# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 私の人形はよい人形 | 黒木りえ | 200 |
2 | 瞬間移動 | 向坂隆也 | 227 |
3 | 熱力学第二法則 | 安南みつ豆 | 994 |
4 | ロリコン | あえりあ | 960 |
5 | 独立 | 捨井文金 | 995 |
6 | 他人との距離0cm | タッティ | 833 |
7 | 存在 | 伯耆隆之介 | 221 |
8 | 告解 | 朝野十字 | 1000 |
9 | 眠り姫のいる町 | でんでん | 999 |
10 | 泥濘 | 戸田一樹 | 997 |
11 | 午後のかほり | 神藤ナオ | 999 |
12 | octopus garden | とむOK | 973 |
13 | 2人分のカレーライス | 白丸 | 855 |
14 | はるか4万キロ | 八海宵一 | 1000 |
15 | 竜神の髭 | めだか | 1000 |
16 | 環境に良い石鹸 | Nishino Tatami | 942 |
17 | 慰弔 | サカヅキイヅミ | 913 |
18 | (削除されました) | - | 990 |
19 | 睡眠革命 | 江口庸 | 756 |
20 | 緑の葉 赤い林檎の歌 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
21 | 少年時代 | 三浦 | 100 |
22 | 屋島トワイライト・セレナーデ | 野郎海松 | 959 |
23 | ユミに会いに行く | (あ) | 1000 |
24 | 耳 | 曠野反次郎 | 1000 |
25 | トンネル | 朽木花織 | 926 |
体が動かなくなってから、紀さんは私を抱いて家の中を運んでくれるようになった。食事も食べさせてくれ、体も洗ってくれる。私は鉢植の緑みたいに、紀さんにすべてをゆだねることにした。
もっと痩せたいと思った。私が痩せて軽くなれば紀さんが楽になるから。本当は私が死ねばもっと楽になるのだろうけれど。紀さんは私を理想の花嫁だという。だから私は、ただ紀さんを信じることにした。紀さんのくれる薬を信じることにした。
朝、目が覚めると枕元に僕の彼女が立っていた。
「どこから入ってきたの?」と寝惚け眼で尋ねたら、彼女はニッコリ笑って返事した。
「瞬間移動して来たの」だって。
「そうなんだ、すごいね」そう言って僕はふと気がついた。
彼女は先週マンションの屋上から飛び降りたんじゃなかったっけ。
気づいた瞬間、彼女の姿は跡形もなく消えていた。
そうして僕は何もなくなった空間に向かってそっと呟いた。
「また会おうね」って。
自由になった彼女にとって、瞬間移動などきっと容易いことに違いない。
部屋の鍵を開ける。結婚してからも家族が一人増えてからも、扉はひとりで開けてしまう。この家の持ち主なのに、どうして外からインターフォンを押さなければならないのか、そこまでの信念を持っているのかどうかわからないけど今日もひとりで鍵を開けて玄関に入る。ちなみにひとり息子のハルキはインターフォンを家に入る時に押さないと気がすまない。もちろん手が届かないので、いつも抱っこしてボタンを押す。突起やねじ山ですら1歳になる前から押していた。ああいうのはなにか本質的に押したくなるなにかを秘めているらしい。
話がそれた。どちらにしても僕は出迎えられる事などない。押さないから出迎えられないのだといわれればそれまでだけどたいてい彼女は部屋の真ん中で倒れこむように眠っているのだから仕方がない。携帯電話にメールを送ってもそれはずっと充電器に置かれたままで持ち歩かれる事などめったにない。まぁそれでも彼女は帰宅メールを要求する。返事が来た事はほとんどなくて、あったとすれば「牛乳かってきて」とかそんなんばっかりだ。もっとも僕の方もバカ正直に「帰りにゲーセンによってきます」なんて書くからいけないのかもしれないが。
ただっぴろいテレビドラマに出てくるようなリビングのソファに眠っている妻というのは絵になるが、室内用滑り台つきジャングルジム(妻の要望で買った)を始め子供の電車やら車やら衣類やら洗濯物だかそうでないのかよくわからないものやらビデオからなにからなにまで散らかっている部屋。ここにあるものはすべて「子供が喜びそうだから、」の名目で彼女が買ったものばかりが散乱している。おれが買ったものはなにひとつない、いや金はすべておれがだしている、金の話になるとつい僕ではなくておれになってしまう。そんなことはどうでもいいのだが妻も働いているのでこれらの増殖は果てしなく、いわゆるエントロピーの増大、つまりは熱力学の第二法則、孤立系のエントロピーは増大するってやつで、この部屋ばまさにその通りだ。
年中鼻炎もちの彼女は服用している薬のせいか、それとも最近行き始めたメンタルクリニックで処方された安定剤のせいか、仕事で疲れているのか、子供の相手に疲れたのか、ひたすら眠りこけている。その横でハルキも寝ていたようだが息子はしっかり鍵の開く音で目が覚める。パパーとようやく最近覚えてくれたその言葉でひたすらに僕を呼ぶ。
今日もいい天気だ。まったく、近所のバカオヤジが言っていた「こんな日はナンパ日和だ」って。
まぁ、それだけが理由って訳ではないが、ナンパをしにここ小学校前まで来た。なんにしてもやることが無いんだ。まったく、日曜の昼下がりに一人寂しいなんて冗談じゃない。
ただ、ナンパする時は気をつけなきゃいけない。何せオレの好みは年下の……それも八歳くらいの女の子だ。
なんだよ、こういうのを世間一般では『ロリコン』とか言うらしいな、しらねーけど。だが、おれは、世間一般が指すような男じゃねぇよ。別に二十代くらいのババァでも結構いけるぜ。
まぁでもだ、それだと第一面白くない。何だってそんなババァを相手にしなきゃいけないんだ? デカイしヤタラ主導権を握ろうとするし、最悪だ。
む、標的発見。俺の見立てでは九歳かそれとも……まぁいい、そんなことは重要ではない。重要なのは、あれはどう見てもババァじゃない事、そしてオレが失敗するかどうかという事だ。
オレは一人でブランコをしている女の子の前まで行き、そして言った。
「ねぇ、僕とゲームしない」
「え、だれ?」
「ほら、この前あったじゃない。僕だよ、僕」
「……」
「ねぇ、僕んちすぐそこだから、ちょっと遊ぼうよ」
むむ、なかなか手ごわいな。ケド見てろよ、俺には必殺技があるんだ。小さい奴ほど引っかかりやすい……これでどうだ!
「ねぇ、おうちにあるお菓子、一緒に食べようよ」
「……」
お?
「……あ、先生〜」
「え」
やばい、まさか先公がいるとは計算外だ。おれは全速力で走り出した。なにしろ捕まったら終わりだ、何とか逃げ切らねば。
「っは、っはっは、っは……」
あぁ、クソ、向こうの方が早い、つかまっちまう!
おれは今まで出したこともないようなスピードでジャングルジムの後ろをすり抜けた。目指す門の外まで、後十……七……五……やったこれで……。
「おまえ!」
っガシ
……あぁ、嘘だ、ろ。
「お前って奴はいたい何を考えているんだ」
ここの先公に捕まっちまった。腕を振り切ろうとしたが、だめだ、力が強すぎる。
「何処のもんだ?」
「西岬ヶ丘小学校です」
「あぁ、あの……ってことはお前島崎隆平だな。まったく、いたずらはもうするなよ! 分かったか」
「はい、ごめんなさい」
あーぁ、今日もだめだった。
おれは島崎隆平、今年で九才になる。
半年前、9年間勤めていた法律事務所を退職し、この雑居ビルの4階に自分の看板を掲げた。世に言う「独立」ってやつだ。しかしまだ一人もクライアントを抱えていない。現状は人を雇うほどの余裕なんてないから、何から何まで自分ひとりでこなさなければならない。正直、明日どうなるかの見通しは、夕暮れになった今も立たない。不満を挙げ出したらきりはないが、少なくとも24時間に一回は、ゆっくり床に就きたい。
閉じたブラインドの隙間から、夕陽が壁にストライプ模様を描いている。応接用のソファーに横になって、私はその影の微妙な推移を、長いことじっと眺めている。
ちょうどうとうとなりかけた頃、ドアをノックする音と、すりガラスの向こうに人の気配がしたので、乱れた居住まいを正しながらドアを開いた。これは本来、私がすべきことではない。
「遅くなってすいません」
作業服姿の老人だった。雑巾とゴム手袋を提げた空のバケツを手にしている。傍らには手押しのワゴンがあり、掃除用具一式が雑然と積み込まれている。向き合ってものの二秒で、虫の良い期待は消え失せた。そのワゴンには、この老人が、待望のクライアント一号である要素は何ひとつ積み込まれていなかった。
「○×社の者ですが、お部屋の清掃に参りました」
「すいませんが、なにかの間違いじゃないですか?」
老人が当然のように入ろうとするので、私は言った。「うちはおたくなんか頼んだ覚えはないんですが」
すると老人はポケットからメモを取り出し、このビルの私の事務所の番地と号室を言った。「・・・で、間違いないですよねえ?」
「とにかく、何かの間違いなんだ。見ての通り中は散らかってるが、ゴミとそうでないものの区別は他人には委ねられないものばかりでね」
そう口にした私は、まるで自分を凋落を認めたがらないかつての首長のように感じた。入り口から右側に積まれたダンボールの中には、二度と見返すことのない、過去に自分の請け負った裁判の調査資料。そして左側には、先日配送されたまま手付かずの私物類、衣類やなんかが…。たちまち、やりきれない気分になった。
「○○という方からご依頼があり、それで私はここに派遣されたのですが」
老人は言った。即座にピンとはこなかったが、それは妻の旧姓であった。
私はそれで改めて、妻は先月、長年属していた私というものから「独立」したのだということを思い出した。
彼女の髪が僕の頬に触れる。彼女は僕を信頼したかのような表情で肩をあずけている。
まいったなぁと心の中で思う反面、こんな美しい人に寄りかかられるのは悪い気分ではなかった。
揺れる車内では、いつもの放送が流れている。もう僕が降りる駅に着くのだ。しかし、声も知らない彼女はまだ夢の中にいた。僕は駅で降りるかどうか一瞬迷ったが、答えは最初からでていた。もう僕は彼女の美しさに惹かれていたし、終電になるにはまだ時間があった。電車は僕を育てた街を通過し、彼女はまだ僕に安らぎを与えてくれていた。
彼女は一向に起きる気配はなく、彼女の香水の匂いは僕の記憶を刺激した。よく考えてみたら、女性とこんなに近い距離で一緒にいるのは久しぶりだった。琴美のとき以来だなとふと思う。琴美はよく僕の肩に頭を載せた。僕も琴美に寄り添った。
「なんかこれっていいよね。」
琴美はよくそんなことを言っていた。そんな時間がずっと続くと思っていた。琴美と別れた後、僕はまだ他の女性を愛せていない。
そんなことを考えていると、あと一駅で終点であることに気づく。一定のリズムで彼女が揺れる。僕は彼女を通して、琴美を見ている。彼女に失礼だなと思いながらも、僕は琴美のことを考えないわけにはいかなかった。
そして彼女と琴美の時間は終わりに近づく。終点に着くと、やっと彼女は目を覚ます。少し僕のことを見ていたが、まだ意識がはっきりしていないようだ。彼女に話しかけようかどうか迷ったが、僕は彼女より先に席を立った。電車を降りて、日常に帰る。時間が正しく流れ始める。
「あの・・・。すみません」
声に反応して、振り返ると彼女が立っている。
「・・か・・さ・・」
「え?」
「傘・・・。忘れていますよ」
「あ・・・ああ。」
彼女の手に触れ、傘を受け取る。彼女は歩き出す。僕に触れた髪をなびかせ、僕の横を通り過ぎる。香りだけが、その場に残る。僕は振り返り、彼女の背中を眺めた。
彼女が過ぎ去っていくと、僕は携帯を握り、琴美に電話をかけていた。
見下ろすと、黒く汚れた砂地へごろんと横たわる男の首には親指くらいの太さがあるロープがきっちりと巻き付いている。
瞳孔や汚物の確認をするまでもなく、既に終わっているのが分かるのは、その男が俺だったからだ。
見上げた空は見慣れぬ垂れた変な雲がいっぱいで昼なのか夜なのか判然としない。
なぎ倒されている木々に囲まれた境内を背にし長い石段を降りと、町は一面ただれた黒炭の廃墟と化していた。
唯一興味があるのは、魂同士で触れ合える環境になったという事に尽きる。
とても穏やかな気分であるのは昨夜ぐっすり眠れたこと、午前中は特に何もせずぼんやり過ごしたことが理由かもしれない。何か大事なことを忘れている気もするが大変気分が良いので無理に思い出すのはやめようと思う。
午後になって私は自宅の二階で幼馴染の親友に手紙を書いた。彼は今、アメリカにいる。彼はなぜかこの町を嫌って出て行った。遠い国で始めた野心的な商売は、けれどもますますうまくいっていないようだった。子供のころから知っている顔は頬骨が突き出て無精ひげに覆われ目尻と鼻の横に深い皺ができて、努力の報われないまま彼の人生の半ばまでが過ぎてしまったことを示していた。
そんな彼に何を言えばよいだろう。私は散々迷った挙句、今の暮らしを正直に手紙に書いて、ぜひ気兼ねなく遊びに来てくれと付け加えた。私は故郷に残って青果商の父を継いだ。商売は順調で自宅の店を閉めて街中にスーパーを出店できるまでになった。優しい妻と結婚してとても幸福だ。
ただ一つの気掛かりは、年老いた病気がちの母のことだった。私は階段を下りて母の座敷に行った。布団に包まった母は木彫りの人形のようだった。
「母さん、親友に手紙を書いたよ」
「誰のことだい? おまえに親友などいないよ」
「あとは母さんの病気だけが気掛かりだよ」
「私は病気ではないよ」
カーテンを引いた暗い室内で母の両眼はただの窪みに影が篭っているだけのようだった。
「妻が言うには……」
「おまえに妻はいないよ」
私は癇癪を起こして叫んだ。
「母さんはまだぼくの結婚に反対なんだね! 父さんが死んでからあなたが孤独と心配を募らせてきたことはわかるよ。でもどうぞぼくのことは心配しないで」
「おまえを心配なぞしていないよ。私はおまえを愛していないんだよ」
そうだ、私は母に嫌われていた、この町ごと嫌になった、だからアメリカへ行って……。
カーテンが揺れて落ち窪んだ眼窩に光が差した。ぎょろり睨まれたような気がした。
「いいや、おまえはアメリカへ行ってない」
ああ、母さん。そうだった。すっかり思い出した。私は父の仕事を継ぐことを許されず、あなたから去ろうとすると親不孝と罵られ近付くと理由なく冷笑され続けた。私はアメリカに行かず、結婚もせず、仕事にもしくじって、顔は頬骨が突き出て無精ひげに覆われ目尻と鼻の横に深い皺ができてしまった。そして昨夜あなたを殺したのだ。だから今日こんなにも気分が良いのだ。
マキハラミノリが眠りについてから、ちょうど一年がたとうとしていた。
一年前、小学校の校舎の二階から飛び降りてアスファルトの地面に頭を打ちつけて以来、ミノリは市立病院の最上階、一番奥の部屋で寝息を立て続けている。僕はその間に二回病室を訪れたことがあった。最初は同じクラスの他の生徒と一緒の見舞いで、二度目はミノリの眼に触らせてもらいに行ったのだ。
ミノリの母親は肉のだぶついた愛想のいい女で、少女のようにそばかすの浮いた頬を笑いに膨らませながらドロップの空き缶を差し出したが、そこには他の子供たちが投げ入れていった硬貨がすでに山盛りになっていて、僕が小銭をどこに乗せていいかまごつくふりをしていさえすれば、寛容に二つの手のひらをこちらに向かって立ててみせた。
そこで僕は娼家にでもやってきたように当惑しながら、ミノリのまぶたの上に順番に指の腹を載せてみるのだった。閉じ合わせた薄いまぶたの端に密生したまつ毛が震え、その下で、眼球は驚くほど敏捷に動き回っていた。その動きがあまり速いので、僕は叫び声をあげて飛びのき、ミノリの母親の甲高い笑い声を誘い出したものだ。
夢を見ているのよ、とミノリの母親は言った。この娘はね、長い長い夢を見ているの。
眠り始めてから一年がたった時、町の自治会はミノリを車椅子に乗せ、集会場前の広場まで連れ出して小さなセレモニーを開いた。
目覚めている時のミノリがどんなにすばらしい少女だったかを書き連ねた作文をクラスの同級生が読み上げている間、他の女の子たちはミノリを遠巻きに囲み、一年の間伸ばし続けている髪の毛が相変わらずしなやかでつやを失っていないことを嫉妬と羨望のこもった口ぶりで噂し続けたし、大人たちは大人たちで、ミノリの肌が青ざめていないばかりかほのかに上気してさえ見えることに驚き、口々に褒めたたえていた。にぎやかな催しを憎んでいたはずの叔父ですら、子供たちの肩の間から顔を突き出し、震えの止まらない手で何とかシャンパンをグラスに注ぎこもうと躍起になっていた。シェリー酒と幸福にすっかり酔った母親は、セレモニーの間に三回も足を踏み外してよろめいた。
誰もが上機嫌で饒舌だった。ただ、町の出身の赤い髪をしたソプラノ歌手がリヒャルト・シュトラウスの小さな歌曲を歌っている間だけ、みんなは緊張した顔つきになった。
ミノリが目を覚ましてしまうのではないかと思ったからだ。
裸電球の淡い光に蝿が舞っていた。
「面倒だったんだよ、選ぶのが」
三ヶ月前になる。この部屋に来た女が天井の電球を見てはしゃぐので、僕は何ということもなくそう答えた。でも逆にすごくおしゃれでいいわよ、と彼女は言った。静かな交わりの後、彼女はこんなセックスははじめてだとも言った。こんなに濡れて、こんなにも昇り詰めたことなど一度もないと。
それきり彼女はこの部屋には表れなかった。その女の名前を僕はどうしても思い出すことが出来なかった。
「このタオル、使ってもいい?」
「お好きに」
僕はバスルームに向かって大きな声を上げた。それで一息に深い記憶の泥濘から引き戻された。
「すごくいいにおいのするタオルね」
「使ったらすぐに洗濯して、晴れた日に干しておけばこうなる。僕は黴臭いタオルが嫌いなんだ」
「太陽のにおい」
「そう」
「そこに座ってもいい」
女はベッドの脇に座り、弄んだ左手で僕の左胸の乳首を摘んだ。そのはずみに身体に巻きつけていたタオルが解けた。
「こっちにおいでよ」
僕の脇に作った空間に、女は無抵抗に横になった。女のにおいが鼻を擽り、僕は頭に鈍い痛みを感じた。
「疲れているの?」
「少しね」
「もしかして私のせい?」
「まさか」
僕は女の髪を優しく撫でて答えた。
「不思議。今さっきはじめて会ったばかりな気がしないのよ」
「でもきっと明日には僕のことを忘れているよ」
女はそれには何も答えなかった。
「ねえ、私っていくつに見える?」
交わりの後、女が囁くように聞いた。
「25ぐらい」
僕は少し考えてから答えた。
「無難な答えね」
「つまらない男なんだ」
「私、うまく年を取れなかったのかな」
女はベッドから身を起こし、小さな背中を僕の方に向けて座った。
裸電球に舞っていた蝿が、いつしか二匹になっていた。
「一つ聞いていい?」
女が言った。
「どうぞ」
「どうして私の右腕がないことについて何も聞かないの?」
「聞く必要がないからさ」
「また遊びに来てもいい?」
「もちろん」
「私、きっとあなたのことを忘れないと思うわ」
「ありがとう」
その女もまた、それきりこの部屋には表れなかった。そしてどうしてだかそれ以来、僕は女と寝る機会に全く遭遇しなくなった。
僕はふと、女がメモ用紙に走り書きをして残した電話番号に電話を掛けてみた。
「もしもし」
僕は何も言わずに受話器を置いた。
暮れなずむ午後五時。いつものお茶の時間になって、いつものように、少々肌寒いテラスでお茶の準備をしておりますと、上機嫌な銅像が 小さな花を片手にご登場。
「お茶ですか」
ポットとカップを持ったまま、僕が「お茶ですねえ」と答えますと、素晴らしい!と彼は高らかに叫び、持っていた花を高く掲げて くるくるとその場で回りました。彼はお茶の時間になりますと、いつもの銅製の鉄面皮を脱ぎ捨てて、即興のジェントルマンに変身するのです。
「今日のお茶はなんですか」
緑青のういた硬いくちびるを曲げつつ、彼が聞きます。「ローズヒップですか」
「いえ、レモングラスです」
僕は微笑んで、ティーカップにお茶を淹れます。
「レモングラスは、さぞかしよいかほりなのでしょう」
「ええ よいかほりです」
こぽこぽといい音をたてて 紅茶がティーカップに波紋をたてます。湯気がたちのぼり、夕日に染まるテラスいっぱいに よいかほりが漂います。
「ときにあなた、ご存知ですか」
顔を上げますと、彼は椅子を引き寄せて 遠慮がちに僕の向かいに座りました。彼専用の椅子は、少しも動じることなくその300kgのスレンダーな身体を受け止めています。
「かほりというのは誤字なのです。旧字では『かほり』でなく『かをり』と書くのが正しい」
「それは知らなかった」
「私は知っていてわざと用いました。五時と誤字をかけて」
なるほど。ティーカップを傾けつつうなずきます。お茶の時間を五時にして良かった。僕がそう思っておりますと、彼はうっとりした表情で 花を夕日に向けました。
「さてもこのような素晴らしい五時のひとときに、誤字を持ち出す私をどう思われますか」
「すてきだと思います」
「なればこそ」
紳士的に影だけ笑って、彼は僕に花をよこしました。名前はわかりませんけれど、小さな花弁がとても愛らしい花です。その花は僕のくすんだ手におさまるよりも、彼のアオミドリの手にあった方が美しく思えました。
「どうですか」
何を期待しているのかよくわからない、金属製の声。僕は少し困ってしまいました。
「……とても可愛らしい花です」
「そう、とても可愛らしい。けれど私は、私にはわからないことを教えてほしいのです」
「ああ」
理解した僕は、彼のアオミドリの指から、愛らしい花をとり、顔のまんなか 僕の鼻先へ向けて ひと嗅ぎ。
「とてもよいかほりです」
微笑みますと、彼は満足そうにうなずきました。
特急から乗り継いで1時間半。もうだいぶ日も落ちた終点の駅から、故郷の村まではさらにバスで1時間かかる。俺はスーツケースを下げ、ドアを開けて待つ古びた路線バスの、ところどころ錆の浮いたステップを上がった。50がらみの無口そうな運転手の脇を抜けると、乗客は学校帰りらしい女学生と、杖を抱えた老婆だけだ。俺が住んでいた頃と変わりない風景。
そして、入り口の近く、色褪せた二人掛けのシートに蛸が座っていた。
俺はうっかり蛸と目を合わせてしまった。蛸は一本だけ腕を上げて今晩は、と言った。
「どちらから」
蛸が俺に聞いた。
「東京から」
「私は火星からです」
SF作家や宇宙研究家の長い時をかけた考察を鼻息でふふんと吹き飛ばすような姿に、これはいくらなんでもみんな怒るだろう、と俺は思ったが、遠くからたいへんですね、と話をあわせた。
「旅行なんです。やっと休暇が取れまして」
蛸は時々、霧吹きで水をしゅしゅっと吹きかけて自分の体を湿らせていた。骨がない体はバスが揺れるたびにぶるぶると震える。蛸はちょっと陸の重力を持て余しているようにも見えた。
「一人旅は何かと危ないでしょう」
「この国は治安がいいですから」
そんなことを話しながら、俺はこいつから刺身何皿取れるのだろう、とか不謹慎なことを考えていた。
「私は少し書を嗜むのですが、旅でもすれば、いいのが書けるかと思いまして」
そうですか、と言いながら、俺は頭の中で、墨、墨、墨…やはり自前か、などと不届きなことを考えていた。
「この先の村に、著名な書家の記念館があるのです。そこに行くつもりなんです」
書家といえば、新田の茂じいのことか。あの助平爺が宇宙的な有名人だったとは。
「記念館の庭にある四阿で、夕方まで書かせてくれるのです。そうだ。時間があったら、夜、一緒に飲みませんか」
「いいですね」
酒蒸し、たこわさ、たこ焼き、唐揚げ、カルパッチョ、酢蛸…と居酒屋蛸づくしメニューが壊れたメリーゴーランドのように俺の頭の中で高速回転していた。そう、タコメーターが振り切れるくらいに速く。
俺は蛸から目をそらした。窓の外、すっかり暗くなった街灯のない舗道の向こうに、懐かしい村の燈がぽつぽつと点きはじめていた。
蛸と並んで揺られながら、そういえば、親父も時々旅行者を連れてきては、一緒に酒を飲んでいたっけな、と俺は思った。
今日の晩ごはんは、カレーライス。変わり映えしない、いつものメニューだ。
カレーの日、母さんはきまって遅くなる。今日もまた、1人きりの食卓。まあ、いつもの事だけど。
たまねぎを刻み、ジャガイモの皮をむく。にんじんは入れない。
手馴れた作業を、淡々とこなす。家事はほとんど僕の仕事だ。でも辛くはない。忙しければ、余計なことを考えずに済むから。
完璧な出来ばえのカレーを食べながら考える。いったいどこのどいつだろう?料理は愛情、なんて言ったのは。そんなものが無くてもうまいものはうまいし、まずいものはまずい。現に、愛情なんかこれっぽっちも入れた覚えのない僕の料理は、はっきりいってうまい。僕に言わせれば、うまい料理を作る秘訣はレシピどおりに作ることだ。
そういえば、母さんは僕のカレーを食べたことがない。まあ、どうでもいいことだけれども。
食べ終わると、特にすることもなくテレビをぼうっと眺めている時間が続く。僕はこの時間が一番辛い。何もすることがないが為に、つまらないことを考えてしまう、押し込めていたはずの感情が止まらなくなる。
母さん、知っていますか?今日僕はみんなと野球をやったよ。算数のテストでいい点とったよ。母さん、覚えていますか?今日は僕の誕生日なんだよ・・・。
テレビの砂嵐の音に目が覚めるともう深夜だった。目が痛い。何時の間にか寝てしまったらしい。まだ母さんは帰ってないようだ。もう寝よう。そう思って自分の部屋のドアを開け、ベッドに横になった。
そのとき僕の目に映ったのは壁に貼ってある一枚の写真だった。それはまだ父さんがいて、母さんが今ほど働いていない頃、近くの公園に行って三人でとった写真だった。別にその写真自体に何か特別な思い出があるわけではない。でも今の僕には写真の僕の笑顔がなぜかとても眩しく映った。
「なんでお前はそんなに幸せそうなんだよ」
僕は声に出して呟くと、写真に背を向け、リビングへと戻った。
母さん、僕はもう少しだけ、あなたを待ってみようと思います。
2人分のカレーライスを作って。
地図の制作会社に、入社して一年半。お互いに「好き」という言葉は言わなかった。
月に二、三度、会社帰りに先輩と私は、近くのカクテルバーで、ジャズを聞きながら、他愛のない話をし、時々、会社のグチをこぼした。
先輩はドライマティーニを片手に耳を傾け、少し色素の薄い褐色の瞳で見つめてくれた。
透き通るような瞳に見つめられ、私は酔いしれるのが好きだった。
だから、<今夜、いつものところで、飲まないか?>とメールが来たとき、私は胸を躍らせ、<OKです>と送信した。
先輩はいつもと違う表情で、ドライマティーニに口をつけ、褐色の瞳を、私に向けた。カシス・オレンジを舐めながら、見とれていると、先輩は呟いた。
「北京に転勤なんだ」
カシス・オレンジが、ゴクリ、とノドを通り過ぎた。
「むこうの日本企業向けに、地図を作成する話があってね。今度できる会社に出向が決まったんだ」
「でも、すぐ帰ってくるんでしょう?」
私は、カクテルよりも強いショックに耐えながら、先輩を見た。
先輩は首をふった。
「4年は帰れないんだ。離れ離れになるけど…お互い、がんばろうな」
「そんな…。そんな言い方しないでください。北京なんて、たった2千キロじゃないですか。もっと遠いところは、いくらだってありますよ…」
涙がこぼれた。先輩が肩に手を置き、慰めてくれる。それが余計に哀しくなった。だから、すぐに店を出た。薄暗いビル街を無言で歩き、駅に向かった。
重い空気。
私は耐え切れず、逆に明るい口調で言った。
「先輩、地球上で私から、一番遠い場所って知ってます?」
「いや、ブラジルかな」
「ブー。地球上で一番遠いのは、私のすぐ後ろです。振り向かなければ、ここから、4万キロもむこうなんですよ」
私は笑いながら、先輩の背中にもたれると、大声でいった。
「おーい! はるか4万キロ先のせんぱーい! しっかり、働いて来なさーい! 体に気をつけるんだぞー!」
近所迷惑かもしれない。でも、4万キロの向こうなら、これでもきっと、届かないだろう。そう、どうせ届かないなら…。
「せんぱーい! ずっと好きでしたー! もっと、先輩と一緒にいたかったでーす!」
しばらく響き、先輩の温かい背中が、やさしく揺れた。
「4万キロでも遠く感じないな。北京はもっと近いんだろ?」
はるか4万キロの向こうから、先輩は耳元でささやき、私の肩を抱きしめた。
私は泣きながら、小さく頷いた。
その日、テレビに映る被災地の風景は、どことなくここに似ていた。奇跡的に救出された子供達の表情に、心がざわめく。地震の被害は規模よりも、避難者の十万人が多過ぎる。涙を拭い頑張る人に、心のケアができるのだろうか。あそこにも、竜神さまの髭があれば良かったのにと、ふと思う。
田舎の屋敷はどこも大きな鼠色に沈んでいても、都会なら考えられない広さで庭が続き、四季折々に木々の花たちが目を楽しませ、その色合いがちょうどいい。竜神さまの髭は、蘇芳に紅く古るびてはあるが、値打ちがあるように見えず、その庭先にいらっしゃる。母も、そして祖母も、女達がお役目を継いできたと、聞いた気がする。
私がお役目を仰せつかったのは、17才の夏だった。1日2回の朝と夕方、髭といえばそう見える大きな鉄の曲がった棒を、お日様に向けて動かす役だ。別に作法も刻限もなく、頭の上で曲がったところを捧げ持てば、さほど力も要らない。厳かに動かし終わると、あっけの無さに手持ち無沙汰で、ついお陽さまに挨拶してから家に戻る。
なぜと聞いても、母はバカねとしか答えてくれないが、祖母がこんな話をしてくれた。
「昔な、お役目をして日も浅かった頃。ワイが街へシャシンを観に行きよって、夕方までに帰れんかったと思いなっせ」
やけに艶っぽい笑顔にピンと来た。映画を口実に彼氏とデートに出掛けたのだ。
「おばあちゃんも……、若かったのねぇ」
「うん。村で一番の働き者で器量良しじゃ。若い衆で皆がトラックの後ろに揃った時でも、一人スカーフを風に颯爽としておった。そら誰も静かにはしてくれん。エヘヘ」
こういうところが、とても可愛い。
そこで甘い顔が急に強張って、恐ろしげな顔になる。
「ところが、そしたら、あの大震災さ」
そういえば数十年前、ここらを未曾有の地震が襲ったと、地区センターで見たことがある。
「転げる様に家にさ、帰ったよ」
「地震と関係あるの?」
「ありなさる。それからは一日も、お役目を欠かしたことはない」
祖母の顔は、とても厳かだ。
「お前さまも、そう肝にしなっせ」
「ふぅう〜ん」
きょうは、朝まだ暗い裡から起きだして、日の出を待った。元気に山の稜線から顔をだす、お陽さまを観てほっとする。お陽さまだけでなく、こちらと思う方角にも、祈りをささげる。あの震災後から、これを祖母が始めたに違いない。きっとそうだ。
母がバカねと言ってた意味が、なんとなく、わかる気がした。
「突然だけど母さん」台所で皿洗いを手伝う晶は、蛇口を捻りながら、母親の恵に問いかけた。「うちで使っている石鹸って、環境に優しいっていう触込みだったよね?」
「天然素材の特製のをね」恵は水洗いされた皿を布巾で拭きながら応えた。「でも何で急に?」
「いや、ふと思ったんだけどさ」スポンジに水を含ませた晶は、件の石鹸の入った液をスポンジに染み込ませながら続けた。「石鹸って、黴菌を殺しちゃうよね?」
「そうね」
「ということは、黴菌からみたら、石鹸って全然環境に優しくないんじゃないかしら?」
「成る程ね」皿を一枚拭き終えた恵は、次の皿に取りかかった。「でも、黴菌が私達の体に入ったらどうなるかしら?」
「そりゃあ、病気になるかも知れないけど…」
「黴菌の環境にもいい石鹸なんて使ったら、私達も病気になるかも知れない…どうしたの晶?」
突如、台所に鋭い悲鳴が広がった。引き金になったのは、コンロの上をねばねばと進む黒い物体だった。
「ゴ、ゴキブリがっ!」晶はスポンジを握っている事も忘れて手を振り回し、台所周りを石鹸水まみれにしはじめた。
「晶、落ち着いて!こういう時はね」恵はすかさず石鹸水の入ったボトルを掴み、その中身を本体より長い触角に向けて次々と放った。
石鹸水を浴びた巨大な甲虫は、触角と羽を三倍の早さでばたつかせ、コンロの上をのた打ち回った。
「ぎゃあっ、暴れてる暴れてる!」体をかばう様に構える晶の向こうで、ゴキブリは突如仰向けに転がり、長い足を痙攣させた。その動きも次第に緩慢になり、やがてぜんまいの切れた人形の様に動かなくなった。
「し、死んだ…」晶は体をこわばらせたまま、コンロの上の黒い塊に恐る恐る近付いた。「やっぱり毒が入っているんじゃないの?この石鹸」
「石鹸の泡で、呼吸が出来なくなったからよ」恵は平然と黒い塊を摘み上げ、台所の片隅のごみ箱へ投げ込んだ。「虫にとっては、確かに石鹸は毒かも知れないわね」
「そ、そうか…」
「でもまあ、虫一匹でここまで慌てる晶には、黴菌の心配はちょっと無理ね」石鹸水を手に擦りこませながら、恵は石鹸水でまみれた台所を見渡した。「それじゃ台所の掃除頼むわね、皿洗いは私がやるから」
「…」晶は一瞬ごみ箱の方を眺めた後、肩をすくめながら冷蔵庫の脇のモップを手に取った。
下らない話で大変恐縮だが、先日、前々から入院していた姉が死んだ。
「気の毒ですが、お姉さんは先ほどお亡くなりになりました」
病室に入るなり、神妙そうに医師が言ったが、ベッドの上の姉は生きているようにしか思えなかった。比喩や感傷ではない。彼女はベッドに縛られたまま、よしてくれ自分はまだ死んでないと泣き叫んでいる。
どういうわけか、医師はそれに気付く様子もない。それどころか認識することすら放棄しているようだ。ただ無表情に、叫び声の間を縫って死因を読み上げていた。
「すみません、姉は本当に死んでいるんですか」
思わず尋ねる。傍らの姉が死んでるわけ無いじゃないと叫ぶ。
「死んでいます」
医師は断じた。苦々しさに一抹の憐憫の混じった声だった。
私は困惑を覚えた。いったい姉は死んでいるのだろうか、生きているのだろうか。常識で考えるのならば死体は叫ばないが、生きていると云うのなら医師のこの態度は何だ。悪戯にしては彼の瞳は沈痛すぎたし、何かを見間違うような場面でもない。
色々考えては見たが、姉は死んでいるのだろうと結論した。と云うのも私は死んだ人間がどのようなものか知らないし、医師の誠実さは熟知している。その私にとって、医師が不実を行っていると結論するのは抵抗があったからだ。
私は姉のには耳を貸さず、極力目も向けず、医師の言葉だけに耳を傾けることにした。
暮れ時になって、いい加減帰ろうとしたところで、姉が声を掛けてきた。
「ねえ、聞こえてるんでしょ」
聞こえないように装って、私はジャケットの袖に腕を通した。
「ううん、私はもう死んでるのかもしれない。どっちにしたって、きっとこの後無理やり棺に押し込められて、焼かれて灰になってしまうんでしょうね。それでお墓に収められて、本当に何もなくなるの」
こんな時だが鏡を覗いてみる。格別、髪の乱れは無い。
「けれど。もしこの声が届いていたのなら、私のお墓に山百合の花を添えて。それが今この瞬間に生きていたって云う証拠になるから」
襟を正すと、私は扉を開けて帰途に就いた。
姉の葬儀の翌日、私は方々の花屋を巡って百合の花を探した。
けれどもどういう具合か、どの店も百合の花だけを切らしていた。
街道沿いのところどころにある空き地では、すすきの穂が秋風を受けて揺れていた。だが、風は暖かく、夏の名残りを残している。
ヒロカは富士山を見ながら、風を掻き分けるようにして走っていた。合同練習に本番のような観衆はいない。それでも、走っていれば街道を行く人たちに出会う。汗に濡れたブルーのランニングウェアを透かして、体を見られているような気がする。その視線がうるさい。
汗がヒロカの左目に入った。ヒロカは染みた目をそっと閉じ、右手で額の汗をぬぐった。目を開いた時、後ろに気配を感じた。ヒロカは素早く後方に目をやった。
ヒロカと同じ、ランニングタイツとランニングトップ姿が数人、ゆらゆらと揺れている。距離のせいで、姿や顔立ちがはっきりしない。
人のような何かに追いかけられている。そんな思いに駆られながら、ヒロカは前に向き直った。
ヒロカの背に、今までとは違う冷たい汗が流れた。合宿仲間だと考えても、顔のないものたちの異形が脳裏から消えなかった。それなのに、追いつかれたくないという思いが足に伝わらない。風景が後ろに消えていっても、不安と恐怖は消えなかった。
青い空で太陽が輝いていた。浮かんでいるわずかな雲は、太陽を隠そうともしない。
――暑い……
――とっても暑いぞ!
秋だというのに熱気を送りつけてくる太陽に、ヒロカは怒りを感じた。頭を動かさず、目だけで睨みつける。ヒロカが睨んだくらいでは、太陽が弱る気配はなかった。
怒りが力になった。ヒロカが強く大地を蹴るたびに、流れるように風景が変わった。
不安も恐怖も追いつけないスピードになる。もはや視線も気にならなくなった。ヒロカの顔に笑みが浮かんだ。気持ちが楽になると、体が軽くなった。
さらに速く走れそうな気がする。
――速く……
――もっと速く!
手足の動きが無意識のうちに速度を増した。スピードを殺さずに左折すると、一瞬でヒロカの視界から富士山が消えた。緩い下り坂を飛ぶように走り抜ける。影が後方に消えていく。ショートカットの髪が風になびいた。
合宿所のトラックをヒロカは走った。ゴールしても、足は止まらない。水飲み場までクールダウン代わりにゆっくり走り、足踏みをしながら蛇口をひねった。溢れる水に顔を近づけ、浴びてから、一口水を含んだ。
ヒロカは背筋を伸ばし、ゆっくりと水を飲み干し、空を見上げた。
そして、ニヤッと笑ってみせた。
私はある小春日の昼下がり、ある建物の前で空を見上げ、十年前のできごとを思い返した。二〇××年、若き脳研究者である只野竜彦はすっきりと目覚めた。が、三時間も寝坊。竜彦は研究所所長である元山源一の厭味を目に浮かべた。この身体と感情のギャップを埋められたら。そう思ったとき竜彦の頭に稲妻が走った。睡眠自体に価値を与える世の中を作り出せはいいのだ、と。竜彦は寝食を忘れて論文を発表。題して「睡眠革命」。睡眠をとっている者が社会の上部にくるという、荒唐無稽な竜彦の理論に賛同者が現われた。野比伸夫という寝るのが趣味の二代目議員。もうひとりは正田悦也という居眠り病を患ったプロ麻雀師。三人は国家転覆は現実的でないと、現実世界と表裏一体の夢世界で訴える。居眠り病の悦也が竜彦と伸夫を夢世界へ導く。睡眠を欲するのは脳内にリラックスを司る脳内ホルモン・セロトニンが欠乏するから。夢世界で竜彦は元山と会い、睡眠革命を説いた。現実世界と違い、竜彦の話を素直に聞き、しまいには泣き出して賛同。自信を得た竜彦は、夢世界で睡眠革命を提唱。しかし、治安を乱すと夢世界で竜彦ら三人は指名手配。睡眠欲を満たすことが人間の幸せにつながるという信念のもと竜彦は、セロトニンの生成能力を奪うガスを夢世界の国会議事堂に乱入し噴射。ガス生成に携わったのは元山。国会議員たちは皆、現実世界でうつ、不眠症、キレたりと、議会は空転。すかさず伸夫は議員立法で「寝る子は育つ法案」を提出。意識朦朧となっている議員達はもろ手を上げて賛成。竜彦と悦也は勝利の雄叫びを上げたのだった。私、元山源一は我にかえって、睡眠革命記念館に足を踏み入れた。受付で鼻筋の通った美しい女性が優しい光を浴びながら眠っていた。とがめる者はない。この国ではシエスタが当然の権利となったのである。
スクリーンには様々なものが映し出されていた。緑が強調された夢のように優しい色彩で。ぬいぐるみ。小さな手鏡。ピアノ。それらに降り注ぐ沢山の小さなガラス玉。全てあたしが無くしたものばかりだった。会場は満員で、皆しくしく泣いていた。
あたしはポテトチップを食べ尽くしてしまった。手には小さな林檎が一つだけ残っていた。あたしは林檎に歯を立てる。スクリーンにはあたしが、寒いと泣く母の為に赤い着物を買いに行く場面が映し出されていた。母は白い裸体を惜しげもなく晒している。あたしは食べ終えた林檎を、窓に向けて放った。ガラスが粉々に割れる。その先に青空が見える。
電車に乗り、無人駅で降りた。
無人駅にはフリーマーケットが開かれていた。灰色にくすんだ無人駅に、原色の服が沢山並べられている。
「この感じはまるで昔の彩色写真のようね」
ベンチには軍服を着た女兵士が座っていた。
「そうね」
あたしは隣りに腰を降ろす。
駅の構内は原色の服や派手な色彩の土産人形などで賑わっている。フリーマーケットで、ここはどんどん賑やかになっていくようだ。スピーカーからは昔のロックが微かに流れている。
「日記見せてよ」
催促され、あたしは女兵士に日記帳を手渡す。
「日記見てね」
女兵士はあたしに日記帳を手渡す。
まさに交換日記だった。あたし達はここでたまに日記を見せ合う。
「何も書いてないね」
「少しさぼっちゃって」
あたしは彼女の日記に目を落とす。白紙だった。
「何も書いてないのね」
「うん」
沈黙が流れる。あたしは今日見た映画の話をしようと考える。
「結局、理論的に完全に美しい絵、っていうのは、どういったものなのだろうね」
多分こういうことを言う時点であまり才能が無いのだろうな、と思う。美しい絵を見ても、あたしは気づかないのかもしれない。
女兵士はあたしを微笑みながら見ていた。
「ねえ」
あたしは彼女の背に手を伸ばし、銃を掴んだ。
「決闘をしましょう」
「良いわよ」
あたし達はベンチに座ったまま向かい合う。あたしは引き金を弾く。ぱん、という音と共に弾丸はまっすぐに飛び、彼女の背後に置かれていたボトルシップを破壊した。
ばちゃん。
女兵士はあたしに向かってケーキを投げた。
そうか。今日はクリスマスか。あたしは呟く。
「メリークリスマス」
「メリークリスマス」
女兵士は優しく微笑みながら、あたしの顔に突いたクリームを静かに舐め取り始める。
芋虫をもつと潰れて、そこからでろんと宇宙が垂れた。銀河をかきまぜると「わあーっ!」という声がして、驚いたのと恐ろしいのとで手でおおった。声がしなくなったので覗いてみると、隙間から蝶々が飛んでいった。
「かわらけ投げ、っていってさ」
僕は千夏子に説明した。
「昔はここから煎餅みたいな瓦をブン投げて、願かけしたんだ」
「へえ、いつの時代?」
「知らないけど。ずっとずっと昔」
僕らは瀬戸内海を臨む屋島のさびれた展望台にいて、11月の頼りない光と影に身をまかせていた。空はうす曇りで、海は病的なまでに淀んでいた。
「……ほんとに行くの?」
訊くまいとあらかじめ決めておいたのに、沈黙の後でやっぱり僕はそう訊いてしまう。
「行くよ。おつとめだもん」
この時代、日本の人口は300万を大きく下回り、政府は強権的な再建計画に着手していた。一五歳に達した健康な女の子はみな中央に集められ、人工受精でひたすら子供を産みまくるのだ。
「向こうに行ったらビッグ待遇なんだろうな。いいなあ千夏子」
「それを言うならビップでしょ」
そうだっけ、と僕はとぼけてみせた。つまらないしゃれでも言っていないと、寂しさに心を全部もっていかれそうになる。僕らは幼なじみで、そして町で生まれた最後の子供だった。
「ここから瀬戸の眺めを見下ろすことも、もう当分ないんだなあ」
と千夏子。眼下には誰からも省みられない、生活廃水で白く濁った多島海がある。
「あたし、朝人くんに手紙書くよ。もし手紙が書ければだけど」
千夏子は明日、『象牙の塔』へと発つ。正しくは国家人口問題対策研究所生体母体管理局――だが、あまりにも長ったらしいので、誰もそうは呼ばない。
「手紙なんていいよ。それより夜寝る前に星を見上げて、おれの名前を三回呼んでくれよ」
「星なんて、もうどこへ行ったって見えないでしょ?」
「そのくらい用意してくれるだろ、国が」
「寂しいなあ、朝人くんに会えなくなるなんて」
このせりふは反則だった。思わず泣きだしそうになったが、僕は泣かなかった。お国のために出征する女の子を、男として町の代表として、雄々しく見送るのだ。
「あたしさ、いつか帰ってくるよ。おつとめが終わったらさ。六〇歳とかかな。だから待っててよね」
「そんなに長いこと待ってられるかよ」
僕は力なく笑った。でも千夏子は真剣だった。
「待っててよ。絶対よ。もし死んでたら許さないから」
「アイアイサー」
千夏子は目を閉じて、しばし潮風の匂いに浸っていた。僕はその横顔を、いつまでいつまでもずっと眺めていたい、と思ったのだった。
クリスマスの飾りつけが溢れるこの季節にユミの一年の総括を拝聴するというのは、私と彼女の間で恒例行事になっている。ユミは昔から思いついたらすぐ行動するタイプで、高校卒業まで周りは随分とハラハラさせられた。その後予想通りに上京して音信不通になってしまったけど、なぜか私にだけは一年に一度、きまって連絡がくるのだ。一方私は至って普通な人間なほうで(かつて付き合っていた彼の口からその評価を聞いた時にはさすがに落ち込んだが)、ユミといると聞き役に徹することしかできない。でもそういうところがいいのだろう、オトコが変わることはあっても私たちの関係は変わらずに続いてきた。
だからといって、今回わざわざユミのために飛行機に乗りさらに船に乗り継いだりするのは、やりすぎかもと思う。こんなユミ的行動は当然私にとっては初めてのことだけど、ユミができないんだったら私がしないといけない、と少し意気込んでこんな南の島まで来てしまった。コートの襟を立て足早に歩いていた東京とは違い、ここでは未だ高い位置から陽が差している。風がなかったら汗ばむくらいだ。
船を降りスーツケースを引いて、タクシー乗り場へ向かう。途中たむろした男たちが私のことを無遠慮に値踏みする。遠くまで来てしまったと強く感じ、私は無性に寂しくなってきた。少し先で一台だけ止まっていたタクシーから運転手が走り寄ってきて、私の代わりにスーツケースを引っ張ってくれた。
「ホテルかい?」
乗り込む前に運転手がそう尋ねてきたので、私は頷いた。ユミの話で島には一軒しかホテルがないことを知っていたから。
サトウキビ畑の中を車は進む。風が舞い葉は思い思いの方角に揺らされる。運転手にどこから来たのかとか、仕事は何だとかひとしきり聞かれた。
「そういや春にも同じような客、若い女の子を乗せたな」
車はホテルのエントランスをくぐり抜ける。
「住みついちゃったんだよ、その子。えーと名前は……」
窓の外にユミの姿が見えた。長旅のせいか私は瞬時に興奮してしまい、夢中で手を振った。彼女のお腹はずいぶんと大きくなっている。運転手は突然判明した私たちの関係に驚きながらも、ユミのそばに車を寄せてくれた。
自動ドアが開く。ユミは笑顔で大きく手を広げている。私はお腹を押すことのないよう注意して彼女に抱きついた。そんなことをするのは初めてだったけれど、心からそうしたい気分に私はなっていた。
まるで見知らぬ女が、かあいそうに、かあいそうにと、私の頭を撫でまわしている。どれほどか私の頭を撫でまわした後、右耳の失われた痕に気づいたのか、敏感になった傷跡を冷たい指が撫でまわしはじめ、そのあまりの愉悦に私が、うあぁぁと醜い喘ぎをあげると、それを窘めるように冷たい指が私の唇を弄び、歯や舌や歯肉までも甚振るように愛撫した。私はだらだらと唾液を垂らして、女の指先の冷ややかさを少しでも奪おうと、必死に舌を絡めようとするのだが、女はすっと指を引いてしまい、私の残された左の耳朶に冷たく柔らかな唇を押しつけ、かあいそうに、かあいそうにと、舌を窄め鼓膜を突くようにして、またも私が、あぅんと情けない声をあげると、女はすっぽりと私の左耳を口におさめ、かあいそうにかあいそうにといって、私の耳を噛み千切った。私が堪らずはしたないほどの叫びをあげると、女は満足そうに噛み千切った私の耳を嚥下し、女の細く長い喉を下っていく私の耳に、かあいそうにかあいそうにと懐かしいような優しさを込め囁くのを、私の噛み千切られた耳は、確かに、聞いた。
蠢く肉壁を掻き分けながら、私は女の中にゆっくりゆっくり押し流されていく。私は確か私の噛み千切られた左耳であったはずだが、何故だかそれはもう定かではなく、皮膚が裏返ったかのように鋭敏になった全身を女の肉壁に弄ばれながら、もう殆ど激痛とかわらない快楽に喉元から押し上げられるような叫びをあげた。長い長い地獄巡りのような悦楽の後、遂には、女の奥底まで辿り着き、切り離された元の私の肉体が、女のだらだらと血を流し続ける肉壁に、筋の浮き上がった陰茎を、こそぐように前後させている処に出逢った。黒々とした私の陰茎は今ではもうすっかり血に染まっていて、肉壁の上方を狙い、ゆっくりと、時に突然に、その緩急を存分に味わうようにピストンさせていた。私はしばらくこの光景を眺めてから、頃合を見計らい、血に塗れた私の陰茎に飛びつくと、一番奥まで突き入れられた瞬間、私は私の陰茎を捻り切った。捻り切られた陰茎は、びくんびくんと大きく震えると、どくどくと白濁したものを溢れさせた。ぎゅうと肉壁が収縮する中、突然、白く濁った体液から立ちあがるように女があらわれ、私に覆い被さると、かあいそうにかあいそうにというのだが、それを確かに聞いたのが、私の左耳なのか、両耳を無くした私自身なのかは、もう解らない。
車を運転しながら、僕は彼女にキスをした。光と唇の生暖かい感触を食べることができるのではないかと考えた瞬間、両方に逃げられて、笑われる。
「あたし、女よ」
暗闇と白いライトのごちゃ混ぜになった世界で彼女はそう口にした。僕は中央分離帯が夜の街をどこまでも旅していくのを横目で見ながら、分かっているよ、と答える。
「本当に?」
試すような彼女の声をわざと邪険に扱ってみたくなって、僕は右を向いた。地上より遥かに高いところから、テールランプが延々と続いていく下界が見える。赤い光、注意の印、警告の象徴、禁止の証。
叫ぶような騒音を立てながら、後ろから車が追い抜いていく。自分たちよりも遥かに速いそれを見ながら、僕は今朝見た夢を思い出していた。てらてらと青く光る蛞蝓が何匹も僕の布団の上をゆっくりと這いずり来る夢だ。白いシーツを埋め尽くし、青丹の染みを残しながら僕のほうへ近づいてくる。
遠くに響く飛行機の軌跡と、車の振動が相まって体が震える。トンネルに入ると、オレンジのライトが襲いかかっては、もといた道に消えていった。
「……」
彼女が何かを言ったけれど、僕は尋ね返すことなく曖昧に流す。彼女の長い髪も暖房のスイッチを付ける指も、オレンジに輝いては黒に帰っていく。
耳に膜が張ったかのように何もかもが聞こえ辛い筒の中で、僕は男だよ、そう口にしかけたが、止めた。代わりに、助手席の彼女の服の右袖から何匹も蛞蝓が這い出しても仕方ないのではないかという考えが頭をよぎる。台所の片隅で粘液を出しながら動くそれが何十匹も何百匹も出てきて、やがては彼女と僕をびっしりと覆い尽くす。大量の蛞蝓の下で僕も彼女も蛞蝓に倣って性別を失い、原型をなくしべたべたになるぐらい溶け合って、それから塩をかけられて一緒に縮んでいくのだ。
誰も開けない鉄の箱の中身が縹色に染まっていくことを想像して笑みを浮かべていると、隣からどこか拙いシートの軋みと軽く口から息の零れる音が聞こえた。
トンネルを抜けると、叩きつけるような大粒の雨が降ってきて、視界を白く霞ませる。先を走る車も、後ろを走る車も、ノイズのような雨音でかき消されて見えなくなってしまう。
三日月ももう排気ガスの後ろに隠れてしまった。