪い」という指摘が見事だったので、触発されてあなた宛の返信をかきながら、いつのまにか書き足りなかった作品19の感想をかけました。ありがとうございました。
○qbcさんへの返信
感想への返信ありがとうございます。
〉どうして1002さんは「作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべき」と考えるのでしょうか?
質問ありがたいんですが、この質問の意図はなんでしょうか。つまりqbcさんはこの部分が納得いかず、この点をもとに私と文学的議論を始めたいということでしょうか。それとも、qbcさんも「俺もそう思ってたのだが」という点で、共感を高めるためとしての質問なのでしょうか。その意図が読めません。
ただ、qbcさんがどちらの立場であったにしろ、<小説家は登場人物たちを導いていくべきだ>ということをなぜ私が思っているかということを、私が「○○だからです」と、頭でっかちに言葉でそれらしいことをいっても、仕方ない気がする。白黒つけられるテーマではなく、私はそう信じているだけで、小説はすべて絶対そうでなくてはならないと思っているわけでもありません。私が書き直すならば、私の信ずるままに書くというだけで、「個人的に」思っていると書いたと思います。個人的な理由があるわけですよ。
さらに「私が登場人物たちを導いていく小説を書くべきだと思っている理由」は、私にとってメインフィールドである長編小説のなかに、その答えを物語という形で示すことが私の仕事だと思っているので、このことについて、今期の作品から離れて議論する気はありません。せっかくの質問いただいたのに申し訳ありません。
ところで、今期の私の感想を読んでいただいて私のスタイルは理解されたと思うのですが、私としては「利用できるところを利用して」もらえればいいと思っていますが、もしも私の感想に「人生を否定された」と思われるならば、正直なところ私の感想を求める意味がqbcさんにとって必要ないように思います。
こういう姿勢ですが、来期も私の感想を必要としていますか? はっきり言いますと、私の感想をまともに受け入れると現代の広く受け入れられるような小説にはならない気がしますし、そういうところまで承知のうえで、ニヤニヤ笑いとばしながら私程度の戯言からでも、すこしでも自作の向上のために利用できるところはないだろうか、という冷静さをもった作者であれば、私をうまくつかいこなせるであろう、と思っていますし、そういう才能を感じさせる少数の作者との作品のみのやりとりができればと思って始めたわけです。
ご検討ください。
(追伸)
「ストレスがたまっていそうだったりさみしそうな感じがあったとのことで、自分の人生ってなんなんだろうな、やれんのかこれから、と思ったりしました」と思われたということですが、私は今回は感想にかいたとおり、この作品を好きにはなれませんでしたが、
たとえば
「都会生活に疲れてそうな主人公の内面描写をとおして、本来賑やかなはずの結婚式場が影たちのサーカスのように読めてくる。この暗さから逃げず、真正面から描写していくさまはまさに現代版チェーホフの再来ともいえ、主人公の妻に対する冷たさこそが、結婚の本質を見事についているともいえて、その風刺加減に私はくすぐられ、おもわず隣にいる妻を反動的に抱きしめたくなってくる。これはすばらしい」
というふうに好意的に読む人だっているんじゃないでしょうか。というか、気分によっては私にもそう読めるわけです。作品の感想というものは本来、読み手の気分次第のきわめていいかげんなものだという前提で付き合っていただければ幸いです。今期私の感想が批判的に読めたとしても、それはそのとき私がそう思って読んだ素直な感想だったわけですよ。
○或る投稿者さん宛てに書き始めたものの、作品19の追記感想になった文章
とくに返信を求めているとは思えませんが、興味ある内容なので返信させてもらいます。
私があなたの感想に共感するのはこの作品の「趣味の悪さ」を指摘されている点です。ここに着目されたのはすばらしい。ただ、あなたと私の違いは、「趣味の悪さ」をどうとるかの受け取り方についてです。
文化というものは、上流階級に手厚く保護されたなかで守られて、汚れのない正統なものを主流において守る保守派がいるその裏側で、ジメジメして陰湿で股間の精液の匂いがただよってきそうなゲテモノであるにもかかわらず、原始人の祭りのような素朴な強さをもった裏・文化を影として共存させることで繁栄していく――と、私は個人的な持論として考えているところがあります。
つまり、美女と野獣、ジキルとハイドをひとりの人間が二重に併せ持つ、あるいはひとつの国家が光と影を内側にもつ、その矛盾の均衡をギリギリで保ちながら前進していくところにハラハラした緊張感や野性ある美しさがうまれると思っているわけです、人間も芸術も。
なので、ただかっこよさそうだとか、ただきれいだとか、あるいは正統な伝統の影にいることの切なさからの反抗というくくりを失って、ただたんにめちゃくちゃなグロテスクを堂々と行っていたり、サブカルチャーである自覚を忘れてメインカルチャーであるようにふるまう作品というのは、私は好きではありません。
そういう点でこの作品を読むと、なんともいえない淫靡さがありますね。その昔、土方巽というダンサーが、そそりたつ黄金ペニス(模造)を股間につけた全裸状態で踊り、自分の妻であった女を舞台にださせ、女の尻の穴にビーダマを入れては出して、その出し入れを観客にみせた――という作品があったそうです。
「鶏を殺さなければ前にすすめないんだよ」
といって、なぜかいつも舞台では生きた鶏をもって登場し、観客のまえでその首をしめたりするわけですが、その鶏についても、尻のビーダマについても、彼らはひとつひとつ彼らなりに(趣味は悪くても)自分の内側からそうしなければならない表現の理由があったらしくて、「なんとなく」とか「はやってるから」でではなく本気であったらしい。
今から思えば、なんとも「趣味が悪い」と思いませんか。ちなみに本など読んでると、その舞台をみるゲイの客たちは土方の鍛え上げられた肉体と奇妙な踊り、ジェームス・ディーンコンクールで2位になったという美貌、そしてそそりたつ模造ペニスを前に、みないっせいにコートに隠して股間をこすりだしたそうです。一方で、美人妻が性器をまるだしにしてビーダマをいれられる姿を目当てに通った一般客は女に興奮する。
そして、そんな性の乱れた饗宴を冷ややかにみつめながら、この趣味性の悪さこそが正統文化の影として美しい、と(思ったかはしりませんが)大古典主義者であった三島由紀夫が絶賛し、サドの紹介者としての澁澤龍彦が理論武装で支援し、小説家(哲学者)としては三流かもしれないが、当時経済雑誌やらアングラやら侍俳優の陰の支援者であり、まさに文壇のサブカルチャー作家・埴谷雄高も見にきて、以後埴谷邸の新年会に土方巽がよばれるようになったりする。
そういうわけで脱線してしまいましたが、正統なサブカルチャーというのはこれほど巨大な勢いを巻き起こすものなわけです。それは時代が違うから、今では無理、とかそういうことではなくて、今はサブカルチャーが恥じらいを失って、堂々とグロテスクだけであったり、妙にかわいこぶった少女がてきどにエロいことをいうだけであったりして、それを誰もが普通なこととして受け入れてしまうようになっている。そういう作品も多い。
この作品を私が正統なシュールレアリスム、と言って賞賛したかったのは、「修造」で滝口修造への敬意への表明をさりげなく(でもないか)まぎれこましたり(こういう照れ隠しの偽装こそ、サブカルっぽい)、手術台のイメージを拝借している点(こういうのをパクリといってしまうと、日本文学は漱石はスターンのぱくりで鴎外は……村上春樹はヴォネガットとブローティガン、芥川は古典?)。
そして、なによりも作者自身の暗い欲望の生臭さを見事に作品として昇華させている点。ここはアングラ作品を評価するときの決定的ポイントだと思うけど、趣味が悪く土俗的であっても、全体が生臭い性の匂いをぷんぷんさせていてもかまわないけども、それを貫く作者の目が、子供がへいきでスズメバチに手をだして握りつぶしてしまうときのような、何ものをも畏れない素朴そのものなまなざしを、感じさせてくれなくてはならない。
私はその点について、この作品はとても素直な思いが根本にあるように思ったわけです。そういう点で投票したし、これに匹敵するようなすごい作品があれば教えていただければ、と。
しかし、実をいうと、私の理屈からすればこの作品が正統的なシュールさを秘めた作品だとするならば、これは一般受けするはずがないわけで、あなたの感じた「趣味がわるい」という感想をみなから言われまくり、当然予選決勝など通過するわけはなく、一部の超強烈な熱狂的ファンによって(そしてそんな連中はもちろん投票などしない)、こっそりと支持されていく――それが正しいのかもしれず、私のこの書き込みはそういう点で矛盾しているかもしれませんね。
ちょっと書き込みすぎましたか。
〉このことについて、今期の作品から離れて議論する気はありません。せっかくの質問いただいたのに申し訳ありません。
はい。わかりました。
〉こういう姿勢ですが、来期も私の感想を必要としていますか?
はい。次期もお願いします。
読んでいただいてありがとうございます。
最近何も浮かばなくて、段々悲しくなりました。書きたいことが分からない、前は書きたいことがいっぱいで下手くそでもいい、誰かに少しでも伝われば…って思っていましたが、最近は一ヶ月が早くてまだ何も考えてないよーが多いです、文章とか段落とか考えると尚更で自分と自分がズレてしまったように感じます。今回は私が作品にはまりすぎた(作者=主人公)のではなくなんとか自分と同調させようとした結果、「私は」が多くなったのだと思います。
毎度のお目汚し失礼しました。次も似たような作品でまた「私は」がいっぱいかもしれません(余り覚えていません、自分の作品なのに(自己嫌悪))が宜しくお願いします。
〉○#14 #19の感想
〉
〉
〉●#14 感情の中で。
〉
〉
〉 今期の作品「愛なき者」のテーマを寓話化したらこの「感情の中で。」にちかい作品になるのではないだろうか、と思いました。私のなかでは、両作品は主人公の自分探し的なテーマをもろに前面に押し出している点で似ているように思いました。
〉
〉 この作品は読んでいて、作品世界にどっぷりと自分を入り込ませることができませんでした。正直なところ、主人公の「私」が森を歩こうが、ヒトらしき者と一緒に歩こうが、最後には淋しくなろうが、私はそのことについて何も感情移入できなかったのです。
〉
〉 なので、読後に考えたことは、これはどうしてだろうか? ということについてでした。
〉
〉 たとえば今期の作品もたくさんありますけど、その中には文章がさほど凝っていなくても、あるいは好きなテーマではなくても、読んでいるうちに自分もその作品世界の一員となって、作品内でおこった事件等について自分なりに考えてみた作品があるかと思えば、この作品のように、なにも思わなかったという作品もある。
〉
〉……これは、私なりに思うところを書けば、たぶん作者は、この作品を書くにあたって、作者自身がどっぷりと自分の妄想のなかに浸かってしまっているからじゃないだろうか、と考えました。作者も主人公といっしょになって森で迷っているような印象がある。
〉
〉 作者=主人公 はもちろんアリだとは思うのですが、作品のトーン全体が作者と主人公のトーン中心で、主人公に同調できなかった場合はまったく入り込めなくなる。
〉
〉 どんなに美人が目の前にいても、その美人がかばんから何度も何度もしつこいくらいに鏡をとりだして、自分の顔をうっとりした表情でみつめているのを目撃すると、なんとなくげんなりしてしまうものです。それに比べればたとえ美人ではなかったとしても、さばさばとはっきりしていて笑顔がかわいかったりすれば、なんとなくそっちにひかれます。
〉
〉 それと同じで、この作品のテーマそのものは森に行ったりヒトがついてきたり、と、いろいろ寓話化されてておもしろいと思ったんですが、やはり「私は」「私は」「私は」で始まる文章が多かったりして、いささか読んでいると「また<私は>かよ」といいたくなりました。
〉
〉 主人公が迷うのは仕方ないけど、作者までいっしょに主人公といっしょに迷いはじめると作品はどろどろしてくるので、もう少し作者が主人公を突き放した視点で書いてあれば……。
〉
〉(もしなにか内容について返信していただけるならば冒頭に全文引用されることは遠慮してくださると助かります←前回、前々回の件より)
うわあ、すごい。
ただ嫉妬心に駆られただけの八つ当たり感想に反応いただき、ありがとうございました。いえ、勉強になりました。
来期以降も熱のこもった感想をひそかに楽しみにさせていただきたいと思います。
もうなんというか言葉が出ませんし、嬉しいを通り越してただひたすら頭が下がるばかりです。
感想&投票ありがとうございました。
以下、ちょっとした補足です。
〉買いたての猫
これは「買ってきたばかり」という意味で使いましたが、「飼いはじめたばかり」と思われるかもしれないなとは思っていました。
〉「rot ion ape = 面会 晩餐 仮 」
ぶっちゃけてしまうと、今期はスナッフビデオをエサに電波女をゲットしたという話なんですが、このビデオ部分は全て嘘だということが言いたくて、それによってモニタの前にいる二人に目が向けられればいいなと思い、モニタを見る二人という構図からこの話と読み手という階層に目がいって欲しくて、同時に「じゃあビデオの中の人たちは?」という風に流すことができたら面白いと、そんな理由で付けました。
でもこれはある程度の感想が期待できる「短編」ならではなので、これも僕の個人的な趣味の域を出ていませんね。
こんな感じです。
○qbcさん、或る投稿者さん、のいさん、高橋さん
みなさん感想への感想ならびに丁寧な返信ありがとうございました。感想を書いている人間はなんとなく「小説をよく知っている者」みたいな勘違いをしやすく、それを自覚して気をつけているものの、つい調子にのって持論を(精神病者のごとく)ばらまいてしまうときがあります。
しかし、やはり才能ある書き手に対してじかに意見をぶつけ、ときには手応えある反応をもらえることがあるのはうれしいものです。84期はありがとうございました。昨日より85期も始まったみたいですが、また約3週間後に感想を書かせてもらいますので、そのときは(対等な立場で)よろしくお願いします。
また、「感想やっぱりいりません」というのは、最初から当然のことだと思ってますので遠慮なく申し出てくれるとお互いラクになると思います。
では、次にこの掲示板へ書き込むのは予選終了後になりますが今期も他の参加者のみなさんの感想コメントなどが読めるのも楽しみにしてます。
>のいさん
「書きたいことが分からない、前は書きたいことがいっぱいで下手くそでもいい、誰かに少しでも伝われば…って思っていました」ということですが、これはのいさんが小説家としてステップアップしている証拠だと私には思えます。
「書きたいことがある」というのはなんとなく言葉の響きが立派ですが、書きたい気持ちにあふれている作家の作品というのは、時には「俺の秘蔵のラーメンを食え!」と、親指がスープにつっこまれたままラーメンをどかんとテーブルに置かれているような押し付けがましさを感じるときだってあるわけです(作品によりますが)。
それよりも、熟練した職人がもくもくと、自分がつくりたいものというより、客にだしても恥ずかしくないような本物を、さりげなくだしていくように、小説家は自分の書きたいものばかりではなく、とくに自分の書きたいテーマではないが、ひょっとしたら自分の友人の誰かは考えているかもしれないこと、みたいなのを肩の力を抜いて書いてみることだって勉強になると思います。
――あ、こういう書き方は偉そうですね、一意見として参考になれば試してみてください。
あと、85期の作品はすごくいいですね。
(この追伸宛の返事はとくに希望しておりません)
>高橋さん
84期の作品はかなり私の誤読であった気がしますが、おかげで楽しめました。良い作品を読ませていただきありがとうございます。
85期の作品は、もしも「短編」作品内でジャンル別に投票するとするならば、そのジャンル内で圧倒的一位をとる作品でしょうね。なんか私、一瞬ですが、今の自分と高橋さんとの間にある文芸における力量の差を知って、ちょっと焦りました。
ただ(と、ひがみっぽく)、あまりにジャンルとして完成されすぎていて、脆さを感じない点においてひねくれた私はこの種の作品ならば、今期ののいさんの作品をとるかもしれません。しつこいですが、私はややナナメに読むので。ですが、正統なコンクールにおいて、今期作は堂々とメジャーに優勝する貫禄がある、と思いました。つまりひとことでいうと、上手いってことです。失礼ですが、こんなに上手だったんですか?
あと、話は全然違いますが金武さんの今期の作品は「天才じゃないか」と思ったのですが、こういう作品のよさを共感してもらえるのは投稿者本人か、短編内では高橋さんくらいしかいないのでは……と思ったのでちょっと書いておきます。
金武さんの84期作は「……この人、天才っぽかったけど、相手をえらばずケンカうりつけるチンピラにもみえる、文学に政治を持ち込んだりするとことかも……それでこのウンコ小説はナイやろ……ケンカ相手をまちがえてる……」と83期と比較して落胆したんですが、今期はすごすぎる……。
というわけで私は高橋さん同様、私は才能を愛するがゆえにもう金武さんの(よくわからないが)掲示板の書き込みをアラシ行為とは思うどころか、金武さんを、その才能がゆえに支持します。
……ということを高橋さんあてに書きのこされても困るでしょうが、いろいろとブログをみて共感するところがありました。では3週間後、また感想書かせてもらいます。私はあなたにとって役不足だと感じ始めてますが、そのときはよろしくお願いします。
失礼します。
(この追伸宛の返事はとくに希望しておりません)
■読者の一人としての感想に徹したいのでHNは1002でいきます。よろしく。
■1002あてに感想希望の意思表示をしてくれた作品への感想となります、希望されるかたがいればどうぞ。
■「短編」掲示板へは平日のみ(例外あり)の投稿となります。返信は遅くなるかもしれません。
■「この作品を自分はこう考える」というやりとりについては、ひやかさずに加わっていただければ、と思います。どなたも参加可能のテーマです。
誤読だなんて。解説ありがとうございます、とだけ言って相乗りさせてもらっちゃいます。
今期ののいさんの作品ですが、見事にカブってしまいました。やっぱりわかりますよね。
いつかカブるだろう予感はあったんですが、こうも重なるとは思っていませんでした。しかもあちらのほうがより本質を描かれていて、「こういうことが書きたかった」と思わされてしまいました。
しかもあれってたぶん薬屋の話ですよね。万能の妙薬、みたいな。
毎期楽しく読ませていただいているので、いちいち迷わないで欲しいものだけ手に入れていけばいいと思いますよ。他の部分はおいおい付いてきますし。
あと、日記は脳内のことなので「−−−」とされたと思うのですが、たぶん、「――(ダッシュ×2)」こっちのほうが読みやすいんじゃないかなと思います。
金武さんのウンコたれって、売り言葉に買い言葉みたいなものだと信じてます。でも糞喰らえ的な意味も入っていたりするんだろうな。
掲示板での書き込みも割と楽しく読ませてもらってましたが、いつも突拍子もないのでただ見ていることしかできないというのが実情で。拍手ボタンがあったらきっと押してますね。
また、今期の作品は理解できますし、いいこと書いてあるなあと思いました。
環境に合わせたチューニングなんて細かいものからのラスト二行は刺さるものがありまして、ちょっとヤバかったです。しかも妙子。
ではまた今期もよろしくお願いします。