第50期 #29

エキストラ

 空席にそっと腰を下ろした皆川の耳が、隣で漫画を読んでいた男の発した小さな声を捉えた。
「おやおや、天才ジベタリアンの皆川先生じゃないですか。どうしたんですかこんな朝っぱらから」
 自分を知る同業者との遭遇に少々面食らいながらも、皆川は定石通り視線を交わさずに答えた。
「はあ、ジベタリアンは辞めたんです」
 四十前後の男が漫画ゴラクのページをめくるのを横目に、皆川は真新しい鞄から週刊少年マガジンを取り出した。
「ほう、辞めた」
 テンポ良くページを繰って男はまくしたてた。
「ジベタリアンの需要が減ったもんで食いっぱぐれのない『電車で漫画を読むサラリーマン』に転向ですか」
「需要はありますが、若くないとできませんから」
 電車が止まると、そうするのがマナーだとでも言わんばかりに男は手を止めた。
「それでしょぼくれたおっさんでもできる方に来たってわけだ」
「いや、そんな風には……」
 カリスマジベタリアンになるまで地を這うような努力を重ねた皆川はごく自然に男の言葉を否定しようとしたが、ドアが閉まると同時にそれを遮られた。
「なめるんじゃねえぞ」
 漫画ゴラクの中盤を睨み付けながら――そこで何が繰り広げられているのか皆川には想像もつかない――男は声を荒げた。通勤時間帯にはそぐわない剣幕に周囲の乗客は吊り革を握り締めるくらいはしたかもしれない。
「マガジン三年、ビッグ八年。一人前になるには十年以上かかると言われる世界だ。地面に座っているのとは訳が違う。半端な気持ちなら悪いことは言わない、PSPでもやっているんだ」
「おい、あんた」
 皆川は業界の禁を犯して男の顔を見据えた。それを敏感に察知した男は顔を挟むように漫画ゴラクを高く構えた。
「何考えてんだ、馬鹿か」
「俺は馬鹿でも結構だが、ジベタリアンを座っているだけ呼ばわりされるのは心外だ」
「どうでもいい、じろじろ見るな」
「いや、よくない。いいか、ジベタリアンは寝ることもあるんだ」
 次の駅に着くまでまだ少々ありそうだったが、視線に耐えかねてか男は席を立って吐き捨てるように言った。
「そういう意味じゃない」
 車内が少し暑く感じられ、皆川はネクタイを緩めた。水着姿のアイドルが地べたで見ていたころより随分生き生きとしているのに気付いて、ふっと小さく息を吐いて笑った。
 そして私たちの生活に溶け込んでいった。



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