# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 結婚記念日 | うさみみ | 998 |
2 | 目覚め | 戸田一樹 | 997 |
3 | 道すがらに聞いた話 | 間宮 アキト | 567 |
4 | 熊を見ていた | 安南みつ豆 | 972 |
5 | 大河 | 小松美佳子 | 684 |
6 | 狂 | 葵 | 452 |
7 | 駅での出来事 | ytk | 751 |
8 | 静かなる終焉 | 時雨 | 944 |
9 | 玉入れ | めだか | 1000 |
10 | 冬が溶けるとき | 八海宵一 | 840 |
11 | どうか孕ませて | 広田渡瀬 | 1000 |
12 | あいびき | さんたん | 977 |
13 | 外神田ボーンヘッズ | 野郎海松 | 997 |
14 | ある夜の出来事 | 封錠あき | 989 |
15 | 銀河観光社出張所NQ7711R | 朝野十字 | 1000 |
16 | 透明人間 | ザラメ | 666 |
17 | 海辺の病院にて | でんでん | 1000 |
18 | 水際に立つ | 真央りりこ | 1000 |
19 | 太陽への塔 | 三浦 | 964 |
20 | 海辺のアルバム | 江口庸 | 780 |
21 | 水色 | 川野直己 | 1000 |
22 | 二十歳のテープ | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
23 | 白象 | 市川 | 590 |
24 | 雨日余話 | 五月決算 | 1000 |
25 | モノクロームガーデン | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
26 | 隠れ月夜 | 曠野反次郎 | 672 |
27 | 島の花嫁たち | 朽木花織 | 995 |
失敗した。
昨夜、玄関で冬美の顔を見た途端、俺はそれに気付いた。
「おかえりなさい」
いつもより低い冬美の声。
「あのさ、朝、電車に乗るまでは憶えてたんだ」
焦って少し声が上ずるのを咳払いでごまかした。言い訳を考えながら。しかし、飲み過ぎの頭はサッパリ動いてくれない。
冬美は声を荒げて俺を責めたりはしない。皮肉や嫌味も言わない。無視することもない。ただ、目を合わせなくなる。
「ごはん、食べる?」
後姿で静かに訊いてきた。酒を飲んできたのは一目瞭然だ。
「お茶漬けでいい」
そう応えてリビングに足を踏み入れた俺は、テーブルの上に所狭しと並んだ皿を目の当たりにして言葉を失った。ラップ越し、手付かずなのは見て取れた。
冬美は何でもない顔で、間続きのキッチンのやかんを火にかけた。そして、
「梅干茶漬けでいい?」
そう訊ねながら、テーブルの皿をキッチンへと片付け始めた。
「おまえ、食ったの?」
どんどん運び出されていく皿を見ながらのろのろと訊く。
「はい、お茶漬け。悪いけど、調子悪いの。先に寝かせてもらうわ」
冬美はそう言うと寝室に行ってしまった。
待てよ。少しくらい言い訳させろ。寝室に消えてゆく静かな足音を聞きながらそう思った。
朝、起こされると、いつものように朝食の用意がされ、洗濯物もベランダにきちんと整列していた。二日酔いの顔を映す洗面所の鏡には、くもりひとつない。
完璧な妻だと言っていいだろう。この不景気の時代にフルタイムで働き、家事も自分ひとりで引き受けてこなし、夫に一度も不平不満をぶつけてくることもない。
おかげで、結婚して丸2年、俺たちは一度もけんかしたことがないのだ。
そして、仲直りだって一度もしていない。
許しあうことすら知らずに、昨日、結婚3年目に突入したというわけだ。
それはそれで、めでたいと言えなくもないのだろう。
安穏な日々。悪くはないはずだ。
たぶん、今夜も俺は酔って帰る。
だから、黙って先に寝るなり、実家に帰って俺の悪口をぶちまけてくれ。
でなきゃ、今すぐこっち向けよ。なぁ、冬美。
「先、行くね」
背中を向けて、冬美が靴を履いている。
「冬美」
気がつくと、名前を呼んでいた。
「……え?」
ゆっくりと振り向いた冬美は、ぽかんとした顔をしている。
「今日は、早く帰るよ」
そう言うと、一瞬驚いたような顔をして、
「うん。行って来ます」
冬美ははにかむように微笑んだ。
「気をつけてな」
ごく自然に言葉を返す。
3年目の始まりだ。
少年は今日も一人だった。木枯らしが吹き、黒くうねる波に背を向け、湿った砂浜にしゃがみこんでいた。
寒い日だった。曇天の空を数羽のかもめが旋廻し、暗く泡立った海を見下ろしていた。
少年は黄色く黄ばんだシャツの袖をまくり、砂浜に大きな穴を開けようとしていた。黙々と鉄さびた小さいスコップを動かしていた。夢中だった。寒さを感じることもなかった。遠くに響く潮騒も耳には入らなかった。どうしてそれほどまで我を忘れて穴を掘っているのか、またいったい何のためにそんなことをしているのか、その答えは少年にさえも分からなかった。
膝の高さほどの穴が出来上がった時だった。何かが、しゃがんでいる少年の尻を小さな力でぐいと押した。最初少年は無視した。しかしその力はだんだんと強くなり、激しさを増していくので少年は振り返った。
そこには一頭の亀がいた。少年は目を丸くした。というのも、生まれてこの方、二本の後ろ足で立つ亀など見たことがなかったからだ。
「君は何? 本当にカメなの?」
恐る恐る少年は尋ねた。亀は何も言わず、、一度ぶるっと頭を細かく振り、短い脚をこきみよく動かして少年の作った穴に飛び込んた。
その穴の深さは亀にとってちょうどいいものらしかった。足を穴の底につけると、ぴょっこりと頭の部分が地上に突き出した。
風が少年と亀の間を吹き抜けていった。少年はその時にはじめて寒いと感じ、ぶるっと身を振るわせた。亀も身を振るわせた。そしてまた二人の間を風が吹き抜けていった。
「君は何? 本当に本当にカメなの?」
少年は繰り返し尋ねた。亀は黙っていた。と突然、前足を不器用に動かして真上にとんだ。少年は驚いた。というのも、これまで跳躍する亀など一度も見たことがなかったからだ。
元の場所に着地した亀に少年はゆっくりと手を伸ばした。噛み付かれたりしたらどうしようという不安はなくもなかった。けれど、たとえ噛み付かれたとしても、どうしてもその亀に触れてみたかったのだ。
亀は拒まなかった。少年の細く短い指をおもちゃにするように首を動かした。少年は少しずつ大胆になり、両の手を伸ばし、亀の身体をつかまえて自分の腕の中に引き寄せた。亀の腹は思いの外やわらかく、そして暖かかった。どうしてだか少年の目には涙が溢れ出した。亀は何も言わず、少年のやせた胸にじっと頭を押し付けた。
その圧力を感じたまま、僕の目は静かに覚めた。
住宅街を横切る対面道路を車を走らせていると今は潰れた飲食店の隣に大人が屈んで通り抜けれようかぐらいの小さな鳥居がある。奥行き横幅とっても畳3畳分ぐいの敷地に小さな鳥居が4つ並んでいて、住宅街にあって異質な風景。
地の人でもある細君に聞いてみると何でも奥には古い井戸があって、井戸には疣神様が奉られているという。
なんでも、その井戸から汲みあげた水に疣、腫れ物を浸すと、たちどころに消えてしまうのだとか。
そういう迷信だとか言い伝えは一切、信じない僕が、鼻で笑っていたところ細君が、そういえばと話をしてくれました。
細君が未だうら若き乙女であった頃、被れたのか虫に刺されたのか首筋が真赤に腫れ上がったらしいのです。やはり他人の目が気になる年頃だったし、格好良いもんじゃないしと藁にもすがる思いで疣神様のところに行ったのね。水を汲みあげたとこまでは良かったんだけど、結局病院に行くことにしたわ。
だって、あれは水と呼べるものじゃなかったもの。いうならば泥ね。泥よ。もしかしたら、その泥に疣や腫れ物を治す成分があったのかもしれないけれど、逆に雑菌とか入りそうで私には無理だったわね。神様の水だというのに変な話だけど。そう言って細君は短く笑った。
バックミラーに遠く映る小さな鳥居は、時代に置き去りにされてしまったかのようにやがて見えなくなってしまった。
トモキは都心から一時間以上も電車を乗り継いで八三子駅に降り立った時、想像していたむせかえるようなハチミツの匂いがしないので拍子抜けした。
言われたとおりオレンジ色のバスに乗り、幼稚園と保育園と短大のある丘をのぼる。このバスは八三子市のハチミツでできているらしいが、とてもそうは思えない。
八三子がひとつの大きな冗談の町のように思える。仕事でもなきゃこんなとこには来ないだろう。
台風がきている。
台風23号はすでに東北のはるかかなたへ突き進んだというのに、まだ強風圏内にいる。
海の上をはしる八糖線ハチミツ23号は、強風のためストップしてしまった。
トモキは駅前で足止めをくらった。
八糖線と糖蜜線の乗り入れる、ターミナル駅のはずなんだが、この駅前はあんまりだった。パチンコ屋が3軒も目に入るがあいにくトモキにその趣味はなかった。書店すらない。
茫然。
そこへ風にあおられ揺れながらハチミツ色の空気がやってきた。なにやら遠くから自分を眺めているようにおもえる。
懐かしいようなうっとうしいような、昔感じたような、へんな気持ち。
本で読んだような。
砂糖子はセイミツジョから、歩いて駅の駐輪場に向かう。
踏切が近くになく、とおく跨線橋をわたらないといけないので、ここに置いている。
南口からのぼり、北口へ降りる。
階段のした、だたっぴろいロータリー、大きい駅のわりにはひともまばらだ。
学生の頃ずっと見ていた後姿、横顔、佇まいで、あれと思った。
似た人をみるといつも思い出す。いつしか砂糖子は、痩せて背の高い彼を、熊だと思うことにしていた。
二つ先の信号の角を曲がった保育園でハルキは待っている。
砂糖子は養蜂所のひとが着る、例の宇宙服の格好をしていた。
網越しに自分の顔をみている、トモキは確信した。
砂糖子は熊を見ていた。
かすかにハチミツの香りがした。風がひっきりなしにロータリーの中を吹き抜ける。
やがてどこか遠くのほうをみてあるいていく。
同乗器つきハルキつきの自転車でまた駅前を通過する。
「ママー。ゾウター、ゾウター」
ハルキが指差す先をちらりと見ると、あの宇宙服を着た背の高い熊が立っている。
熊は最後に手を振り、砂糖子を見送った。少なくとも砂糖子にはそう見えた。それだけでよかった。
サヨウナラ、砂糖子は、ゆっくりとつぶやく。
中国の、館の一室の窓辺に、独り端座している。
時あたかも早春である。
窓の外には悠々たる大河が流れている。河幅は相当に広く、対岸は水墨のようにおぼろに霞んでいる。
左右を見渡してみるが、窓からは一木一草も見ることはできない。
どんよりと曇った空の下に、静かな大河の姿だけがある。
この大河はさぞかし名のある河だろうと感じる。
館も、かなり古い時代の由緒あるもののようだ。恐らく、昔の権力者が、この河を賞でるために河畔の一等地に建てさせたものだろう。
室の天井は高く、柱や梁の材は武骨に太い。窓の前面には露台が組んであって、大きく河に張りだしている。
しばらく静かな川面のさまを眺めていると、細長い髭をはやした執事らしき男がやってきた。
彼は釣り竿を携えている。ここから釣りをしろということのようだ。
さらに、男は会釈して一枚の大きな白い紙を差し出した。
鳥の子紙のような密度のある紙の上には、大小さまざまの無数の「魚」の字が、筆でびっしりと書かれている。
小さい魚の字は下の点も二つか三つしかなく、中央の「田」の部分も「口」になるなど、薄墨の細筆で簡略に機敏に書かれている。
大きな魚には、筆画が混み入っていてまるで写生画のように精緻に書かれているものもある。また、墨痕鮮やかに豪快な筆致で書かれた力強い魚もある。
しかしどれも、「魚」の字である。
どうやら、これを餌に使えということらしい。
私は、なかから活きのよさそうな字を選ぶ。すると、男はそれを瞬時に紙から引っこ抜き、針につけた。
私は、渾身の力を込めて竿を振り上げ、大河めがけて勢いよく釣り糸を打ち込んだ。
狂った僕の目には嗚呼、美しい君しか視えなくて。
耳鳴りの音が今日は善く聴こえます。
ねえ、君。
この混紡の僕を如何して羞じないのですか?
皆が正しいと称するこの世界は、矛盾だらけと僕は云った。
君は云います。哂って云います。
「そうだね」
本当は、僕の世界が狂っていたんだろう?
解っていたんだろう?何故?
嗚呼。僕の一族が憐な眼で僕を観ます。
君が啼いたあの日から世界は止まっているんだ。
僕はあの日君が云った事が信じられなくて、
でも、少し経って解ったんだ。
君が正しい判断をしたって事が。
君は云いました。僕に銃を突きつけて。
「あんたなんかさ、壱つの駒でしかなかったのに。」
僕は問いました。
「何故?何故なんだ?止めてくれぇぇ。」
僕は君を刺しました。すると君は哂います。
「有難う。この狂った世界から堕してくれて。愛してる。」
君の銃の弾倉が空?狂っている全てが。
性別?歳?何も関係なかった。愛し合った僕らなら。
僕は今からこの矛盾だらけの狂った世界から堕ます。
嗚呼、僕の正しい、恐ろしく狂った世界にはきっと君が居ます。
今、君の元へ。
もうこんな時間だよ。急がなきゃ。大きく肩に背負ったボストンバックが動きをさえぎる。どけ、どけ、どいてくれ。電車の来る時間までもう一分とない。改札機さえ邪魔くさい。俺が階段を上り終えたとき、鉄の塊は再び動き始めた。
ああ・・・。
頭の中を絶望が支配した。次に浮かぶのはこれから自らの身に起こるのであろう精神的苦痛とプレッシャー。次の電車に乗り、椅子に座り、いつもの人間観察を始める。人間観察とは聞こえが悪いが、「観察」なのだ。顕微鏡でミジンコを見るように、籠の中の鳥の次の動作を期待するように。昔からじっと何かを見ているのが好きな俺にとって、これはいい暇つぶしとなった。
一人の中学生がいた。スクールバッグを背負い、空いている席にも座らず、ただ窓の外を眺めていた。その子は特に何をしようともせず、ただ外を眺めていた。
結局、目的の駅に着くまでその子はまったく動かなかった。
不思議な子だなぁと思いつつ、遅刻しきった学校へと向かう。クラスの奴らも担任もクソ真面目で毎日遅刻する俺は異端者扱いだ。周りの目も冷たい。
こんな高校、入らなきゃよかった。
帰りの電車に、あの子はいた。その隣に人のよさそうな大学生らしき人もいた。大学生はいいにしても、「あの子」は朝とまったく同じ位置にいた。
気味が悪いな、幽霊か?
まさかとは思いつつ、駅に止まったので降りることにする。と、後ろから来た誰かとぶつかった。文句を言おうと振り向くと、さっきまで見ていた二人はいなかった。
家には親はいない。ちょうど旅行中だ。制服をハンガーにかけ、何気なくポケットに手を突っ込むと二枚の紙切れが出てきた。
“何回か遅刻したぐらいで今までの努力を無駄にしちゃうのかい?”
“今を乗り切った先は案外楽なものなんだぞ”
・・・俺は、明日から現状を打破することに決めた。
2月。
肌を刺す冷気の中で、初めて抱き合った。「好きだ」耳元で囁く彼の言葉が、冷え切った心の奥底にじんわりと広がった。「彼女がいるくせに」囁き返すと、少し眉を寄せ哀しそうに微笑みながら、繰り返す。「好きだ」
雪の降る中、手を繋いで駅に向かう。頬を刺す冷気が湧き上がる感情を冷ましてくれているかのようだった。
3月。
初めて一泊旅行に出掛けた。どこへ行くかより、誰と同じ時を過ごすかという大切さを知った。
4月。
二人きりで車に乗っている所を彼女に、目撃された。彼女は、疑いの眼差しを持っていたが、彼の言葉を信じた。最終的には、目の前の「私」という存在は、彼女には映らなくなった。彼のたった一言で。
5月。
別れを決めた。彼女の存在が気になる。彼女が本当の事を知った時、その心を思うと彼との秘密の恋を続けるのは到底、無理だと思った。別れをメールで告げる。何て便利な世の中なんだと改めて、感心した。
6月。
「やり直そう」彼からのメールが届き、虚ろな日々を送っていた私は、それに応じた。二人の秘密の恋が再開した。
7月。
彼に結婚話が持ち上がる。考える時間が欲しいと彼女には、答えたそうだ。答えは既に出ているだろうに・・・まるで、残された時を精一杯、過ごすかの如く愛し合った。
8月。
彼女に対して嘘をついているバチが当たったのか、体調を崩した。完治するまで二週間も掛かった。退屈な病床での唯一の楽しみは、仕事の合間に送られてくる彼からのメールだった。
9月。
結婚話の返事のタイムリミットが近づいていると言う。「彼女を幸せに、してあげてね」笑顔で跳ね除けるしかなかった。「別れたくない」と言う彼。結婚生活に対する男が担う責任、大人としてのケジメを付けるべき時など、あれやこれやと説得する。
10月。
結婚する事に決めたとの報告。携帯の画面では、心とは裏腹に「おめでとう!お幸せに」祝福の言葉が羅列する。私の秘密の恋は、終わった。
秋の訪れと共に失恋なんて・・・。何てタイムリー過ぎて、涙もこぼれない。お気に入りの曲を聴きながら、湯船で手足を伸ばす。少しだけ、涙が出た。大丈夫。お風呂から出れば、又いつもの私に戻れる。きっと、大丈夫。いつもと変わらない笑顔を、夫に見せる事ができる。きっと、大丈夫・・・・・・。
子供を乗せたまま自転車が横転。
「ああ、なによ。どうなってるのよこれ。ちょっと大変じゃないの、あんた反省しなさい。笑ってる場合じゃないでしょう、けがしなかったの。不思議な娘ね。」
「それより、さっき睨んで行った男が悪いのよ。いつも喫茶店でキザったらしい細巻き煙草なんか吸ってさ。こないだなんか火が付かないからライターを貸してあげたのに、断るなんて。」
「恥ずかしい。みんながこっち見てるじゃないの。」
「そもそもああいう、なにやってんだか判らないナヨナヨ男が昼間から、ブラブラしているから狭い駅前が混むの。それに、こんなに自転車があって通れるところなんかないじゃない。だいたいみんな、どうして通るときに、退かないのかしらねぇ。こんな狭いところを子供を乗せた自転車が通るんだから、あぶないのは判ってるじゃない。道を譲り合うってこと知らないの。いつからこうなったのよ。」
「今だって誰も助けてくれないし、まったく都会は冷たいわ。あのひとも、お父さんのことは私に任せっきりにしているし、お洗濯して買い物して、病院に行ってこの子の送り迎えして、ちょっと、お茶でもしようと思ったら席取りに文句を言われて散々よ。それに、せっかく特売で買った豆腐と卵が台無しじゃないの。」
「どうするのよこれ。」
10月13日(水) 曇
運動会の疲れからか、節々が痛む。
帰宅後、父の件どう思っているのかと詰問され、
いきなり豆腐を投げつけられる。困惑…。
泣き出すと卵も投げてくる。散々。妻、先に就寝。
昼間の出来事など、娘と風呂に入り聞きだす。成程ねぇ。
台所で残った豆腐や卵など片付ける。11時に就寝。
妻の鼾、耳に五月蝿し。豆腐の使い方を思いつく。
10がつ14にち もくようび あめ
きょうは、おとうさんがほいくえんにおくってあげました。
きのう、おかあさんとけんかをしたからねといてたです。
けんかをするのはよくないです。
じでん車にのってふざけるのもいけません。はんせいしなさい。
おかあさんはいちにちじゅうねています。エイッ。
はやくよくなってあそぼうね。おかあさん。
10月15日 仏滅
赤成地区、成果ナシ。車12.7km。
令状1。判決猶予のもよう。
報告済3。
変死体1。身元不明。
女性35歳前後。全裸。
43号線ヨリ日吉山の林道脇、土中70cm程度。
散歩途中、老夫婦発見ス。遺留品ナシ。
右、特徴ハ鼻腔奥に豆腐、喉元に卵を詰め込んである点。
怨恨か。
ストーブにかけた薬缶がコトコトと音をたて、湯気が少しずつ部屋の空気にとけこんでいる。障子で閉めきった六畳間は、適当なしめり気と、さきほどまで炙っていたカワハギのにおいが、ゆっくりと漂っている。旧式石油ストーブのあの独特な悪臭はまだしていないので、ちょっと、仕合わせな時間だった。
真也は、ちょうど炬燵にもぐりこみながら、図書室から借りてきた『シャーロック・ホームズの帰還』を読み、うつらうつらと舟をこいでいた。祖父の鹿朗は、その向かい側で、あぐらをかきながら、新聞を広げ、興味のある記事だけを拾い読みしながら、その上でミカンをむいて食べていた。
ほこほこと静かである。
でも、その静けさは、「じりりりりん」と電話がなって、消えてしまった。
茶箪笥のうえにおいてある、じーこ、じーこ、の黒電話は大雑把な音で、波のように行ったり来たりして、鹿朗を呼んでいた。
「はい、もしもし…はい。はい、そうです。ええ、あー、そうですか、それはどうも。ええ、ええ…はい、どうもありがとう…はい、失礼します」
鹿朗はペコペコと頭を下げて、受話器をゆっくりと丁寧におろし、またぞろ、なにごともなかったように炬燵にもぐりこんだ。
すると、かわりに真也が炬燵から這いだした。頬を真っ赤に火照らせた真也は、天盤に『ホームズ』をふせて、大きなあくびをひとつした。
「だれからだったの?」
ぼんやりとした口調で訊ねると、鹿朗もまた、ぼんやりとした口調で、応えた。
「エヌ・テー・テーさんからだったよ」
「エヌ・テー・テー?」
「電話屋さんだよ」
「なんて?」
「受話器がきちんとおりていないから、おろしておいてください、って…おろしてないと、電話がつながらないからね」
「ふうん……エヌ・テー・テーさんは、親切な人だね」
「そうだね」
鹿朗はあくびをしながらうなずき、またミカンに手をのばした。それを見て、真也もふせた『ホームズ』を取りあげて、また読みはじめ、ゆっくりと字を追いながら、こっくり、こっくりと、舟をこぎはじめた…。
昨日、きっぱりと諦めようと誓った。何度もそう思った事があるけれど、今度こそ本当に諦めるんだと心に決めた。
・・・でも。今日になって思い知る。やっぱり諦められない。私の身体がどんなマイナス要素で満ちていようとも、私の脳は子供を産む事を夢見てやまない。
「先生、いくらお金がかかってもかまわないんです。ホルモン治療とか人工授精とか、手段ならあるでしょう?」
「いや、・・・しかしねぇ」
「基礎体温を計っても性交渉のタイミングを工夫しても、少しも効果が見られない。・・・全ての治療を試す前から諦めろと言うんですか!」
私は二年前から、一つ年上の男と同棲している。同棲し始めた頃から、私は子供が欲しくて仕方がなかった。結婚にこぎつけるため、というわけじゃない。彼は元妻との離婚調停が済んだばかりで、これから高い慰謝料と養育費を払ってゆく立場だ。再婚出来る状況でない事くらいわかっている。そもそも彼の離婚の切っ掛けが私なのだから、その私が結婚をせがむ事もむずかしい。
それでも私は、どうしても子供が欲しい。子供のみがもたらしうる幸福について、ついつい深く考えてしまう。
「やはり来られましたか。そんなに頻繁に来られても、有効な処置が出来るわけではないのですが」
柔和な婦人科医師は諭すように言う。
「でも先生・・・」
「あなたが真剣なのはよくわかりますよ。でも時と場合によって、出来る事と出来ない事との別はうまれるものです」
私たちの性交渉はきわめて順調だ。求めれば応えてくれる。求められれば応えもする。二人ともまだ若いし、回数だって普通より多いくらいだ。
不妊について、彼に協力してもらっているわけではない。彼の状況が状況だけに、子供が欲しいとはなかなか言えないから相談もしていない。でも、彼は元妻との間に子供をもうけているのだから、彼に問題はないはずなのだ。
あるとすれば私の方。こんなにこんなに子供を欲しがっている自分の方・・・。
「先生、決心とお金の用意をしてきました。・・・体外受精が一番確立が高いんでしょう?だったら今すぐそれを施して下さい」
婦人科医師は目を閉じ、深いため息を漏らした。
「あなたの夢を壊すようで申し訳ないですが」
「なんですか」
医師の顔が、突如柔和なものから厳しいものへと変わった。
「そもそも、現代医学では不可能なんですよ!男性が男性を孕ませるなんて事は!」
「じゃぁ女性なら、私を孕・・・」
「それも無理だ!」
「ええと、こっちかな?」
私は公園のブランコに座っていた。
「う〜ん、分かんないからどれでもいいや。」
そう言うとお姉ちゃんは適当にさっきコンビニで買った肉まんを私に渡した。
「それで今日は何からはなそっか。」
私は夜中に親の目を盗んでこっそりお姉ちゃんとたびたび公園に来ていた。
「特に喋ることがないなら何もこんな夜中に・・・。」
後半部分は、肉まんにかぶりついてしまったのでちゃんと喋れなかった。どうやらこれはお姉ちゃんが選んだピザまんのようだ。
「小学生にはまだ分かんないわよ。」
お姉ちゃんはため息をつきながら肉まんにかぶりついた。そしてあたしのピザまんと交換したけど、かぶりついた後の大きさが全然違って、年の差と、ちょっとした不公平を感じた。
「なんかこう、私って考えずに行動するくせがあるからさ、いつも疲れてばっかなんだよね。」
「それはどうもおつかれさまです。」
少しブランコをこいだだけで、夜の空気が服の中に入ってきた。
「あんた今日もあんまし聞く気ないみたいね。」
そう言うと、お姉ちゃんはピザまんの二個めにとりかかった。私も、もう一個欲しかったが奢りなので贅沢なことは言えない。
「小学生が解決できる悩みを自分でなんとかできないなんて大人失格だよお姉ちゃん。」
私がそんなことを言ったもんだから、お姉ちゃんはふてくされてしまった。
「あ〜あ、私が子供の頃には大人になることって結構あこがれだったんだけどね。」
そう言ってお姉ちゃんは星を眺めだしたので私もつられて空を見上げた。
ブランコをこいでみると、少しだけ星が降ってくるような感じがした。
「そういや、このブランコって思いっきりこぐと後ろの木に着くって知ってた?」
「ううん、知らなかったけどまさか今からするの?」
「いや、やってみたら子供に戻った気分になるかなって思ったけど、スーツが痛むからやめるわ。」
するとお姉ちゃんが「帰ろっか?」と言ったので私はブランコから立ち上がった。
「最近私日記書いてるんだ。日頃の悔いの残ったことを書いた後悔日記。」
「お姉ちゃん・・・。」
「はは、冗談冗談。そこまで暗い人生おくってないしね。」
「あ〜あ。彼氏出来ないかな。」
お姉ちゃんが帰り道決まったセリフを言う。
それを私が決まったセリフでかえす。
「はいはい。しばらくは私でがまんしてね。」
そして手をつないで決まった帰り道を歩いて帰るのだった。
彼女のために何かしたかった。でも彼女が僕に何をして欲しいのか、さっぱり分からなかった。僕は彼女のことを何も知らない。名前も、住所も、何をしているかも。
僕はテレビを見まくった。コンビニ強盗、わいせつ教師、放火巡査、そういった連中をかたはしから駆除してやろうと思った。それが彼女のために僕ができるただひとつのことだったから。僕は街に出た。
しつこいポン引きをビルとビルの間に引きずり込み、半殺しにした。ゲームセンターの前にたむろしていた高校生の頭をつかんで、ひとりひとりクレーンゲームの中へ叩きこんだ。立小便していたサラリーマンを突き飛ばして、電柱とディープキスさせた。絡んでくるチンピラはスタンガンとアーミーナイフで昏らせた。
そうやって、僕はいつしか夜の外神田で知らぬ者なき有名人になっていた。仲間もできた。彼らは――砂糖にたかる蟻のように――増え続け、ついには二〇名を超えるチームになった。それが外神田ボーンヘッズだ。
外神田ボーンヘッズは秋葉原の電脳オタクと結びつき、やがて神田一帯に強固な活動基盤を築いた。電脳オタクの高校生がネットで資金を荒稼ぎし、組織はさらに膨れ上がった。
彼女のために何かしたかった。でも僕が彼女に何をしてやれるのか、やっぱり分からなかった。僕は彼女のことを何も知らない。名前も、住所も、何をしているかも。だから仲間たちが彼女をまわしていることなんか、気がつきもしなかった。僕は、裸にされ鉄筋の梁に縛られモデルガンの的にされ、組織の末端のくずどもに代わる代わる突っ込まれている彼女を発見した。それは間違いなく彼女だった。そして――。
「日本橋を中心に暴行障害、詐欺、売春斡旋等を繰り返していた大規模な少年犯罪組織が、内部の確執から大きな抗争に至り、多数の重軽傷者を出しました。警察は組織の全容解明を急いでいます」
テレビ帝都 トワイライト・ニュース
「晴海埠頭で男性(21)失血死――日本橋の抗争事件に関与か」
「拉致監禁の少女(19)は無事保護、消耗著しく」
朝一新聞 社会面
――僕は晴海のコンテナエリアに潜伏していた。捕まるのは時間の問題だ。でももうそんなことは関係なかった。僕の隣には彼女がいた。彼女のために何をしたら良いか、僕にははっきりと分かっていた。ポケットの中のアーミーナイフをまさぐり、僕は彼女に尋ねた。
「寒い?」
「寒い」
彼女は答えた。僕は頷いた。
月明かりがとても眩しい夜だ。心地よい静寂がその場を支配し、僕は物思いにふけっていた。
「ぴしゃん!」
いきなり、水溜りを踏む音がして僕は現実に引き戻された。廃墟ビルが立ち並ぶ道の一角。水溜りの近くには、一人の少女が怯えた様子でかがんでいる。その身の全てを黒に包んだ少女は・・・、いや、訂正しよう。少女の瞳は、決して普通の人間のような黒い瞳ではない。彼女の瞳は鮮血のように月明かりの下で不気味に輝いている。だが、その瞳にもどこか怯えている様子が伺える。
「私が…悪いわけじゃない……。」
少女は両腕を抱え、小刻みに震えながらつぶやいた。よく見ればその手にはまだ新しいだろう、どす黒い血がべったりとついていた。
「私は悪くない。だって…。」
だって、あの店員が素直に金を渡さなかったから。いつもはうまくいってた。一連の流れ作業のように、すぐに終わるものだった。なのに…!
少女は、半分以上錆びたナイフを両手にしっかりと、そして慎重に手に取った。やはり、そこにも新旧いろいろな血がこびりついている。
「そうだよ、私は悪くない。だって、こうしなきゃ生きてこられなかった。悪いのは私の親だ…!!」
血を吐くような声で、少女はナイフを握り締め叫んだ。水溜りの水面が微かに揺れた。僕は静かに少女に近づく。
「…だが君は人を殺した。理由が何であれ…ね。」
僕は嘆く少女に向かって優しく言った。少女にも分かるように言葉を選びながら。
「分かるかい?人を傷つけることと、人を殺すことは全然意味合いが違うんだよ?」
「あんた…誰!?あんたに何がわかるの?私の何が…!!」
反論しようとする少女の言葉を遮り、僕ははっきりと言った。
「その証拠に、君の瞳はもう黒くない。」
そう、それは人殺しの証。永久に背負っていかなければいけない死者の呪いだ。その言葉を聴いた途端に、少女はその場に泣き崩れた。ナイフを投げ出して。だが、こうなった以上少女は闇が支配した世界で生きていかなければならない。二度と日の下に出ることはないだろう。僕と同じように…。
「さぁ、行こう。同志たちが待ってる。」
いまだに泣いている少女の手をとり、僕は赤い瞳だけが輝く闇の世界へと歩き出した。
「イヤだ!…イヤだ!!行きたくない!!」
少女は泣き続け、私の手を光のある世界へと引っ張ろうとする。…今更遅い。人を殺すと言うことは、一生では償えない罪を背負うことなのだから。
空は、血の色だ。夕日が黒い地平に浮かんでいる。足元には熱で溶けたガラスの塊、折れ曲がった鉄筋とコンクリートの欠片。黒焦げの瓦礫の上を、転ばないよう注意しながら、どこまでも続く廃墟を美しい女性型アンドロイドに付いてゆっくり歩いていく。
「……トレトエンズ歴で5001年のことでした。ここにサンタマク王朝はその歴史を閉じたのでした」
風が強くなってきた。砂塵が舞って辺りを一層暗くしていた。私が立ち止まると、アンドロイドが振り返った。
「案内所に戻りますか? お疲れのように見えます」
「いや……」
「オンニーロルの首塚に行かれますか? トロリ族の習俗についてお話しましょうか」
「ヴェタの泉に行きたい」
「最も人気のある観光名所です!」
古風なファッションに身を包んだ旧式アンドロイドは、嬉しそうな様子になった。それを見て私も少し嬉しくなった。丘の麓の鉄屑の山をシャリシャリと掻き分けると、鋼鉄のドアが現れた。ドアを開け、内壁が黒く焦げて鉄柱が剥き出しになった広いフロアに入った。床一面にガラスが湖のように丸く広がり、真上の天井に大穴が空いていた。アンドロイドは壁に立てかけてあったモップでガラスの表面を手際よく拭いた。
「さあどうぞ、王朝最後の王女、ヴェタ・マルータです!」
澄んだ湖を覗き込むように下を見ると、ガラスの層は深く、その底に一人の美しい娘が塗り込められていた。
「ここは宮殿でした。高い天井には性質の異なるガラスが幾層にも重ねられ、光の入る角度によってあらゆる美しい色に輝きました。そして、あの最終戦争の時、光子爆弾が頭上で爆発し、一瞬にして輝ける虹となったガラスが王女の上に降り注いだのです!」
私は恐怖に蒼ざめた王女の顔をじっと見つめた。どれくらい時間が経っただろう。私は静かに立ち上がった。
「次はどこへ行かれますか?」
「いや……」
私はアンドロイドの美しい瞳を見た。
「君、名前は?」
「NQ7711Rです」
とても綺麗だ。ずいぶん長く整備されないままなのに。たまたま不時着した星に、彼女だけがまだ動いていた。今日、およそ5光年かなたの地球から待ち続けた通信が来た。5年前のものだ。
「地球は全滅していたよ。くだらん戦争のために。もう助けは来ない」
「…………」
「ありがとう」
「明日もいらっしゃいますか?」
「いや。もう来ない」
アンドロイドは少し寂しそうに見えた。彼女に背を向け、ゆっくり歩いていった。
「ホラ、……という奴がいただろう。」
喫茶店の喧騒の中、2人の男がテーブルを挟んで座っていた。
聞き手の青年が頷くと、男は煙草に火をつけて話し始めた。
「元々、大学でも、どこか存在感の薄い奴でさ。それが、
ある時を境に『見えなく』なった。嘘じゃない。
初めは、口数が減って、滅多に笑わなくなっただけだった。
それが、そこに居るんだか、居ないんだか分からなくなって、
だんだん、蝋人形みたいに白くなってきたと思ったら」
男はそこで、内緒話をするかのように、身を乗り出して囁いた。
「透き通って、消えちまったのさ。」
言葉と共に長々と煙を吐き出すと、男は椅子に座りなおした。
「不思議なのは、俺以外の誰一人、そいつが居なくなったことに
気付かなかったことだ。おかしいだろう? でも、そう言う
俺も、本当に奴が存在したのか、時々分からなくなるんだ。
変な話だけど、全然、顔を覚えてないんだよ。ただ、笑い方に
癖があったのが、印象に残ってるだけでさ。」
それまで頷きながら男の話を聞いていた青年は、腕時計を眺めると、
考え込んでいる様子の男に断りを入れて席を立った。
喫茶店の外の空は、ふやけた紙のような雲に覆われた、一面の
くもり空だった。店の前の通りは、人で溢れかえり、店先に佇む
青年の目の前で、群集は、まるで一つの生き物であるかのように
息づき、ぜん動しながら進んでいった。
その中の誰もが、流行のジャケットを羽織り、奇妙に表情の
失せた、同じ顔をしていた。青年は、口の端を歪めて笑うと、
滑るように歩き出した。その姿は雑踏の中に溶けて、すぐに
見えなくなった。
周囲には魚の匂いがたちこめていた。
それが砂浜の中を歩いてここにたどり着くまでの間に身体にしみこんでしまったものなのか、もともとこの病院に充満していたものなのか、私には分からなかった。
砂粒が混じった髪の中に指先を差し入れ、その指を鼻に近づけてゆこうとし、不意に自分のしぐさが獣じみているように感じてやめた。脂と汗にまみれた手のひらは熱を持ち腫れていた。それはひどく疲れている時に現れる兆候だった。バスに乗るという手もあるがね、本当は歩いて行った方が早いんだよ。病院への道のりを訊ねた私に駅員はそう言ったのだった。だってバスは砂浜の上を走っていけないんだからな、そうだろう? 海沿いにまっすぐ歩いて行きゃいいんだよ。駅員の顎から首筋にかけてを大きな海豚の形をしたかさぶたが覆い、その縁に泡だつ卵色の膿のあたりから、剃り残した太い毛が何本か突き出ていた。
靴の中に入った小石を取り出すために、廊下の途中で立ち止まった。
砂粒がびっしりはりついて紙ヤスリのようになった窓ガラスの向こうに蜜の色をした砂浜が見えた。しかしそれを本当に浜と呼んでいいのかとなると自信が持てなかった。ここへ来る途中で海を見たかどうか思い出せなかったからだ。駅を出てから見たもので記憶に残っているのは、砂を除けば、空を次々にかしぎながら走っていく帆の形をした雲だけだった。波の音は聞こえていた。幻聴だったのかもしれない、と私は考えた。そして波の音が幻聴だったのなら、この魚の匂いだって、たぶん幻覚なのだ。
でも本当にそうだろうか。乗っていた電車は確か「海岸」という言葉が終わりにつく駅を通過したのではなかったか。車窓からも一度も海は見えなかっただろうか。ここに来るまでの道のりをもう一度頭の中でたどろうとしたが、三度目の乗り換えで電車が単線になってからのことはよく覚えていなかった。座席で居眠りをしていたせいだ。私は疲れていた。砂丘を一時間かけて横切ってきたことだけがその理由なのではなかった。
玄関にも中央ホールにも廊下にも、人の姿はない。私はこれから自力で父がいる病室を探し当てなければならない。そんな病院があるだろうか。そもそもここは本当に病院なのだろうか。ここに入ってくるまでの間に、ここが病院だという確かな証拠を、私は一度でも目にしただろうか。
土踏まずにくいこんでいたのは、石ではなく、小さなうずまき貝の貝殻だった。
夢に母が出てきたことがあるかと父に問われた。一度くらいは見たような気がするが、どんな場所でどんな服を着ていたか、何かをしゃべったのか、母は笑っていたのか、忘れた。夢に母が出てきたことは確かにあった。目覚めたあとに泣いたのを覚えているからだ。
そんな夢でも父はうらやましがり、おれのところに一度も顔を出さないなんて愛がないじゃないかと笑った。目尻には、繰り返すことで笑い顔を崩さないでいられるようしわが刻まれていた。
父は自分が淹れたコーヒーを縁側で飲んだ。母がいるときからそれは変わらなく続いていた。
「お前も飲むか」
休日の午後、庭に薄日が差していた。今年も柿の実が次第に色を濃くしている。父の背中をなでた風が、耳元を通りすぎて行く。
「母さんがな」
まるで母が台所で夕ご飯の支度をしているように、父は小声で言った。母に聞かれたくない話や機嫌がいいときの昔話、お説教の類。そういったことを口にする時、父は子供のように声をひそめて内緒話をする。照れ臭そうに間を取って。
「別れてくれって言うんだ」
「誰が?」
「母さんだ」
「誰に?」
「決まってるだろう、おれにだよ」
父はいつから自分のことを『父さん』と言わなくなったんだろう。ぼんやりと考えていると、もっとびっくりしろよと怒られた。
母の倒れたところは、芝がすっかり生えそろっていた。涸れ滝のてっぺんで蛙が喉を振るわせている。日暮れの早まる季節だった。夕飯の下ごしらえをしたあと、父と母は庭の草むしりをした。お互い別々の場所から庭を掘り進むように草を取っていたから、父は倒れた母にしばらく気がつかなかった。目の前の草を次々むしり、あたりが暮れてきた頃、父は母の名を呼んだという。
あの日以来、滝には水が流れなくなった。水道を引いて作った高さ一メートルほどの滝には水が循環するボタンがある。そのボタンを父が押さなくなったというだけのことだが。
「それで、なんて返事したの」
問いつめるような聞き方になった。
父は笑顔で、どうぞと言った。
コーヒーでも勧めるようにあっさりと。
「……別れたの」
私の驚きをよそに、父はカップを持って立ち上がる。
「くだらないことでケンカしたくなかったしな」
「夢にも出てきてくれないかもね」
そうか、そうかなぁ、そうかもな。つぶやきながら父は突き当たりの壁のボタンを押した。ボタンは赤く灯り、モーターがうなり始めた。地面の底の方から水音が聞こえてきた。
暗がりが怖くて仕方ない王様は、御日様を寝室に飾れば夜もすやすや眠れるだろうという事に気がついた。気がついたその日から太陽への塔の建設が始まった。王様は国民を治める事と戦争に勝つ方法以外はさっぱりなので、徐々に高くなってゆく塔をただ眺めるばかりだった。寝室から高くなって来た塔を眺めていると、王様は月の出ない夜でも安心して眠る事が出来た。そしてそのまま、塔の完成を待たず一足先に天上へ逝ってしまった。
夜を怖いと思った事もない王子様が王様になり、父の悲願を叶えるためだけに太陽への塔建設を続行した。寝室から大好きな月を眺めていると、王様はその月よりも高く聳えた塔が気に障って眠る事が出来なかった。とうとう我慢の限界が来て塔を壊そうとしたが、後に退ける段階はとうに過ぎていて、王様はただ腹癒せのために建設を中止させた。そしてそのまま、すやすや眠る事も出来ずに大好きな月よりも高く逝ってしまった。
目が弱く明るく照らされる事が厭で堪らない王子様が王様になり、それならば御日様を取ってしまおうと、父が中止させた太陽への塔建設を再開させた。完成寸前で止まっていたので、たった数年で塔は御日様に届いてしまった。ところが、シャイな御日様は人がやって来ると思うと真っ赤になって引っ込んでしまった。辺りは夜になり、始終月が出ているようになった。王様は人々が困っている事には頓着せず、機嫌を良くしたまま塔も使わずに天上へ逝ってしまった。
日を浴びると大火傷してしまう体を持った女王様は、いつまで経っても御日様が沈まないので地下に隠れていた。神官を遣わして御日様に尋ねさせると、沈んだ先に高い塔があって、あんまり間近に来られるようだから恥ずかしくて沈めないのだという。報告を受けた女王様は直ちに同じ高さの塔を拵えろと命じ、自分は地下に潜ってじっと待っていたが、塔は完成せず、とうとう地下から出る事はなかった。
シャイな御日様は、しばらくは女王様側に落ち着いていたが、そちら側の塔の完成も近くなるといよいよ居場所がなくなった。困り果てた御日様は決心すると、すべてを見捨てどこか遠くへ旅立って行った。
残された月がようやく御日様を説得して連れ戻すと、人は滅んでいた。月と御日様がそれだけあった二つの塔の上に腰を下ろすと、その途端太陽への塔は崩れ落ちた。
安永幹夫は四十歳にして息子隆志を授かった。妻の幸江は幹夫が通ったスナックのママだった。誕生アルバムに「思った道を歩いてください」と幹夫は記し、ふたりが好きな湘南の海辺で記念写真を撮った。幹夫と幸江は隆志を溺愛。が、親子は溺愛を誤解してしまう。隆志は中学生になると部屋に引きこもり、家庭内暴力を振るう。幸江は仕事場のスナックに避難。近所で起きた少女暴行事件の犯人が隆志であるとの噂。息子を信じたいと思うも幹夫は、部屋に監視カメラを設置。部屋には風車が飾ってあった。ほどなくして犯人が捕まる。安堵する幹夫はカメラを隆志に見つけられてしまう。怒り狂った隆志は幹夫を殴り倒す。死の恐怖を感じた幹夫。その一ヶ月後、近所で少女殺人事件が発生。新聞社に届けられた犯行声明には風車を模したシンボルマークが描いてあった。幹夫は隆志が五歳のとき夏祭りで風車を買ったやったのを思い出した。幹夫は思い切って部屋に飛び込む。部屋をかき回す幹夫。抵抗し掴みかかる隆志。隆志の誕生アルバムがあった。棚からアルバムが落ちる。写真が散らばる。少女の遺体や暴行された少女が写っていた。震えが止まらない。隆志を殴りつけ、ふたりで泣きつづける。泣き疲れて隆志は眠った。幹夫は犯人が息子だと知ってどうすべきか考えた。この世にあってはならないものを作ってしまったと思う。幹夫は警察に連絡をした。すべては自分の責任だ。幸江に宛てて遺書を認める。幹夫は眠っている息子隆志の心臓を包丁で一突きした。あふれる血潮。血の海辺で幹夫は誕生アルバムの扉を開いた。生まれたばかりの隆志の無垢な顔がある。パトカーのサイレンを耳にしたとき幹夫も割腹した。十年後、息子殺しの罪で出所した幹夫を迎え出たのは、細々とスナックを開いて生き延びてきた幸江であった。幹夫の「遺書」は幸江の生きる支えであった。ふたりの贖罪は死ぬまで続く。
市街に水は溢れかえっていた。穏やかな波に削られた校舎は木目細かなシルトとなって流れ去り、それを追いかけて帰らない人々に残された子らは粘土質の家に暮らした。彼らは一様に滑らかな褐色の肌を持つ。
ここに定住して彼らに同化する未来、或いは水に揉まれ、砂礫と化してたゆたう先のことを想い、少年は泥濘に足をとられながら木賃宿に駆け戻り、少ない荷物をまとめた。去り際に手を差し出した帳場の男は自分が人であると思い出した様だった。揺り椅子に腰掛けて数日間、粘土のように凝り固まっていた彼の手を、強く握ろうとも指紋などは残らない。細かく顫える手から砂泥の人形を受け取った。街から持ち出せば堅く乾いた兵曹長に、もう一度、と砂交じりの声で呟く彼は、杳とした意識に包まれて動きを止めた。振り返らずに少年は宿を出る。
街外れの停留所へ向かう途上、水に充たされた市場に立ち寄った。雨漏りの鳴り止まぬ金物店と、網に囲われた魚河岸に挟まれて消え入りそうな石屋があった。雨樋は摩りきれて破れ、軒下の机に並べられた石を雨垂れが叩き、穿つ、浸む。眺めていた間にも一つの石から色が抜けて薄くなり、ついには水が通り抜けた。表面張力で保持される半透明の含水石をつかみ、水甕を抱えて幸福そうに眠りこける店主を横目に、鞄に仕舞う。
歩調に合わせて上下に石は揺れた。左右に揺れる少年の眼は水を湛えている様でもあり、蹴とばされて舗道を跳ねる石と近似していた。足元を通過する砂交じりの水に時折、水色の石を見ていた。水と石のあいだにはすでに明確な判別が付かない。比重の大きな水の流れに身を委ねれば川下のかつて住んだ町に到り、深く潜った水底から再浮上したとき体の内外では水が入れ替わり、掌には黒曜石が握られて確かな堅い感触を伝える、気がつけば上手い具合に分配された水が街を潤していて、洗って乾かした温む蒲団に包まって帳場の男や店主が眠っているかも知れない。
濡れて頬に張りつく髪がすこしずつ乾き、黒に戻った。
誰かに気付かれて掬われなければ人に戻る自信が無いから、流れに足をとられないよう歩く。
渇ききった故郷に石は溢れかえっていた。踏みつける度、かちりと割れて何も残らない。
川砂利を積み上げた、かつて学んだ校舎は斜光を受けて青い影を伸ばす。影に入りこんで膝をつき、鞄から取り出した半透明の石に水色は残っていた。両手に掬い、空に放ると揺れて散らばった。
クローゼットを開けた妻が、テープレコーダーを落とした。大きな音がして、どうやら中の部品が壊れたみたいだった。
「おはようっ、太郎丸」
「おはようござる、たろうちん」
かおりは毎朝いろんな言い回しで私を起こした。元気よく、大きな声で言ったあと決まって私の上に飛びのってくる。だから私は朝がくるのが楽しみだった。ただ、かおりは初めて私と寝た翌朝からいつも性能がよさそうなテープレコーダーを持っていて、私たちの会話を録音した。私がそのことを尋ねると
「太郎はテラヤマとか嫌いだったよね」
「テラヤマ? ああ、寺山修司か。へんな芝居やってた人だろう、興味ないな」
「あたしは好きなの。バイブル。で、テラヤマがね、一番不幸な女のことで書いててそれが『忘れられた女』なの」
「それじゃあ、俺たち別れるみたいじゃないか」
「わからないでしょう」
「別れないよ」
「信用してない」
「じゃあ、たとえば別れたとする。そしたらテープは俺にくれるの?」
「あげない。あたしが持ってる」
「それじゃあ意味ないじゃないか」
「ううん、二十歳のあんたはこのテープの中にいる」
「他に好きな男ができたらどうするの」
「それは別の話だもん。問題は忘れられないことだから」
「よくわかんないな」
「とにかく私には必要なことなのよ」
かおりが事故で亡くなった、というのを知ったのはそのときから8年あとのことで、私たちは別れていた。今振り返っても、どうしてたった1年で別れることになったのか思い出せない。仲はよかったし、たいして喧嘩をすることもなかった。目を閉じて思い出したときのかおりはいつも笑顔だ。私たちが若かったからーーそれは理由になるのだろうか。
しかしかおりの死を聞いても涙はでなかった。あのテープはどうなったんだろう、とそればかり考えてしまう自分を責めた。
葬式の後、かおりの同居人だったという女性から、あのテープレコーダーを手渡された。少しきまづい。私たちは話をすることもなく、私はそのテープレコーダーを部屋に持ち帰って、中にはいったテープを再生した。
毎朝私を起こす場面だけを編集してあった。部分的に不機嫌に返事をする私の声も入っていて、たしかに二十歳の私はそこに生きている。
「なによこれ、テープ入ってる」
「ああ」
「でも、これ再生できないねー、カセットなんて使わないしね。どうしよう、捨てちゃう?」
「ああ」
妻が破片を拾っている。私はそれを眺めている。
私は揺られていた。
白象(はくしょう)の背の皮の引き攣れた稜線の、峰の流れにすっぽりと体を埋め、横たえる。
生きものの、一器官としての役割を、私はついさっき終えたのだった。
手繰り飴の赤色と三角形をした、この先の山へ行くのだ。
駅はときどきあらわれては、右後方に遠ざかっていった。
絵に描いたような仙人物語を想像しながら、私は指先を――渦の巻いた蔓のような指先であるが、うっすらと青い空に向けると、それは延びて滲んだ。来世の約束を交わした恋人やらが居るわけでもなしの、ただ運ばれる私がここに居る因果など、かように頼りないものだ。
レタリングの枠からはみ出したように不格好に飛び出た尻尾を納めようと手を伸ばしたが、延ばしかけたところで、手と尻尾が同じものであると気が付いた。――今や後ろ前の私に、手も尻尾もありえるはずがない。
越境のための旅券を提示するべく、白象が立ち止まった。
ぽつぽつと咲き散らかす桃の花が関所の赤煉瓦に美しく、私はその香りに沈み込んだ。
春だったのだ。
赤色の山はすぐ眼前に聳えていて、百の白象がどんなに舐め転がしても消えぬであろう壮大さに、私は初めて恐ろしくなった。
「泣いても戻れんよ」と優しげに云った白象の言葉を思い出す。
立ち止まる彼が私の心情を気遣うことはあれっきりなく、印の押された旅券が戻ると、白象は同じしずかな歩調を以て一歩一歩と歩き出した。
帰宅途中、電車の中で唐突に、迷いのある者は木の下へ行け、というインドの諺を思い出した。
別に悩み事があるわけでも、選択に迷っているというわけでもなかった。
ただ、なんとなく木が見たくなった。どうせ見るなら、大木がいい。
その下で座ってみたら、流行のマイナスイオンとやらで、少しは癒されるような気がしたのだ。
到着駅で下りると、駅前の旅行代理店に駆け込んで、屋久島行きのツアーを申し込んだ。会社に休暇届を出したのは、その後だ。この際、順番なんてどっちだっていい。人間、勢いに任せて動くことも大切だろう。
初めての一人旅に意気込んで出かけたが、生憎と初日は雨だった。思い切り出鼻をくじかれる。
降り荒ぶ雨は当初の予定を大幅に狂わせた。
南の孤島で、ツアー客は行き場もないまま旅館の中に押し込められる。
狭い島なので仕方がない。
暇をもてあまし、ぼんやりと宿のロビーで窓の外を眺めていると、同じツアー客の人から話しかけられた。
「折角の旅行なのに、残念ね」
見知らぬ人と会話をするのが苦手で、曖昧に笑って誤魔化す。
「でも、雨上がりに行く屋久島は、きっと一番綺麗よ。明日は晴れるといいわね」
そうですね、と相槌を打つ。
「屋久島に行くのは、初めて?」
相手の問いに、ただ頷いた。
「縄文杉だけがマスコミに取り上げられて有名になってしまったけれど、樹齢数百年くらいの木はたくさんあるわ。疲れた人がそういう木の下で休むと、気をわけてもらえるそうよ」
返事をせずにいると、彼女と目が合った。
「信じてないでしょう」
まさか、肯定するわけにもいくまい。
「やる気、元気、根気。そうね、あなたは若いから覇気みなぎるってのはどうかしら」
どうって言われても、返答に困る。
「あなたにはどれも必要なさそうですね」
さっきから、すこぶる元気だ。
「あら、私はあなたのような若い人達とお話して、生気を分けてもらっているのよ」
祖母くらいの年齢に見えるその人に、笑顔で切り返される。
「じゃあね」と、彼女は次の話し相手を求めて席を立っていった。
まいったなぁ、明日は晴れてもらわないと吸い取られるばっかりじゃないか、と思いながら窓の外を見ると、少しだけ雨脚が弱くなってきている気がした。
その時、窓に映る自分の口元が、少しだけ笑っているように見えた。
例えば人間も、齢を重ねるとマイナスイオンを発するのだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
バラの花束とカーテンを買いに、デパートへ。なかなか思うものが見つからず、ふらふらと歩いているうちに屋上へと出る。色鮮やかなレーザービームが数十本ほど夜空へと放たれていて、他のビルから発射されているものと絡み合い、まるで戦争のよう。
「残念だわ」
屋上には先客がいた。レーザービームの交差する夜空を背景に、彼女はその長い髪と長いスカートをひらひらとさせて立ち、誰かに向けて電話をしている。
「芸術家っていうのは、あたし芸術のために死んでしまった人のことを言うのだと思っていたけれど、でも芸術家っていうのは、芸術のために死んだ人のことではなく、芸術のおかげでご飯を食べていけた人のことなのよね。さよなら。もう電話はしないわ」
そう言って彼女は電話を切る。僕は彼女も欲しかったものが思うように見つからずに屋上に辿り着いたのだなと思う。話しかける。
「ねえ、君のそのスカートはずいぶん長いけれど、もしかしてカーテンから作った?」
「そうよ。ねえ、たばこある?」
「無いよ。クレヨンならあるけど。十二色。ドイツ製で、なかなかの品だけど安かった」
「お前達、動くな」
屋上に大きな声が響き渡る。横尾忠則の絵がプリントされたコートを着た男が、数十人の男達を従えて、こちらに向かって叫んでいる。
「警察だ。お前達を全員レイプする」
警官達は一斉に走り出す。これは大変、と僕たちは逃げ出す。
長い間走り続けて、結局僕は横尾忠則のコートを着た男に捕まった。
「観念しな」
男は僕を引き倒し、ズボンのベルトに手をかける。
「クジラがもうすぐ滅ぶよ」
耳元で男がささやいた。
「クジラがもうすぐ滅ぶ」
「クジラが? 本当に?」
「ああ本当だよ」
「本当に? いつ?」
「もうすぐさ。今度、お前へを海へ連れて行ってやろう。俺はクルーザーを持っているからな」
男はそう言って僕を抱き寄せ、首筋にキスをする。女はまだ逃げていて、フェンスによじ登り、下にいる警官達に向かって様々なものを投げつけていた。
「えい。こっちへ来るな、えい」
彼女はどこから取り出しているのか、色々なもの、様々な多種多様な、例えば服だとか宝石だとか、小さなイスだとか、テレビモニター、アルバム、トランク、ビデオテープ、そのようなものを、実に楽しそうに警官達に向かって投げ捨てている。
「もっと強く踏むわよ? 良いのね?」
追いすがる警官の顔を、黒いストッキングのその足で踏みつけている。
場末の飲み屋で友人と仕舞いになって追い出されるまで酒を飲んだ。
追い出されてみると、外は月のでない暗い夜で、少し気味が悪いぐらいだった。しんとした道路の真ん中を二人してふらふら歩いていると、突然、友人が、「おい、ここで曲がろう、こんな処で血をはいちゃ、つまらないからな」と言った。
薄暗い路地へ這入りこんだ矢先、彼は物凄い勢いで血を吐きはじめた。
どれほど吐いたか知れない。路面に黒く血が流れていき、どこか遠くで犬が悲しげに吠えたてた。わたしはひどくその犬のことを気にしながら彼の身体を抱え起した。「見なよ、お月さまが真っ赤だ」見れば先程まで出ていなかったはずのひどく赤い月が出ていてそれは何故か腐っているかのように見えた。「お前はよ、何で昨日来てくれなかったんだ」昨日は肺病で死んでしまった彼の葬式だったのだが、都合があって、行くことが出来ず、その代わりに今日こうして、彼と飲みに出たのだった。「おれの奥さんの喪服姿なんか、そりゃあ、綺麗だったんだぜ」わたしは何も言えないまま、友人を抱えアパートへと戻った。彼は道すがらも時々吐いた。月はまた見えなくなっていた。
朝起きてしばらくすると、彼の奥さんが迎えにきた。
「色々とご迷惑を」
「いや、いいんだよ。こいつはおれの葬式にこなかったんだからな」
「あなた、何もそんな……」
いや、いいんですよ。彼の言うとおりなんですからと答えると、友人は満足したように頷き、からりと笑うと、ふんぞりかえって出て行った。奥さんもしきりに頭を下げてから帰ってしまった。
わたしはまた独りぽっちになってしまった。
トッコはどろだらけ。畑の中で目を覚まし、心配そうに顔を覗きこむ農婦を安心させるようVサインする。
(よかった、何ともないんだね)
農婦は笑った。
(大丈夫? ちゃんと歩ける? うん、それなら早めに帰ったほうがいいよ、もうすぐ花嫁さんたちが出てくるからね)
トッコは傾斜のきつい坂を、原付押しつつのろのろ降りていた。帰るため、この島から出るために。昨日、縁日のビールで酔っ払い、本土から島への橋を意味なく渡ったところまでしか記憶がないトッコ。二日酔いで落ちこみに拍車がかかるが、なんとか海岸に一番近い道路に出て、橋の方向へ向かう。
すると波の向こう海の向こう、強い時化をものともせず、どんぶらこどんぶらこと丸木舟がやってきた。驚くトッコをものともせず、やがてそれはまっすぐ海岸に到着し、浜辺に乗り上がる。中には誰も何も乗ってはおらず、目を丸くするトッコをあざ笑うように大粒の雨が降りだした。やがて雷までもぴかぴか光りだしたので、トッコは慌てて、左側の閉まっている商店の庇の下へ避難する。その後もざあざあいう音は更に強まり、彼女と海のど真ん中の道を数台の車が横切って、水溜りを飛ばした。
黒い排気ガスの散った道路の海側に、いつの間にか数十人の女性が立っていた。色とりどりの打ち掛けをまとい、お重のような箱を両手に抱えている。そのあでやかで異様な様にぼーっとしていたトッコは、白粉を塗りたくった顔が実はのっぺらぼうだと気付くのに少し時間がかかった。
彼女たちは海岸への砂だらけの階段を降りていく。
(花嫁さんたちが何でこんな雨の日に外を出歩いているか、だって?)
先ほどの農婦の言葉がトッコの頭をよぎる。
(そりゃあ神さまを慰めに行くからだよ)
トッコは庇から出て彼女らを追った。花嫁たちは砂浜をずぶ濡れになりながら歩いていたが、やがて丸木舟をずらっと囲み、汚れるのも厭わず履物を脱いで、手に持っていた箱を置き、正座をする。すると雷光とは違い長く途切れない光が海の一角を照らし始め、それが一瞬強まったかと思うと、彼女らはトッコの目の前で忽然と消えた。
昔腕のいい人形師が、一年に一度しか島に戻れない神さまを慰めていた。彼がいなくなってからも彼の忠実な人形たちは海の神さまを慰め続けているという。
どこかで聞いたそんな話を思い出して、雨上がりの陽の光を浴びながら、トッコは何もなくなった浜辺を眺めていた。