# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 一ヶ月のクリスマス | 宗(sou) | 715 |
2 | (削除されました) | - | 994 |
3 | 欠落 | 清水ひかり | 740 |
4 | どんどん、にゃー | 朝野十字 | 1000 |
5 | 硝子鳥 | 黒木りえ | 200 |
6 | 麦畑 | 神藤ナオ | 999 |
7 | 幸せはこび | Tanemo | 910 |
8 | いつかなくなる夜 | 八海宵一 | 798 |
9 | 戦争 | 佐倉 潮 | 941 |
10 | 恋 | 長月夕子 | 995 |
11 | 明日逢った少女 | 無明行人 | 824 |
12 | オリオン | 銘二十三 | 991 |
13 | 母からの電話 | man | 885 |
14 | 『パパはミサイルパイロット』 | 橘内 潤 | 1000 |
15 | 沈黙 | 江口庸 | 781 |
16 | 異教徒たちの踊り | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
17 | ヴェスプッチ | 三浦 | 1000 |
18 | 夢の終わりに | サカヅキイヅミ | 993 |
19 | 冬の帰り道 | 真央りりこ | 962 |
20 | カゲロフ | 西直 | 1000 |
21 | マスター・オブ・カウンター | 斉藤琴 | 1000 |
22 | 道行 | くわず | 702 |
23 | 雨上がり | 曠野反次郎 | 950 |
24 | 理由 | 五月決算 | 1000 |
クリスマスイブまであと一週間だ。
僕はほとんどテレビなんか見ない。
一年でこの時期ぐらいだ。
当然新聞も読まない。
しかし、びっくりする出来事が多すぎるね。
あっという間に感じても、一年を通せば
やっぱり色んな事があるんだね。
韓流ブームってすごいよね。日本中が熱狂してる。
それに新球団も誕生したりと、明るい話題もいっぱいあれば
逆に、悲しい事件もいっぱいある。
ただ、だからどうするかと言ったって、
この世に生きている以上、この社会を、人間は
生き抜いて行くしかないんだよ。
結構、みんな大変な時代を迎えようとしているね。
これは、間違いないね。
ところで、子供たちはサンタさんを信じているのかな。
信じていないのかな。
サンタさんは本当にいるんだよって、
声を大にして言いたい。
だって、僕が言うんだから正真正銘の事実だ。
会った事だってあるんだから。
話をした事だってあるんだ。
気さくなおじさんだよ。
僕…?
僕の事?
僕と言えば、一年に一回押入れの中から取り出され
全身に飾りを付けられ、ついでにコードのLEDライトを
ぐるっと周囲に巻かれ
一ヶ月間突っ立っている。
ひとよんで
「我が家のルミナリエ」だ。
ただ、一年ぶりに会った子供たちは大きく、元気に
成長しているし、
また僕も含めて、家族全員の穏やかな生活が
一年間繰り広げられていた事実に、何よりも喜びを感じるね。
ほっと安堵もする。
イルミネーションが点灯した時の、子供たちの
活き活きとした目。僕を見つめる輝く目。
去年以上にキラキラしてて、大好きだよ。
お嬢ちゃん。
僕に吊った靴下の上に
「プレゼント、ここにいれてね」
って手紙を付けてる事。
ちゃんとサンタさんに伝えるからね。
きっと喜んでくれると思うよ。
クリスマスイブまで、あと一週間。
冷たい風が吹きぬけた。乾いた頬をさらってゆく。くすんだ空を雲は流れ、薄くたなびき光を遮る。
海は黒く染まっていた。なにもかも、この世界にあるもの全てを飲みつくそうとするかのように、激しいうねりを見せつける。
水しぶきが一つ、暗く埋もれた遠い波間に、上がった。飛散する水滴たちは、寒色の空に輝きもせず、黒い世界へ消えてゆく。つづけて二つ三つ、同じ場所で水面は乱れた。
左頬には星を、右目のまわりに月を白くいぬいた、モノトーンのピエロはただよう。海水を含み、その服は濃く染め抜かれた。
白の右手が上でもがけば、黒の左手は下へと沈む。めちゃくちゃに両腕を振り回すまで、そう時間はかからなかった。
呼吸はリズムを刻まない。掠れた音を鳴らしつつ、ただひたすらに空気を求める。大きく開いた口からは、海水ばかりが流れこむ。
一際高い波が襲った。喰らいつくして去りゆけば、なんの姿もありえない。不規則だけが消え果てて、動きながらに静止した。
ふと――平らかな面は小さな変化を見せる。時間を空けて、もう一度水面は乱れた。一回、二回、三回……だんだんとその感覚は短くなっていく。
白い手袋が現れた。黒い顔はふたたび灰色の海に浮き上がる。一瞬の後、彼は口を精一杯に広く開けると、何かを叫んだ。
ふいに力の全てを失う。抵抗を示すこともなく、肩が消え、口が消え、鼻が消え、左目が消え、右目が消え、帽子が消えて――唯一残った右腕さえも、冷たい海に喰らわれた。
微かな泡が生まれ、あっけなくもはじける。空と海との境界などない。灰色一色きりの世界はずっと同じく揺れていた。
何をするでもなく、何ができないわけでもなく、僕は呆然とその光景を眺めていた。コンクリートの地面にいやけがさす。僕はそっときびすをかえす。
仕事から疲れて帰ってくると、三歳の娘が、どんどん、にゃー。テレビをつけると、どんどん、にゃー。日本経済のどんどん、にゃー。今年も失業率がどんどん、にゃー。おれの勤め先だってこの先どんどん、にゃー。国際情勢もますます大変などんどん、にゃー。あなた、ぶつぶつ言ってないで、今夜の夕飯はどんどん、にゃー。親子で食卓囲んでどんどん、にゃー。さりげない日常の風景がどんどん、にゃー。
「ちょっとそこのそれ取って」
「どんどん、にゃー?」
「なにこれ、美味しいね」
「どんどん、にゃー」
妻はいつでもどんどん、にゃー。確かに便利だよそれは認めるよどんどん、にゃー。なにげない家族の会話が幸せなんだねと気付くよどんどん、にゃー。冷蔵庫を開けると山盛りのどんどん、にゃー。
「でも、さすがに買いすぎじゃないの、どんどん、にゃー」
「何かとあれば便利なものよ、どんどん、にゃー」
「便利さに溺れた現代人はどんどん、にゃー、何かを忘れている気がするどんどん、にゃー」
「あなたって理屈っぽいのよ、どんどん、にゃー」
「どんどん、にゃー脳の恐怖だよ、どんどん、にゃー」
「心配しすぎよ、どんどん、にゃー」
「そうかにゃー」
「どんどん、にゃー」
どんどん、にゃーごはんがすんで、どんどん、にゃー。風呂に浸かって、どんどん、にゃー。おまえも入れよどんどん、にゃー。あら恥ずかしいわどんどん、にゃー。庶民の幸せどんどん、にゃー。小学生の間で大流行するどんどん、にゃー。商店街でもどんどん、にゃー。ロイター配信、どんどん、にゃー。
「今、ニューヨークで大人気なのが日本発、どんどん、にゃー!」
衛星生中継するどんどん、にゃー。北京で開店どんどん、にゃー。アジアのブームだどんどん、にゃー。カンヌでグランプリをとったどんどん、にゃー。平和の大使だ、どんどん、にゃー。被災地に送れやどんどん、にゃー。日本の未来はどんどん、にゃー。世界に誇れるどんどん、にゃー。国際会議でどんどん、にゃー。国連憲章にどんどん、にゃー。イラクに建造どんどん、にゃー。世界はひとつだどんどん、にゃー。どこまで進むやどんどん、にゃー。地球文明がどんどん、にゃー。モノリス発見どんどん、にゃー。ファースト・コンタクトだ、どんどん、にゃー。
「どんどん、にゃー?」
「どんどん、にゃー」
どんどん、にゃーにもとまらない。どんどん、にゃーっと生きていく。どんどん、にゃー、どんどん、にゃー。
掌に乗るほどのちいさな鳥のからだは硝子で鎧われている。型を取って拵えたような薄い色硝子にどうやって入れたのか、足を折り畳んだ姿でおさまって、両端から嘴と尾羽だけが出ている、餌を食べ糞ができるように。小鳥は椎子の手のうえでちちと鳴く。
「骨がないんだよ」と硝子屋は言う、
「そういう病気なんだ。硝子がないと体がぐんなりして生きられない。だから割っちゃだめだよ」と言う硝子屋は、十円で小鳥を売っている。
出張でここに来て2年になるけれど、UFOを見たのは初めてだなあ。
きれいな月が輝く真夜中。舗装されていないあぜ道を歩いて帰宅しようとしていた僕は、麦畑の真ん中で光っている銀色の円盤と、麦畑の真ん中に立って いたく感動しているらしき宇宙人を見かけました。
これはきっと、ミステリィ・サァクルを作ろうとしているのに間違いない。あわてて宇宙人に駆け寄ると、宇宙人は僕に気付いて細面の顔をユックリ 上げました。
「やあ、こんばんは」
たわわに実った麦の穂に頬をすり寄せながら、彼は微笑みました。つられて微笑みながら、僕は彼に尋ねました。
「こんばんは いい月夜だね。何をしているんだい」
「この星にやって来た記念に、麦畑にミステリィ・サァクルを残したいと思って」
「それはいけない。ミステリィ・サァクルを残されたら、麦が収穫できなくなってしまうよ」
僕が首を振りながらそう言いますと、宇宙人はふむと考えた様子でしばしの沈黙。
「……風に揺れる麦穂にとても感動したからミステリィ・サァクルを残そうと思ったのだけれど、収穫できないのは確かに厄介だね。しょうがないからこの土地に、特に意味のない金属でも埋めていこうかな」
「や、それもいけない。不法投棄になってしまう」
「そうか。確かにそれもいけない。なら君の頭にミステリィ・サァクルを」
「僕の頭は麦畑じゃないのだけど」
冗談だよ、と微笑みながら、彼は麦穂に薄い口を近づけました。円盤のキラキラした光と月の柔らかい光が合わさって、麦穂は黄金に光っています。彼はそれをしげしげとながめながら、随分と思案した様子で、かつ非常に残念そうにつぶやきました。
「何の記念もなしじゃあ心残りだから、この麦穂を一房 失敬していこうかな」
「そうだね。それならいいんじゃないかな」
「そうか。じゃあ戴いていこう」
細い三本指が麦穂を大事そうに捕まえ、プツリと削ぎました。それとほぼ同時に、銀色の円盤がより一層強く光るのを見て、彼は麦穂を顔に寄せながら、僕に向かって また来るよ と微笑みました。
円盤は彼を吸い込んだかと思うと、音もなくフワリと浮遊して、あっという間に真夜中の空へ消えてゆきます。ざわりと穂が放射線状に動いたのは一瞬のことで、後は月影が静かに麦畑を撫でるだけでした。
……彼の星があるのは、月のある方向なんだなあ。僕は少しだけ故郷が恋しくなって、自分の星がある方向を見つめました。
―幸せはいりませんか、いりませんかあ
娘はできるだけ元気を出そうと思うのですが、その声は少しかすれているようでした。
なにしろ、朝早くこの街に着いて、ずっと歩きつづけ、声を上げつづけていたのですから。
もうお日さまは西の空にしずみそうです。
―今日はぜんぜんだめだったな、だれも立ち止まってもくれないや
―ここはみんな幸せすぎるのかも知れない、それとも……
娘はその先を考えるのはやめにして、道のほとりでキャンバスを組み立て始めました。
夕日があまりにもきれいだったのです。
肩にさげたふくろから道具を取り出すと、娘は白い画面に向かって描き始めました。
遠く青い山々、真っ赤な空にお日さま、小さな家のえんとつから立ちのぼるうすいけむり。
娘は一心にそれらをキャンバスの上にのせていきます。
山のてっぺんに日がしずむ寸前、ようやく絵は完成しました。
ほっとした娘がふりかえると、そこにひとりぽつんと座っていた男の子と目があいました。
貧しい身なりの小さな男の子です。
―あの、ぼく、幸せをいただきたいんですけど
何におびえているのか、男の子の顔はまるで生まれたばかりの子ウサギのようです。
娘はためらうこともなく、今描いたばかりのキャンバスを男の子に差し出しました。
―うわーっ、きれいだなあ、なんてすてきな絵なんだろう
たちまち男の子の顔に幸福な笑みが広がり、小さなひとみが最後の夕日にきらめきました。
けれども彼はすぐに目をふせてしまい、こう言うのでした。
―ありがとう、でもぼく、なんにもお礼ができないんです
娘は少し悲しい気持ちになって言いました。
―ううん、お礼ならもうもらったからいいんだよ
―ほんとう?
そういうが早いか、男の子は大切そうにキャンバスをむねに抱いたまま走り出しました。
少しいったところで男の子はふりかえり、娘に手をふって言います。
―また会えるよね、さようなら
夕日よりも、もっともっときれいで明るい笑顔でした。娘も手をふって答えます。
―きっと会えるよ、さようなら
小さな姿が道のむこうに消えたころ、娘はまた旅のしたくにとりかかります。
―幸せをもらったのは私のほうだったかも知れないな
娘は、もうずいぶんうす暗くなった道をゆっくりと歩き始めました。
月の光をルーペで集め、そのおじさんは、命の灯をともらせる。
とても淡い、静かな光が何十年という時間を凝縮し、わずか数十秒の命を生みだす。
真っ白い紙の上に乗せられた小さな天使の人形は、その静かな光を浴びて、少しの間だけ、にっこりと微笑んでくれる。
「少なくとも、満月の光が十年必要なんだ」
おじさんは、少しはにかみながら、ぼくにつぶやく。
「それだけ時間をかけて初めて、命の器に、灯がともるんだ。ほんの少しの間だけどね…」
真っ白い紙の上に、小さな青白い月が像を結び、海の輪郭をおぼろげに伝えている。
ぼくは、小さくうなずき、抜け出してきた自分のうちを、ちらりと見た。
まだ父さんの部屋に明かりがついている。
夜更かしは、絶対にダメだ、と父さんはいつもいってた。
こむずかしい、分厚い本を読みながら、なんでも知ってるような顔。でも、ホントのところは、なんにも知らない。
勝手なルールを、勝手に作るのが、好きなだけ。
夜中にうちを抜け出して、おじさんのところに出かけても、まったく気づかない。
はじめて屋根伝いの訪問者を見つけたとき、おじさんは眉間にシワをよせたまま、右の眉を器用に持ち上げて、ぼくの夜更かしに、眼をつむってくれた。
「太陽の光では、人形が焦げてしまうからね…」
いつものように、少し自慢げな語り。
おじさんはよくしゃべる。仕事のこと、下の階で寝ている奥さんのこと、今朝みたおもしろい出来事や、今日の失敗。それに、みんなが忘れてしまった不思議な秘密について。
だから、夜毎、黒ネコのように、ぼくは屋根を伝う。
おじさんは、それに眼をつむる。
勝手なルール。
それは、知ってる。
でも、迷惑はかけない。
天使が、ぼくらを見あげたまま、動くのをやめていた。
ルーペが静かに月の光を集めなおす。
いつか来る、十数年後の今夜のために。
いつまで続くかわからない、ぼくらの不思議な秘密のために…。
文明の熱狂の皮の下で、いつでも戦争がにたりと舌を出して笑っている。
*
たまの休みになると田畠さんは町を散歩するのが常だ。そうしていつからか彼のお供をするのを習慣としてしまった僕にとっても。
千年ほど昔の世に碁盤の目のかたちと組まれた道を二人でずんずん歩く。おかげで僕は高倉通りとか蛸薬師だとかいった、京の狭苦しい町並みにだいぶ詳しくなった。でも田畠さんはそういう方面にかけてはまるでトンチンカンな人だから、僕がいなくてはきっといつまでも千年前の人間と同じ調子で、碁盤の目の中を徘徊しているに違いない。
「あぁ完全拡散面だ」
その時、田畠さんは初夏の空を見上げそう呟いた。僕には『カンゼンカクサンメン』の意味が何だかまるで分からない。分からなくってもいっこう平気でいる。「田畠さん、おなかが空きましたね」そう言って、うどん屋にでも連れ込んだらしまいになる話だから。だけど、とりあえずサングラスの隙間から上目使いでチラと空を見上げてみた。なんのことはない。頭の上では全くの青が周囲の山々をまたいでいる。
田畠さんは今度は視線を地面に落とし僕に言った。
「ねえ。このコンクリートの道も、人間が作った」
あまりにも当たり前なことなので、返す言葉も見つからずいたら次は、「あの京都タワーも人間が作った」と南の方を指差して言った。それから路上に駐車してあるフォルクスワーゲンのボンネットを手の甲でコツンと叩いて、「この車の部品一つ一つは、人間が作った」と言った。
それから、
「あの瓦屋根も人間が作った」
「ほら、その四つ穴のポストも人間が作った」
「僕らの穿いている靴も、来ている服も全部を人間が作った」
「この空の青すら人間が作った」
「それは実に−」
いつになく饒舌だった田畠さんは、そこで言葉を詰まらせた。僕は「実に」の後があるのだろうと大人しく待っていた。
けれど、ただの空白。
*
僕らが再びとぼとぼと歩み出したところで田畠さんは一言、
「戦争」と低く口にしていた。
それはまるで焼け払われた荒地を眺める人の言葉に似た響きをしていた。戦争。僕がサングラスを外し見上げた空の底には、先ほどの空白の時間が置き去りにされていた。もう、戻ってはこない時代の。
「17歳の夏をそんな田舎で過ごすもんじゃない」という東京で1人暮しの姉からの電話を受けたのは、終了式当日の夕方だった。その無茶苦茶な意見に対する術の無い私は、言われるまま東京行きの電車に乗った。雑誌の仕事で昼夜無く、部屋が散らかり洗濯物がたまるという愚痴を話の合間にさりげなくはさむとはさすが長女。要は家事をやって欲しいのだ。
待ち合わせは、東京駅。東京だから東京駅とは判り易くていい。迷路の駅構内を抜けると、夏の強烈な日差しとアスファルトの照り返しが360度の方向で私を直撃する。
くらくらしながら前方を見ると、派手な黄色のキャミソール花柄ジーンズサングラスの女がいた。28にもなってなんて恰好だと思っていると「なんてかっこしてんの?」と先に姉が言う。Tシャツにジーンズ、スニーカーがそれほどの不評と思えない。姉はついて来いとピンヒールでざくざくアスファルトを削っていく。(もちろん比喩だ)やがて立ち止まるとボルボが停車していた。すわ、姉の給料はそんなにかと驚いたが、まもなく運転席から光の中に長身の男が降り立った。
「友達でカメラマンの桜井さん、あんたのために車出してもらったの」
ああなるほどと納得しながら矯正視力0.5の見える範囲まで近づく。「初めまして」という桜井さんの顔を見上げて私は固まる。そこに100%の男がいた。100%と女とすれ違う小説を思い出す。私はすれ違うだけでなくまさに今、微笑えまれている。
緊張しながら後部座席に身を沈める。高級そうなチョコレートをもらっても、全く味がわからない。「現像所寄りたいんだけど、いいかな?」と赤信号で停車中に桜井さんが私に話し掛ける。ドウゾドウゾとしどろもどろに答えたその時信号が青に変わった。瞬間、これは恋ではなかろうかと思った。俄かに私の心臓は忙しなる。「じゃ、悪いけどちょっと待ってて」と車を降りた背中を穴のあくほど見つめていると、不意に姉が言った。
「桜井さんに惚れちゃ駄目だよ」
私は助手席を振り返る。
「桜井さんはね、ゲイなの。だから好きになっても無駄なの」
こちらを見もせず、留守番電話サービスのように姉は言いきる。私は言葉の意味を飲み込むよりも前にふと思ったのだ。姉こそがまさに無駄な恋を、桜井さんにしているのではないかと。
チョコレートを助手席の前に差し出す。「食べない?」と聞くと、姉の左手だけが振り返って、一つつまんだ。
「そっちはダメ!」
なんだいきなり、ひょっとして俺か?
「ユ−君、ダメだって言ってるでしょ」
やっぱ俺か。でもこの娘誰?
「ねえユ−君、私のど渇いちゃった。ファミレスでなんか飲もうよ」
やべぇ、知らない子が俺の名前を呼んでるよ?ここは取りあえず・・・
「えっと、飲み物なら彼処に自販機があるよ?」
「え〜、ユ−君女の子と立ち話するつもり?早くいこうよ」
いらっしゃいませ〜 うわ〜展開早っ!
「私はデラックスバナナパフェね、ユ−君も一緒で良い?」
ダメに決まってるだろ。
「俺は紅茶」
「ねえ、ところで何で俺の名前知ってるの?会ったことがあるかな?」
「ううん、まだ無いよ、会うのは六年後だもの」
ハイ?この子ひょっとして危ない系?
「じゃあ、俺はコレで」
「まだダメだよ、後五分はここにいて」
「なんで後五分なんだよ」
「説明すると長くなるけどユ−君明日入試でしょ」
げっ、なんでそんなこと知ってんだ?
「後五分でユ−君の分岐点が終わるんだよ。それで未来が好転するの」
「つまり、ここにいれば明日T大学に合格するの?」
「ううん、落っこちるんだよ」
なんですと〜、落ちるんかい!
「明日の試験ユ−君の点数は4点足りないんだ。でも道を行けば自販機のところで問題を出し合っている女の子の話を聞くんだよ。そのおかげで合格するんだよ」
なんか嘘くせえけどホントなら急いでいかなくちゃ
「でもそうするとユ−君はS大学に行かなくなっちゃう。すると未来が変わるんだよ」
そりゃそうだ、T大に受かってるのにS大にいく訳ね〜じゃん
「それじゃ、S大で会うはずの人に会えなくなって将来ひどい目に遭うんだよ。ってもういいかな?これでユ−君の未来は安定したよ!しかもここは特異点だから少々の揺れには修正が掛かるんだよ。よかったね!」
「じゃあ、六年後に! パフェゴチソウサマ」
頭イタイ、今のなんだったんだ?
まあ何はともあれ明日の試験ガンバロ・・・
Fin
轟音を響かせて通り過ぎて行く電車が瞬く間もなく視界から消え去っていくと、いつも取り残されたような寂しさを覚える。
プラットホームに突っ立った夕子は、風でなびいた髪を気にしながら携帯電話の時計に目をやった。各駅停車が来るまであと十分はある。
折りたたんだ電話をバッグのポケットにしまうと、どこか遠くで犬が鳴いた。
古ぼけた薄暗い駅舎には年の瀬のあわただしさなど微塵もない。あるのは年中通して漂っている、老人のため息にも似た物寂しさだけだった。
塗料がはがれて鉄さびが虫食いのように顔を出している柱にもたれかかり、向かい側のホームを照らす蛍光灯の光に目を細めた。 ぽつりぽつりと一定の間隔を置いてほのじろい明かりを落とす光が逆に暗い影を際立たせていた。
「たまには布団干したほうがいいんじゃないの?」
「北向きの小さな窓しかないこの部屋でどうやって布団が干せるっていうんだよ」
「言ってみただけよ」
また向かい側の線路を電車が通過し、冷たい夜気が線路を打ち付ける音とともに耳に突き刺さった。都心に向けてまっすぐに走り行く電車の背中を見送りながら、夕子はついさっきまで一緒にいた俊介の無頓着さを思い、視界から消え行く電車に乗った人々を羨んだ。
遠くで鳴り続ける踏み切りの音に夕子が気を奪われていると、唐突に頭上のスピーカーから電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。夕子は反射的に身震いをした。
光沢のない銀色の車体をきしませて目の前に電車が止まり、ドアが開いた。暖房の熱気以外に外に出るものは何一つなかった。空席に腰を下ろした夕子は、正面の窓越しにまた向かい側のプラットホームに浮かぶ淡い光を見た。
寒い。湿り気を帯びた空気に包まれた夕子は、ゆるめかけたマフラーをもう一度結びなおし、はじめて自分が寒いと感じていることに気付いた。季節はもう完全に冬なのだ。冬。そうだ。電車を降りたら夜空にオリオン座を探してみよう。もしかしたら北斗七星だって見えるかも知れない。他に冬の星座って何かあったかしら。でもその前に少しだけ眠ろう。眠って全てを忘れよう。そう、全て、何もかもを。
軽くうつむいて目を閉じた瞬間、ドアが一斉に締まり、電車は車体を軋ませながらゆっくりと動き出した。ひび割れた声で車掌が次の停車駅の名を告げたときにはもう、夕子はまどろみの沼にいた。音も光もない、彼女だけの空間にいた。
もしもし、あんた? あたし、あたしっ。
今どこにいると思う? あたしねぇ、○○温泉にいるのよぉ。もぉー、体のあっちこっちが痛かったのがうそのようでさぁ。やっぱり温泉って体に効くんだわねえ。気持ちよくて、気持ちよくて、天国にいるようだわぁ。
そいでねぇ、お昼に松花堂弁当食べちゃってさ。これがまたおいしかったのよぉ。刺し身は生きがいいし、煮しめは薄味だけどしっかりだしがきいてて、プロがつくるとさすがだなあーって思ったわよぉ。高野豆腐なんか、あんた、一口いただくと煮汁がジュワーッと……ああ、たまんない。あと、何があったっけ。あーっ、てんぷら、てんぷら。エビでしょう、それからキスでしょう、サツマイモに、マツタケ。あたしさぁー、実はマツタケ、食べたことないのよねぇ。キノコはキノコだったんだけどさぁ、いーい香りがしたし、きっとこれはマツタケだと思って食べたわよぉ。多分マツタケよ、おいしかったもん。それからさぁ、トンカツもあった。茶わん蒸しに、シューマイ、菊の花のおひたし。お酒も出たのよぉーっ。昼間から酒飲んでいいのかしらねぇと思ったけどさ、まあー、たまにはいいかと思ってさ、いただきましたわ。御飯はねぇ、栗御飯だったわよぉ。おっきい、まっ黄色の栗が入っててさぁ。デザートはあんみつ。あんた、好きだったわよねぇ。それにコーヒー。あーあ、おなかいっぱいになっちゃったわよぉ。
これからねぇ、宿の人が紅葉の名所に連れていってくれるんだってさ。紅葉が見ごろなんだって。お父さんがいたら、「ここで一首」なぁーんて言って、歌詠んでただろうにさぁ。お父さんにも見せたかったねぇ。ここの紅葉、あんまり有名じゃないらしいけど、そりゃあ見事なものらしいのよねぇ。カメラも何も持ってこなかったから、あんたにも見せられないねぇ、残念だけど。
そうそう、仏壇の水、取りかえといてね。お父さん、のど渇いているとかわいそうだからさ。
あたし? あたしは大丈夫。水は要らない。
もみじ、生けてくれてありがとね。あたしが好きだったの覚えていてくれたんだぁ。
あっ、行かなくちゃ。じゃあね、バイバーイ。
ぼくのパパはミサイルパイロットです
学校の先生がおしえてくれました。むかしは、ミサイルはコンピュータで方向を決めていたんだけど、コンピュータがくるっちゃうようになって、ミサイルは兵隊さんが運転するようになりました。
ミサイルのパイロットはとってもむずかしくって、ミサイルパイロットになりたくっても、むずかしい訓練とか試験を合格しないとだめです。
ぼくはパパがずっと勉強していたのをしっています。あと毎日、公園のティーカップでぐるぐる回っていたのもしっています。
だから、パパがミサイルに乗れるようになったとき、ぼくもとってもうれしかったです。
ぼくも大人になったら、パパみたいに立派なミサイルパイロットになりたいとおもいます。
大陸間弾道有人ミサイルが蒼空を駆ける。圧し掛かるGが搭乗員の肋骨を軋ませ、内臓を押しつぶす。だが致死量をゆうに上まわる覚醒剤が痛みを忘れさせ、神経を研ぎ澄ませる。人生のすべてが濃縮された五分間――ぬるま湯につかったような世界はすべてがスローモーション。
成層圏から急降下するミサイル群に妨害電波が襲いかかって、並走していた電子制御ミサイルがバランスを崩し、空気抵抗に飲まれる――そのまま真っ二つに折れて爆発。だが有人ミサイルは止まらない。迎撃ミサイルもレーザーの逆さ雨も、発狂寸前のミサイルパイロットにとってはビデオのコマ送りと同じだ。
ついに最終迎撃空域を突き抜けたミサイルが、敵国首都圏に突き刺さって散華した。
今日は、政府からあたらしいパパがやってきました。こんどのパパはおひげをはやしていて、背の高いパパです。ぼくが「パパはミサイルパイロットになるの?」ときいたら、「背が高すぎて無理なんだ」といいました。
がっかりです。
でもママがうれしそうだったから、ぼくはがまんします。
有人ミサイルの搭乗員になるのは、おもにアジアや中東からの移民系だ。サービス業にまでロボットが進出するようになった昨今、就職も生活給付金も絶望的な彼らは、最後の希望を求めてミサイルパイロットに志願する。
パイロット志願者は訓練期間中の寝食を保証されるし、わずかながらの給料もでる。そしてなによりも――どうせ死ぬのならば祖国で死にたいと考える者が多かった。
ぼくも大人になったら、まえのパパみたいに立派なミサイルパイロットになって、おじいちゃんとおばあちゃんに会いにいきたいとおもいます。
やっと司法試験に合格した倫蔵。司法修習生として、橋元弁護士のもとに実習に行く。事務所に初老の善良そうな夫婦が入ってきた。まるで喋らない。夫のほうがいきなりくるくる手を回し始めた。聾唖の夫婦だった。筆談で会話をすると、夫婦は喫茶店を開いたが、やくざがみかじめ料を取り立てに来るので、相談に来たのだ。夫婦は孝信と由布子といった。警察に言って欲しかったが、正義感の強い倫蔵は相談に乗った。橋元弁護士は帰せと目で合図した。弁護士は金儲けではなく、市民を法の下に救うためにやるのだと思い、倫蔵は橋元を心の中で蔑んだ。密かに連絡先を聞き、仕事が退けた後、その喫茶店を訪れた。そこで見たのは、老若男女が皆、手話をしている。客の大半は聾唖者が集まっていたのだ。交流から発する熱気があるが、音がしない。不思議な沈黙であった。いきいきと生活をする姿に倫蔵は心打たれた。喫茶店をなくしてはいけないと思った。倫蔵も手話を覚え、意志の疎通ができるまでになった。倫蔵は暴力団対策法で取り締まるよう警察に連絡をした。現行犯逮捕の準備をしたある日、やくざがやってきた。客席のかげから様子を伺うと、彼らも手話をし出した。何と聾唖のやくざだったのである。手話で脅している。拍子抜けした倫蔵は席から飛び出し、ピストルの形を手で作り、構えて撃つ真似をした。やくざは、ずどっと倒れた。手話だけに凶器も手話かと感心すると、そのやくざはすっと立ち上がり、倫蔵に殴りかかってきた。調子に乗りすぎたと思ったとき、警察と橋元がやってきた。密かに怪しい活動をしていた倫蔵を橋元は泳がせていた。倫蔵は橋元にこっぴどく叱られた。使うべきところに力は使うものなのだ。危うく道を踏み外しそうになった倫蔵。小さくなっていた倫蔵に孝信と由布子が近寄って手話で「ありがとう」と言った。倫蔵も涙を流して「どういたしまして」と返した。
黒人の男が牢屋に入れられている。その牢の前に白髪の白人女性が立っていて、男に言う。
「どうしてこんなところに入っているの」
それを聞いた男は黙っている。
「いいわ、あたしがあなたをここからだしてあげる」
女性は少し意気込んで言う。牢の中には窓がついていて、海がみえる。そして強烈な太陽。光が牢に射しこんでいる。男は小さな声で言う。
「出ようと思えば、出られるんですよ」
女性が男の手をみると、さっきまで両手を縛っていた縄がほどかれている。
「ほら、こんなふうに」男は白い歯をみせて笑う。
私は目が覚める。私は先祖代々の日本人である。ここは私の部屋だ。時間は午前4時40分。起き上がって、コーヒーをいれるための湯を沸かし、フランスパンを2センチの厚さに切ってオーブンで温める。その間、私はなんだか落ち着かなかった。夢はいつも不可解なものである。人を殺す夢も、殺される夢もみたし、時には空を飛んだり宇宙へ行くこともあった。しかしどの夢も主人公はいつも自分であったし、それらの夢には色がついていなかった。今回は違う。
クリームチーズをぬったパンをかじり、熱いコーヒーを飲む。私は夢のことを考えてみる。あの夢の中で私の視点はどこにあったか。皺のある女の顔も、縛られていた黒人の顔も私はみていた。あれは私の無意識のつくりだす映画で、私はカメラそのものだったのか?
「出ようと思えば、出られるんですよ」
私は男のセリフについて考えてみる。わからない。そこで口にだして言ってみる。両手首に縄がかかってあると想定し、あの含みのある声色を真似して。
さて、ここで何が起っただろう。眠っていた記憶が蘇った……なんてことはない。起こるわけがない。私はあと3時間後には市役所に働きに出る。そしてまる一日会計処理をする。仕事から帰れば食事をつくり、テレビを見て眠る。当分、再婚の予定はない。平凡と言われれば平凡な人生。それでこんな夢をみたのだろうか。刺激を求めてるというのか? ばかばかしい。
「ばかばかしい」私は口に出していってみた。幾分すっきりした。出勤まで眠ることにした。もう夢はみなかった。
目覚しのベルが鳴る。ようやく私らしい朝がきた。テレビのニュースを聞き流しながら背広に着替え、家を出る。バス亭にはいつもの顔ぶれが揃っていて安心する。満員のバスがきて、身体を押し込んで乗る。そのときだ。私は遠い異国にいる自分の姿をはっきりとみたのだった。
瓦礫で遊ぶ子らは影であった。ヴェスプッチは影踏みが出来ないと嘆く子供達にせがまれ、自分の影を解いた。たららと逃げ出したヴェスプッチの影を追って、子らはけらけらと高音響かせ駆けてゆく。輪になって話し込んでいる親達の近くからヴェスプッチはその姿を見守った。親たちも影であった。飽きもせず同じように駆けっこを続ける子供から目を外すと、そうとは気づかずに足先で弄っていた掌大の瓦礫を今度は意識的に弄びながら、何故ここにいるのか説明出来ない事に気がついたヴェスプッチは、致命的な失敗を犯したような寒気に襲われ思わず少しばかり浮かび上がると、自身の持つ耐久度を超えるかのような力で踏み出された一歩目からその先が出ないままに動きを止めてしまった。意識出来るのは呼吸のみで、一切の動機が消し飛んでいた。不意に現われた危機感が本物である事を未だ強烈に身体が記憶していながら、それを裏づける何物もヴェスプッチの意識の淵になかった。そこへ、ある「情」が脚を伝って入り込んで来た。それは先程の危機感に始まり、重心が地球に引かれるような悔恨、がらっと変わって天が肩を引く怒り、吐く物のない吐き気を思わせる哀しみ、そしてそれだけは意識出来ていたはずの呼吸すら覚束ない無意識に至り、宇宙の果てから果てへの道程を体感したと錯覚する程の時間感覚の後に、ある瞬間から唐突に世界の終わりを告げる直下型地震的に突き上げて来るうめきに変わった。汲めども汲めども枯れぬ「人類史の血」がヴェスプッチの両の目を捌け口に同量同速の涙となって吹き出して来る。目で足らない分はすべて噎びになり身体の端々に及ぶ痙攣となって現われた。前後天地の区別を失ったヴェスプッチの元へ、遊び疲れた子らが彼の影と共にやって来たかと思うとけたけた声を弾ませて真上を一斉に指し示した。ブゥゥゥーンンン……。プロペラ音。「これからの展望を考えれば止むを得ない決断だ」「尊い犠牲に祈ろうじゃないか」思い出した。今まさに空に躍り出たであろう物体が発動すれば、彼もまた影と永遠に引き離されるのだ。同化していた「情」をかなぐり捨ててヴェスプッチは一ミリでも遠くへ逃げるために飛び出したが、見えた物の衝撃に打ちのめされた。花弁のように皮が垂れ下がった無数の腕が地面から生えている。そこへ、影達の声が木霊する。「だいじょうぶ、影は残るんだからさ。それにほら、止むを得ない決断なんだろ?」
手すりの錆を眺めながら歩道橋を降りると、見知らぬ浜辺だった。
空と一続きの海の青。長い時に骨抜きにされた砂の白。
半分埋まった車椅子と二人分の煙草の吸殻。
太陽は遥か高い位置にあって、簡単そうに世界を照らしている。
生まれたての数式のようにイノセントな風景。
踵を返して歩道橋の階段に足を掛ける。
その瞬間、錆びた鉄の塊はさらさらと崩れ落ちた。
無理もない、あんなに錆びていたんだ。
砂鉄は風に慣らされて、さらさらと砂に混じっていく。
歩道橋だった頃の記憶もやがて失われる。
浜辺を歩いていくと老人に出会った。
彼は屈み込んで、波打ち際に文字を綴っている。
何を綴っているのか見ようとして、彼の手元を覗き込んだ。
「そんなに覗いたって、たいした事は書いていません」
老人は振り返り、屈託のない笑みを浮かべる。
丁度、僕がシェットランド・シープドックを眺める時の表情に似ていた。
「詩を綴っているのです。生まれた時から毎日綴っています」
老人の指の長さは、僕のそれと全くバランスが異なっていた。
きっと砂に字を綴るたびに磨り減って、少しずつ短くなっていったのだろう。
話しているうちに、波が老人の綴った詩を攫って行った。
良いのですかと思わず尋ねる。
良いのですよと老人は応えた。
「けれど消えてしまったじゃないですか。折角書いたのに」
「紙に綴った詩はやがては消えます。この波に攫われた詩は消えません」
「それは、心の中に残った、という意味ですか?」
「いいえ、違います。人の心は移ろう物です。心に残してもやがては消えます」
「すると、詩はどこに」
「海と空の間に隠したのですよ」
判らなかった。老人は続けた。
「波に攫われた私の詩は空に染みて、この風景の一部になります。私の感傷も、剥げた爪も擦れた血肉も。もうこの浜辺は半分以上私の詩で出来ています」
彼は再び詩を綴り始めた。
「やがて海の彼方に私の詩は届きます。それまで私は詩を綴り続けるのです――ああ、丁度今、貴方の立っている辺りにドラセナを植えているのです。良いでしょう。貴方にも見えるでしょう。綺麗でしょう」
ドラセナなど見えなかった。
海の彼方に視線を転じる。
眺めは違っていた。雨雲が顔を覗かせ、風は不気味に凪ぎ、波は目に見える早さで不吉な色へと変じていく。老人が詩作に淫する間に、幼く優しい時代は終焉を迎えようとしている。
嵐が来る。
雪がちらついてきたけど、寒くはなかった。酎ハイ2杯と熱燗で温まった体には丁度いい。職場のみんなはまともに冬空の下に立ち、カラオケ行くぞと腕を組んだ。私は酔ったふりして身体を少し揺らし、かえりまーすと元気よく右手を上げた。言い切ってさっさと帰ることだ。後ろは振り向かない。
信号が青になるたびタクシーが通り過ぎていく。色彩に雪が映えるのか、赤信号の横断歩道に雪が降りしきる。渡りきってしまうと、身体が急に冷えてきた。コンビニの明かりが見える。何かあったかいものでも買って帰ろう。
店内をぐるりと回ってみたが、これという食べ物に行き着かない。雑誌をぱらぱらめくる。雪は止みそうにない。何も買わずに店を出ようと思った。ケトルでお湯を沸かして千年茶でも飲もう。漬け物があったらいいかな。辛目の、漬け物。というので、小さなプラスチックの容器に入ったキムチをひとつ買った。
帰る途中に、真理子のアパートがある。おどかしてやろうと電話をかける。やっと出たと思ったら声が沈んでいた。
「なんかあった」
「なんも」
「そ、いま近くなんだ、寄っていい」
「いいよ」
真理子の部屋のカーテンが開いて、とっくりセーターの姿が見えた。
部屋のリビング、ベット兼用のソファーにもたれて、真理子は顔を上げた。
「なによぉ、もっと早くに来てくんないから……」
夕方、真理子からメール入ってたんだった。すっかり忘れていた。
「ごめんよ、真理子。なんか話があったんだよね」
酔いがすっかり醒めた。数少ないこの町での友達だから笑っていてほしい。
「イカロスのさぁ」
豹のように身軽に、真理子はソファーに跳んだ。
「イカロスの翼があったんだよねぇ、ここに」
ここにだよぉ。真理子は何度もソファーを叩いて見せる。そうでもしないと収まりつかないみたいだ。イカロスがなんなんだか、イカロスの翼に何の意味があるのか、私にはちんぷんかんぷんだったけど、真理子の悔しさの半分くらいはわかった。私に知らせたかったんだ、見せたかったんだ。真理子が心を躍らせるもの。
私が適当な相づちをうって日本酒を時間つぶしに舐めてたあいだ、イカロスの翼がどれくらいしなやかに戦っていたかということを真理子は話した。聞きながら私はプラスティックの蓋を開けて、容器の中のびのびと広がっているキムチを指でつまんで食べた。
消したはずのテレビが点いているのは、ホラーな気分だった。テレビの前には生意気そうな吊り目がいて、その目をきゅっと細めている。彼女が痛烈な近視だったことを、しばらくしてから思い出した。暗闇の中で眼鏡も、たぶんコンタクトもしていない。
PS2の低い唸り声が聞こえてくる。テレビ画面には死霊が三人いて、二人撃ち殺され、すぐに一人増えた。兄貴に借りたままになっているソフト。僕はクリアしたのだが、彼女はまだなのだろう。真っ黒なコントローラーをささやかな胸にくっつけて体を揺らしている。少し懐かしい彼女の癖。それにしてもまったくささやかな胸だとあらためて思う。
サイドテーブルに手を伸ばし、飲みかけの烏龍茶を引き寄せた。蓋を開け、喉を鳴らす。僕に気づいた彼女が「起こした?」と一瞬だけ振り返り、またゲームに戻る。
「電気点けようか?」
僕はベッドに横向きになり、斜めに体を起こした。彼女は答えず、ただふるふると首を振った。次々と死霊が倒れ、その度にゲームは進む。ぼんやりと眺めていたが、闇に慣れてきた僕の目が、ふと彼女の服装に気づいた。
「スカート?」
「……うん」
私服のスカートは初めてだった。短めのスカート。同じクラスだったから制服のスカート姿は見慣れていたが、それは随分と長めだった記憶がある。
「一志が見たいって……言った」
彼女が口を尖らせながらぼそぼそと呟いた。決してテレビから目を離さない、そのわかりやすい態度に僕はつい笑ってしまった。
「似合うよ」
彼女の頬がほのかに赤く染まった気がした。
さくさくとゲームは進み、何回かのコンティニュー。次第に窓の外は明るくなり、やがてPS2の唸り声は止まった。彼女はスカートを気にしながら立ち上がり、グッと伸びをした。
「行くね」
「ああ」
「じゃあね、一志」
「じゃあな」
簡単な言葉を交わし、軽く手を振り合う。
彼女はもう一度「じゃあね」と言った。僕をじっと見つめて、ぎこちなく笑って、それからゆっくりと消えた。
彼女がいた場所をしばらく眺めていた。布団を被り、目を瞑った。彼女と兄貴のことをぼんやりと考える。彼女は痛烈な近視で、そして「一志」というのは兄貴の名前だった。
兄貴に今のことを話したら、どんな反応をするだろう。不機嫌になるだろうか。けれどもう、悲しそうにはしないだろう。
「あいつらしいな」と薄く笑う兄貴を思い浮かべて、「ドジだなぁ」と僕はそっと呟いた。
「そのいやらしい手をどけろ!」
日暮れの酒場に緊張が走り、うつむくミス・クレアが顔をあげた。彼女はあご髭の男の客に無理やり抱きすくめられ、女の力では逃げることもできず、されるがままだった。
あご髭の男は声の主を砂漠で蛇を見るような目つきで眺めた。ギョっとはするが、珍しいものでもない。声の主はまだ若い色白の男だった。頬を赤くしている様はまるで少女の様で、自慢の髭がちりちりと疼き、無意識に髭に手をやった。それを見た若い男の頬はさらに赤くなった。
「『いやらしい手』とは、俺のこの手かい?」
「きゃ!」
ミス・クレアは突然に胸を鷲づかみされ声をあげた。
若い男は銃を取り出した。
「なんと野蛮な奴だ! 今すぐ表へ出ろ!」
「ほほう、青二才が俺とやろうというのかい。締まりのないの商売女を相手にするよりも面白かろう」
「言葉を慎みたまえ!」
若い男は目を真っ赤にして叫んだ。あご髭の男はにやにや笑った。
「受けて立ってやろう」
あご髭男は腰から銃を取り出しくるくる回した。ミス・クレアはその隙に逃げ出した。若い男は、クレア嬢が男から放れたことを確認し、小さく頷いた。
「おいおい、待ってくれ!」
緊張した空気の中に声が響いた。店の主人がたまらなくなり声をあげたのだ。
「店の前はやめてくれ! 今年に入ってからもう三回も流れ者同士の決闘があり、三回のうち一軒は相撃だ。私はもう、今年に入ってから四人も葬式をだしているんだぞ。あんまり頻繁なので町の保安官から麻薬密売所の疑いもかけられてるんだ。とにかくうちの前は困る。他所に行ってやってくれ!!」
「おいおい、俺に言うなよ」
「ご主人、申し訳ないが、軒先をお借りします」
「じゃあお前らは葬式代を持ってるのか? こっちの若いのはさっきから水ばかり飲んでるじゃないか! そっちの髭が腰から出したその古い銃はなんなんだ! お前らは殺られた後に自分で歩いて墓場まで行って穴を掘って土をかけることができるのか?」
二人は店の主人に銃を向けた。
「おやじ、調子に乗るなよ?」
一瞬の出来事だった。
二人の放った一撃目は、主人が改造済みの跳ね上がるカウンターの盾に敗れた。銃声は断末魔のように響き、主人を見失った二人が次に見たものは二挺拳銃を構えた店の主人の姿であり、それは二人の見た最後の景色だった。
「マスター」
ミス・クレアが駆け寄った。紫煙を吹き消し主人は嘆いた。
「お二人様、追加だよ」
私が来春高校に上がろうという年の冬であった。
姉が突然、帰郷して来た。
昨晩短い電話を寄越した切りで、今日の昼過ぎにはもう実家に着き、炬燵に上体を預けて寛いでいるのであった。
炬燵の卓の上に、大振りの花を付けた寒椿の枝が放るように置かれていた。
「それは」
「帰ってくる途中、取って来た」
枝の上に残った僅かな白雪を懐かしそうに眺め、姉は「大阪では雪降らんかったな」と呟いた。
私には帰郷の意図が判らず、何か焦れたような気持ちで卓を挟んで座った。
「正ちゃんは」と問うた。姉が戻って来る時はいつも、一人息子の正太を連れていた。
姉は卓に左頬を突けたまま、「ううん、ひとり」と応えた。
今年四歳になるその子の父親という人を、私はこれまで見たことが無かった。
縁側に、見知った四隣の住人達の影がちらついていた。
母は湯気の立つ茶碗を姉の前に差し出しながら、不快そうに顔に皺寄せて「何処で聞きつけたんかね」と訝しがった。
茶を啜りながら姉をちらと見遣ると、湯気の向こうに在る姉の佇まいは酷く朧げで、粒の粗いもののように見えた。
乱暴に折られた寒椿の枝から雪融けの雫が滴り落ち、卓を転々と濡らしていた。
姉は目を薄めてその島々を暫く眺めた後、左手を布団から緩やかに抜き出して、水滴の滑らかな膨らみの内に人差し指をそっと浸した。そしてそのまますうっと手前に引き、やがて静かに雫の跡を踊らせた。狭い卓の上の、愉しげな、しかし孤独な道行であった。
宙にたゆたう左腕のうねりに輪郭を震わせ、今にも霧散して行きそうな姉の両の瞳に、寒椿の凄烈な紅が滲んだ。
私はそこに、未だ嘗て知らなかった、女、というものを見たような気がした。
雨上がりの西陣京極の小さな通りを、黒い喪服の女が五六人連れだって歩いていた。何か落ち着かない気持ちがして顔を伏せると、路地の反対に、一体何がいたら面白いだろうかとそんなことを考えた。黒い猫がいて、ではあまりにありきたりだし、市松人形を抱えた車椅子の老婆がいた、ではあまりに奇抜すぎだ。京都駅から北野まで路面電車が通り、西陣織の活況と共に栄えた西陣京極も今も昔の話となり、千本座を中心に日本映画の発祥地と言われた名残も、ポルノ映画館千本日活と男色専門映画館であるシネフレンズ西陣を僅かに残すのみとなった。そのシネフレンズ西陣の前までくると、相変らず出演者募集中の張り紙がしてあって、喰うに困れば一つ出演してみるかなどと思うも、あまりぞっとしない。この場合、「ぞっとする」と書いても意味合いは異なるとはいえ文意はちゃんと通るのが面白いところで、とはいっても「ぞっとしない」とした方がより倦怠的で、今の気分にはあっている。ところで市松人形を抱えた車椅子の老婆というのはただの思いつきでなく、実際にぼくが見た光景で、あまりにぞっとしたので、いずれどこかで使ってやろうと思っているのだけれど、あまりにイメージが鮮烈で未だに使う機会がない。この場合は「ぞっとする」でないと意味が通らない。喪服の女が五六人連れだって歩いていたというこちらの方はただの思いつきで、実際に歩いていたのは喪服姿の家族連れだった。ふたりいる子どもの少しふっくらとした男の子の方がなにやら機嫌を損ねてしまっているようで、母親が歩きながらずっと宥めていた。父親に手を引かれた幼い妹の方がよほど大人しく、まだ人の死などよく解らない歳だろうに、妙に神妙な顔つきをしていた。いや、しかし人の死が解るなんてことは一体どういうことなのだろう。母親の葬儀に立ち会う自分を想像してみたが、さしたる感慨は湧かなかった。寧ろ自分が棺桶にはいっている姿の方がよほど自然だった。数少ないだろう列席者が、棺桶を覗き込む旅に目ン球を引ん剥いてあっかんべをしてやるのだ。そんなことを下らないことを考えながら西陣京極の小さな通りを抜けると、目の前をいやに大きな黒い猫がひょいとばかりに横切った。ああ、なんてありきたりなんだと思うも、ほんとうのことなのだからしかたがない。
どんなことを言っても言い訳にしかならないのだろうが、一応、言わなければならないものだ。
電車の中で、いつもなら眠っているはずの時間に一生懸命に考える。
さりげなく、それでいて誰もが納得してくれる、そんな完璧な答えがあれば誰か教えて欲しいものだ。
気が付くと、最寄り駅に着いていた。理由を考えていて、乗り越すのでは意味がない。慌てて席を立ち飛び降りる。
会社には、始業の二十分前に到着した。
勤続十五年、無遅刻無欠勤。
それをささやかな勲章のように思い続けてきた平凡な人生に転機が訪れたのは、新人の大野くんが同じ部署に配属されてきてからだ。
彼は、入社当時からほぼ毎日のように遅刻してくる。
そういう勤務態度では当然ながら、周囲からよく思われるはずもない。
だが、彼が真顔でいう理由に、毎朝のことながら呆れつつも期待している自分がいる。
「本当です。忍者が襲ってきたんですから」とか
「UFOを追っていたら路に迷ったんです」とか
聞くのもバカらしい理由を、もっともらしい顔で言うのだから笑ってしまう。
いまどき、小学生でもこんなことは言わないだろう。
今日は一体、どんなことを言うのだろう、と最近では毎朝考えるのだが、彼の思考回路は独特で、よく分からない。私は席に着き、彼の到着を待っていた。
始業開始を十分ほど過ぎた頃、彼がいつもの調子で私の前にやってきた。
「係長、すいません。遅刻しました」
それは時計を見れば私にも分かる。
大野くんは神妙な面持ちで立っていた。
「仕方ないんですよ。僕、結婚してないんですから。係長も独身なら分かってくれますよね」
全国の一人暮らしの人間を、すべて敵に回すような言い訳だった。
この時、私の決意は固まった。
「ああ、そう」
私が頷くのを確認して、彼は自分の席に向かう。
「そうだ、大野くん。君、来月末の試用期間が終わったら、もう来なくていいからね」
私は席に座ろうとしていた彼に声をかけた。
「どういうことですか?」
この時、初めて真剣な彼の顔を見た気がした。
「うん。色々と考えたんだが、私には君のようにあれこれ理由を考える才能はないようだ。君が今まで私に言った遅刻理由が解雇理由だと思ってくれよ」
「なんで僕が」と怒鳴る大野君の声が部屋中に響いていた。
誰も何も答えない。
本人に自覚がないのでは、治る見込みは皆無であろう。
私は爽やかな気分で手元の書類に視線を落とした。