# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 日が暮れても | 戸田一樹 | 992 |
2 | ゾウのパレード | 安南みつ豆 | 977 |
3 | 狭まった道 | 入江 | 590 |
4 | 静かな戦 | エルグザード | 485 |
5 | うんどう会はユウウツ | とむOK | 963 |
6 | 繋がってんだ | コティー | 259 |
7 | ねえ、ねぇ。聞いてる? | めだか | 1000 |
8 | 白亜の夕暮 | 黒木りえ | 100 |
9 | 氷を渡る | でんでん | 999 |
10 | 夕焼け | 真央りりこ | 1000 |
11 | 読書する、森に入る | 三浦 | 972 |
12 | ありくいさん | 巻 | 1000 |
13 | 魔法の矢 | 神崎 隼 | 991 |
14 | パラサイト | 江口庸 | 778 |
15 | パフェ・バニラ | 川島ケイ | 1000 |
16 | 膝 | ゆう | 901 |
17 | 泡 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 904 |
18 | hallelujah | 川野直己 | 888 |
19 | 中秋 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
20 | 難病少女vs.難題女 | 朝野十字 | 1000 |
21 | 風船葛 | 市川 | 999 |
22 | 廊下の女 | 広田渡瀬 | 997 |
23 | (削除されました) | - | 37 |
24 | 賢者の棒 | 五月決算 | 1000 |
25 | ワイヤー | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
26 | どん詰まり | くわず | 919 |
27 | 最終列車を待ちながら | 曠野反次郎 | 579 |
「一ヶ月ですね。もう少しいい薬を使えばあと一年は持つと思いますが」
医者というのはどうしてああも残酷になれるのだろう。あるいは残酷でなければ医者にはなれないということなのかも知れない。死んだように眠っているのか、眠っているように死んでいるのか、にわかには判断出来ない悟の顔を見つめ、順子は目を伏せた。銀色の支柱に吊り下げられた瓶から一滴ずつ変わらぬペースで落ち続けている薬液の音が今にも聞こえてくるような気がした。
円椅子に座った順子は向き直り、、悟が身体を横たえているベッドに背を向けた。ガラス窓には見知らぬ女の顔が映っていた。瞬きをすると、それは自分の顔になった。
「ごめんな」
「いいのよ、だって今の状態で産んだって子供も私達も不幸になるだけよ」
「もう少し貯金があればなぁ」
「ないもののことで嘆いても仕方ないでしょ。あと少し我慢して働けば、きっとまた幸せがやってくるはずよ」
二年前の夏に悟と交わした会話がふと脳裏を過ぎる。順子は深い溜息をつき、冷たく艶やかな窓に手を触れた。
「来てたのか」
悟は順子の背中へ眠たげな言葉を投げた。順子は振り向きざま、とっさに笑顔を作った。
「起きたのね」
「何を見てたんだ?」
「空よ。青くてきれいな」
「今日はいい天気だったものな」
順子は込み上げてくるものを抑えることが出来なかった。笑顔が泣き笑いの顔になり、やがて本当の泣き顔になった。今まで悟の前では一度も見せたことのなかった涙が頬を伝い、膝の上に乗せた左手の甲に落ちた。
悟は黙って順子を見つめ、その後ろの暮れかかった空を眺めた。
順子のすすり泣きはなかなか止まらなかった。止めようとするとかえって涙の量が増えた。
悟は何度か深く息を吸い込んだ後、天井へ視線を戻した。そして優しく沈黙を破った。
「きれいだ」
微かな、しかしはっきりとした語調だった。
「いきなり何の話よ」
順子の声は震えていた。
「きれいだよ」
悟は点滴をしていない右腕を動かし、目の前に手のひらを差し出した。順子はそれを両手で受けた。大きく温かい手だと思った。その手を涙で濡れた頬に当てたら、心の真ん中にほんの一瞬だけ「幸せ」という言葉が浮かんだ。
ドアの向こうから乾いたノックの音がした。二人はどちらからともなく手を離した。悟の腕は力なく白いシーツの上に落ちた。
点滴の瓶は、いつしかもう空になっていた。
ハルキにさそわれてゾウの国へいく。
ただしハルキはゾウとは呼ばない。
ゾウタ。
アクセントは独特で語尾がぴょこんとあがる。
「ゾウタ、ゾウタ」と電車の中でおしえてくれる指の先をみると、恐竜がいた。
わたしのもっているかばんには、ずんぐりむっくりの、車のぬいぐるみがついている。
それにはなぜか尻尾がついていて、彼に言わせればそれもゾウタ。
わたしはそれらを否定できない。
ゾウタ、ゾウタ、ゾウタ。
ゾウタの国へは車で三十分。わたしのうちは田舎にあるのでゾウの国は近い。
空色の四角い車にハルキを乗せて旅に出た。
川べりの駐車場に車を停め、そこからてくてくとゾウの国へ向かう。
ゾウの国へはそこから三十分かかるのだ。ハルキとは。
すっかりピクニック気分のハルキは(アン)パンマンのかば(ん)を背負って、肩紐をすこしずらしてあるいていく。わたしの手にしっかりつかまって、ハルキは、時にタップダンスのようなステップを踏みながら、時に地団太を踏むようにその場で足を踏み鳴らしながら、あるくことが目的のようにあるく。
あ、ブーブー。あ、ブーブー。あ、ブーブー。
彼は駐車場に並んでいる車を点呼しながらあるく。
ゾウの国にはゾウが、駐車場のクルマほどでないけれど、たくさん、たくさん、いる。
ゾウタ、ゾウタ、ゾウタ。
ここはゾウの老人ホームで彼らはみな一様に健康ランドの老人のような目をしている。
ゾウの国の王様は、電車で三十分かかるところにゾウの温泉をつくっているそうだ。
ゾウタと一緒に写真を撮る。ハルキはゾウタの鼻に一回、ゾウタの背中に一回乗った。
昔、トモキと一緒に、ゾウの国へ来た。そのときは雨が降っていた。ゾウはみな一様に寂しそうな目をして、押し黙っていた。ゾウのパレードは中止になり、人里離れたゾウの国はひとはまばらでゾウの方がおおいくらいだった。トモキはのちにタイに行き、ほんとうのゾウの隊列をみたと言った。彼はタイでゾウに祝福されて式をあげた夢をみたそうだ。いっそそのままタイにいてくれたらとおもったが彼はいまでもイチハラにいるらしい。
ゾウのパレード。老ゾウが目の前を列をなしてあるいていく。これが本当のパレードでなかったら、パレードとはいったいなんなのだろう。
その晩ハルキはゾウの夢を見た。
なぜなら彼は眠りながらゾウタのなまえを呼んだから。
小中学校と通っていた細い道があった。高校には地下鉄で通っているので、しばらく歩道のことは忘れていた。
この間、久しぶりにその道を通った。昔から狭い道だと思ってはいたが、何だかより狭まった気がする。ガードレールが位置を間違えたのかと思うが、どうもそうではない。ガードレールにそうそう動かれては堪らない。居心地が悪くなってきたが、もう少し行けば多少広い道に出るので、我慢して歩く。「1+1」は分かるけれど、「1×1」の理屈は分からない子供のような顔をして歩く。本当にそんな顔をしていたのかと言われれば、確信を持ってお答えすることは出来ないが、しかし、まあ、そんな心持で歩いていたのである。
道を通り過ぎて、ようやく自分が成長したのかと思った。小学低学年の頃から、きっと倍以上は成長してる。あの頃は10年も以上後に同じ道をさっそうと歩いているとは考えもしなかっただろう。
しかし、道はただ小さく見えたのではなく、狭まっていたのであるから、私の幅が余計に大きくなったことは否めない。なるほど、夏休みの間に体重計の弾き出す数字が2ほど加算されていたわけだ。これで体重計を新しく買い換える必要もないし、眼鏡の度を上げに行く面倒もなくなったが、あまり嬉しくない。やはり、ガードレールが場所を間違えたのではないか。
あの頃は10年も以上後に同じ道をデブデブ歩いているとは考えもしなかっただろう。
億劫に槍を引き抜く。私が仕留めた敵。半瞬前こちらの兵士を葬り、油断していた瞬間を狙った。
とはいえ、あくまで上の指示であり、私の策略が優れていたわけではない。別段無感動に、仲間をおとりにした上官への文句すらなく。前を見据える。敵の陣形は既に崩れ、勝利は目の前に見えていた。
くだらない争いに、感情移入する気はないが、死んでやる気も無い。降りかかる火の粉を払うのみだ。
そんな、思考の間にも、仲間が敵陣に斬り込んでいく。最早陣といえるそれではないが、しんがりが形成されていない所を見ると、退却は頭に無いようである。
仲間が斬られた、瞬間指示が飛び、私はその敵を突き殺す。
そうして、王と相対した。その眼光に力は無く、諦めが全身に現れていた。しかし、今突き込めば私は死ぬ。王の側近が最期の砦になっていたのだ。そして指示が飛ぶ。覚悟はしていたのに死の恐怖が私を縛った。しんがりより酷い。それは国の為に死ねという指示だ。
逆らうことはかなわない。指示は絶対。まただ思考の間に私は突きこんでいた。
意識が朦朧とする。その中で、私はこんな言葉を聞いた気がした。
「チェック・メイト」
もうずうっと雨がふってる。きのうも、今日も、おとといもだ。ボクは教しつのまどから外を見てた。
「今日はこれから運動会の練習を体育館でやります」
たんにんのたけざわ先生がそう言った。
今日もうんどう会のレンシュウだって。でも、みんなわかってるから体そうふくでとう校してる。ボクもそうだ。
ボクはすこしユウウツだった。うんどう会のことをかんがえると、はきけがする。みんなもおなじだ。うんどう会なんてユウウツだ。
でも、ヤマセンなんかはりきっちゃってる。ボクたちが体いくかんにシュウゴウすると、もう、ずうっとまえから、ちょうれい台の上に立ってまってるんだ。こうしんの時も、トキョウソウの時も、ちんたらしているやつがいたら、大ごえでどなる。「何やってるんだ!がんばれ!グズグズするな!」
やりたくないことを子どもにキョウヨウしちゃいけないんだって。ギャクタイなんだ。知ってるんだぞ。だから、ヤマセンのやってることは悪いことなんだ。
体いくかんはすっごくあついから、みんなふらふらだ。きのうのレンシュウでは、おなじクラスのサトウユミコちゃんがたおれた。おとといは二組のゲンとタツヤ。たおれたやつは、もうもどってこれない。
ヤマセンだけじゃない。たけざわ先生も、校長先生も、みんなこう言うんだ。
「こんな時だからこそ、最後までがんばりましょう。悔いを残さないようにしましょう」
ぼくは雨にさわってみた。はい色のざらざらしたすながまじってる。さわるとちょっとあつい。たけざわ先生は、ホウシャノウが体にわるいからさわっちゃイケマセン!っておこるけど、ボクたち、この雨の中とう校してんだけどなあ。
ボクは、もうずっとのどがいたくて、はきけがしてる。口の中もなんだかちが出てるみたい。
うんどう会なんてもうやらなくていいのにな。おとなはがんこだからいやだ。ボクたちみんな、もういいのに。
そんなのやんなくても、なかよしの友だちと、一しょにいるだけで、なんだか、ほっ とするんだけど。
それに、なんだかもうずっと、レンシュウばかりしてるみたいなんだけど。本ばんはいつなのかな。
「さあ、皆さん早く集合しましょう」
タケザワ先生がシュウゴウをかけた。ボクはいやだったけど、まどからはなれてろう下にならんだ。
このまま雨がつずいたら、うんどう会は中止かなあ。
俺はサムライ 変人気質
学問ばかりに溺れてた
いざ香港へ そこにはお前
ジャンクで清楚な中国野朗
そこをどけよ 上品ぶって
汚い船の掃除でもしろ
俺は平気だ単なる夏風邪
手を取りゃお前の深みに嵌る
見えるのは華 唐草炎
強すぎる刺激は 嫌悪対象
古拙の微笑など 消えてしまえ
お前は お前だ
見ろあの躍動する少女神と話す
お前は嫌った 嫌った
少女を いや 俺を
衣を離せよ 落ち着き払って
そんな刺激も 求めちゃいない
ほんとは何も 欲しくはないんだ
神と踊った それがどうした
なあお前
静かな世界を知ってるか
それが欲しいんだよね
だから世界と繋がってんだ
彼女とはつき合ってながい。竹をわったような、それでいてグチャグチャのような気もする性格が好きだ。快諾した理由が揮っている。男の人と話すと緊張するけど、あなたは大丈夫なの。ナヨナヨ、のほほんとしてるから。お言葉通りにのほほんと、違う世界へ行ってたら、話しかけてきた。
「この前、大学の構内でね。」
「うん?」
「はなちゃんって知ってる?」
「うん。」
「彼女が走ってくるの、とことことこ…。で、躓いてバタっと倒れるの。
わたし駆け寄ったわ、"だあぁああぁ、あっ"とね。」
「"だあぁああぁ"と?」
「そうよ。いや違うのよ、"だあぁああぁ、あっ"とよ。」
「ふうん。」
どうやら、大事な用件らしい。
とりあえず、あちらの世界は閉じて話に集中する。
「わたし言ったの。大丈夫だった?怪我しなかった?」
「立ったまま、冷たい眼で見下ろしてかい?」
「膝も抱えるくらいに座りこんで、顔をこんなに近づけたわよ。」
「顔をこうかな? 近づけて、ごつんこ。」
「いやぁん。痛ぁいじゃないのもう。ばかね。」
彼女の平手は空を切り、返した蹴りがかわされた。息は合ってる。
「そのとき、彼女は言ったの。『あなたの走りかた面白いね』って。」
「あっははは。会話が成り立っているじゃない彼女と。」
「でしょ、でしょ、でしょう。それでね、わたし嬉しくなっちゃって。彼女の眉毛いつもこんなで、難しそうな顔してるでしょ。話すときも名前を呼ぶから、彼/彼女は使わないし…。よくできた、賢い人なんだろうって思ってた。でも、わたし彼女を誤解してたの。それからね、何て言ったと思う?」
「そのあと彼女ね、立ち上がりながら、『もうまったく、しっかりしなさい。お姉さんなんだから。』ってね。」
「あっはっはっはっ。あははっは。きっと幼い頃にお母さんから言われて、いつも心の中で繰り返してるんだね。人を寄せつけないあの感じは、しっかり、しっかりって、言ってるからなんだ。」
「なるほどね……。うん、気に入った。お友達になりたいなぁ。」
「で、しょう。わたしもそう思ったわ。」
「だ、ねえ。そうするともう、誕生日とか覚えてたりするんでしょ。」
「です。」
ハート・マークのついた、いつもの小さなメッセージカードを取り出して見せる。
「彼女はね、今日が誕生日なの。」
「なるほど、解りました。プレゼントをお買い物ですね。それではどちらまで、お送りすればよろしいでしょうか?」
「はい、よくできました。」
雨が降ってきた。
あたりを見回すが、雨宿りできそうな木の一本も見あたらない。聞こえてくる鳴き声の主が何なのかは考えないようにして歩く。
風呂に入っている最中にタイムスリップなんて、するもんじゃない。
なぜそんな気まぐれを起こしたのかはわからないが、ともかくその朝、きみは校舎の中央池にはった氷の上を歩き始める。
池の周囲は騒然となる。生徒なら誰でも、池の氷を渡り終えることができた人間はまだ一人もいないことを知っていて、踏破に挑戦する輩も後を絶たず、氷渡りは僕たちの間に根を下ろした行事の一つと化していたからだ。その氷をきみが歩く。横顔をうつむけて長い髪の中に隠し、スカートのポケットに手を突っこんだまま。みんなは熱狂する。あれほど無口で地味な女の子が突然表舞台に踊り出てくるなんて、こんな番狂わせはめったにお目にかかれるものでない。そしてみんなの熱病じみた関心を、一番よく理解しているのはきみ自身だ。氷の上でわざと足をすべらせる。指揮棒でも振ったように校舎全体が悲鳴をあげる。嬌声を恍惚として受けとめながら、内心夢中になって、観客の期待に応えようとする。誰にも知られずに温め続けていた夢想、みんなに注目されたいという夢想が、一挙に開花し、実現する・・・
だが、浮かれた気分は長く続かない。あと三歩か四歩で渡り終えそうな時、だしぬけに、歓声が不満そうな唸り声に変わる。次の瞬間、観客は互いに肩を組み、床を踏み鳴らし、きみに向かって叫び始めている。わ・れ・ろ。わ・れ・ろ。つまりはそういうことだ。誰もきみが氷を渡り終えることなど期待していない。最初から連中は、ただ氷が割れ、きみが暗い水の中に落ちこむことだけを待っていたのだ。一部始終を池の淵に立って眺めながら、僕はきみをあざ笑う、(それ見たことか・・・)だが怒号が最高潮に達し、とり囲まれたきみが怯えた目で周囲を見回した時、突然の憤激にかられて、僕は声をはりあげている。渡っちゃえよ!きみは一瞬、不思議そうに顔を上げる。僕は苛立ちながら、いっそう高い声で繰り返す。渡っちまえっての!とっとと渡って、こいつらみんな出し抜いちまえばいいんだよ!やがて、きみの表情から少しずつ怯えが消え、かわりに別のものが広がっていくのを、僕は見る。周囲の連中にではなく――僕への憎しみが拡がるのを。それからきみがとった小さなふるまいは、たぶん誰にも目撃されない。きみの前に立って、ことの次第を見つめていた僕以外には。
きみは僕を見据えたまま、長いスカートの下で左足をそっと浮かせ、ひと呼吸置いたかと思うとハンマーのように振り下ろし、小さなかかとで足下の氷を踏み破る。
神社のお祭りは、僕らの夏の楽しみのひとつだった。夕方近くなると神社のまわりに人が集まって騒がしくなり、日が暮れる頃には町じゅうの道が神社につながっているような浮き立った気持ちになる。日暮れとともに太鼓の音が鳴り、僕の心臓もつられて鳴った。金魚みたいな浴衣の帯に、僕らはぶざけてお尻をふりふりついて歩いた。境内は夜店が五軒並ぶといっぱいで、小さい子は神社の裏にある大きな木のまわりで遊んでいた。
鳥居から一番奥にスーパーボールの水槽がある。小さなボールがたくさんあるなか、ゆったりと水に浸かっている大きなボールがいくつかあった。小学校高学年ともなれば小さいのに目もくれず、ひたすら大きいやつを狙う。お小遣いは限られていたから取れるまでやればいいというわけにはいかなかった。
「キング狙ってんだろ」
僕の横でたけしがズボンのポケットに手を入れて立っていた。Tシャツの上に羽織った縞模様が風になびいている。たけしはスーパーボール掬いの名人だ。水を手で掬うようにボールを取る。
「おう」
返事したものの自信はなかった。惜しいところで毎年僕の夏は終わるのだ。
「俺、先にやるぞ」
たけしは意気込んで腰を下ろした。水槽がだだっぴろい海に思えた。追いかけても追いつけない、金色のスーパーボールは夕日のように輝いていた。たけしは慎重に機会を伺っている。狙ったもののために何度もポイに穴をあけた。誰かがやみくもに手を突っ込んだせいで水面が波が立ち、スーパーボールが大きく揺れた。たけしはそれを見逃さなかった。すばやく身構えると、押し寄せられてきた金色のスーパーボールを見事にポイにおさめた。回りの子供たちがたけしににじり寄る。たけしはおっしゃーと叫び声をあげた。
今、僕の手のひらに金色のスーパーボールがある。テレビを見てるときなんかにたいてい手にしていたので金色は褪せて、包んだ手のひらから容易にかすれた色がのぞく。たけしが金色のスーパーボールを掬った夏の終わり、目玉商品はキャラクターものに変わってしまった。
たけしが僕にスーパーボールをくれたのは卒業式の日だった。俺ら中学だなとたけしが言い、僕は曖昧にうなづいた。何もわかっちゃいなかった。たけしがスーパーボールを僕にくれた理由も、三年間握り締めていた自分の気持ちも。二度と手にすることができなくなってしまった金色のスーパーボールは、海の真中に日が沈むように落ちている。
Aは読書していた。ここにある本は、通り掛かる人から一晩泊めてあげる代わりに譲ってもらっていた。だが滅多に現れないので、一冊の本がそれこそ宝物だった。新しい物が手に入ればすぐにでも手を伸ばすが、手に入らない限りはずっと同じ本ばかりを読んでいる。Aの住む高い鋭角の屋根を持つ一階建ての家にはまだ十数冊しか蔵書がなく、そのどれも筋をすっかり憶えてしまっているのだが、Aにはある一定の期間、一冊の本、一つの世界だけに没頭する時間が重要に思えるのだった。
今は、男なのか女なのかも明らかにされない人物が、社会からまるで隔絶されている丘で日々淡々と生活しているという小説を読んでいた。その人物を仮にBとして、そのBは今まで夢中だった読書にも少し飽き始めたらしく、ある日すぐ近くに続いている深い緑の森へ行く事にする。
水面から顔を上げるような気持ちで本を置くと、窓の向こうに夕日が、黄色い水と紅い油が互いにその密度を主張し合うように揺れながら刻々と沈み始めていた。遠くに聳える青い山脈が濃い翳を落としている。日が沈みきるその時まで、山々は焦がされる。子供を産み落とすような苦しみの中で太陽を体の中へ落とし込もうとする。Aは揺ら揺ら撓むこの夕焼けが、一日を終えるための苦行によって流される血液なのだと感じていた。実感出来ない量の苦しい物事達を呑み込み、再び白い光に包まれる始まりへと浄化する作業が、Aの行き届かない夜という場所で、動植物の鳴き声の陰で繰り広げられている。そこで起きているであろう阿鼻叫喚を思うと、Aは、今まさに沈もうとしている太陽とそれを呑み込んでゆく大地とにどれだけ激励の念を与えたか知れない。
寝る前の一時、Aは再び本を手にした。
Bは夜森に入り、風花の中を進むと、泉で傷ついた体を癒す太陽を見る。その太陽の余りに悲惨な姿に胸を打たれたBは「もう朝など迎えなくて構わないから、どうかこのまま休んでいてくれ」と懇願する。太陽は頑なに拒むが、Bは諦めない。Bは「せめてあなたがこうしている間、私にあなたの代わりを務めさせてくれないか」と願い出る。Bの心に触れた太陽は、「それでは夜の間だけ」と、Bに空を照らしてもらう事にする。
Aが栞を挿んで横になると、月明かりが差していた。
Aは立ち上がると、舞い始めた雪をかぶって、森の中へ入って行った。
縁側でカステラをかじりながら、ひなたぼっこをしていた。
うらうらとあたたかい日ざしに、ついうたたねしてしまったらしい。気がついたら、私の食べこぼしたカステラに蟻が集まっていた。縁側をななめに横切って、きちんと列をつくって。庭の巣穴に、かけらをせっせと運んでいる。その働きぶりを見守っていたら、庭の山茶花の生垣の向こうから、
「ハイ、ゴメンナサイよ」
と声がして、木の間からガサガサとありくいさんが顔を出した。
ありくいさんは、大きなからだをむりやり木と木の間に押しこむと、ぽんと勢いよく庭に転がりこんだ。
長い口吻をふんふんとうごめかせながら、縁側のそばまでやってくると、両のまえあしを縁側の上にそろえて、黒い小さな目で私を見上げた。
「こんちは、奥さん」おだやかな声だった。
「こんにちは、ありくいさん」
「おやつの時間ですか、奥さん」
「ええ、そんなところですわ」
「時に、奥さん」
ありくいさんは、とても落ち着きはらった様子で、丁寧にたずねた。しかしその小さな目は、縁側の蟻をじっと見つめたままだ。
「僕も、いただいてもいいですかね。その、おやつを」
私が返答に詰まっていると、ありくいさんはたまらないといった様子で、口吻を縁側にのばして、蟻を二、三匹、長い舌でつるりとからめとった。蟻の小さく甲高い「あ」という声が、かすかに聞こえた。
ありくいさんは、無作法を恥じるように「いただきます」と小声で言うと、あらためて縁側から庭まで続く、蟻の行列の上に次々と舌をのばした。
つる、つる、つる。あ。あ。あ。
みるみるうちに、蟻はいなくなった。
縁側に残ったのは、私と、私がこぼしたカステラのかけらだけ。ありくいさんは、カステラにはまったく興味がないようだ。
「ごちそうさまでした」
すっかり満足した様子のありくいさんは、まえあしをおなかの前にそろえると、ぺこりと頭を下げた。
そそくさと庭を横切って、もと来た生垣の間に体を押しこませると、ぷいとどこかへ行ってしまった。
生垣には、ありくいさんが出入りしたところだけ、少しすき間ができてしまった。そこから隣の家のふたごの娘が庭で吹く、たて笛の音がピープーもれてくるものだから、心がカサカサして居ても立ってもいられない。
私は残ったカステラのかけらを、小さく切った半紙に集めた。そして庭の蟻の巣穴の近くに、かけらをまき散らした。穴のずっと奥に隠れているかもしれない、運のいい働きものたちのために。
弓を手にした、一人の男が森を歩いていた。その森には、狙った獲物を必ず射抜く矢を人間に齎す、悪魔が住んでいると言われていた。
森の奥へと歩を進め、暫く経って気がつくと、辺りは深い霧に包まれていた。その霧から、男は体に纏わりつく様な嫌な感じを受けた。
「何の用だ?」突然、声が響いてきた。それは、どこから聞こえてきたのか解らない、まるで森その物の声の様な不思議な物だった。
「百発百中の魔法の矢をくれる、悪魔がいると聞いてきた。あんたか?」
「そうだ。何本、必要だ? 本数が多ければ、それなりの代償を払って貰うがな」
「そうだな。一本で充分だ」男は最初からその答えを用意していたのか、そう即答した。
「人間にしては、随分と欲が無いな」
「仕事で、仕留めなければならない獲物がいるんだが、そいつがなかなか人間の前に姿を現さなくてね。あんたのくれる矢は……。そうだな。例えば、俺の背後の木を射抜く事もできるんだろ?」男は挑発するかの様に不敵な笑みを浮かべ、右手の親指で背後を指し示した。
「無論だ。心配ならば、試してみるが良かろう。特別に、代償は無しだ」そう悪魔の声が聞こえると、男の目の前に一本の矢が落ちてきた。
「それは、助かる」男は笑みを浮かべると、矢を拾った。
「さて、ちゃんと当るかね?」男は矢を弓につがえると、ゆっくりと弓を引き絞った。そして、そのまま、微動だにしなくなった。
「どうした?」痺れを切らしたのか、悪魔の声がした。
それがきっかけか、男は矢を放った。その矢は真っ直ぐに飛んだかと思うと、突然、ありえない方向に曲がった。そして、男の右手の方に消えると同時に、矢が何かに突き刺さる音がした。
「きさま、騙したな?」暫くの間の後、悪魔の声がした。だが、今度はそれがどこから発せられたのか、男には解った。その悪魔の声は、矢が消えた方から聞こえてきた。
「例え話を勝手に勘違いして、人聞きの悪い事を言わないで貰いたいな」男は呆れた様に答えた。
「しかし、本当にあんたの矢は凄いな。見た事も無い、俺に話しかけた物なんて曖昧な標的でも、必ず当るんだからな」男は矢が消えた方向を見ると、そう感心した様に言った。
が、その答えに、悪魔は何も反応しなかった。ふと、男は霧が晴れている事に気づいた。
「今回の仕事は、楽だったな。まぁ、姿も現せない臆病者だったし、この程度かもな」男はそう呟くと、軽く肩を竦ませた。
義男は大学に通いながら演劇養成所に入所し、舞台役者をめざす。他の練習生のような貧乏を恐れた義男は自宅から通う。両親も義男を手許においておきたかった。義男は卒業公演のリハーサル中舞台から落ち、大怪我。後遺症のため復帰が難しい。湯治しに友人、仁のいる北海道に行く。大学院生の仁は父親を早くに亡くし、奨学金で学ぶ。早く稼いで独立したいと語る。義男には理解できない考え。仁と湯に浸かっていると隣に居合わせたのが舞台役者の賀次郎。義男は身体が治ったら役者修行に復帰したいと口にする。賀次郎は義男を一瞥。売れなければ死ぬまでずっとアルバイトのしどうし。覚悟がないなら諦めろと言う。義男は落ち込み、帰宅後ひとり部屋に閉じこもる。父は明け方眠り出す息子に文句も言わず会社に出かけ、母は三度三度の飯を盆に用意した。埃渦巻く部屋のなかで、義男は週刊誌のなかに「パラサイト・シングル」という文字をみつけた。目標のない義男は、おのれがダニか虱のように思えてきて吐き気がした。仁の言葉が思い出された。義男は独立を思い立ち、アルバイトも見つけた。しかし、過保護の父母は反対。独立しなければ虱に堕するという強迫観念ばかり。定期貯金を崩し、日当たりの悪い狭い部屋を借りた。引越しの日、父が車で送る。後部座席の母から鼻をしきりとすする声がする。義男はその声に戸惑った。そして、過保護、パラサイト、独立、世間、一人前、マザコン、幼児、ピーターパン、寄生虫、さまざまな言葉がよみがえり、母は心底出ていって欲しくないんだと感じた。やっぱりよそうと思い振り返る。母は花粉症だった。おおきなくしゃみをし洟をちーんとかんだ。力の抜けた義男は吹っ切れた。両親は不肖の息子をはじめて突き放したのだ。義男の視界は急激に明るく広がり、あのじめじめした狭い空間に自分の人生の根を生やすのだと思うと武者震いがした。
幸せそうにパフェを食べるはるちーを見ながら、はるちーはなぜはるちーなのかと考えてみた。「春子」だから「はる」は分かるにしても、「ちー」はいったいどこから来たのだろう。私が高校で出会ったときには、はるちーはもうすでにはるちーだったから、どうやってそうなっていったのか、私は知らない。背がちいさいわけでもないし、名字は井上だからちーなんてぜんぜん関係ない。
「食べる?」
アイスの乗ったスプーンを私に向けて、はるちーが聞いてきた。
「いらない」
「もったいない。人生損してるよ」
私はアイスクリームが好きではない。食べると気持ち悪くなってしまうのだ。はるちーは私にもアイス好きになってほしいようで、たびたび薦めてくるのだけれど、嫌いなものはしょうがない。
「いいよべつに、アイス以外にも、食べるものいっぱいあるし」
私が言うとはるちーは真剣に首をふる。
「違うよ。アイスって特別な食べ物なんだから」
きっと、そうなのだろう。はるちーを見ていると、それがよく分かる。
私はチョコワッフルをナイフで切って、口に運んだ。おいしい。はるちーほど幸せな表情はできないけれど、それはきっとワッフルのせいではない。
「ねえ、はるちーのちーって、なに?」
はるちーの手が止まった。
「ん?」
「はるは分かるけどさ、ちーってどっから来たの?」
はるちーは首をかしげながらキウイを食べる。
「んーとね、最初はさかさにして子春って呼ばれてて、子と千が似てるからって千春になって、ちはるちはるちはるち、ではるちになったの、ちーって伸ばすかどうかはお好みで」
「はー、すごいね」
「歴史あり、でしょ」
それだけ愛されてきたんだなあ、と、友として私はしみじみ、うれしく思った。
はるちーはパフェを食べるのをひとやすみして、紅茶を手にした。スプーンはパフェに挿さったままになっている。
「ちょうだい」
私はスプーンを手にとりアイスをすくった。ゆっくりと口に近づけて、おそるおそる食べてみる。バニラの甘さが口の中に、鼻に、顔全体に広がって、喉を通ってお腹に入り、なんだかむかむかしてきた。スプーンをパフェに戻し、あわてて紅茶をすする。
「うえー、ダメ」
「あーあ、かわいそうに、同情するよ」
もう二度とアイスなんか食べるまい、と私は誓った。いいのだ、おいしいものなんて、いっぱいあるのだから。アイスなんかより、このチョコワッフルのほうが、ずっとずっと、おいしい。
鈍い音を立てて派手に転んだ。右膝を強く打つ。コットンのパンツが破けていた。全速力で走ったことなど、十年ぶりくらいで、息が切れていた。後から襲ってきた痛みを背負いながら、体育座りになり、血の滲んでいる膝に唾をつけながら、ぼんやりとしていた。
何のために走ったのだろうか……。
まだ明るい空には、三日月が出ていた。
「お姉ちゃん大丈夫?」
ゆっくりとした足取りで向かってくる姉の娘を、梅子さんは虚ろな眼で見つめた。
この子だ! この子が原因だ! 脳髄に閃光が走り、ハッとなる。
「何歩いてんのっ」
家まで競争しようと言ったのは、この子なのだ。ピリピリとした梅子さんの声に少しだけ、たじろいだ様子を見せたが、それもほんの一瞬で、すぐににやついた顔に戻る。
「だって、速いから追いつきっこないと思って」
梅子さんは、小学五年生になる、この姪が昔から嫌いだった。いつもやる気のないような、それでいて狡賢そうな、大人をバカにしたような目つきが、たまらなく嫌だったのだ。梅子さんは、恥ずかしさでいっぱいだった。それを解っているかのような顔をして「わあ、痛そう」と彼女は言ったので、思わず睨みつける。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「じゃあ、早く家に帰ろうよ」
「先に帰ってていいから」そう言った後も彼女は動こうとはしなかった。
「帰っていいって言ってるでしょ」カッとなった自分に赤面する。
「だってぇ」
心配などしている眼ではない。私を嗤っているのだ。大人のくせに、ムキになって本気で走って、勝手に転んじゃって……そんな言葉が響いていた。ジリジリと膝の痛みが増している。本当は立てるかどうかも怪しかった。
「ホントに大丈夫だから。後少し休んだら戻るから。だから先に帰ってて」
いくらか落ち着きを取り戻した柔和な口調で梅子さんは言った。早く一人になりたかったのだ。
「うん」
彼女は何度もふり返りながら、ゆっくりと家へ帰って行った。一人になると梅子さんは、クックッという声を出した。
「ばっかみたい」
静まりかえった空気の中、声が反響し、また自分に返ってくる。脈打つ音が、異常に大きく感じられた。どうやら、立てなそうだ……。膝が私を嗤っていた。
ぱんと乾いた音がして、液体が両手を滑り降りていった。周囲の人の視線が一斉に自分に向けられたのを感じながらも、私は体を動かせずにいた。
視界の端、足下に水たまりができているのに気付き、ようやく半歩後ずさった。
まずいことになった。口の中が急速に乾いていくのがわかった。水を飲みたいと思ったが、飲んでいいものかどうか、他にするべきことがあるのではないか、判断が下せずにいた。
ただ突っ立ったまま十秒ほどが経過したように思われた。長い十秒だったから、実は二十秒だったのかもしれない。五秒を長く感じて十秒だと思ったのかもしれない。しかし三十秒は経っていないはずだった。
中年女性が駆け寄ってきて、私にポケットティッシュを差し出した。受け取ろうと右手を差し出すと、無言のまま押し付けられた。
「どうも」
と礼を言ってみると、女性は既に身を翻して私から離れていた。素早かった。
負けじと素早く周囲を窺うと、もう私に興味を示している人はいないようだった。よく見ると半分以上使用済みのポケットティッシュを二組取り出して、手を拭いた。それから炭酸水のボトルを拭いた。
程なく電車が到着し、ホームに列を成していた人々が座席を分け合った。そこでようやく炭酸水を一口飲んで、喉を潤した。
目を閉じた。考えた。新鮮な、茫然自失の感覚を、あのままもう少し味わっていたかった。この年になって炭酸飲料を溢れさせるとは思わなかったが、不思議と恥ずかしくはなかった。
振ったら中身が飛び出した。階段を上り下りしている間に、随分振ってしまったのだろう。何食わぬ顔をしていた人たちも、少なからず驚きを持って再確認したのではないだろうか。振ったら飛び出す、と。
電車に揺られてまどろみながらも、小さな不安が胸に巣食って離れなかった。次に炭酸水を飲むときに、またやってしまうのではないだろうか。またやってしまったときに、すぐに誰かがティッシュを持ってきてしまうのではないだろうか。
家で飲めば済むだけの話だが、それでは話が上手く落ちないので、私はその日以来、未だに炭酸水を飲めずにいる。貴方がこの話を読み終えてくれれば、安心して飲めることになっている。
壁のペンキがほろほろ剥がれるごとく青空が降ってきて曇り空に替わった。一ヶ所だけ片意地に残っていたやつは叩いて落とし、全面が白雲に覆われて予報が当たった。思い通りにならなきゃ何でもすんのか、と言われても仕方ない。時計を見たら午前8時だった。
いつでも自分が好きな天気に変えているつもりは無く、四季と、周期は考えている。それでも予報が外れるより当たったほうが文句を言われるのは、当然といえば当然なことだろうか。苦情対応にあたっているのは僕ではないけれど、鳴り止まない電話に苛ついた同僚が「こんにゃろがあー」と奇声を発して飛び蹴りを繰り出してくることは頻繁にある。それをよけながら一週間を無事に過ごして、土曜日の朝に会いに行く。
「どうして曇らせるのか」
「仕事だから」
映画の感想も聞かないうちに天気のことを言われ、顔を横に逸らして溜息をついた。これが何回目か、何人目か数えてはいなかった。かつて会った人たちは晴れていれば日焼けすると怒り、雪を降らせれば寒くて陰鬱だと言った。現在の人と知り合って僕は、土曜日をいつも曇りに設定している。
「雲は好きだけど」
「ん」
「黒い雲もいい」
「……考えとく」
綿雲、絹雲、形は変えていたけれど色はいつでも白かった。本当は灰と黒なら簡単に作れる。色のついた雲はほとんど作らない。この人はとりあえず曇っていても怒らないのだ、そう思い、なんとなく笑みを浮かべて雲を見ていた。晴れたら彼女は顔をしかめて眩しいと言い、雨を降らせたらいつまでもじめじめと愚痴を零すだろうか、次の週末からは少しづつ天気を変えて、怒った表情を見てみたい気もしていた。
列島を台風に通過させた水曜日、メッシュ状に区切られた画面ではぱらぱらと晴れの地域が広がっていた。苛ついてんのか楽しいのか判らない同僚の予報官は「はれるじゃあー」と奇声を上げて跳びまわっている。
「hallelujahはハレルヤって読めよ」
「え」
「日本語じゃ無えよ」
黒い地面と黒雲のあいだに白雨を降らせるか、壁にペンキを塗ったような青空にするか、何かめずらしい色の日光を見せるか、三日後の天気を未だに決めていない。
むかしむかし太郎という青年が山の村に暮らしておりました。太郎はわがままで根気がなく誰とでも喧嘩をするので、村人から嫌われておりました。
ただ一人、幼なじみの雪子だけが太郎のことを心配しておりました。雪子は太郎が素直なところも持っていることを知っています。どうにかして太郎がいい方に変わってほしい、そのきっかけがほしいと考えておりました。それに、太郎のことがとっても好きだったのです。
満月の夜、雪子は山の頂上へ登りました。
「ねえお月さん、私の話を聞いて下さい」
雪子は月に向かって真顔で語り始めました。月はそれを黙って聞いておりました。もっともっとむかしの人間はよく月に願いを言ったものですが、そのころに月に語る者など滅多にいなかったのです。月は久しぶりに頼られて嬉しく思い、雪子にキスしました。
涙あふれる雪子の顔に笑顔が戻りました。雪子は思いをすべて口にすると楽になって、山をおりました。さて、月の出番です。
月はまず太郎を探しました。部屋の窓を覗くと寝ています。月は太郎にキスしました。太郎はくすぐったくて目を覚ましました。月はずっと先の未来から取り寄せたウォーターマンの万年筆と原稿用紙、それに谷崎潤一郎作「春琴抄」を太郎の部屋へ送りました。
「太郎、あなたのことを心配している人の願いで来ました。あなたにずっと先の世界で使っているペンと紙、本を持ってきました。あなたは毎日これを写しなさい」
月はそう言い終わると雲の間に消えていきました。
太郎は一人ぼっちで暇だったので言われた通りにしました。もともとは素直なのです。
本を写していくと、次第に万年筆が自分の手に馴染んでいくのがわかります。紙に文字を書きつけると心が落ち着きました。それに春琴にどれだけ叩かれても文句を言わず、最後は自分の眼に針を突き刺す佐助に胸が震えました。太郎はそんなに誰かを好きになったことがなかったのです。
太郎が春琴抄を写し終わるころになると、万年筆は太郎の文字の癖をしっかり記憶した太郎だけのペンとなっておりました。
いつのまにか太郎は物語を通じて控えめで忍耐強い人間に成長しておりました。太郎は残っているインクと紙で月にお礼の手紙を、今まで迷惑をかけていた村のみんなに反省の手紙を送りました。それを受け取ったみんなは誘いあって太郎の家へ遊びに行きました。その様子を遠くから見ていた雪子は小さく微笑んで月に向かって投げキッスしました。
花束を抱えにっこり笑って、白い病室のベッドに横たわる少女に目の焦点を合わせた。毛糸の帽子をかぶっているのは、治療の副作用で髪がなくなったからのようだった。会戸さんが私を紹介した。友人で、ぜひ少女に会いたいと思って来たそうだ。私がベッドの側に立つと、少女の顔がみるみる歪んでいった。
「会戸さんは、この人と結婚するのね!」
「違うよ。この人は……」
少女の息が急速に荒くなっていった。会戸さんが「ゆっくり、ゆっくり」と言った。私が横から覗き込むと、きゃあきゃあと悲鳴を上げてますます息が激しくなった。会戸さんがナースコールを鳴らした。
「出てって!」と少女は私を指差した。
後を看護婦に頼み、会戸さんと私は病室の外に出た。
「過換気症なんだ」
「気を遣いすぎるのも返って良くないんじゃないかしら」
会戸さんはまっすぐ前を向いてまるで私の話を聞いてなかった。
「こうしよう。君は山中と夫婦なんだ」
「なぜ」
「その方がぼくと無関係だってはっきりするだろ」
「そうなの?」
会戸さんは先日山中さんを交えて撮った写真がまだ車に置いたままだからそれを使おうと言った。私が山中さんと会ってたことを気に掛けてるんだろうかと考えてみた。会戸さんは私の手を取って広げて見た。
「指輪が要る」
会戸さんは病院の駐車場から車を出して私を助手席に乗せてジュエリー店へ急行した。店員に最初に勧められた指輪をクレジットカードで買った。病院へ取って返して、ドアの前で私の左手の薬指に指輪をはめて、山中さんと私が写った写真を押し付けて、私だけ病室に入れと言った。
普通の女の子だったら、はっきり断るか、あるいは泣き出すんじゃないかと思った。でも私は別にそんな気持ちにはならなかった。むしろちょっと華やいだ気持ちだった。それも変だなと自分でも思った。病室に入ると既に少女は落ち着いてベッドで本を読んでいた。笑顔ですたすた歩み寄り薬指の指輪が見えるように左手で写真を持って差し出した。
「私、結婚してるの」
少女は本を置いてちらり写真を見た。
「会戸さんを呼んで」
会戸さんが入ってきて、枕元に座った。私はその後ろに下がった。少女はひそひそ囁いた。それから声を大きくした。
「私たち、いつ結婚するの」
「次の君の誕生日の日だよ」
「キスして」
会戸さんは少女にぎこちなくキスした。枕の上にそっと戻された頭が会戸さんの肩越しにこちらに向き、満足そうな笑みが広がった。
曲り道は夜に浸されていた。コンクリートが濡れているのか乾いているのかよくわからなかった。夜風は十分に湿っていて、それは雨上がりの匂いではなく、梅雨どきの夜に似ていた。細かな水滴が腕や顔の皮膚に吸い付くようにして、私はその道を大股で歩く。虫も鳥も鳴かない。
水戸線は単線で、一つ隣りの駅で「交換のための待ち合わせ」をする。4両の遅い電車が黄色の光と共に行ってしまったあと、7分そこで待っていれば逆行きの電車のための踏切が鳴る。普段よりも鈍い、鐘の響くような音。振幅の広い男の人の声。私はときどきかしこまる。だから逆行きの音は聞かないし、今まで歩いていて、逆行きの踏切と電車の音を背中から聞いたことはない。家に帰れば、二階のベランダに出るか、トイレの窓からでも、ガタガタ走り行く音が聞けた。
糸を交差させたように、道程に唯一横たわった国道、夜になると増えるトラックの音がずっと続いていて、レールを伝って行く金属塊の跳ねる音を聞くと、気分は束の間の休憩のように、渦巻きの内耳はそのときばかり張り切った。その唯一の信号待ちの、直前に落ちていた空き缶の縁が、信号機の赤色を、ぱちんと切ったつめの形、そのくらいの大きさに絞り集めて、何かに語りかけていた。私は語りかけられ、ぷいっと視線を逸らして、傍らの金網に巻き付いたフウセンカズラの、まだ乾かない実に触れた。空気を含んだ種のうはやわらかく、緑色の表面は産毛を纏って、飽和するほど水滴の浮いた夜の中で、驚くほどさらりとしていた。こんなふうならいいなと思う。秋になれば茶色く乾いて、ハート模様のかわいらしい種を3つ。
私は振り向いた。きっぱりと体を逆に向けた。
左手の小さな指は、私の人差し指と中指を握って、一歩ごとに引っ張るように歩く。靴が好きで、靴下の好きなめずらしい子は、今に私の左手なしに好きなところへ歩きだすのだ。
彼女の左手にはフウセンカズラが蔦ごと引きずられていて、駅に着いたら、電車を待つ間に中身の種を出させ、蔓は何とか諦めてもらわなければならない。昔広告で折った、縦折りと横折りしかない種包みを思いだす。それが折り紙の「ふうせん」になり、薬包紙を折るようになる、それだけの年月が、この子の先にあるのだろうか。私は薬包紙を折るのが好きだけれど、彼女もそうとは限らない。
種のうの中で、それは踊る。種に良く似た小さな黒い目が、小さな駅を見据える。
金と権力に目のくらんだ女達が社交と称して自分を売り込みに来る最悪の宴から、やっと開放された。こんなくだらない宴を続ける事が私の義務だというのなら、金、権力、女。全て欲しいヤツが持ってゆくがいい!
だがこんな日に限って、意外な女が私の行く手を阻み、呟く。
「私はあなたの慰みものではない。誇りを捨ててあなたの上に跨るのは簡単だが、そのためにここにいるわけではない」
私は冷笑した。女の意志がどうであれ、私がそうしろと命じたときから女は、この廊下でただ私が立ち止まるのを待つ日々を運命づけられた。それが真実なのだから。
しかしながらこの女、顔に似合わずずいぶん卑猥な言葉を吐くものだ。その変貌ぶりには感心さえする。夜ごと壁に追いつめられて私の視姦に耐えるだけの姿と同じではない。その背が壁から逃れ、わずか一歩、私の行く手を阻んだだけだというのに。
「あなたは私を愛している。でなければ毎晩ここで足を止めたりなど」
女は嘘ばかりつき、それを嘘だと気づかないまま言葉を放り出す。足元に無造作に転がる言葉どもは、嘘であるが故に存在し続けられず消えて行く。生まれても生まれても消えるばかりだ。
女は言葉を投げ続ける。私は笑うだけだというのに。泣かないかわりに怒りもせず、憎みもしないかわりに愛さないだけだ。
「お前の上に跨るのは難しい。なぜならその先を思いつかないからだ」
憎々しげな女の視線の下、私の吐いた嘘でない言葉どもは足元に降り積もる。全く、真実というのは嘘以上に面倒くさいものだ。私は女に背を向けて廊下を進みはじめた。
「不能者め」
汚い言葉で女は罵り、私は振り返りながら笑った。女が放りだした言葉は相変わらず嘘だったからだ。生まれ、すぐに消え去ってゆく言葉ども。私はむしろその性急さにこそ惹きつけられる。
「それほどまでに私と契りたいか、あの女どものように?」
女は黙ったまま答えない。
「・・・私はかまわぬ。だがお前には穴がないではないか」
私はくつくつと声を出して笑った。ある穴といえば釘の跡だけで、まさかそれを突くわけにもいかない。私は笑いながら廊下に落ちた釘を拾い上げ、穴にあてがったままそれを壁に打ち付けた。ようやく女はいつも通りの顔で壁ぎわに戻り、それはしっくりと風景に馴染んだ。
私は侍従を呼んできつく言いつけた。
「掛け金を打ち直せ。外れた絵画ごときが私の行く手を阻むなど、二度とは許さぬ」
南先生はいつもその棒を持ち歩いていた。
特別なものなんかじゃない。壊れた箒の柄の部分だ。
硬い木で床に触れると、コツコツと乾いた音が響く。
先生はそれを「賢者の棒」とよんでいた。
遅刻したり、宿題を忘れたりすると、その賢者の棒で生徒の頭を叩くのだ。何もなくてもよく床に叩きつけていた気がする。
パンチパーマでサングラス愛好者の南先生が持つ賢者の棒は、生徒にとっては恐怖の対象でしかなかった。先生は校内のどこに行くにも手離さないほど、この棒を気に入っていたようだ。
ある日、クラスメイトの一人が遅刻してきたという理由で、先生は賢者の棒で彼女を叩いた。打ち所が悪かったのか、額から血が流れ座り込んだ彼女に、先生は「早く席につけ」と怒鳴った。
血を見てざわついていた教室は先生の怒鳴り声で瞬時に静まり、ふらふらと立ち上がった彼女が自分の席に座ってからは、通常の授業が行われた。一時間目が終わる頃、教室内に生臭い鉄錆の匂いが充満していた。休み時間になってようやく、友人に付き添われて保健室に行った彼女は、その日、教室に戻ってこなかった。あとで保険医の先生に連れられて病院へ行ったのだと聞いた。
翌朝、いつものように教室に入ってきた南先生は教壇に立つなり、持っている賢者の棒で自分の頭を数回叩いた。静まり返った教室に、コンコンと軽い音が響き渡った。
「こんなものは痛くない」
先生は笑ってそう言ったが、誰も何も答えなかった。
「痛くないんだ」
先生は怒鳴りながら賢者の棒を教室の隅に投げつけた。棒はちょうど、壁際に飾られた花瓶に当たり、砕けた陶器の欠片と一緒に床に落ちた。
先生はしばらく険しい顔で室内を見渡していたが、ふいと教室を出て行った。
幸いにも、投げられた棒や砕けた花瓶で怪我をした者はいなかった。壊れた花瓶はクラス委員が片付け、後日、備品弁済のためにクラス全員でお金を集めて代わりの花瓶を用意した。
怪我をしたクラスメイトの両親が、学校と教育委員会に苦情を言ったのだと聞いた。病院で三針も縫うほど、額が割れていたらしい。
南先生は、校長先生をはじめ、教育委員会からもきつく指導方法を改めるように言われたと聞いた。
あの日から、南先生は学校に来なくなった。なんでも、登校拒否をしているという噂だ。
投げられても壊れなかった頑健な賢者の棒は、いまでも教室の隅に立てかけられて、南先生のかえりを待っている。
最近はワイヤーが流行っている。喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら外を眺めていると、若い女の子達がキラキラとカラフルなワイヤーをパソコンやバッグから自分の身体に巻き付け、いろいろなものをワイヤーで繋げて、歩いて行くのが見える。あたしの頃なんかは、ともかくワイヤレス。ワイヤレスが大流行して、なんでもかんでもワイヤレスになって、全てが世界の何処かにあるワイヤレスでサーバーと繋がって、それで、部屋の中からは何もかもが消えたものだったけれど。
「死んだよ」
メールが入る。
「彼女が死んだ。自殺したよ」
メールは友達からで、あたしが最近見続けているサイトの管理人が死んだ、とのことだった。
「そう。寂しくなるね」
あたしはメールを返す。きらきらと光り溢れる昼下がりの喫茶店にかちかちとキーボードを叩く音が響く。
サイトには彼女の描いた詰まらない絵が沢山置いてあって、詰まらない文章が沢山置いてあって、つまりあたしが昔書いたようなものが沢山あって、そして詰まらない日記が五年ほど続いていて、そして今日止まった。
「そうだね、寂しいね。死んだのは彼女であって私達ではないからね」
パソコンをしまい喫茶店を出る。ずっと雨が降っていない。全て乾ききっていて、全てがきらきらとしている。
今日の仕事はとある女性アーティストへのインタビューだった。
彼女は近年最も売れた女性アーティストで、じかに会ってみると確かに彼女には何か迫力が感じられた。売れている理由が何となく解る。あたしは、彼女は盲目なのだろうな、と思った。耳が聞こえないのかもしれないがそれよりもやはり目が見えない、その方がしっくりとくる。
「そんなことはありませんよ」
彼女は笑って答える。
彼女の笑顔を見ながら昔、盲目になりたいと思っていたことを思い出す。目が見えなくなったら。何も見ることが出来無くなったら。ワイヤレスが流行りだした頃のことである。全てを見ることが出来無くなれたら。
(わたしはね、言うよ。世界は美しくない。君達がどう思うかは知らない。君達はあんなことやこんなことで感動なんかしてしまって、それで美しい、なんて思うかもしれないけれど、でもね、やはり美しくないよ。世界は美しくない。神様にだってそう言うよ。世界は美しくない。全く美しくないって)
誰かがそんなことを言っていた。誰が言ったのか、あたしは忘れてしまった。あたしは、盲目になりたかった。
細い裏路地を縫う様に帰宅する途上で、私はその女と出遭った。
疲弊して爛れた眼界の片隅に、髪の長い女が佇んでいた。路地のどん詰まりに打ち建てられた何も無い白壁に面し、物言わず唯立っていたのである。
私は歩みを留めて、その女の背を見詰めた。擦り減った靴底から、鈍く湿ったものが沁みて来る。
不意に女がこちらに向き直った。両の眼に、夕暮れの蒼が鋭く宿っていた。
女は何も言わず、摺る様に私との距離を詰めて来た。何か避け難いものが、女の眼の光にはあった。
裏路地の片隅に置き忘れられた様なアパートの自室へ、私は女を招き入れた。恋慕や情欲の火花は無かった。唯水が上手から下手に流れ行く様に、私が開けた軋む戸を、女は潜った。
女は口数少なくも、家事の殆どをさも当然の様にこなしていった。
女の作る飯は独り者の私には格別の物ではあったが、私はどうしてもそれに心を緩めることができずに居た。飯を食む度、尻の下の底深い谷へと落ちて行く様な空恐ろしさがあった。だが、落ちて行きたいのかも知れなかった。そうでなければ私は、女が土間に脱ぎ捨てたヒールを整え直す様な真似はしなかっただろう。
最初に遭った時の様に、女はよく何も無い中有を見詰めていることがあった。私も又、背後からそれを黙って見遣っていた。そうしていると、眼に見える風景が、女の背だけを残して尽き果てて行く様な気がするのだった。垢汚れた壁も、揺らぐカーテンも、窓外のビル群も、色を失して腐れ落ちて行くのであった。女の背は、私に差し迫った絶望が見せる横顔であるのかも知れない。古された安アパートの一室の、在世の底部に澱の様に残滓する暮らしの中へ、私はとうとう絶望を招き入れてしまったのだと思った。
夜、肌を合わせる時、女の体の内側に在る何かが私を打つのを感じることがあった。女の青白い皮膚の下を走る何かが、臥している私を責め苛むが如くに小突き続けるのである。
私は女を更に強く抱き締めた。私は、もっと責め打たれることを望んでいた。際限なく責め打たれるどん詰まりの夜に、私は自らの生がそこから反響するのを耳にしたいのであった。
すまんすまんと繰り返し、女を抱いた。粘るような汗が、私と女の総身を包んだ。
駅長が遺失物係りの失踪にこうも関心を示すのには何か訳があるに違いないと彼は思う。あるいは駅長こそあの哀れな遺失物係りの失踪に関わりがあるのではないか。いや、もちろん駅長は駅長たる己の職務に熱心なのであり、自分の部下である遺失物係りの失踪を座視し得ないだけだという可能性も高い。だが、と彼は思う。やはりこのどこか粘着質な駅長には何かあるに違いない。探偵としての彼の確かな経験が駅長を疑えと囁き続けている。ゴウッと列車が構内を通り抜けていく。その列車を見送りながら駅長は口を開く。「やはりね。私も駅員のはしくれだからね。普通列車しか止まらないこんな小さな駅じゃなくてせめて急行が止まる駅に勤めたいとそう思いますよ。あなたにはお解り頂けないでしょうけどね。駅員の階層にもそれなりのものがありましてね」ゴオッ。また列車が通り抜ける。そういえばこの駅に列車が止まっているところを見たことがないことに彼は気付く。この駅に来てもうどのくらい経つのか。構内アナウンスが次の列車の到来を告げる「犬伏岬行き最終列車があと…」その列車がこの駅に到着することは決してないのだと彼は確信する。何故なら遺失物係りがいなくなってしまったからだ。駅長の話はまだ続いていた。「ねぇ、あなた。新しい遺失物係りが必要だとは思いませんか?」
彼がそれにどのように答えたのか。それは私には解らない。