# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 黒い幸せ | 稲葉亮 | 886 |
2 | つながり | カヒ | 723 |
3 | 「うらぶれエレジー」 | loiol | 679 |
4 | 二!人はとても『アタタカイ』? | 銘二十三 | 915 |
5 | (削除されました) | - | 455 |
6 | 人生の対策と傾向、第一話 | 安南みつ豆 | 993 |
7 | 象使いと青年 | 那須斗雲 | 854 |
8 | アイドル | 水島陸 | 980 |
9 | 月下美人 | 長月夕子 | 1000 |
10 | 「大丈夫」という言葉 | 日向 琳 | 828 |
11 | 蟻の惑星 | 朝野十字 | 1000 |
12 | 喫茶「カーニバル」雑記帳 | とむOK | 995 |
13 | 母を夢みる | Tanemo | 936 |
14 | 流星から隕石へ | 八海宵一 | 210 |
15 | 山 | さいたま わたる | 725 |
16 | チのクダ | たわこ | 639 |
17 | 最後のひとり | qbc | 989 |
18 | 迷わない迷路 | 佐倉 潮 | 816 |
19 | 冬に咲く桜 | 三剣 玲二 | 412 |
20 | ピロートーク | 江口庸 | 779 |
21 | ラッキーアイテムは風邪薬 | (あ) | 1000 |
22 | 銀河鉄道 | 神藤ナオ | 1000 |
23 | 終焉 | 黒木りえ | 200 |
24 | 哲学への旅 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
25 | 小岩井老人 | 三浦 | 948 |
26 | プルシャに会いに行く | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
27 | 暗い日曜日 | 曠野反次郎 | 839 |
「幸せを買いませんか?」
黒いスーツに、黒い帽子を被った男。目深に被った帽子のお陰で、口元だけしか見えなかった。
その唯一見える口元は、ニヤリと不敵な微笑みを浮かべていた。
「このカプセルの中には、幸せが入っているのです。1錠で1つの幸せが味わえるのです」
そう言って男は、1つのカプセルを取り出す。中には、オレンジとブルーの2色が混ざり合っていた。
「ただし、1日に5錠以上の服用は控えて下さい」
男は、それまで私に見せていたカプセルを飲む。
ゴクッと軽く音を鳴らして飲み込んだ。
「このように水がなくても飲めますから、いつでもどこでも服用できます」
男は口元だけ見えるその顔に、にっこりと笑顔を作った。
もう1錠を取り出す。カプセルの中は、オレンジとブルー。どうやら先ほどと同じもののようだ。
「1錠100円で取引させて頂きます」
高い。
私はもう少し安くならないかと尋ねた。
「これでもお安くしているのです。保険の意味も兼ねまして、初回はお高くなっております」
でも、と私が言おうとすると、何故か口が動かなかった。これはどういうことなのか、私には全く判らない。
突如口が、動かなくなった。
「何錠必要なのですか?」
男が問うと、私の口が勝手に動き、ある数字を紡ぎ出す。
「え、何々。試しに10錠買いますと?よろしいですか、それだけで」
そういわれると、足りないような気分になった。向こうの思う壺なのだと判るが、それに気分が反応しない。
「それじゃあ20錠にする、ですって?いえいえ、販売は50錠からなのです」
それじゃあ50錠で仕方がないわ。
私の口は勝手に動き、承諾の意味を男に伝えた。
「では、5千円頂きますね。はい、確かに頂きました」
男はどこから取り出したのか、黒い鞄に5千円を詰めた。そして『幸せ』の入っているであろう、1つの箱を取り出した。
「これに50錠入っています。いいですね。1日5錠以上の服用はおやめ下さいよ」
わかってますと伝えたら、その男は玄関から消えた。
一体どこのセールスなのか。思わず買った箱を覗き込む。どこの会社かわからない。名前が明記されていなかった。
ああ、自分が何もしなくても世界は回ってるんだなぁー。
学校をサボるとそんな気分になる。
きっと明日にはクラスメートは一日分俺より知恵がついてるんだろうなぁ。
なんつーか、俺ってば、世界に見放されてる気がする。
俺ほど優等生で、俺ほどサボる人は、他にはいないから、
センコウもクラスメートもあんまり俺のことを気にしていない。
『あいつは勉強できるから、サボっても可』という、特殊な烙印が俺には押されている。
そんな特殊な俺には当然友達も少ないわけで。
一緒にサボろうと誘って、ついて来てくれる奴はいない。
ああ、俺は孤独な高校生。世界にも見放された高校生。
誰か俺をさらってくれ……。
ああ、俺、またアホっぽいこと考えてるなぁ。
アホっぽいこと考えるくらいなら授業出ろよ、俺!
「おーい」
……でもなぁ、授業はつまらんからなー……。
「おーい、ってば」
「あ?」
やっと、誰かに呼ばれていることに気づく。
「やっほー」
「太田?……授業は?」
「さぼった」
「お前がサボり?真面目君なお前が?……らしくねーな」
「いやー、たまにはサボってみようと思って」
「そうか」
「しかし、この時間、制服姿でゲーセンにいるとは凄い度胸ですな」
「そんな俺を見つけるお前もスゲーよ」
「いやー。真面目君な僕も、時々思うわけよ」
「何を?」
「『サボりてぇ』と」
「へー。俺は『授業に出てぇ』と思うよ」
「出ろよ」
「お前も、サボりたきゃサボれよ」
「だって、僕、真面目君だし」
「俺も、サボり君だし」
「サボり君って……なんだよ、それ」
「はっはっはー!でも、今日ここでこうしてお前に会えてよかったよ」
「なんで?」
「お前も、『サボりてぇ』とか思うんだなぁと思うと、
なんつーか、かろうじて俺も世界とつながってるんだなぁ……と、思って」
黙々とその並木道を探索していると、一枚の木の葉がひらりと舞った。
行きかう人々はその瞬間に目もくれず、かくしてその葉はばりばりと踏み砕かれたように見えた。
木の葉は、ひらりひいらり、とよじれた透明の螺旋を描き、空中をすり抜けた。私はその動きを目に焼き付けようかどうか迷った。明確な選択など傲慢な未来観の中にしか存在し得ない、という明確な確信に背中を押された様な気持ちがした私は、焼き付けない事にした。
舞い落ちる木の葉は一枚だけでは無い。幾度となく訪れては去ってゆく季節の所為で、目に映る一枚の木の葉は記憶の中に眠る幻の影と踊るように映るのだ。
それにしても気味が悪い。枯れた葉は古い友人を思い起こさせた。その友人は、一番最後に会った時このような事を言ったように覚えている。
「完結する情熱に命は燃えないよ」
その言葉が何を意味するのか、その発言が何を示唆するのか、はっきりと判りたくもなかった。それ程私は若く、彼はすれていたのだ、と信じたい様な気持ちに、いつも私はその発言を思い出すと、させられる。
それとも実際には彼はそんな事は言っていなかったかもしれない。単なるイメージかもしれない。そうなるとそのイメージは本当の彼と私の間に浮かぶ形而上の色をした、形而下の輪郭を持ったアブクに過ぎない、と今となっては言えるのかもしれない。
何しろその頃の彼も私も、今には居ない。勿論そんなアブクさえも空気に溶けた。そんなものを今更どうして復元でもしたいが如く脳裏に巡らせる必要があるのか、と言えば、木の葉がひらりと舞ったからに他ならないのである。
「もしもし」
「!もしもし」
「こんばんわ」
「こんば!んわ」
「久しぶり」
「久しぶ?り」
「元気かい?」
「『ゲンキ』だよ」
「最近『サムイ』ね」
「最近『サムイ』ね」
「昨日『はろげんひいたあ』を買ったんだ。とても『アタタカイ『よ」
「僕?は『トテモ』寒いよ」
「僕も『トテモ』寒いよ」
「足の裏が『コオリ』みたいに冷たいよ」
「手のひらも『トテモ』冷たいよ。受話器を持っ?ている『カンカク』さえなくなってきそうなほど」
「『はろげんひいたあ』は暖かいの?」
「ハロゲンヒ!ーターは『アタタカイ』よ」
「寒いね」
「寒!いね」
「ごくも『はろげんひいたあ』を買ってみようかな」
「ハロゲンヒー!ターは『トテモ』暖かいよ」
「ハロゲンヒーターは『トテモ』暖かいの?」
「ハ!ロゲンヒーターは『トテモ』暖かいよ」
「寒いね」
「?寒いね」
「今日は『ナニ』を食べた?」
「今!日も『ナニ』も食べてないよ」
「僕は『sukiyaki』を食べたんだ」
「『sukiyaki』はとても暖かいの?」
「すきや?きは『トテモ』暖かいよ」
「僕も『はろげんひいたあ』を買うこ!とにするよ」
「ハロゲンヒーターは『トテモ』暖かいよ」
「すきやきとどちらが『アタタカイ』の?」
「すきやきは『トテモ』暖か?いよ」
「それじゃあ『アシタ』はすきやきを食べることにするよ」
「ハロ?ゲンヒーターは『カワナイ』の?」
「ハロゲ!ンヒーターは『カワナイ』よ」
「寒いね」
「寒いね」!
「おま?けに『ネムク』なってきたよ」
「『sukiyaki』はもう食べないの?」
「すきやきは『モウ』食べないよ」
「『ザンネン』だな」
「仕方『ナイ』よ」
「次は『イツ』会えるかな?」
「前は『イツ』会ったっけ?」
「今は『ナニ』をしてた?」
「そろそろ『トコ』に就くと!ころだよ」
「邪魔して『ワルカッタ』ね」
「これからは『jama』しないでね」
「『コレカラ』は邪魔しないよ」
「おやすみ」
「『オyasuミ』」
「寒いね」
??? 「寒いね」
「やっぱりハロゲンヒーターを『カウ』ことにしようかな」
「それならぼ!くはまたすきやきを『タベル』ことにするよ」
ケキャール派遣会社からの紹介で向かった会社は四階建ての古いビルだった。
階段を昇っている時に建物が傾いている気がした。形だけの受付には不釣合いに大きな絵がかかっていた。風景画とも人物画とも抽象画ともつかない変な色合いの絵だった。案の定、その絵はすこし右に傾いていた。
わたしはその会社で働くことになった。建物の傾きにも慣れ、デーブルの上に置いたコーヒーカップに一日一度は手を添えておかないと滑ってしまうことも苦にならなくなった。机は傾いているが、業績は右肩上がりというわけにはいかないようだった。わたしはいつもキーボードに手を置いたまま首をうなだれて居眠りしていた。
「すみませんが」
裏返しの声で「はイ」と返事をした。背後に立っていたのは、河童だった。ここは着ぐるみ相談所ではない。宣伝だとしても保険に入る必要を感じていなかったし、情けないけどそんな余裕はなかった。
あのう、と声をかけた。なぜか河童の顔は真っ赤になっていた。そしてそのまま廊下に出てしまった。わたしはそのまま河童の後を追った。
扉のところで、部屋に戻ってきた河童とぶつかりそうになった。頭の皿から水が滴り落ちていた。「ここ傾いていますね」と彼は言った。そう言っている内にも二人の間に水がこぼれていく。
「相談ごととはいったいなんでしょうか」
きわめて事務的な口調で言ってみたが、河童は飄々としたもので「うーん、このビルはどうも傾いてやしませんかの。空調の効きも悪し」と言い捨てて、二度目の水分補給に出かけていった。空調の悪いのなんて河童に言われなくてもわかっている。
雑巾を引っ張り出してきて、河童の皿よりこぼれた水を拭こうとした。
その水は魔法瓶の中のお湯を思わせる温度だった。思わず給湯室へ手を冷やしに駆け込んだ。
河童は流しの蛇口の下に身を乗り出して、頭の皿に水を満たしているところだった。
強引に河童の皿にたまった水に手を置いて冷やそうとした。
「あづい」河童が素っ頓狂な声を出した。
あわてて手を退けたが皿の上には平手打ちでも食らわしたような手形が赤く残っていた。わたしは首をかしげながら河童に詫びた。それから、このビルと同じように頭を傾けてみたらどうかと提案した。
そうか、と河童は首を傾けた姿勢で、そのまま階段を下りていった。
わたしも首をかしげたまま「じゃあ」と彼を見送った。
ドアホンというものがあるのに、突然の夜中の来訪者はドンドンとドアをノックしつづけた。大げさにドアを開くと色の黒い青年の姿があった。僕は言いかけた言葉を飲み込んでしまった。日本語が通じる可能性は五分五分に思えたからだ。しかし青年は流暢な日本語で言った。
「僕はタイからやってきた象使いのウィラポンです」
状況がよく飲み込めず、僕は何度も聞きなおした。でも聞き間違いなどではなく、相手は象使いであるらしい。だって本人がそう言うんだもの。ここは百歩譲って彼が象使いであることを認めよう。でもね、
「象使いが何のようで?」
「その象に逃げられましてね」
青年の屈託のない笑顔に、僕の怒り――こんな時間になんなんだアンタ!の感情はどこかへいってしまった。代わりにちょっと意地悪なことを言ってみた。
「象がいないんじゃ、あなたはもう象使いじゃないよ」
そう僕が言うと、青年はひどく傷ついたような表情になり、
「じゃあ元・象使いでいいです」と答えた。どうやら素直で好感の持てる男だ。
「前・象使いでいいんじゃないか?」
わけの分からないことを言って、気づくと僕は彼を部屋に招き入れていた。外は台風だったし、家というものはもっと他人にとって開かれた存在でなければいけないというのが僕の持論であるからだ。
「次の象が見つかるまででいいですから」
茶を淹れている僕の背中に彼は言った。そんなアテなどないということはなんとなく察しがついていた。
それから彼――ウィラポン青年は自分が輝いていた頃の自慢話をしはじめた。ひと目見ただけでその象が見世物としてモノになるかどうかの判断がつくんだということを、黒目を輝かせて僕に語った。
「でもそんな象は滅多にいないでしょう?」
「ええ、試しにアナタ、パオーンと鳴いてみてくれませんか?」
ここで断るのも寒いと思い、僕はうすら笑いを浮かべながら、でも、目の前の哀れな彼を傷つけないよう、なるべく真剣に、「パオーン」と啼いてみせた。
すると僕を見る彼の黒目の中に、牙の先端を丸く削られた一匹の像が映っていた。
冷蔵庫の中に、チャーハン用の細切れハム詰め合わせと卵が一つあった。こんなハラペコの夜には醤油と目一杯の唐辛子でしょっぱい焼き飯を食べるに限る。それを口いっぱいに頬張り、ビールで流して喉で味わうのだ。歯でもなく舌でもなく喉。
焼き飯の山にスプーンをつっこみ、キンキンに冷えたビールと一緒にいつもの定位置に持っていった。
右手の本棚を整え、左手にあるリモコンでテレビをつける。
テレビには司会のお笑い芸人と観た事の無い銀髪の男が居並び、その後ろには水着姿の女の子たちがズラリと並ぶ。山の上に雪化粧のごとくマヨネーズをたっぷりのせてやり、よりビールが旨くなるよう山をスプーンで更地にしてやる。
大学を卒業してもうすぐ1年。何もしていないし、何にもしようとしていない。本当はやりたい事がある。でも、やろうとしていない。今の現状に満足はしていないし、全くやりたい事じゃない。むしろ無駄だし嫌な事。でも1年もそれを受け入れてしまった為、今では何にも感じない。
無気力ではない。
ただ馴れてしまっているだけ。
テレビにはアイドルが出ている。肉感的で笑う度に揺れる大胸筋上部に目が離せない。ゲストと楽しくおしゃべりする芸人と銀髪の後ろで彼女たちは何を思うのだろう。水着になりたいのだろうか?何がしたいのだろう。
わからない
でも、何かはしている。繋がる何かをしている。歌手になりたいのか女優なのかパンスト会社経営なのかお嫁さんなのか、そんなこと僕には計り知る事なんぞできるわけが無い。しかし、それがその到達点に向っていると信じ、動いているのはわかる。前か後ろかはわからないけど。
少し酔ったか、ビールも1リットルを超えた。
ふと本棚に目をやると「この1年間だけで充実したラインナップになったな、お前
」ちょっとそんな風に思った。今の自分は必ず過去になり、今の自分も未来の自分の過去である。少しでも未来の自分からのお下がりが良いものになるように、未来に持っていける『知識』だけは蓄えようと考えての充実っぷりである。
自分もまた未来に繋がるかわからないものをしているなと、笑ってしまった。決して水着で縄跳びしているアイドルを観て、にやけているのではない。
未来の自分からのお下がりがクタクタのTシャツじゃなく、最低限ポールスミスであるように、机の上でケント紙にそのアイドルよりも魅力的なキャラクターを描いた。
祖母の下宿屋は、子供の頃から私にとって良い遊び場だった。共働きの両親、兄弟もない私は親が夜遅くに帰ってくる迄、下宿の大学生達と夕食も共にした。彼らは子供だった私を邪険にすることもなく、ゲームをしたり、大阪弁を教えてくれたり、マンガを快く貸してくれた。私は下宿がとても好きだったが、祖母の年と共に縮小し、やがて最後の一人となった。
真一さんがここに来たとき私は16歳で、入学早々躓いた数学を熱心に教えてくれた。ともすると無表情で冷たい印象のメガネの奥の細い目と薄い唇は、私が自力で数学の問題を解くと、ふっと細めて優しく微笑む。その笑顔が見たくて私は熱心に数学を勉強した。真一さんはその時20歳。物静かで、鉢植えの月下美人を大事にしている様な人だった。毎年花を見事に咲かせ、祖母も私も短く美しい花の命を愛でる贅沢を真一さんに教わった。実用一辺倒花より団子の祖母でさえ、美しさにうっとりと瞳を潤ませた。細く白い花びらは、真一さんの指のようで、なるほどその繊細さは真一さんの好きな花だと思ったものだ。
やがて真一さんは卒業と同時に下宿を後にする。
それでも近くのアパートで一人住まいの居を構えると聞いた時、私の胸は躍った。会えなくなるわけではない。これまでと変わらず、数学を教えてもらったり、音も眠る深夜に息を潜めて月下美人を見ることもできるのだ。
ところが真一さんは首を横に振った。
「どうして遊びに行ってはいけないの?」
私は少し、いやかなりわがままに真一さんを困らせた。どんなに言っても聞かない私に
「それではこれをおいていきましょう」と私に月下美人の鉢を託した。
「この花が開くとき、またお会いしましょう」
とその言葉が私の耳に吹き込まれた。優しくかすれた声と温かい唇がそっと耳に触れた。
月下美人が一年ぶりの重たげな蕾を抱いている。
おそらく咲くだろう。
大きな紙袋に月下美人を移し、私はそっと鉢をかかえ上げる。知っていながらこの一年一度も通らなかった、アパートへの夜道を行く。心は急くが、蕾が折れてしまっては元も子もない。アパートのドアの前で私は深呼吸する。手がとても冷たく、ドアベルを押す指が細かく震える。ドアがそっと開く。
「月下美人、咲きましたよ、真一さん」
少しやせたあの人は、それでも変わらずに目と唇をすっと細めて微笑んだ。そして月下美人ようなその指で、私の長い髪を一筋掬うと「冷たい髪…」と呟いた。
「大丈夫、なんて言っちゃダメ。俊樹の心はまだ晴れていないっていう事だから。まだ心の中にもやっとしたものがあるってことだから・・・」
怜奈は、「大丈夫だからっ」って、笑って言う僕にいつもそう言った。僕はその通りだと思った。怜奈は、言って欲しいと思う言葉をいつもその時に言ってくれる。なぜだろう?僕は不思議でならなかった。
ピーポーピーポー・・・
「怜・・・奈?」
僕の目の前は一瞬で何も見えなくなった。救急車で怜奈が運ばれた?うそだろ?これは悪い夢だ。早く覚めろよ?!おい?!何度夢だと思い込もうとしても、この事実は変えられなかった。変える事ができなかった。時にはサカラエナイ・・・
「・・・き?と・・・しき?」
怜奈の言葉で我に返った。僕は必死で、普通に、普通にふるまおうとした。
「え?怜奈?呼んだか?大丈夫か?!」
「なに・・・言って・・・んの?だい・・・じょうぶに・・・決まってる・・・じゃない」
「うん。分かった。分かったからもうしゃべるな。」
僕にはもう怜奈が助からない事がはっきりと分かっていた。そう感じ取っていた。でも、それでも、僕のこれからの人生に怜奈がいないなんてこと、認めたくなかった。信じたくなかった。
「ん?」
怜奈が後ろからつついてきた。
「としっ・・・きっ、手、にぎ・・・って?」
「あ?あぁ、うん。」
僕は怜奈の震える手を、その小さな優しい手が壊れてしまうくらい、強く握った。
「としきっ・・・最後まで・・・一緒・・・にいれな・・・くて、ご・め・ん・ね。守っ・・・てあげられ・・・なくてごめんね。怜奈、は、だ・い・じょ・う・ぶ・だから・・・」
怜奈の優しい唇がそっとささやいた。それが怜奈の最後の言葉だった。何が大丈夫だから・・・だよ?怜奈、僕に何度も言ってきた事忘れたのかよ?大丈夫って言うなってっ・・・。
今、なんで怜奈が僕にいつも言ってほしいと思う言葉を言ってくれるのか、分かった気がした。ちゃんと見てたんだ。そう、怜奈は、僕を、心でちゃんと見ていたんだ。
西暦三千年、温暖化と大地震により日本列島は沈没し、かろうじて残った北海道に住むわずか一千万の末裔たちは、神話的共同体幻想に退行し迷信と諦観の中に縮こまっていた。トーコは十八年に及ぶ義務教育(その大半は歴史と古い仕来りの習得)を終えた二十歳の女性。女性は義務教育終了と同時に結婚するのが普通だった。
「私、ファル星に行く。エンジニアを募集してるから」
「馬鹿なこと言わないで」
母親は宝石をちりばめた魔除けの数珠を握り締め声を震わせた。
「もうチケット買った。今から宇宙港に行く。母さん、今までありがとう」
出て行くトーコの背中に母親の金切り声が投げつけられた。
「後悔するわよ!」
ファル星は、ファルという白蟻に似た昆虫の産地だ。この虫は集団で「生物学的な力」を発揮して生命体だけを「跳躍」させる。宇宙港には大量のファルが飼育され、旅行者を目的地まで運ぶ。
次に目を覚ました時、トーコはファル星の蟻塚の中にいた。全裸で立ち上がり、体についたファルを払い落として、受付で服を貰った。受付嬢は「ファル星へようこそ」と微笑んだ。
エンジニア募集の話は嘘だった。人身売買されそうになり逃げ出した。ファル星は大地の大半が蟻塚の連なるサバンナで、資源どころか水すら事欠く未開地だった。そしてファルは機械を運べない。故郷に負けず希望のない星だった。
あてなく町を歩くうち、縛られ石を投げられている若い男を見かけた。我慢できず助けようとすると「何と交換だ」と言われた。ファル星は人の命すら物々交換の対象なのだ。トーコは鞄の中身をぶちまけて「これで全部よ!」と叫んだ。野蛮人どもは水と食料を取り男を置いて立ち去った。
彼の名はジャン、町外れの洞穴に住んでいた。死んだ父は科学者で、後を継いでファルの研究を続けていた。
「ファルは地底深くの地下水を取りに行くのじゃない。跳躍させるんだ。秘密は水に含まれる微生物。この微生物を塗りつけると、生きてないモノも跳躍できるんだ」
トーコは再び人身売買する盗賊に捕まった。ジャンは微生物を塗りつけた拳銃を跳躍させ盗賊に立ち向かった。交渉があって、盗賊はトーコを5ガロンの水と交換した。ジャンは荷物みたいにトーコを馬車の荷台に積み込んだ。
「おまえはおれのもんだ」
「野蛮人!」
ジャンは馬に鞭をあてた。
「後悔するわよ!」
それは地球を出る時に母が言った言葉だった。ジャンはニヤニヤ笑っていた。
11月19日(土)落書き第1号 TATSUYAヨロシク!
新しくてきれいな店ができていたので寄ってみたんだけど、大当たり。今日注文したのは、木の子ソースのハンバーグシチュー。ここのシチューは最高。いい仕事してるね。
店員のお姉さんも美人。笑顔でご飯3杯いける。
火・土のバイト帰りはここで食べることに決めた。
11月22日(火)
お姉さんが両腕に積み重ねた皿を派手に落とすのを見てしまった。
片付けも全部一人でやってたけど、他に店員はいないのだろうか。
あわてる顔もかわいかった。お姉さんドンマイ。
カルボナーラを注文した達也より
11月26日(土)
ミキさんへ
試作品のかぼちゃプリン、ごちそうさま。かぼちゃの味が濃くて、でも自然な甘さだから、しつこくない。大ヒット間違いなし。
これを読んだ人、注文して損はないよ。
まだ新しいから、お客さんがあまり来ないね。このノートも俺しか書いてない。こんなにいい店なのにもったいないなあ。友達みんなに紹介しておくよ。
あなたの達也より(照笑)
11月29日(火)
チキンのトマトソース煮にしてみた。やっぱり、何を食べてもおいしい。
P.S. ミキさん、昨日はありがとう。今日遅刻しなかった? 達也
12月3日(土)
ミキさん、病気だって?
店に入ったら、いきなり太ったおじさんが出てきて、しかも、ミキさんのだんなだって言うから、びっくりした。
だんなのこと、言ってくれれば良かったのに。
連絡取れないから心配したけど、病気ならしょうがないか。早く治るといいね。
だんなの料理…下手すぎ。
スープスパゲティーを頼んだんだけど、まるで煮込みうどんみたいだった。味も衝撃的。スパゲティー茹ですぎ! スープは昆虫の臭い!
それに、暗くてあいそがない。これを書いてる今も、厨房の方からじっと見てて、気持ち悪い。
ミキさん。これ読んだら言っといてください。あれじゃあ、お店つぶれちゃうよ。
そうだ。シチューだけは相変わらずおいしかった。だんなが作った味じゃないね。あれは、ミキさんでしょう? ミキさんの味って感じ。よく煮込んであって、肉が柔らかくて、もう絶品。
達也より
12月10日(土)
達也へ
これ読んだら連絡くれ。
失恋旅行か?
黙っていなくなるなんて、お前らしくないよ。
携帯の電源入ってるか?
電話、待ってるからな。
里村 祐二
P.S. お前のほめてたシチューを食べたけど、まずかったぞ。肉も固いし。何の肉だよ、あれ。
気がつけば男の子はひとりぼっちだった。
湿った床の匂い。冷えた夜具が唇に触れ、男の子は目を覚ます。どうしようもない寂しさに彼は少しだけ泣いた。
なぜこうなったかは知らない、いつからなのかも分からない。ただ気がつけばひとりだった。
男の子は昼から夜のあいだ、酒場で皿を運ぶ仕事をする。店がひければ帳場の隅に床を敷き、寂しい眠りについた。延々と続く空しい時間の繰り返し。
そんなある日、酒場に旅途中の隊商が訪れ、小規模の宴を張った。男の子はその中にいた年上らしい少女から声をかけられる。最初、話しはぎこちなかったが、彼らはすぐにうちとけた。
「あなたのお母さんはどうしたの」
「お母さん、それはどういうものだろうか」
「あなたを産んでくれた人。知らないの」
「ぼくは誰も知らない、ずっとひとりぼっちなんだもの」
少女のなめらかなほほを涙が伝う。彼女は男の子の手をとり、自分の唇に押し当てながら云った。
「これを持っていてごらん、きっとお母さんに会えるから」
小さな掌に、なにかがすべりこんでいた。
店の中で隊商の動きが慌しくなる、出発の時がきたらしい。聞けば、これから次の町まで夜っぴて歩くと云う。
「つらくない」
「だいじょうぶ、ずっとそうだったから」
「さようなら、またいつか会えるね」
「きっと会えるよ、さようなら」
少女を見送ったあと、男の子はそっと掌をひらいてみる。それは銀の光を浮かべた小さなブローチだった。
――お母さん。男の子は初めてその名を呼んでみた。やさしい響きが小さな胸をくすぐった。
その夜、男の子は夢を見た、母に抱かれる夢。
やわらかくあたたかな思い。――なんてやさしい匂いがするんだろう。
甘いぬくもりに包まれながら男の子は目を覚ます。彼の身体は母親の腕の中に抱かれていた。
「お母さん」男の子はそっと母を呼んだ。
「どうしたの」
「うん、どうもしないよ。ただ目が覚めたの」
「それではまたお休みなさい」母親はいっそうやさしく彼を抱いた。
「はい、お母さん、お休みなさい」
母の腕にほほを押し付けながら男の子は思う。――なにかとても怖いような、でも不思議な夢だったな。
やわらかなぬくもりに包まれ、やがて男の子は眠りにおちる。軽く閉じた掌から、小さな銀の光がこぼれておちた。
流れ星が消える前に三回願いごとをとなえれば、その願いがかなうって、本当ですか?もし本当なら、神様お願いです、ぼくの願いをかなえてください。三回言いきる自信ならあります。
だから、お願いです。
ぼくは消えたくありません!
ぼくは消えたくありません!!
ぼくは消えたくありません!!!
そして、願いはかなった。
流星は大気圏で燃え尽きることもなく、無事に大地へと向かうことができたのだった。
――誰かの願いをかなえながら。
私はいつからこの地に存在しているのか。
過去の記憶はもう随分消えかかっている。
町のニンゲン達も、そう、それこそ昔は私を神として崇め
私の存在理由と自尊心を満足させてくれていた。
未来永劫、お互いに良い関係を築いていけると思っていた。
そう、あの頃のことばかりを振り返ってしまう。
あれはいつの頃からだったろう。
私を形作る木々が次々と切り倒された。
北面は大きく削られ、不恰好な住居が立ち並んだ。
腹に大きな穴を開けられ、轟音を響かせて列車が往復した。
大蛇の如くの道路が胸にとぐろ巻き、送電線に縛られて
頭はコンクリートで固められ市内を一望する展望台が建てられた。
空の弁当箱、壊れた自転車、テレビに洗濯機に冷蔵庫。
ありとあらゆる不要物を背負わされ。
怒りを爆発させる私の同胞達も世界にはいると聞くが
私にはそんな気力も体力もない。
諦めと絶望。絶望と諦め。
まだ私の体そのものが存在している、
そう、それだけで満足するしかない。
目まぐるしく変遷していくニンゲン達。
滅びるのは私が先か。まあ、どっちだっていい話だ。
私をねぐらにしてきた最後のヒヨドリ一家が挨拶に来た。
「今日までありがとう。でも、もうここで住むには……」
うん。すまないねぇ。幸せに暮らせる土地は見つかったかね。
昔は。そう。熊もいたオオカミもいた猪もきつつきもリスも
きつねもたぬきもうさぎももりゅうもなんだっていた。
夕焼けが世界を赤く染め上げる頃、私は沈み行くお日様に語りかける。
私は誰ですか。
思考を停止してもいいですか。
なんだかとても疲れました。
最近は、過去を振り返るばかりです。
そして。
楽しかった思い出は一日一日どんどん忘れていってしまいます。
明日はお天気ですか。
春はそこまで来ているのですか。
永遠ってなんですか。
辺りは上も下も無く一面灰色で、ざぁざぁ降る冷たい晩秋の雨に似ていた。
何処へ行っても誰も見つからず、ここには彼しか居ないのだろうと容易に想像がつく。
ひどく寒くて寂しい所の筈なのだけれど、ぶるぶる震えるほど身体には凍みなかったし、哀れな黒っぽい彼に対して庇護すべき…広い気持ち…が、静かにとうとうと湧いてきたから、安心はしないまでも、怯える事もなかった。
そして、ゆっくりとぐるぐる回って近づいてみる。
近づけば、地の底からじくじくと、とめどもなくいやらしく滲み出る障気に似た唸り声の主は、やはり、黒っぽい彼のものだった。
「うおおおーん、うおおおーん…」
鎖に繋がれたままの黒っぽい彼は、苦痛を訴え続けている。
それは、空気の振動で鼓膜に届く様なものなではなく、寸分の狂いも無い同じ波長と、灰色の有機発電機とを分かち持つ存在同士にしか伝わらない。
「うおおおーん、うおおおーん…」
百万べんも繰り返したのだろうか。始まりも終わりも無い時空間に、嗚咽が果てしなく溶けていく。
ざぁざぁの中、黒っぽい彼を、ただただ見つめ続けている。
だんだら色の激しい怒りと、酸の強い悲しさで、どろどろに溶けてしまう筈なのだけれど、蒸発するほどではなかったし、湖面に波紋を残さずさらさら舞う風の様に、静かな哀れみだけになった。
「うおおおーん、うおおおーん…」
ざぁざぁに赤色を感じた頃、黒っぽい彼が居た筈の場所をぐるぐる回りながら俯瞰する…
せき止められていた血流が一気にまわってきたせいで、頭の中がじんじんざぁざぁした。
彼が冷凍睡眠カプセルから脱け出ると、そこは殺風景な海岸だった。
目の前に見たこともない二本足の生き物がいる。頭が銀色だ。
「おはようございます。突然ですが私は宇宙人です」
「すぐ分かったよ」
「さすが地球人類最後のひとりともなると勘の冴えが違いますな」
「いや」彼は宇宙人の爪先から頭までをじろりと眺め見た。「雰囲気でね」
「では私があなたの前に現れた理由まで分かりますか?」
「さっぱりだ」
彼がそう告げると銀色の宇宙人はとがった肩を揺らして得意げに笑ったように見えた。なにしろ目がひとつだし、口が二つあるから地球人のように表情が読み取れない。
「説明しましょう。私は地球を救済するためにやって来ました。どんな星であれ、その星の生き物がまったく消えてしまうというのは悲しいことです。ですからその星の生き物が最後の一体になった時に、その一体を神様にして再び創造を行ってもらうのです」
「それはすごいねぇ」
「地球科学の先を行ってますから。例えばこの光線銃」
宇宙人は腰の袋から奇妙な形の銃を取り出した。そして海に狙いをつけて赤い閃光をほとばしらせたかと思うと、次の瞬間には青い海原にぽっかりと大きな穴が空いていた。すさまじい破壊力だ。彼は宇宙人の言葉に納得した。
「しかしどうやって創造するんだ?」
「二回目の創造ですから簡単です。頭に昔の地球を思い浮かべるだけで完全に元の世界に戻るのです」
「じゃあ、また悪人がはびこるのか」
「ええ、昔といっしょですから」
「また、税金がとられるのか」
「ええ、昔といっしょですから」
「また、好きな女にはふられるのか」
「ええ、昔といっしょですから」
「そうか。いやだな、やりたくない」
「やはり失望しますか。他の星の皆様もそうでした。でもご安心ください。そういう方には、二つ選択肢をご用意してございます。一つは私の星にお連れしてさしあげる。勿論大切な最後のひとりですから贅沢な生活を保障しますよ。それに言うなればあなたは悲劇の異邦人ということになりますからね。モテますよ、女性に」
「へえ」
「そしてもう一つは、殺してさしあげることです」
彼は想像した。銀色の宇宙人と恋に落ちよう。そしてとがった肩に腕をまわし、銀色の頭をかき抱いて口づけをしよう。そこまでは考えた。しかしとても恋心は燃えあがりそうにない。
「いいや、殺して」
「はいそうですか」
彼の胸板に赤い光線が突き刺さる。
どこだか分からない場所で道に迷った。
僕は大人だし、財布の中にお金はたいしてなくてもクレジットカードがあるし、クレジットカードの使い方なら知っているし、何よりここが、明瞭な『システム』に則って動いている場所であることを知っている。
*
幼い頃、やはりどこだか分からない場所で迷っていた。その頃の僕には家があった。母がいて、父がいた。学校があって、井戸端にたむろするおばちゃん達がいた。ヒヤシンスと朝顔が、通学路の垣根から顔を覗かせていた。知らない町は知らないというだけで、恐怖そのもので、僕はやみくもに道路を駆けた。知らない大人達に道を尋ねて回れるほど愛嬌のある子供じゃな
かった。口をつぐみ走り回った。そうでないと町が、自分を飲み込んでしまう気がした。
結局あの日、どうやって家までたどり着いたのか憶えていない。上手い具合に知った道へ出たのかもしれないし、帰りが遅くなって心配した父か母に見つけてもらったのかもしれない。それから残っている記憶といえばただ、食卓の隅でとてつもない安堵と一緒に味わったアイスクリームの甘さだけだ。
僕は大人になった。けれど、あの時の恐怖はどこへ消えたのだろう?
*
「どうやら道に迷ってしまったみたいだ」僕は携帯から彼女に電話をかけた。「すまないけど、時間通りに約束してた場所へ着けないかも」
「そう。ちょっと待って・・・・・・あなたの携帯からの電波で、こっちの方にも位置情報が出るわよ・・・・・・ええと今、赤池町25番地・・・・・・にいるのね。最近は周辺の地図まで出てくるのよ・・・・・・ねえ、近くにジャスコの看板でも見えてないかしら?」
「あぁ・・・一筋向こうの通りに、見える。見えるよ」
どうやらジャスコの近くに地下鉄の駅があるらしい。彼女にはおわびに、ジャスコ店内のハーゲンダッツでアイスクリームを買っていく。
それがどれだけ甘いとか、もう、感じないにしろ。
雪の降る町で一人の少女が桜の木の下にいた。何をするわけでもなく、ただ何かを待ち続けているように見える。その少女はいつも同じ場所にいる。
僕はそんな彼女に恋をしていた。ずっと見続けていたいと思うようになり、傍に居たいと思うようになった。
だけど、僕は彼女に話しかけることも触れることも許されてはいなかった。なぜなら、この世界には僕の体はないのだから・・・。もっと正確にいうならば存在自体がないのだから・・・。
それから幾年もの月日が流れていた。だが、彼女はこの時の流れの間も同じ場所に居た。僕は彼女を見続けていた。ある日、僕は疑問に思う。「なぜ、彼女はいつも同じ場所に居るのだろう?」と。
そして、桜が満開になる季節になったある日。彼女は、少しずつ散っていく桜の1枚を手に取り、
「この場所であなたの命と引き換えにあなたがくれた時間を大切に生きていきます。」
彼女はそう言って、桜の花びらを思いと共に暖かい季節の風に乗せた。
栄治は三年前、中国残留邦人として東京に妻の萌鵬を連れて五十五年ぶりに帰国。毎月の手当は九万円。祖国での厳しい現実。体調もすぐれず、つましい生活に心配ごとが重なる。それは故郷では明るい性格だった萌鵬が心を閉ざしていること。師走のある日スーパーの景品としてもらった宝くじで三百万円が当たった。栄治は大連に里帰りしよう告げた。萌鵬の目が一瞬輝いた。栄治は賞金を神棚に供えた。翌日、病院から戻ると家はもぬけの殻。神棚から札束がひとつ減っていた。萌鵬は中国へ帰ったのだと、栄治は残りの札束を掴んで大連に渡った。親戚縁者の家には萌鵬はいない。栄治はホテルを泊まり歩いて萌鵬を探した。栄治が青年時代を過ごした撫順まで来たとき胸苦しくなった。栄治は撫順の製鉄所で萌鵬と出会った。萌鵬は当時、劉震という同僚と交際していたが栄治が奪い取って結婚した。以来、劉震とは顔を合わせていない。栄治は製鉄所のあった場所に行ってみると公園になっていた。そこに地べたで座る老女がいた。萌鵬であった。栄治は抱き抱えると喜んで「劉震」と叫んだ。萌鵬はすでに痴呆が始まっていた。余命僅かと悟る栄治は萌鵬にひと目劉震を会わせようと決意。そうして劉震の住んでいた家を探し出す。劉震そっくりの息子がいた。栄治は経緯を告げると一冊のアルバムを手渡された。それは若かりし頃の劉震と栄治と萌鵬の写真。しかし、劉震はすでに死んでいた。自殺であった。栄治は何も言えず辞去。ホテルに戻ると劉震として振舞う栄治。栄治は劉震に嫉妬した。栄治の病状は徐々に悪化。最期を覚悟した栄治は萌鵬を自分の傍らに入れる。今生の別れ話をする。泣きじゃくる萌鵬。そのときアルバムが机から落ちた。一枚の写真が外れた。それは三人が笑っている輝いた写真。裏面に「萌鵬を永遠に愛す」と記してあった。栄治は劉震の痛みを感じたのがこの世の最期だった。
七度四分だった。もう一回測っても一分しか変わらなかった。なのにアヤはパジャマ姿で言い出したのだ。
「もうだめ。風邪だから休む」
あと十分ほどで部屋を出ないと遅刻してしまう、そんな時間に。時計代わりのテレビには星座占いが映っている。
僕は持っていた歯ブラシを置いて、手をアヤの額にのせてみた。そして自分の額に。
「よく分からない……」
「リョウが分からなくても、私の体なんだから私が一番知ってるの。風邪だと言ったら、風邪なわけ」
アヤの顔をじっと見つめる。同棲し始めてから一年近く経つけれども、調子を崩したことなんて一度もなかったのだが。確かに目がいつもより潤んでいるような気もする。
――今日運勢が最悪なのは、牡牛座の貴方。
会話が止まった隙にするりとテレビの音声が流れてきた。よりによって僕もアヤも牡牛座である。だからどうというわけではないが、僕は努めて気付かないふりをする。
「で、どこか具合悪いところはあるの?」
「ぼーっとする、眠い、つらい、以上」
つらい、という言葉が引っかかった。ここ一ヶ月近くアヤは土日も仕事に出ていたから。僕が休むように勧めても頼んでも、
「今大事なトコだから」
と、取り合ってくれなかったから。愚痴ひとつこぼさずに働いていたけれども、どこか無理をしていたのだろう。
テレビには見慣れないCMが映っている。完全に遅刻だ。
「ねえ、リョウ、病気の彼女を置いて働きに行くわけ?」
アヤはそう言って、再び歯ブラシを手に取った僕を制する。
「さ、早く電話して」
「え、アヤの会社に?」
「リョウの会社に決まってるでしょう。愛する彼女が風邪をひいたので、看病しますって」
そんなことはとても言えないので、仮病を使うことにした。ケータイの向こうにいる上司に対してペコペコと頭を下げた。でも、その様子を見届けるとアヤは、
「実はリョウもズル休みしたかったんじゃないの?」
なんてぬかす――が、その直後、潤んだ目で何かを言いたそうにこちらを見ている!
「まあ、もう一度ベッドで寝るといいよ」
ここでも僕は気付かないふりをして、仲間になってあげることにした。アヤは笑顔になりかけ、しかし何とか憂いを取り戻し、そしてつぶやく。
「リョウ、何か企んでるんじゃない?」
「病気の人としようなんて思わないよ」
アヤと目を合わせると気が変わってしまいそうだったので、僕はあらぬ方向を向いた。アヤの手をとった。少し暖かかった。
客車には既にちらほらと乗客がいましたが 窓際の席はまだ空いていました。僕は、出入り口から一番近い四人掛けの窓際席に着きました。前の席は家族連れのようです。子供の声が絶え間なく聞こえて、とても微笑ましい。
僕は窓越しに流れる景色をながめつつ、かたわらの紙袋をひざの上に乗せました。紙袋の中には、たくさんの折鶴とたくさんの折り紙が入っています。窓のすぐ下 畳まれたテーブルを引き出して、僕はさっそく折り紙で鶴を作り始めました。
「こんにちは」
ようやく二羽の鶴が出来た時、声が聞こえて僕は顔を上げました。黒い帽子を被った老齢の紳士が一人、穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見ています。僕はあわてて会釈をしました。
「向かいに座ってもよろしいですかな」
「ええ、どうぞ」
そう言いつつテーブルに置いた折り紙や折鶴を片付けようとすると、紳士は自分の荷物と帽子を上の荷台に上げながら、「かまいませんよ」と言いました。紳士が向かいの席に腰を下ろした時、向こうの方から女の子の笑い声がきゃっと響きました。紳士がちらりと後ろを見て微笑んだので、僕は鶴を折る手を止めて話しかけました。
「子供は可愛いですね」
「ええ。特に女の子は……ところで、その折鶴は」
「や、お恥ずかしい。ちょっとした用がありまして……」
「なるほど。よろしければ、私にも一枚お貸し願えませんか」
紳士がしわの刻まれた手を差し出したので、僕はその手にいっとう上等な千代紙を渡しました。すると、紳士は指先を器用に使って あっという間に小さな五連の折鶴を作ってみせました。すごい!と思わず目を見張る僕に、紳士は微笑んで言いました。
「これなら千羽鶴もすぐに出来上がりますよ」
「あ、はあ、何故それを……」
「大変真剣に折っていらっしゃるので、そうなのではないかと」
「ええ、実は僕の妻が入院しておりまして、そのために……それにしてもこれはすごい。妻が喜びそうだ。彼女は折り紙が好きなんです。なんでも幼い頃に亡くなった父親が」
「折り紙を教えてくれたのでしょう?」
気が付けば紳士は既に席を立って荷台から荷物を下ろし、帽子を被っていました。
「美也子をよろしくお願いします」
一体何故 妻の名前を知っているのか聞けないまま、紳士は微笑んで客車を出て行ってしまって。
僕は、後に残った美しい五連の折鶴をためつすがめつしてみましたが、どうしても 同じ物を作ることが出来ませんでした。
呪いに相手の髪や爪をつかうものがあると読んだことがある気がする。あれは髪か爪でないといけないのだろうか。いまここには、あのひとの鬚があるのだけれど。
忘れていった電気剃刀の刃のあいだに、埃みたいにたまっていた。紙の上におとしてみる。たいした量じゃない。ちょっと、砂鉄みたいに見える。紙を畳んでそのままくずかごに投げいれる。あのひとを呪いたいわけではないから。鬚しか残さなかったのが悔しいだけだから。
話をきいてくれませんか、と男が女に話しかけた場所は水戸のジャズ・バー。午後11時。
「一組の男と女がいる。部屋には朝の日差しが射し込んでいて、男は目が覚めて隣に女がいることに気づく。彼女はブラウス一枚で眠ってるんだ。彼女が誰なのか彼は知らない。床には彼が脱ぎすてたままの白いシャツとベージュのズボンがある。まず彼は服を着た。それから彼女の着替えを探すけれどもなかった。部屋はベッドと机、それから小さなCDプレーヤーがあるだけ。こういう状況でお姉さんが男なら次にどうする?」
いきなり話しかけられた女は驚いたがここは酒場だ。男の靴をみた。黒の革のスニーカーを履いている。次に女は男の瞳を覗き込むようにみた。
「あたしならCDプレーヤーの再生ボタンを押すかもしれない。CDは、そうだな、ピア・アンジェリの『イタリア』なんてどう? ねえ、マスター」
カウンターの内側にいた男はピア・アンジェリのレコード・ジャケットをみせてにっこり笑う。まもなく『ヴォーラーレ』と陽気な歌声が店に響きわたった。
「今の話、エドワード・ホッパーっていう画家が描いてるんです。僕、好きでね。明日から茨木の美術館で展覧会があるってきいて来たんだ」
「あ、そうなの。聞いたことない画家だけど、なんだか変な絵ね」
「一緒にこの絵をみにいきませんか、明日」
女は椅子の下の大きなリュックサックをみた。それから男の誘いにはこたえず、逆に質問した。
「大きいリュックね」
「仙台市役所の会計課にいたんだけど、先月やめたんです」
「そうなんですか、仙台からわざわざ」
「ええ。自分が大草原にいる夢をみましてね、それで衝動で仕事やめて、あるときエドワード・ホッパーの絵を画集でみたんですよ。そしたら夢とホッパーの別の絵がそっくりだったんですよ」
「おもしろそうね、あたしも行ってみようかな」
それから二人とも酒をたくさん飲んだ。
「雲を見ながらね、ライオンが女房にいったそうなんですよ。そろそろめしにしようか、ってね。それでライオンとその女房は連れだってでかけてしみじみと縞馬を食べたっていう詩を工藤直子が書いてるんですよ。僕、絵を見終わったらアフリカへ行こうと思ってます。あなたも行きませんか。一緒に縞馬食べましょう」
「いいね、縞馬おいしいかな」
翌朝、ホテルで目覚めた女はまず服を着た。携帯電話をみると婚約者からのメールと着信が併せて11件もあった。
小岩井は毎日決まって公園へ降りる大階段の袂に立って時間を潰す。夕時ともなると大勢の人が往来する。老若男女様々な人々がいるものだ。たまに高校三年に成長した孫も通りかかる。これも楽しみのひとつだった。小岩井は杖を支えに目を細め、静かに物思いに沈む。
「おじいちゃん」
いつものように祖父がいるので、少し時間もある事だから美佐枝はちょこちょこ跳ねていった。
「また?」
「うん」
美佐枝は祖父の顔をじっと見つめると、不意にため息をついて体の力を抜いた。
「あたし、おじいちゃんみたいに生きていたいなあ」
「どうしてだい?」
「……何にも囚われないっていうか、流れていくものをそのままの姿で見ていられるっていうか、そういうふうに生きていられたらなあって思うの」
祖父は大きな声で笑った。美佐枝はそういうところに、何もかもわかっている、達観した姿を見るのだった。
美佐枝は時々、恋愛とか哲学とかに理由もなく空しさや苛立ちを感じる事がある。恋愛は継続していなければ生きていないような感じを与えるし、哲学は現実の生活とどんどんギャップが開いて何が何だか混乱してしまう。
そんな時にここで祖父がちょこんと立っているのを見ると、もう少し気楽にならなきゃな、と思う。周りを歩いている人は、空や雲や地面みたいに、気にしなければいないのも同然に過ごしてしまう。そういう物事に一日中目を向けていられる祖父が、堪らなくかっこいいと思った。
「じゃあ、あたし行くね」
「うん」
祖父の変わらないにこにこを背に、美佐枝は元気よく予備校へ向かった。
孫の後姿を見つめながら、小岩井は再び物思いに沈む。
いやあすごいなあやっぱり女子高生って最高だよだって見てみろよあんなスカート短くしちゃっていやらしいったらありゃしないほらほらちらちら見える白いのやら青いのやらがぷりぷり動いてるよああこの年まで生きてて本当によかった私の時代では考えられないもんなあ昔の人は出来るだけ肌なんか見せなかったしそれが美徳だなんて考えていたけどそんなのは嘘っぱちだよ若い娘の肌が見られるに越した事はないじゃないか吉田の野郎もこの前逝っちまってあいつがいなくなったお陰でこうしてゆっくり堪能出来るしいやあまったく長生きはするもんだよありがたやありがたや。
全てがひとつである。全てがひとつづきである。過去も未来も含め、全てひとつづきである。まったくそのとおり。たいていの宗教や思想書で語られるとおりである。それ以外の理解などありえない。普通に考えていたらそれ以外の答えなどありえない。全てがひとつづき。まったくなんとうっとおしくなんと退屈なことか。
「おとうさま、おとうさま、おとうさまあ」
娘が花を散らしながら駆け寄ってくる。
「おとうさま、花園でてふてふを集めるのは、もう飽きましたわ」
娘はそう言うと私の前で手を開く。ばらばらになった蝶々の色とりどりのかけら。
「そうだね。じゃあプルシャにでも会いに行こう」
私は娘の頬に手を取り、口づけをする。あ、と娘は吐息を漏らす。唇の中に舌をこじ入れ口中をまさぐる。娘は私を強く抱きしめる。幼くとも官能を知っているのだ。私が教えた。私が教えられることは全て教えよう。
道は全て花に埋もれている。ユリ。カーネーション。バラ。さくら。ひまわり。パンジー。舞い散る花びら。花吹雪。様々な、多種多様な、数え切れない花々に、景色は燃えているかのようである。
「やあプルシャ、久しぶりだね」
プルシャは絵を描いていた。私の声に体をびくりと震わせ、こちらを向く。上半身が裸で、豊かな胸が絵の具で汚れていた。
「そんなにびくびくするなよ。君と私の仲だろう?」
「あ、う、う」
「なあ、踊りでも踊っておくれよ」
「う、あう、うぅ」
プルシャはうつむいたままふるふると体を動かし始める。
「それが踊り? それが君の踊りなのかい? 楽しそうだね」
窓の外では全てが燃えていく。めらめらと音を立てて花が灰になり、風に消える。誰かが火を放ったのだ。おまえかきみか、ぼくか、あなたか。誰かが火を放った。
「おとうさま、ほら、てふてふ」
私の目の前で手が開かれる。色とりどりの炎のかけら。
「ああ、そうだね」
娘の燃える髪に私は口づける。
「私達は、消えていくね」
プルシャは何も答えない。
「私達は消えていく。そして、それでも私達は残るね。私達は残される。いつまでも。過去からずっと、私達は残されている。私達は残されつづける。プルシャ、いつまで踊っているんだ、もうやめろ」
プルシャは踊りをやめ、絵のかかっていたイーゼルをがしゃんと倒し、棚から皿を取り出した。皿にはハンバーグが載っていて、プルシャは手づかみでそれを食べ始める。豊かな胸が、食べかすに汚れていく。
「あなたの子どもを生むことは出来ない」女は何か突然のようにそう言ったが、それは実際突然なものではなくて、その言葉を聞くまで女の話をちゃんと聴いていなかっただけの話だ。確かに人の妻である女が、他所の男の、しかも学生を七年もしているようなロクでもない男の子を産む訳にはいかないだろうと、変に冷静に他人事のように思えたのは、つまりはどういうことなのだろうか。女はまだ何か言ったようだが、それはひどく遠くからの声のように思え、よく解らない。女の方に向き直ると、すぐ目の前に白いシーツに流れる黒髪だけが見えて、ふと、この女に顔なんてついてないんじゃないかと思い、肩を掴みこちらを向かせようとするが、止めにしてそのまま肩から背へと指を這わせ、背骨を辿り、尻を撫でた。女はこちらを向き、何か言うかと思ったが何も言わず、ただこちらを見詰めた。
「ちゃんと聴いてたさ。今ここに俺の赤ん坊がいるんだろう?」まだ膨れてはいない女の腹を撫で回しながら、そう言うと、いつの間にかしたたかに勃起していることに気がついた。
「赤ん坊がいるんだったらさ、付ける必要なんかなかったじゃないか」腹を撫で回していた指をそのまま女の秘裂に這わせ、乱暴にかき回した。何か言うかと思ったが女は何も言わず、抵抗もせず、そのことが腹立たしく思え、女に圧しかかると、まだ濡れていない肉を無理やり押し開けて、挿入した。両手で女の足を抱え、まだ何も言わない女の唇をこれも強引にほとんど舌を噛むようにして吸い、今までしたことがない程、激しく腰を打ちつけた。
「出すぞ」と耳元で囁いてみたが、相変らず女は何も言わず、そのまま膣内で射精した。背を震わせる快楽と共に、脳裏に、頭から真っ白な俺の精液を被る胎児の姿がありありと浮んだ。その赤ん坊は黒ずみ腐っていた。
そのままグッタリと女に抱きついた俺の耳元で「あんた、泣いているの?」と女が言ったようだが、俺は泣いてるつまりなんてまるでなくて、ただ腐って崩れ落ちようとしている自分の体を感じていた。