第50期 #30
帰りがけにパンクした自転車を玄関前に止めたところで、いつものようにちーちゃんに捕まった。
「ごんべぇ、ドッジボールしようや」
「くたびれて帰ってきたとこなんやから、ボール遊びなんてようせぇへんよ。まぁとやったらええやんけ」
「ねぇちゃんは今は晩飯作っとるんやもん。なあ、今日はどこ行ってたん?」
ちーちゃんとまぁちゃんはこのアパートの二つ隣りに住む子で、共働きの両親は二人して帰りが遅く、六年生のまぁちゃんが、ほとんど一人で家事をこなしている。ちーちゃんが僕のことをごんべぇと呼ぶのは、一度教えた名前を次の日にはすっかり忘れてしまい、「なぁ名前なんやった」「もう教えたらへん」と、そんなことがあった所為で、つまりは名無しのごんべぇということだ。
「今日は日曜やのにずっとおらへんかったやん。どこ行っとったん? よし坊のお見舞いか」
「そうや、病院や。辛気くさいからえらい疲れんねん」
母親のよし子が山の上の病院に入院したのは一月前のことで、家を出たわけでないのに、一人暮しに逆戻りした恰好になる。
「そうかぁ。あ、ごんべぇ髭残ってるでぇ」
指差されて喉元に手をやると、喉仏の右上の方にわずかに髭が残っていた。
「ちーちゃん、チェック厳しいなぁ」
「そりゃそうや。いつもおとんのチェックしたってんねんもん」
「ちーちゃんは、おとーちゃんのこと好きなんか」
「好っきやで。ごんべぇと違ごうて、かっこええもん」
「あ、さよか」
「さよやで。百倍くらいちゃうわ」
ちーちゃんの両親は何をしているのか知らないが、土日も殆ど家にいることがなかった。しかしそのことでちーちゃんが愚痴をこぼすことはなく、その代わりにみたいに、毎日僕を捕まえて「ごんべぇ、ボール遊びしようや」と云う。何年も経って、ちーちゃんが僕のことをふと思い出した時、最初から名無しなのだから、名前を忘れられることはないな、とそんなこと思う。
「そや、ちーちゃんのな、ちひろっていう字ィ、漢字あるん?」
ちーちゃんは笑うように頷いてから、いつも持っているロウ石で、アスファルトに大きく「千尋」と書いた。
「なかなかええ字やね。これ、意味知ってるんか」
ちーちゃんは当たり前や馬鹿にすなよというような顔をして、背をピンと伸ばすと、両手を大きく広げ、宙に円を描きながら、「めっちゃ大きいゆう意味や」と云った。
その姿に宇宙が見えたと云ったら、ちょっと大袈裟な話になってしまう。