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●或る投稿者さんへの返信
●qbcさんへの返信
●在る投稿者さん宛てに書き始めたものの、作品19の追記感想になった文章


○或る投稿者さんへの返信

84期作品19の感想を書いてくださってありがとうございました。私宛てのものだと思ってませんが、「気持ち悪いのではなく趣味が悪い」という指摘が見事だったので、触発されてあなた宛の返信をかきながら、いつのまにか書き足りなかった作品19の感想をかけました。ありがとうございました。

○qbcさんへの返信


感想への返信ありがとうございます。

〉どうして1002さんは「作者は自分の信じる「善」のかたちに主人公を導いていく志のようなものがあるべき」と考えるのでしょうか?

 質問ありがたいんですが、この質問の意図はなんでしょうか。つまりqbcさんはこの部分が納得いかず、この点をもとに私と文学的議論を始めたいということでしょうか。それとも、qbcさんも「俺もそう思ってたのだが」という点で、共感を高めるためとしての質問なのでしょうか。その意図が読めません。

 ただ、qbcさんがどちらの立場であったにしろ、<小説家は登場人物たちを導いていくべきだ>ということをなぜ私が思っているかということを、私が「○○だからです」と、頭でっかちに言葉でそれらしいことをいっても、仕方ない気がする。白黒つけられるテーマではなく、私はそう信じているだけで、小説はすべて絶対そうでなくてはならないと思っているわけでもありません。私が書き直すならば、私の信ずるままに書くというだけで、「個人的に」思っていると書いたと思います。個人的な理由があるわけですよ。

さらに「私が登場人物たちを導いていく小説を書くべきだと思っている理由」は、私にとってメインフィールドである長編小説のなかに、その答えを物語という形で示すことが私の仕事だと思っているので、このことについて、今期の作品から離れて議論する気はありません。せっかくの質問いただいたのに申し訳ありません。

ところで、今期の私の感想を読んでいただいて私のスタイルは理解されたと思うのですが、私としては「利用できるところを利用して」もらえればいいと思っていますが、もしも私の感想に「人生を否定された」と思われるならば、正直なところ私の感想を求める意味がqbcさんにとって必要ないように思います。

こういう姿勢ですが、来期も私の感想を必要としていますか? はっきり言いますと、私の感想をまともに受け入れると現代の広く受け入れられるような小説にはならない気がしますし、そういうところまで承知のうえで、ニヤニヤ笑いとばしながら私程度の戯言からでも、すこしでも自作の向上のために利用できるところはないだろうか、という冷静さをもった作者であれば、私をうまくつかいこなせるであろう、と思っていますし、そういう才能を感じさせる少数の作者との作品のみのやりとりができればと思って始めたわけです。

ご検討ください。

(追伸)

「ストレスがたまっていそうだったりさみしそうな感じがあったとのことで、自分の人生ってなんなんだろうな、やれんのかこれから、と思ったりしました」と思われたということですが、私は今回は感想にかいたとおり、この作品を好きにはなれませんでしたが、

たとえば

「都会生活に疲れてそうな主人公の内面描写をとおして、本来賑やかなはずの結婚式場が影たちのサーカスのように読めてくる。この暗さから逃げず、真正面から描写していくさまはまさに現代版チェーホフの再来ともいえ、主人公の妻に対する冷たさこそが、結婚の本質を見事についているともいえて、その風刺加減に私はくすぐられ、おもわず隣にいる妻を反動的に抱きしめたくなってくる。これはすばらしい」

というふうに好意的に読む人だっているんじゃないでしょうか。というか、気分によっては私にもそう読めるわけです。作品の感想というものは本来、読み手の気分次第のきわめていいかげんなものだという前提で付き合っていただければ幸いです。今期私の感想が批判的に読めたとしても、それはそのとき私がそう思って読んだ素直な感想だったわけですよ。


○或る投稿者さん宛てに書き始めたものの、作品19の追記感想になった文章


とくに返信を求めているとは思えませんが、興味ある内容なので返信させてもらいます。

私があなたの感想に共感するのはこの作品の「趣味の悪さ」を指摘されている点です。ここに着目されたのはすばらしい。ただ、あなたと私の違いは、「趣味の悪さ」をどうとるかの受け取り方についてです。

文化というものは、上流階級に手厚く保護されたなかで守られて、汚れのない正統なものを主流において守る保守派がいるその裏側で、ジメジメして陰湿で股間の精液の匂いがただよってきそうなゲテモノであるにもかかわらず、原始人の祭りのような素朴な強さをもった裏・文化を影として共存させることで繁栄していく――と、私は個人的な持論として考えているところがあります。

つまり、美女と野獣、ジキルとハイドをひとりの人間が二重に併せ持つ、あるいはひとつの国家が光と影を内側にもつ、その矛盾の均衡をギリギリで保ちながら前進していくところにハラハラした緊張感や野性ある美しさがうまれると思っているわけです、人間も芸術も。

なので、ただかっこよさそうだとか、ただきれいだとか、あるいは正統な伝統の影にいることの切なさからの反抗というくくりを失って、ただたんにめちゃくちゃなグロテスクを堂々と行っていたり、サブカルチャーである自覚を忘れてメインカルチャーであるようにふるまう作品というのは、私は好きではありません。


 そういう点でこの作品を読むと、なんともいえない淫靡さがありますね。その昔、土方巽というダンサーが、そそりたつ黄金ペニス(模造)を股間につけた全裸状態で踊り、自分の妻であった女を舞台にださせ、女の尻の穴にビーダマを入れては出して、その出し入れを観客にみせた――という作品があったそうです。

「鶏を殺さなければ前にすすめないんだよ」

 といって、なぜかいつも舞台では生きた鶏をもって登場し、観客のまえでその首をしめたりするわけですが、その鶏についても、尻のビーダマについても、彼らはひとつひとつ彼らなりに(趣味は悪くても)自分の内側からそうしなければならない表現の理由があったらしくて、「なんとなく」とか「はやってるから」でではなく本気であったらしい。

 今から思えば、なんとも「趣味が悪い」と思いませんか。ちなみに本など読んでると、その舞台をみるゲイの客たちは土方の鍛え上げられた肉体と奇妙な踊り、ジェームス・ディーンコンクールで2位になったという美貌、そしてそそりたつ模造ペニスを前に、みないっせいにコートに隠して股間をこすりだしたそうです。一方で、美人妻が性器をまるだしにしてビーダマをいれられる姿を目当てに通った一般客は女に興奮する。

そして、そんな性の乱れた饗宴を冷ややかにみつめながら、この趣味性の悪さこそが正統文化の影として美しい、と(思ったかはしりませんが)大古典主義者であった三島由紀夫が絶賛し、サドの紹介者としての澁澤龍彦が理論武装で支援し、小説家(哲学者)としては三流かもしれないが、当時経済雑誌やらアングラやら侍俳優の陰の支援者であり、まさに文壇のサブカルチャー作家・埴谷雄高も見にきて、以後埴谷邸の新年会に土方巽がよばれるようになったりする。

そういうわけで脱線してしまいましたが、正統なサブカルチャーというのはこれほど巨大な勢いを巻き起こすものなわけです。それは時代が違うから、今では無理、とかそういうことではなくて、今はサブカルチャーが恥じらいを失って、堂々とグロテスクだけであったり、妙にかわいこぶった少女がてきどにエロいことをいうだけであったりして、それを誰もが普通なこととして受け入れてしまうようになっている。そういう作品も多い。

この作品を私が正統なシュールレアリスム、と言って賞賛したかったのは、「修造」で滝口修造への敬意への表明をさりげなく(でもないか)まぎれこましたり(こういう照れ隠しの偽装こそ、サブカルっぽい)、手術台のイメージを拝借している点(こういうのをパクリといってしまうと、日本文学は漱石はスターンのぱくりで鴎外は……村上春樹はヴォネガットとブローティガン、芥川は古典?)。

そして、なによりも作者自身の暗い欲望の生臭さを見事に作品として昇華させている点。ここはアングラ作品を評価するときの決定的ポイントだと思うけど、趣味が悪く土俗的であっても、全体が生臭い性の匂いをぷんぷんさせていてもかまわないけども、それを貫く作者の目が、子供がへいきでスズメバチに手をだして握りつぶしてしまうときのような、何ものをも畏れない素朴そのものなまなざしを、感じさせてくれなくてはならない。

 私はその点について、この作品はとても素直な思いが根本にあるように思ったわけです。そういう点で投票したし、これに匹敵するようなすごい作品があれば教えていただければ、と。

 しかし、実をいうと、私の理屈からすればこの作品が正統的なシュールさを秘めた作品だとするならば、これは一般受けするはずがないわけで、あなたの感じた「趣味がわるい」という感想をみなから言われまくり、当然予選決勝など通過するわけはなく、一部の超強烈な熱狂的ファンによって(そしてそんな連中はもちろん投票などしない)、こっそりと支持されていく――それが正しいのかもしれず、私のこの書き込みはそういう点で矛盾しているかもしれませんね。

ちょっと書き込みすぎましたか。

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