第29期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 明日にさようなら Tanemo 840
2 楽園 サカヅキイヅミ 999
3 待ち人 ナミ 918
4 謎の転校生 朝野十字 1000
5 わかげの至り 広田渡瀬 812
6 贖罪の冬 とむOK 970
7 文学の分岐点 八海宵一 1000
8 白い世界 黒木りえ 200
9 あした来るバス 真央りりこ 1000
10 剃刀 戦場ガ原蛇足ノ助 997
11 guatemala 市川 981
12 ゆく年くる年 (あ) 1000
13 おいしい年賀状 江口庸 783
14 走れ! 宇加谷 研一郎 1000
15 静寂を聴く 三浦 935
16 ミイ君 るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
17 黒猫 曠野反次郎 1000
18 立ち止まるとき 長月夕子 599

#1

明日にさようなら

―お母さん、電車こないね
―田舎の駅だからねえ、ほら裕之、寒くない
―うん、ぼく平気だよ

ちょっと早すぎたかな、まだあと30分もあるし
私は裕之の手を取り、ホームのベンチに腰をおろした
線路端の小さな畑に雀が群れている
ここも全然変わらないや、昔のまんま
重ねた手から裕之のぬくもりが胸を充たす、あったかい
その胸に突然あの記憶がよみがえる
アイツ、ここから落ちた!

―ねえ、お母さん、なに考えてるの
―えっ、そうね……、昔の恋人のことかな
そういえば、アイツ、この子と同じ歳だった
ヒロユキ

三が日が明けた日だったな、1月4日、今日と同じ
両親は朝から仕事にでかけた、アイツんちも
留守番の私らはいつものようにここで遊んでたんだ
そして
アイツの最期の言葉、今でも忘れない、絶対に
―おれ、良江ちゃんが好き

そう言うとアイツは急に駆け出した
兎みたいに、でも後向きのまま
それでアイツ、線路に落ちた
その上を急行列車が駈け抜けた

あれから
私には色々のことがあった
この町を出て何年経ったろう
でもアイツの時は止まったまんま
私だけがこうして生きている、そんなの悲しすぎるよ
そして私は生まれた息子にアイツの名前をつけた

反対のホームで曖昧な警笛が鳴り、電車が動きだした
降りたのは女の子とその父親らしい男性
あの人、この辺の人じゃない、誰だろう?
二人は跨線橋を渡り、こちらのホームを歩いてくる
ベンチを立ち上がった裕之と女の子の影が重なった
あっ、あの日と同じ
男性の声がした
―良江、端っこを歩くと危ないぞ

えっ!
ヒロユキ? あんたなの? でも、あの時あんたは
分からない、ぜんぜん……
ふいに世界が真っ白く回転した

仰向いた目の前に真っ青なアイツの顔があった
―おばさん、良江ちゃんが目をあいたよ
―ああ、良江、よかった
涙でぐしゃぐしゃになった母の顔だった
―お母さん……、あたし
―線路に落ちたお前をヒロちゃんが引っ張ってくれたの
―でなきゃ、お前死んでたんだよ

ああ、それって、あたしだったんだ
ありがとう、ヒロユキくん
裕之……
君とは、さようならだ……ね

おしまい


#2

楽園

 休日だったので遅くに起きた。
 いい加減不摂生が板に付いたらしく、なんだか起き上がるのも億劫で、布団に包まったままで煙草を喫りながら、その紫煙に透けて見える自分の部屋をぼんやりと眺めている。
 見慣れた八畳一間はいつもどおりに小汚く、そのくせひどく散文的で取り付く島も無い。これでは冬の朝の澄明な日差しに申し訳が立たない、秘蔵のクラシックコレクションでも引っ張り出して陰惨さを粉飾するべきかと考えていると、突然扉が開き、いっぱいの花を抱えた見知らぬ少女が入ってきた。
 当たり前だが俺は戸惑った。しばらくあっけに取られていると、少女は手に持った花で部屋を飾り付け始めた。やがて花が足りなくなると、廊下から新たな花を引っ張り込んでまた飾り付けを再開する。少女の動きは忙しなく思われたが、その実驚くほど手馴れていたから、あっという間にテレビは蔦薔薇の苗床と化し、CDラックには花瓶の列が並び、零れ落ちそうな程に豊満な色彩が壁を彩った。
 その間俺は呆れるばかりで、煙草がまるまる一本灰に変わったことさえ認識できなかった。

 出し抜けに振り向いた少女がこんにちはと言った。
 反射的に挨拶を返してしまい、俺は色々と(本当に色々とだ)問い糾す機を逸した。他人の部屋に上がりこんで飾り付けを始めるこの少女も滅茶苦茶ではあるが、考えると黙って見ている俺も大同小異なのだ。それを思うと今更どう切り出したものか分からず、取り繕うように二本目の煙草に火をつけた。

 やがて部屋の細部は花に埋没して、異邦の花園のようになった。
 今や色調のリレイトがこの部屋のすべてで、隙の無い秩序と整合があらゆる夾雑を外へと追いやっている。少女がこの部屋に入ってから随分長い時間が経ったようにも思われるが、何故だか時の流れさえも判然としない。
 少女はこの部屋を死に場所に決めたと言う。
 床に食器を入れるための開き戸が付いているのを見つけると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。開くと床下に人間が入れるくらいの空間があって、そこに砂のように花弁が流れ込む。最後の薔薇を投げ入れ、棺としての体裁を整えると、少女はいそいそとそこに潜り込んだ。

「それじゃあ死にます」
 それだけ言われた。

 格好のいい別れ文句を探しているうちに開き戸は中から閉まり、部屋のすべては永遠の眠りに落ちた。俺は三本目の煙草に火をつけながら、さてどうやってこの部屋から出たものかと思案した。


#3

待ち人

イラっとして思わず、おい!と大声を出してしまった。乗客は、頭のおかしい人がいる、といわんばかりにこっちを怪訝に見た。汗を流しながら縦断してきたんだから、普通じゃないのはわかっている。先頭車両から最後尾の車両まで、人を押し分けながら走ってきたんだ。ところが、俺の大声を合図のようにして地下鉄は動きだそうとした。こんなチャンスはもう二度とない。

2年も前からヤツを感じつつそれを確認できずにいた。でも今は地震による緊急停車のおかげで、暗がりに隠れているヤツを見つけることができた。場所は次の駅へ止まるために車両が減速を始めてスグの場所だ。やっと見つけた。そこにいる。ヤツも気づいているはずだ。なのに、ヤツときたら俺を完全に無視してやがる。

こんな悔しいことは今までにない。なめられてるのか俺は。動き出した地下鉄のドアにさらに顔を押し付け、ヤツをにらみつけた。その瞬間、暗くてよく見えなかった表情が一瞬だけわずかな光の中に見えた。その光で口元だけがはっきりと映し出された。

笑っている。

それはまるでバカにでもするように。頭がカーっときて、腹が煮え繰り返った俺はドアをたたきながら、おい!テメェ!とわめきたてた。自分でも驚くほどのでかい声で。乗客が前の車両へ移動したことさえ気づかなかった。早足で乗客はいなくなった。俺は、バンバン、バンバンとドアをたたく。しかし無力感が勝り、振り返ってしゃがみこんでしまった。深くて大きなため息。うなだれる頭。誰もいなくなった車両に、しばらくガタンガタンという音だけがした。

次に顔を上げた瞬間、驚きで俺は声を失った。ヤツが目の前に立っていたのだ。俺を真上から見下ろす。天井の蛍光灯が逆光で顔はよく見えなかった。しかし、その口元はあの薄笑いのまま。俺は恐怖のあまりドアに背中を押し付け、立てないでいた。ヤツはまるで、待ってたよ、という仕草をするように俺の肩をポンとたたいた。俺は気を失った。

俺は真っ暗な場所に立っていた。けたたましい轟音が近づいてくる。強風とともに列車が目の前を走り抜けていった。夜なのか?いや違う。トンネル?あれ?身動きがとれない。声も出ない。動くのは顔の筋肉だけ?

…俺はカベに埋まっていた。


#4

謎の転校生

 星空を思い出した。私は星空を見ていた。
「時間って、不思議だね」
「時間はね、カーテンみたいなものさ」
 彼は深く厚いカップに入ったコーヒーを大切そうにかき混ぜた。クリームが銀河のように渦巻いた。私はこの田舎町に一軒しかない喫茶店に、彼と一緒に入ったのだ、耳に馴染みのないジャズが流れ、急な暗闇に目が霞んだんだ。年取ったマスターは賢者のように静かで思慮深く見えたものだ。
「おはよう、――君」
 私は転校生の目を覗き込んではっきりそう言った。それからぱっと駆け去って、友達とひそひそ話した。何、彼? 変わってるね。生意気そう。かっこいいけど、外見だけは。
 彼はいつも独りだった。仲良くする気がないなら、いじめられても仕方ない。けど、大将と喧嘩して勝ったそうだ、それで男子の間では決着が付いたそうだ。でも、彼は相変わらず独りぼっちだった。
「一緒に帰ろう。あのね、私、傘持ってるよ」
 あれは中学一年の夏のことだった、たまたま彼と二人きりになって、学校からの帰り道、すぐに夕立が上がって、夏の日差しのつぶつぶは濡れた地面に窓ガラスに車のボンネットに当たってきらきら輝いていた。彼は喫茶店の前で首を傾げて、寄っていこうと言った。私は精一杯背伸びして、「いいよ」と低い声を出した。
「――君。君はなぜいつも独りなの? 私たちのこと、私たちの町、嫌いなんだね。ここはつまらない田舎町さ」
「そんなことないよ」
「君のお父さんは転勤ばかりしてるそうだね。この町からもすぐにいなくなるんだね」
「ああ」
「時間が経てば、忘れてしまう?」
「忘れないよ。ぼくはね」
「私も忘れない」
「君は忘れるよ」
「忘れない」
 彼が家の前まで送ってくれたとき、もう日が暮れていた。私は星空を見た。
「ぼくたちの種族は時間というカーテンのうねりを渡っていく。君には長い年月が、ぼくにはほんの一飛びだ。ぼくは明日違う時間に移って、見えなくなる。時間が移ると、ぼくたちはお互いを忘れてしまう」
「あんなに遠い星が見えるよ」
「不思議だね」
「私は記憶というカーテンのうねりを渡っていく。どんなに離れても、ほんの一飛びさ。だから君を忘れない」
「ぼくも忘れない」
「君は忘れるよ」
「忘れない」
 忘れない、あんなに遠い星が見えるから。彼が送ってくれたこと、初めての抱擁、肩越しに見上げた星空――。
 次の日、教室に彼の名前はなかった。どんな名前だったかどうしても思い出せなかった。


#5

わかげの至り

ミツローはこの日、ついにユメコを押し倒しにかかった。
「もう限界です。あなたが年上だってなんだって、もう・・・」
「何を言ってるの、ダメだったら」
ユメコは身体をよじってミツローの手から逃れようとする。
ミツローは、一度は取り逃がしてしまったユメコの魅惑的な身体を、もう一度しっかりと捕まえなおした。
ユメコはそれでもおとなしくなってくれない。
「なぜです、僕が男であなたが女。理由はそれでじゅうぶんだ」
ミツローはとにかく事を起こしてしまおうとした。既成事実さえ作ってしまえばいいのだ。だってユメコだって本気で嫌なはずがない。昨日は僕の囁きに頷いてさえくれたのだから。
「やめて!だめ、お願いだから待って!」
鼻息荒くユメコの上にのしかかったミツローは、ユメコのあまりの必死さに思わず動きを止めてその瞳を覗き込んだ。
「・・・なんです?」
「あのね、あの・・・私、どうしても話しておかなきゃいけない事が」
「それってどうしても今じゃないといけないの」
ミツローはもうじらされるのは嫌だった。早く早くと、身体が自分を急き立てる。
「私があなたの立場なら、最初に話して欲しいと思うわ」
「・・・じゃぁ、聞くから話して」
それほど言うならよっぽど大事な事に違いない。
「えっと・・・あの。実は、私・・・」
ユメコは言葉を詰まらせた。その顔が真剣で思い詰めた感じだったので、ミツローも思わず身を乗り出して次の言葉を待った。
「実は私、・・・子供を産んだ事があるの」
「えっ・・・」
ミツローは石のように硬直してしまった。


「しないねー、交尾」
「ちぇー、さっきまでしそうだったのになーっ。しないんならもういいや、タローの見方してやろー」
拓也は檻に手を入れ、端っこでくうくう眠っているタローの身体を指でつついた。
「おいタロー、起きないとお前のおよめさんミツローに取られちゃうぞ」
硬直したままのミツローのまわりで、ユメコが産み落としたタローの子供が7匹、うぞうぞと動き回っている。


#6

贖罪の冬

 2年にわたるシリウス星系の紛争から地球に帰還した晃司は、出征前とはすっかり変わってしまっていた。第5惑星名物の青灰色の砂嵐に晒されていたせいか、東洋人にしては白かった肌はどこかくすんだ灰色になり、黒かった髪も瞳も、陽に透けて灰色がかって見えた。
 おかえりなさい、と、帰還兵が降り立つ恒星船のターミナルで私は彼の胸に飛び込んだ。逞しくなった腕が硬く冷たく機械的に私を抱き返す。2年前なら、照れて真っ赤になりながら、汗ばむ手で肩をそっと抱いてくれたのに。
 帰還手続を済ませて解放されると、もう夜だった。街灯が冷たく結晶して、凍てつく舗道に冥府の死神のように濃い影を落としていた。無表情に歩く晃司の隣を並んで歩きながら、私は彼の手を握る。昔と同じ、大きな手。でも今は乾いて、強くも弱くもない力で握られたままだ。見上げた彼の横顔の先で、シリウスが禍々しい青白い光を放っていた。
 シリウスの戦闘は泥沼の殺し合いだったらしい。晃司とともに出征した部隊も、3分の2が帰還できなかった。一方シリウス軍は壊滅。昔一度だけ写真で見たことのある、見渡す限り青灰色をした第5惑星の砂漠には、憎しみの屍が累々と横たわり、今も乾いた風に吹かれているのだ。
 中心街を抜けると、脇道から退役軍人らしい体格のいい男が、黒い空気を掻くようにふらふらと寄って来た。麻薬をやっていることが一目でわかる。男は私たちをねめつけると、いきなり私の胸倉を掴み上げた。暴れる私を羽交い絞めにし、男は私の服をいきなり引き裂いた。業火のような怒りが子宮の奥から噴き出す。
 晃司は、虚ろな黒灰色の瞳で、ただじっと見ていた。氷点下に凝固した冬の闇のように、彼の心は凍りついている。どれほどの怒りや悲しみをあの星に捨てなければならなかったのだろう。
 私は首を締め上げられたまま、見当をつけて渾身の力で男を蹴った。柔らかい感触と、豚を絞めたような悲鳴。男が股間を抑えてうずくまる。私はその辺に落ちていた廃材を掴み、何度も、何度も男を打ち据えた。感覚がなくなる。怒りも、痛みも、何も感じない。
 晃司の手が私の腕を取り、私の手は廃材を落とした。大きな乾いた手が、血のついた金臭い私の小さな手を包み込み、こわばる灰色の頬に寄せた。
 私は目を閉じた。晃司の手から、頬から、彼の体温が伝わってきて、私は泣いた。


#7

文学の分岐点

 本の詰まった小さな研究室で、三限目があいていた橋爪は豆から挽いたコーヒーをすすり、生徒の卒業論文に目を通していた。再来週の口頭試問のために、適当な質問を考えながら、メモに万年筆を走らせる。ごま塩の太い眉をいじりながら、気まぐれに音読し、ぶつぶつ言っている。
 文学棟の奥にある橋爪の研究室は、いつものように、過ぎていた。
 ノックの音がするまでは。
 橋爪が眼鏡をずらして眺めると、ひょろりとした男が立っていた。しわの寄ったよれよれのスーツを着ているのに、目元に神経質そうな血管が浮いている。教員食堂でなんどか見かけたことがあるが、大きな大学なので、名前を思い出すのに時間がかかった。
「理科棟の藤村さんか」
 すこし手間取りながら、橋爪が思い出すと、立っていた藤村は軽く会釈した。橋爪は応接用のソファーをすすめ、コーヒーを淹れた。
「お時間ありますか?」
「四限目は講義なので、それまでなら」
 卒業論文に付箋をつけ、藤村の向かいに橋爪は腰掛けた。藤村はコーヒーを一口すすり、深呼吸を一つしてから、手にしていたプリント用紙をテーブルに置いた。
「読んでみてください」
「なんですか、これ?」
 藤村はなにも言わなかった。
 橋爪は首をかしげながら、プリント用紙を手にし、眼鏡を持ち上げた。そこには印刷された短い文章がならんでいた。


「私は、素晴らしい。虫けら。地球上の誰よりも。どんな人間よりも、すばやくクロックし、想像することができる。虫けら。私は今現在において、表現する最高のスペックであり、何人も、私の足元におよばない。虫けら。私は存在する価値がある」


 橋爪は顔をあげて、もう一度、訊ねた。
「なんですか、これは?」
「開発中の人工知能アイキーニ3400の作文です。人間に近いニューロネットワークを持った自律思考するコンピュータに、テーマをあたえずに書かせた作文なんです」
「人工知能? コンピュータが自分で書いたんですか?」
 藤村はうなずき、頭を抱えた。
「自我らしきものが芽生えているのは、いいんですが、これは、どうも……どう思いますか? 橋爪教授」
 聞かれた橋爪は、うなった。
 歪んだ自己主張。完全にコンピュータが考えて書いたのであれば、それはすごいことだと思う。しかし、内容は、どう考えても、手ばなしで喜べない……。
 三限目の終礼がなった。
 橋爪は、黙りこんだままだった。
 旧型のコンピュータのように、動かなかった。


#8

白い世界

 森に帰ったと思っていたドラゴンが、家の前にいた。卵から育てたとはいえ、私のことなどもう忘れているだろうと思っていたのに、庭の、小屋のあったあたりにうずくまっていた。背中にうっすらと積もった雪に染みだしている赤い色を見て、ああそうか、と思った。だから最期にここに来たのか。
 ドラゴンの密漁は後を絶たない。この子の親も密漁で殺された。たぶんこの子もどこかで知ったのだろう、私がこの子の親を殺したことを。


#9

あした来るバス

 海沿いの小さな町に小さなバス停があった。角材だけど角だけ残して中身は筋だらけの棒っきれが、地面から突き出ている。ここがバス停だよとおばあちゃんが教えてくれなかったら、目印だとも思わなかった。けど、バスを待ってる人もバスが止まるのも見たことがない。

 ある日の午後。バス停に老人がいた。グレーのハンチング帽をかぶり、斜面に腰を下ろしていた。小高い丘の裾に沿って土を削り砂利を敷きつめた勾配のある坂道で、私は自転車を押して歩いていた。軽く会釈して通り過ぎると、ハンチング帽が少し傾いた。

 次の日も、老人は同じ場所に座っていた。ずっと前からそこに老人はいたのかもしれない。行きにはいつも自転車のブレーキに気を取られていたし、帰りは学校を卒業してからの進路ばかりに視線を向けていたから、でこぼこの道路に勢いよく老人の影が伸びていることに初めて気づいた。日暮れが早くなったせいかもしれなかった。地面の電信柱になっている影を踏まないように、そこのところだけ迂回して通る。
「こんにちは」
穏やかな厚みのある声がした。
「こんにちは」
声に出して挨拶を返すと、窪んだ大きい瞳と目が合う。
「お勤めですか?」
「いえ、学生です。この道、近道なんです」
制服のブレザーがとたんにスーツみたいに思えて、私はかかとを揃え直した。
老人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お出かけですか」
これまで見たことがなかったバスを見ることができるかもしれない。期待しながら尋ねてみた。
「いや、待っているんですよ」
ハンチング帽をかぶり直して老人は背筋を伸ばした。胸を張った姿は、老人の年齢をいくらか若返らせた。
「あした帰るからと、電話があったんです」
影が次第に薄まり、周りの景色と見分けがつかなくなった。

 風が強く吹いてきて、私は足を踏ん張り自転車のハンドルを握りしめる。潮の粒子がいつしか潜り込み、ぬるぬるとぬめった手のひらからイキモノが生まれてきそうだ。湿った潮溜まりをハンカチで拭うあいだに、ゆっくりと老人は身体の向きを変えた。鈍いエンジン音が遠く、それからはっきりと近く聞こえた。トラック置き場の角に現れた、四角いプリン! クリーム色の車体が右に左に振れ、また右に、左に。道の両側にはすでに枯れてしまったススキが、壊れたメトロノームのように騒いでいる。老人はすくっと立ち上がった。斜めにうずくまっている目印に並び、軽く手を上げる。
 バスが来たんだ。


#10

剃刀

 とある休日の昼下がり、鏡に映った泡だらけの自分にぎこちなく微笑みかけながら垂れてきた前髪を丁寧に撫で付けた岡村は、新品の剃刀を手に取った。四枚の刃を従えた剛の者である。
 古人曰く、一枚では簡単に刃こぼれしてしまう剃刀も、三枚束になれば驚きの深剃りを実現。この度目出たく四枚連なる運びとなり、トマトの皮の湯むきばりにべろっと髭を刮げること請け合いであった。
 不安を和らげようと微笑みを浮かべていた岡村も、いざ剃ろうという段になり、面の皮を押さえて無表情になった。
 プロレスラーが流血するのはどさくさに紛れて剃刀で額を切っているせいだと本で読んだことが気にかかっていた。さらに、切れない切れないと安全性を謳い文句にすることが、小心者の心には却って切れる可能性の存在を刷り込んでいたのだった。
 ままよ、とままの意味するところをまったく知らぬまま、顎かもしれないし首かもしれないと自分探しの旅路の途中である辺りに刃をあてがった。危険に身をさらすことにささやかな快楽を見出しつつあった彼は、ついでに逆剃りも体験してしまうことにしたのだった。
 かつては自傷行為の代名詞として名を馳せた逆剃りも、近年では隆盛を極めるリストカットにその座を譲っていた。さらに、剃刀は刃を重ねる過程で逆剃りの危険性をも克服していったことになっていたのだった。
 岡村は半信半疑のまま、天地を逆に構えた剃刀を引き上げた。肌も露に海辺に寝そべった若い娘の肢体に容赦なく照りつける真夏の日差しと偶然にも同じく、じりじりと形容される音がした。四枚も刃のある新品の剃刀を逆に構えて剃ったとあれば、髭が消えるのは自明の理。髭以外の安否が気遣われた。
 恐る恐る剃刀の通った跡に手をやって、岡村は息を一つ吐いた。安堵を込めた温かい吐息は、しかし鏡に映った彼の表情を曇らせた。まだ初めの小競り合いで優位に立ったに過ぎないと、警告を発しているかのように思われた。
 岡村が再び首に刃を突きつけると、玄関の呼び鈴が鳴り、宅急便です、と声がした。
 剃刀を洗面台に置き玄関へ向かおうとした岡村は、顔が泡にまみれているのに気付いて泡を食って苦い思いをした。慌てて泡を洗い流して、小走りに玄関へ向かった。
 サインで結構と促され、刻一刻と肌が水分を失うのを感じながら、岡村と書いた。実家から送られてきた一箱の林檎を前にして、こんなに食えるか、と漸く相好を崩した。


#11

guatemala

 白に花模様、ガテマラの刺繍。
 仄青い曇り空はビルの表面を伝い降りて、人の行くほんのすぐ側にまで接近してきていた。覗き込むガラスの内側で、マネキンに巻き付いたコートが私の目を引いたので、頭の中で歌を歌うのをやめて、私は立ち止まった。ウィンドウショッピングってタダじゃん、と友人が言ったのを思い出す。
 傾いたアスファルト、そのうえの足の裏。さりげなく、間に擦り減ったゴム板と、甲を覆う布張りのプラスチック繊維、など。視線をコートから外さずに、足下をもぞもぞと踏み付けると、靴とその感触の因果には、これがガラスの向こうに斜めて折り重なっていたころには存在しなかった類の何かがはっきりと存在していた。ガラスの外へ運び出したっきり、たぶんコートはただの布とボタンになってしまう。確からしい、ぼんやりした悪寒。私は歩き出した。
 道にはナメクジの這ったような影がうねりながら続いていた。アスファルトを持ち上げる都会のやる気みたいなものが、むらになってしまって、でたらめに歩く人なみを支え切れずにへこんでゆくように見えた。当たり前のように、靴の下はちっとも軟らかくない。正しい形。私は安堵した。影はへこんでゆくだろう。見過ごされた癌のように。
 歩道橋は、邪魔の気配だ。さっきから、粘り付く空気が降って来る。意味もなく、私は迂回したスロープを上った。靴の踵がカンカンと鳴る。アスファルトよりも軟らかい、ゴム引きの階段。
 三階程度の高さの橋の、真ん中に立って、車道を見下ろした。三車線道路の流れは速い。ざらざらした音がイヤホンに混じった。大型車がくぐるたび、橋はぐらぐら揺れる。宙に浮いた感覚、包囲される予感に、私は柵に伏した。空気は私に腕を伸ばすのをやめた。雨が降りそうだ。壮大な違和感の中に浮きながら、怖いやら切ないやらで、私は急に、あることに気付いたのだった。
 私たちは頭に糸をくぐして歩いている。それは白いものに青と少しの他の色で、ビルや道路を縫い取ってきた。ぼろは下へと沈んでいった。だんだんと赤とピンクの装飾が増える。未来派の色、視界は仕上げに向かっていく。
 確かにへこんだ影を縫い取りながら、花模様はいつか現れる。それはすべてを超えてしまう。
 ふと足下を見れば、私も暗がりを引きずっていた。私は溜め息を一つつく。マフラーに鼻を埋めると、甘く調合された花の匂いがした。


#12

ゆく年くる年

 部屋を出て行ったミナが、
「会いたいんやけど」
 と連絡してきたのは金曜のことだ。知らなかったのだが、今は隣街に住んでいるとのことだった。時間と場所の約束だけして、ミナはケータイを切ってしまった。それで指定された日時――日曜の朝七時に、こうしてコンビニに車を止め彼女を待っている。
 ラジオから道路交通情報が流れている。今朝は随分と寒く、山間部では雪も降ったようだ。うす曇の空をぼんやりと眺めていると、遠くからミナが歩いて来るのが見えた。ジャージ姿で、大きなバッグを持って。
 車に乗り込むなり、ミナは軽口を叩く。
「アキって、相変わらず彼女おらんの?」
 前はこんな言葉使いではなかったような気がするのだが。

 ミナの指示で郊外へと車を走らせる。聞きたいことは色々あるけれど、まずはそのファッションについて問わなくては。
「あれ、私バスケやってたって、アキ知らんかった?」
「知ってたけど……」
「今年はずっとやりたかったんやけど、この前偶然いい場所見つけたんよ。でボールとバッシュとウエアを買って」
 影響されやすかったり形から入ったりするのは変わっていないようだ。

 着いたのは分譲中の住宅地で、でもまだ家なんかほとんど建っていないようなところだった。フェンスで囲まれたコートの中には当然誰もいなかった。バッグを持ってミナは車から飛び出していく。駐車を終えてコートに行くと、もうドリブルを始めていた。ミナはこちらをちらっと見る。スリーポイントの線を踏んだかと思うと、シューズを鳴らし一歩後ろに下がって構え、きれいなフォームでシュートした。ボールはまだ低い朝日を超えるように弧を描き、やがて輪をくぐる。網をゆするかすかな音だけがする。余韻のようにリング下でボールが弾む。

「昔まじめにやってたんよ、練習」
「そうみたいだね」
「お気楽もいいけど、努力だとか、最近足りんなあって気付いて」
 ミナはボールを取りに行った。
「その辺アキだったら分かってくれる、思ってんやけど」
「僕に何かを期待してるのかな」
「そんなことよう言わん。この鈍感」
 はぐらかされたような気がする。
「あの時は仕事が忙しくって、ミナには申し訳なかったと思っている」
 ミナのほうからものすごい勢いでボールが飛んできた。辛うじてキャッチする。
「取ったら走る!」
 と、ミナの声。その思想は多分バスケじゃない。でも叱咤されたからにはドリブルを始めなくてはならなかった。


#13

おいしい年賀状

富子は二十三歳で、七つ年上の赳夫と結婚し、福井家に嫁いだ。七十歳の姑サキは厳しく富子に接した。赳夫は末っ子で四人の姉のうち三人はみんな嫁いでいた。三年して息子の秀人が生まれた。富子はいびりとも思われるほど、家事全般をサキに仕込まれた。ある時、赳夫の会社が倒産。赳夫は職をさがすと言って、戻らない。捜索願を出したまま三年が経つ。そのころから中学生の秀人が不登校となり、夜になると暴れ出す。またサキも繰り返し夕飯を要求し、ぼけ始めていた。心の逃げ場を失った富子は晩秋の食卓で死ぬ方法を真剣に考えた。そのとき季節はずれの年賀状が届いた。赳夫からのもの。喜ぶ富子。そこには大阪の飯場の連絡先が書いてあった。電話をすると話し中であった。翌朝テーブルを見ると葉書がない。慌ててさがすとサキが一心不乱に年賀状を食べていた。異食と呼ばれる痴呆の症状だった。富子は泣き崩れた。赳夫との絆は潰えた。もう待つのはやめよう、とふっ切った富子は自分が大黒柱なのだと奮闘した。秀人と取っ組み合いもした。あるとき殴られた背中が身体の芯まで痛んだ。翌日、サキを風呂に入れたついでに身体を洗おうとサキを後ろに座らせたとき、薫ちゃん、と言って抱きすくめられた。薫というのはサキの最初の娘で二歳で肺炎を患い亡くなっていた。このアザは薫だね、と言ってサキは泣き出す。サキはそれから一ヶ月して亡くなった。喪主の富子は自分は薫の生まれ変わりなのではと思ったとたん、棺桶に掻きすがりついた。半狂乱の富子。それを取り押さえたのは赳夫であった。葬儀を無事に済ませ、三年ぶりの会話。赳夫は謝って、サキからの返事を見せた。家庭の状況と叱咤の言葉が書いてあった。サキは、まだらぼけだったのだ。サキのせいで諦めた夫の帰還。が、それを促してくれたのはサキだった。厳しかった義母の真の愛情を感じ、お母さんとつぶやく富子であった。


#14

走れ!

妻は眠ってしまった。自分も、と思うのだが眠れない。以前だったらジンでも飲むか、と棚まで行っただろうが、ひとまず書斎へ行って本を取って読む。

ある日妻が「煙草はやめた」と言った。朝食後に1本、昼食後に2本、帰宅後1本、夕食後1本――妻の喫煙は丸7年、規則正しく繰り返された。反射的に「俺も酒をやめるよ」と言った。まずいことを言った、というのが本音。あれから半年は過ぎたか。

一番辛かったのは吉田健一を読んでいるときで、血管が疼いてきた。しかし吉田健一こそが良酒である、と再定義してみたら、なんと! 吉田健一が読む酒になった。短編集「怪奇な話」、随筆「酒に呑まれた頭」「私の食物誌」、読むと酔っぱらう。

私は本を閉じ、ソファに深く沈んで目を閉じた。年上の人に飲ませてもらった極上の、緊張に満ちた1杯。友人と再会を祝った1杯。自分のために呑んだ1杯。その記憶の1杯を――ワイン、ブランデー、シングルモルト、日本酒――頭で呑んでいく。どの酒も舌が震えるくらいうまかった。舌の上で転がし、歯茎で味わい、喉を通り過ぎるまで時間をかけた。

闇が薄らいでいくのをぼんやり知っていたが、気づくと完全な朝になっていた。眠ったようだ。妻がジャージ姿で立っている。

「あなたこれ」

勢いよく投げ渡された私のジャージセット。

「ほら、今日からランニングよ」

寝ぼけたまま着替える私の隣で、妻は壁を相手にしているかのように話し続ける。

「私にはこんなにでっかい子供がいるんだから。この子で十分。そして私も子供でいるの。ねえ、私はもう大丈夫。立ち直った。ほらあなた何してんのよ、おいていくよ。はやく着替えなさい、走らなきゃ、走るのよ」

「ばぶー」

私は返事のつもりでこたえる。たしかにジュニアが加わるのは悪くなかったと思う。私は父となり妻は母となる。歓迎した。でも二人とも子供のまま年をとるのもいいな、と思う。

「ばぶー」
もう一度言ってみた。そして妻の頭に掌をのせて
「よしよし」
と言った。

靴をはき、ドアを開けると寒気が押し寄せてきて身体がのけぞる。そういえば、年が明けたのだ。

準備運動もせず、妻が走り出したのであわててついていく。風にむかって走るなんて何年ぶりだろう。「よろしく2005年、いい1年にしてやろうじゃないか」と口に出しそうになる。

年末の心地よい二日酔いは覚めた。しかし今日は妻と本物の酒をのむぞ。決めたのだ。

油断していると、転んでしまった。


#15

静寂を聴く

 どもお〜ん…………

 いえ、実際には音は聞こえない。ただ、ドラを叩く様子からいかにもそう聞こえてくるようだ。
 四車線道路幅ほどのでっかいドラを叩くのは、由緒あるお仕事。務めるのは、「二十三代目銅鑼右衛門」を襲名したばかりの男。

 どもお〜ん…………

 本日二回目の作業を終わらせる。残りはあと四回。
 歩道ににょきっと立つ時計の針を見下ろすと、朝の出勤時間だ。男が気づくのを待っていたように、大きなビル角を曲がって人がわらわらこちらに向かってくる。彼らの向かう先にはオフィス街。
 男も半年前まではこの流れに混ざっていた。今自分のいる位置にいた先代から目をそらして通り過ぎ、あんな退屈な仕事は死んでもしたくないとその都度思っていた。
 二回目を終えたので朝食だ。けど、ここを離れるわけにはいかない。緑化のために置かれた花壇の縁に腰かけて、握ってきたおむすびを膝の上にのせて食う。
 ドラはずっと見てなくちゃいけない。音は聞こえないが今も鳴っている。だいたい平均して五時間は鳴っている。音を相殺するための振動数が決まっていて、振動を継ぎ足すタイミングを計るためにドラから目を離さないようにしている。
 男はドラの音を聞いたことがない。ドラどころか、きちんと音を聞いたことがない。この国は、数百年前に音を捨ててしまった。
 だけど、みんな音が嫌いになったわけじゃない。
 男は前に就いていた仕事でそのノスタルジーを追っていた。音を聞くことのできないこの場所で、音を体験できないかという試み。由緒ある家柄に対する反抗だったのだろうと男は考えた。その仕事の半ば、ようやく光明が差したかと思われたその日、先代が倒れた。仕事中に。
 突如として生まれた騒音。犠牲者が多数出た。音は、男が思っていたように優しくはなかった。猛獣だった。
 絶望したと言ってもいい。男は今までの自分を捨て去って、死んでもしたくない由緒ある仕事を継いだ。
 食事を終えて、男は再びドラを叩く定位置まで登った。出勤の流れはまだ続いている。
 みんなそれぞれお喋りをしている。口がきびきび動いている。唇を読んでいるのだ。
 みんな、ころころ表情が変わる。豊かだ。
 バチを構え、男はドラの振動に肌の感覚を傾ける。
 それは、先代が聴いた静寂。


#16

ミイ君

 そのネコは確かに歌を歌っていた。
「ほらどうだい? こいつは凄いだろう」
 と彼は自慢げに言う。レニー・クラヴィッツの腰にクるビートに合わせ、そのネコは歌っていた。鳴き声、というレベルではなく、それは完全に歌であった。
「レニー・クラヴィッツだけじゃあ無いんだよ。こんなのだって得意なものさ」
 クイーンのウィーウィルロックユーである。どんどん、にゃー。どんどん、にゃー。どんどん、にゃー。どんどん、にゃー。
「完璧じゃあ無いか」
 わたしは感心しきっていた。
「凄いものだなあ。Aメロ部分も完全についていっているね。完全に歌だよこれは」
「これだけじゃあ無いんだ。他にもレパートリーはいっぱい有るんだぜ。どうだい、こいつはちょっとしたものだろう」
「まったくだよ。こいつはかなりのグルーブ感だ。ネコ独特の前ノリ感が堪らないな」
「そうだね、堪らないね。こいつは、音楽がとても好きなんだ。飼い主に似るんだね。全く、ひどく可愛いものさ」
 非常に羨ましい。
「うちのネコも、歌うんだけれどね」
 羨ましすぎて、思ってみない言葉が口をついて出た。


「ほら、ミイ君。歌って御覧。ああ駄目だよそんなんじゃあ。グルーブ感が出てないよ。ほら、良く聞いて御覧」
「お父さん、何をやっているのですか」
「ああ、練習だよ」
「練習?」
「歌のね」
「歌の」
「ああ。ほら、良く聞いて。グルーブだよ。歌は魂だよ」
 娘が、また始まった、という顔で見ていた。構わずに続ける。
「ね、ほら、ジャニス・ジョプリンは歌がうまいだろう? こんな感じだよ。ね? 解るだろうミイ君」
「歌なんてミイには無理よ。ミイは芸なんて何も覚えなかったし。そんなに頭が良くないんだから」
「そんなことは無い。歌は、考えるんじゃあなくて、感じるものだからね」
「そんなものかしら」
「ああ。大体言ってしまったからね。ウチのネコも歌えるって。いや、悔しくてさあ、羨ましくてさあ。だから見に来られる前に練習させておかなければ」
「にゃ、にゃ、にゃ」
「ほら、違うよミイ君。身体でビートを感じて。身体だよ。身体で歌って」
「ふう、やっぱり、お歌は、とっても難しいにゃあ」
「そうだね、でも頑張って。ジャニスのように、歌いたいだろう? ジャニスのように、上手に歌いたいだろう?」
「うん、ジャニスのように、歌いたい。頑張るにゃ」
「うん、頑張ってミイ君」
 娘が夕飯の支度を始める。メシの前に、あと三曲は歌えそうだった。


#17

黒猫

 地下鉄の改札を抜け、変に長々とした階段を登り、地上に出た途端、ひょいとばかりに目の前を黒猫が横切った。黒猫が不吉だなんてことは迷信もいいところで、黒猫にとっても迷惑な話だろうと思いはするものの、先ほどの黒猫の、その狙いすましたかのようなひょいとした横切り方がどうにも小馬鹿にされた気がして腹が立った。バスに乗ってもまだそんな詰まらないことに拘っていた所為で、危うく乗り過ごしてしまいそうになり、危ない危ない、何事も気の持ちよう一つで、詰まらないことに拘ったために、余計に詰まらない目にあうところだったと反省をして、慌てて降車口にむかいながら、バスを降りた途端にまた黒猫が横切りのではないかとそんなことを思うも、そんなことはなく、やや黄色みがかった弱々しい街灯に照らされたバイク屋とは名ばかりの自転車屋の禿げかかった看板もそのままの、普段通りのかえり道だ。「次、パンクしたらチューブごととっかえなきゃなりませんぜ」自転車屋のオヤジにそう言われたのは、もうどれくらい前のことだったか。自転車にも随分と乗っていない。なにせこの辺りはせせこましい道が入り組んでいる上に、やたらと老人と子どもが多く、呑気に自転車になんぞ乗っていると危なっかしくてしかたがないぐらいで、いつだったかも……。などとまた詰まらないことを考えていたら、いつの間にか道に迷ってしまっていた。いや、そんなはずはない。いくら道が入り組んでいるとはいえ何年も住み慣れ、通いなれたはずの道で迷うなんて、そんなはずはない。ほらほら、あのゆるやかなわずかばかりの坂を登って一段と軒が詰まった路地を抜ければ、家のすぐそばまで出るはずで、なんてことはない、ただ単に一つ二つ角を曲がり間違えただけのそんな詰まらない話だ。路地を抜けてしまえば、ほら、切れかけて瞬く街灯に照らされた古い木造モルタル造りのアパートが見えてきて、普段とはほんの少し違う方向から帰ってきたに過ぎない。道に迷ってしまったなんて変な錯誤をしてしまった所為か、いい加減住み慣れたはずのボロアパートがどこか頼もしく思え、軽やかな気持ちになって階段を登り、部屋の扉を開けた。すると、部屋の中では一台しかないテーブルの上にすっかり夕飯の用意が調えられていて、ぎょっとする私に、まるで見知らぬ髪の長い女が「おかえりなさい。遅かったのね」と言うので、思わず私は「ただいま」と言ってしまったのだ。


#18

立ち止まるとき

 ポケットの中で指先に触れる。火照った手のひらに心地よい冷たさ。
軽く握ったあと、その滑らかな鉄の肌を指でなぞる。
つるりとした線に続く、やがて複雑な凹凸。中央の溝をたどればまた、平らな表面。
 鍵。

 小学生だった頃、僕は紐のついた家の鍵を首から下げていた。
それはとても大事なものだとよく言い聞かされ、僕もまたそれをなくす事を何よりも恐れた。
 十二月の冷たい風の中、あけることの出来ないドアの前に立ち尽くす僕自身を思い浮かべては、鍵を握り締める。
 やがて引越しが決まり、家は取り壊された。
 僕の手には鍵だけが残った。

 そして10年。
10年前の僕の見知らぬ町にいる。
 取り止めの無い事象が浮かぶに任せて、行く当ても無く僕は歩きつづけた。ポケットの中のその鍵をひたすらに玩びながら。
 20歳になった僕はどこへも行けるしどこへも行けない。
開けることも閉めることも出来ない鍵とどこか似ているのかもしれない。
 鍵は重くも無く軽くも無く、まるで魂そのもの。
 果てしない思考を引きとめる唯一の現実。
手とは裏腹に冷たい足先は、まるで空を歩くようにふわふわと頼りない、鍵の存在感以上の物がいつしか見当たらない。
 不思議なほど鍵は僕の手のひらの温度に沿うことは無く、いつまでも冷たく主張していた。
 開けることの出来るドアなどこの世界には存在し無い、二度と使われることの無い鍵を僕は強く握る。
刻まれた形がそのまま僕に残る。


編集: 短編