# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | あらそいのあとで | 瑞葉 | 696 |
2 | 白い4人の女 | 桑袋弾次 | 915 |
3 | 大切にします | 千葉マキ | 721 |
4 | 一瞬 | 日高 奈々 | 379 |
5 | 鴉(カラス)の街 | 八海宵一 | 995 |
6 | 荒物屋の怪 | とむOK | 1000 |
7 | レイン・ドロップ | サカヅキイヅミ | 999 |
8 | 安売り | さいたま わたる | 800 |
9 | 氷の惑星 | 朝野十字 | 1000 |
10 | そこに雨が降る | 神藤ナオ | 1000 |
11 | 姉がしてくれた話 | 長月夕子 | 997 |
12 | 白き魔物 | Tanemo | 875 |
13 | 魔王 | 沙海 素 | 997 |
14 | あのころ | qbc | 998 |
15 | 手術 | たかぼ | 953 |
16 | ゆめうつつ | 三浦 | 977 |
17 | 偽善者 | 三剣 玲二 | 335 |
18 | 虹 | 無明行人 | 903 |
19 | 何処へ | あきのこ | 671 |
20 | 恋情未満。 | 香坂 理衣 | 893 |
21 | 道の途中 | (あ) | 1000 |
22 | スノードロップ | 江口庸 | 782 |
23 | 人前の式 | 佐倉 潮 | 913 |
24 | 国際的振り込め詐欺 | 神崎 隼 | 354 |
25 | 春立空 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
26 | 人間の条件 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
27 | 十五世紀の円形劇場 | 曠野反次郎 | 1000 |
28 | 銃を向けられた時 | 諏訪 | 1000 |
その先にはきっと、なにもない。世界はほこりっぽい風と絶望的に真っ暗な空に支配されている。僕の目の前は、いつだって崩れた瓦礫でいっぱいだ。掘り分けて前にすすむしかない、でもこっちには道具が無い。コンクリートのかたまりや有刺鉄線や鉄板や、そんなものを掻き分ける手は傷だらけで、ところどころ血がにじんでた。道なき道を進もう、他の人がとおりやすいように道をつくろう、なんて昔の偉人が言っていたらしいけど、そいつはおそらく実際に目の前の障害を乗り越えたことがないにちがいない。こんな状況で他人のことなんか考えていられやしないのに。
ふわり、白く軽やかに踊る羽根。お先はまっくらなのに、それだけが目の前で白くかがやいてきれいで、ぼくががむしゃらに前に進んでいたのはきっとそれを捕まえたかったからだ。ひとひらの羽根は風にたやすく舞い散って、ぼくをさそうように遠くへ飛んでく。そうだ、わかってた。あれは天使の羽根なんだ。この機械仕掛けの街で、くずれさった建物の間で、ふわりふわりと踊る羽根。羽根の持ち主は、ひととひととの争いを、戒めもすくいもせずにただ見てるだけなんだ、それしかできないんだ。そうして、すべてが終わった後で、こうやってほんの少し希望を落としていくにちがいない。天使は絶対に人前にはすがたを見せないから。
コンクリートの破片で傷ついた手を、伸ばす。せいいっぱい伸ばす。ありったけ伸ばす。
わかってる。羽根は白く、ほとんど発光しながら、気がつけば街中にふり出すだろう。髪に肩に手の甲に、ゆれる天使の白い羽根。がむしゃらに歩いて、つめたい水を飲んで、そうしていればきっと、瓦礫の間に白い花が咲くだろう。
白いキャデラックが、車庫入れをしようとして、となりの車にぶつかった。
小説家を背中にのせ、這いつくばって地下駐車場の床をにじり進んでいた男は、それを見て、
「ばかだなあ」と言った。
なめらかに、キャデラックの4つの窓はすべて開き、真っ白に塗った4人の女が顔を出して男をにらんだ。
「重い」
男はそう言って目をそらした。ついでに小説家を振り落としてしまいたかったが、ぴったりとからだを寄せて離れない。
「だれが、ばかだって?」
運転席の女が言った。胸のふくらみの谷間まで、すっかり白く塗ってあるので、やたらと首が長く見えた。
「いそがなくちゃ」
駐車場の上のステーションビルディングで、20年にいちどの大がかりな消防訓練が行われる。そこで、小説家は式辞を述べることになっていた。
「そう、10時きっかりに」と小説家は言った。役人から渡されていた原稿は、徹夜でなんども書きなおした。「空が白みかけるころ、それはようやく詩になった」
ぶつけられた方の車はへこんでいるのに、キャデラックには擦り傷ひとつなかった。4人の女は車を降り、慣れた手つきでワックスをかけながら、そのことを念入りに確かめた。腰をかがめたり、しゃがんだりするたびに、白いビニール製のジャケットの下から、同じ素材のショーツが見えた。
「いっしょにドライブに行かないか。ぼくたちきっと、いい友達になれると思うんだ」と小説家は声を張り上げた。
式辞はどうすんだよ、そんなの君が代わりにやればいいじゃないか。駐車場の床はつるつる冷たくて、男の下腹は、だんだん変なふうになってきた。
「ドライブだなんて、けっきょくからだに触ろうとするんでしょう」とひとり目の女が言った。
「からだに触りながら、ながながとうんちくを垂れるでしょう」とふたり目の女が言った。
「それを小説に書くでしょう、都合のいいところだけ切り取って」と3人目の女が言った。
「まっぴらごめんだわ」
4人目の女が言うと、他の3人が声をそろえてきゃっと笑った。
男は、女たちの白い脚をながめた。小説家を背中にのせるくらいなら、あの白いブーツのかかとで踏まれてみたい。こめかみあたりをぎゅっとやられたら、おれもうどうにかなっちゃうかも。
あの日は、自分にとっても周りにとっても最後だった。
生きることに疲れたと言い、死んでいく人は大勢いる。
その世の中で、私も考えていた。
死と向かい合うことは、それなりの理由があり、深く切ないことだった。
「買い物に行ってくるね」と親に嘘をつき、ネットで知り合った人に会うと、
知らない場所で知らない人と会話をしながら死ぬ場所を探していた。
知らない場所も知らない人も恐かったはずだ。
だって、私は対人恐怖なんだもの。
何故か知らないが、死と向かい合うと不思議と前向きになれた。
その理由がわからない。
そんなにも死にたいのか、当時は死にたかった。
精神薬の大量服薬をして今流行の練炭を使った。
そして見つからない場所で私は相手と二人で死を待ったのだ。
楽しい話をしながら、今まで過去にあったいろんな出来事を語りあった。
そんな会話を続けてると、私は突然、死が恐くなった。
相手に申し訳ないと言った。
「ごめんなさい、恐くなってきて死ねない」と言うと、
「逃げてもいいから通報だけはしないで」と頼まれました。
そしてとにかく前を歩き林道を歩いて夜の中、迷いました。
どうしても出口が見つからないので、約束していたことをやぶって通報してしまいました。
相手は助かりませんでした。
借金があり仕事もなく、だから死を選んだ。
この方が亡くなった後、何も出来なくてごめんなさいと言いたいです。
救急車に運ばれて病院へ着くと、胃洗浄が待っていた。
それでも薬の副作用は残り4日は苦痛だった。
私は生きるを選んだ、命は一つしかないし、
死ぬことはいつでも出来る最終手段だと思い直しました。
あの時、死んでいたら、このサイトにお会いできなかったかもしれません。
ありがとうを言いたいです。
「なぁ、明里・・・。」
もう日がオレンジ色になり始めた頃もまだ渉と明里という少女は教室に残っていた。
「ん?」
明里は首をかしげた。
渉は明里を見たまま固まっている。
「何よぅ。」
明里は半分笑いながら言った。
「・・・なんでもない。」
渉は窓のほうに目をそらすとそう言った。
「変な渉。」
「明里っ。」
教室にその声が響いた。
「ふふっ。今度は何よぉ。」
明里はまた笑っている。
渉はもう1度明里の黒い大きな瞳をみつめた。
胸がドクンドクン言っている。
膝の上の拳を強く握りなおすと渉は口を開けた。
しかし声にならなかった。
「だから何ぃ??」
ほほが赤みをおびていく。
渉は悔しかった。自分に。
“愛してる”という5文字もいえない自分に。
渉はもう1度口を開けから中に力を入れて明里に今の思いを打ちあける。
「愛してる」
と。明里は一瞬驚いた顔を見せたがすぐに笑顔になった。
そしてこういった。
「うん。」
人が消え去った世界に、鴉たちは生きていた。
木々のない、すすけた廃墟にねぐらを作り、かつて栄えた文明のかすかな恩恵を受けながら、力なく空に伸びるコンクリートに爪を立て、鋭い目で世界を見下ろす。
数千羽の黒い鳥はただ鳴き、虚空を舞っていた。巣には卵がひしめき、ひいひい鳴く雛は満足な餌をもらうことができずに、飢えていた。
親鴉は雛の声を聞き、虚しく空を舞う。だが、餌は見つからない。舗装されたアスファルトに嘴を突き立てたところで、得られるのは痛みだけだった。だから、ひび割れたアスファルト道の隙間から、這い出る虫たちを待ちわびる。
鴉たちは、わずかな隙間に眼を光らせる。嘴で新たな隙間を作るものもいたが、効果は上がらなかった。なぜなら街中に棲む虫を見つけたとしても、鴉たちの飢えを満たすことはできないからだ。
空腹ゆえの絶叫が、ねじれたビル街にこだまする。
そして、ただ時が過ぎ、鴉は老いる。
老いた鴉は時を知り、重い空を見て覚悟する。
何度目かの黎明に、老いた鴉の群れは羽ばたき、街から飛び立つ。
灰色の空と、煤けた地表が作る曖昧な地平線は、老いた鴉に不安をあたえた。しかし、彼らは飛ぶのをやめず、むしろ、強く羽ばたいた。
荒れ果て、崩れ落ちた幹線道路に沿い、群れは長い旅をする。気の遠くなる旅。夜なお飛び続け、空の果てにむかってゆく。
数週間後、群れがたどりついたのは、別の街だった。
そこでも、鴉は群れをなしていた。老いた鴉が旅立った街と同じ光景。
若い鴉たちは、色褪せた黒羽を、神経質にむしり、血走った眼で、よそ者を眺めていた。老いた鴉の群れは街には入らず、少し手前で、羽を休めた。憔悴し、立つこともできずに、うずくまったままだった。
虚空を舞っていた一羽の若い鴉は、しばらく眺めていたが、やがて、老いた鴉の群れに降り立つと、血に飢えたクチバシで、うずくまる黒い肉をついばんだ。
野太い声が一度だけ、虚空に響いた。
それを皮切りに、街の鴉がいっせいに、群がった。
飢えに苦しむ鴉たちは、同族の身を食うしかなかった。そして、その役目を老いた鴉は引き受けた。
だが、ただ食われるには抵抗があった。だから、老いた鴉は自ら、抵抗する力をそぎ落とすため、幾千里はなれた街へ飛びたつのだった。
飢えた鴉たちは、ついばみながら、そのことを、やがて知る。
だから夜毎、鴉の群れは行き交っていた。
「何でこんな所に雑巾掛けてんの」
祖父がいつも座っていた店の一角の柱に、不自然に太い釘に掛けられた襤褸切れを見つけて僕は尋ねた。
もう40年もの間、商店街の片隅で細々と荒物屋を営んできた祖父だったが、駅前に巨大なデパートが建って3年、ついに店を畳んで叔父夫婦と同居する決心をした。孫の僕も、買物は車に妻と息子を乗せてそのデパートに行くことが多く、祖父の店では随分買っていない。
今日は、店の片づけを手伝う代わりに、売れ残りの品を分けてくれるという話だった。僕が子どもの頃から品揃えが変わらない古びた薄暗い店内で、春風を吸った埃から懐かしく切ない匂いがしていた。
「それか。雑巾じゃない。物の怪だ」
祖父はその襤褸を取ると、無造作に僕に向かって放った。つい避けてしまった僕の足元に、薄汚れた雑巾がぱさりと落ち――床すれすれでふわりと浮かんだ。雑巾はよたよたと柱に向かって飛び、元通り釘にぶら下がって止まった。
「へえ」
表面にうっすらと恨めしげな影が浮いている。布の汚れのように見えるが、これが顔なのだろうか。捲ってみると中は薄い灰色の靄がかかっていて、襤褸切れは嫌がるように身を揺すった。漫画に出てくる「オバケ」というのが一番近いだろうか。10年位前、屋根裏にこの釘で打ち付けてあったのを祖父が見つけたそうだ。
「こいつはお前にやる」
祖父は売り物だった釘抜きを使って錆びた五寸釘を柱から引っこ抜くと、釘ごとオバケを段ボールに放り込んだ。
そんなわけで僕は、埃を被った座敷箒や今時見かけなくなった四角い銀色の塵取りなんかと一緒に、オバケを貰って帰ることになった。軽自動車の助手席に乗せた段ボールの中で、オバケは夕日に鈍く光る塵取りと並んで黙って揺られていた。成程、釘に憑いていたのか。祖父の店を遠く離れても、オバケは段ボールから出ようとしなかった。
ガレージの奥にしつらえた納屋に段ボールを放り込むと、柱の節穴を見つけて釘を刺し、そこにオバケを掛けた。オバケは暫くもぞもぞしていたが、やがて馴染んだのか動きを止めた。
僕は納屋を出て、居間に置いた揺籠の前で居眠りしている妻の後ろから、息子の顔をそっと覗きこんだ。
揺籠の中で寝息を立てる息子は、怪異への憧れと畏れを失わずに成長してくれるだろうか。輝く無垢な瞳に見つめられ、その姿を取り戻したオバケが生き生きと家の暗がりや屋根裏を翔けるのを、僕は夢見ている。
瀟洒な喫茶店の軒下に設置されたささやかな屋外席の白い椅子に掛け、雨に煙る街を眺めるとも無く眺めている。傘。滲む信号。飛沫を上げるタイヤとクラクション。目を細めれば、雨滴がモノクロの風景に白い傷を引いていく様が観察できた。
相席の少女が紅茶を飲みながら、やっぱりクインズ・ホープは違うわと気取った風に呟く。生憎と私は紅茶の事を良く知らない。そればかりか目の前の少女の事すら知らないのにと考えたところで、私はなぜこんな所に居るのかという疑問に行き当たる。暫く考えても思い出せなかったので、学校の帰り道で雨を嫌った事にした。
「この雨は何日降り続いているのかしらね」と少女。
「判らないけど、この雨は景色にすっかり馴染んでいるね」と私。
「私、雨が好き。世界をオブラートに包んで、暈してくれるから」と少女。
「そうね。真っ直ぐに見つめるには、世界は少しばかり露骨過ぎるよね」と私。
軒の外で、すべての物が溶け始める。人も車もビル街も、長すぎる雨に耐えかねたように少しずつ輪郭を失っていく。確固たる世界が角砂糖のように溶けていく様を、私は格別の感慨も無く一瞥する。
「この雨は、きっと雑然とした物が嫌いなのね」と彼女。
「重い物と露骨な物も嫌いなんだと思う」と私。
「この雨が上がったら、どこか遠くへ出かけましょう」と彼女。
「うん、雨に洗われた濁りっ気の無い世界を、一緒に見て回ろう」と私。
排水管は狂ったように水を吐き出し、側溝からは汚水が沸きあがる。地面に溜まった雨はどんどん高さを増し、膝に迫ろうとしていた。どうすれば良いのかと周章しかけたが、相席の少女が落ち着いた様子を保っていたので、私もそれに倣った。
やがて喫茶店の両脇の建物が崩れ、滝のような水が流れ出す。大量の水は、融解して斜面を形成したアスファルトを、さながら流水階段のようにどこまでも下っていく。沢山の物が流れ去り、沢山の物が失われていく中で、少女は学校指定の鞄から煙草を取り出し、慣れた様子で火をつける。
「もっとしんみりしちゃうかと思った。犠牲は何も語らないのね」と彼女。
「なかなか気の利いた台詞だけど、それより先に、新しい世界にようこそって言ってよ」と私。
私も鞄の中から煙草を出し、顔を近づけて火を移して貰った。キスのメタファみたいと笑いながら、今更ながらやってきたウェイターにクインズ・ホープを注文する。もう少しの間、雨は降り続くのだろう。
安いよ安いよ奥さん寄ってらっしゃい見てらっしゃいええ何が安いって今日は葱が安い葱だよ葱新鮮な葱一本たった百円だよ今朝取ってきた泥つき葱がたったの百円だよ買わなきゃ損損ほらほら奥さんぼぅっとしてないで買って行きなさいなそうしなさいなええっ向かいのスーパーの方が安いってあんなマガイもんに騙されてはいけませんよぅえぇえぇうちの葱とは生まれが違うもの生まれよ生まれ故郷が全然違うのよそんなどこから引っこ抜いてきたかわからん葱買うくらいならうちの葱にしておきなさいよえぇえぇ悪いことは言わないよ奥さん奥さんビジンの奥さん買ってくださいよぅああな何ですその目はその眼はやり出せ角出せ目玉出せぇんじゃ今日は特別サービスの大安売りだもう一本葱つけちゃおっ特別サービスだよぅ葱二本で百円これはお買い得だよ出血大サービスだもう体中の血液みぃんな出してぎゅぅと絞っても絞りきれないくらいカラカラからっケツだもってけ泥棒泥つき葱から棒えぇえぇ何言ってるかわからないってあああ行かないで奥さん買っててよぅ私も生活かかっているんですほらほらヒト助けの介あしなが育英会に寄付すると思ってさ今晩のオカズに葱をちちって炒めてほくほくご飯の上にのっけて痛い痛いえぇえぇ離せって言っても離しません一旦私の店先に顔を出した美人奥さん離すモンですか買ってくれるまではこの腕を最低気温二度の中二度とは決して離しませぬけけ警察呼べるものなら呼んであらあらら携帯取り出して何やってるんですかあわわわそんな金切り声を出してはききき近所の人がたくさん集まってきますああいえいえ白昼堂々強姦しているわけではありませんてお客さんえぇえぇねねねね葱の大安売りでしてはいはいはい皆さん寄ってらっしゃい見てらっしゃい安いよ安いよ何が安いって人参が安い人参だよ人参新鮮な人参一本たった百円だよ今朝取ってきた泥つき人参がたったの百円だよ買わなきゃ損損ほらほら奥さん
灰色の空の下銀の氷上に帆を掛けた何艘もの小型のそりが滑っていく。ゴールの目印に置かれたマフラーを蹴散らして、チナツが一位でゴールインした。二位につけたケンがチナツの肩を抱き寄せて負けを認めた。
「十年早いわよ、ケン」
「これからモールに行こうよ。地球フルーツを奢るよ」
「用事があるから」
「じゃあ、送るよ」
「いいえ……トモヤ、マフラー見せて!」
少し離れて立っていた小柄な少年が足を引きずりながら近付いた。彼は一人だけゴールで待っていたのだ。目印に置いた彼のマフラーは端が少し切れていた。
「ごめん、よけ損ねた。すぐ直すわ。うちに来て」
チナツとトモヤは同じそりに乗り込んだ。少年たちのひとりが口笛を吹いた。
煙突状に突き出たハッチから地下の居住区に入ると、チナツの母がトモヤを強く抱きしめて叫んだ。
「さあ、今日は本物のロースハムを解凍するよ!」
「いいよおばさん。もうすぐチナツの誕生日だから、その時まで待とうよ」
「お黙り!」
チナツが小声で耳打ちした。
「お願い、遠慮はやめて」
吹雪で倉庫に数十人が閉じ込められた時、トモヤが命懸けで救援を呼びに行って全員が助かった。その中にはチナツの父親もいた。トモヤはその時足を痛めた。
食事までビデオを見ようとチナツが言った。チナツはトモヤをソファの右側に座らせ、右側にある太陽灯をつけて、自分は左横に座った。上着を脱いで肘まで露になったチナツの手が肩に触れてトモヤはどきりとした。ビデオは地球のオリンピックの映像だった。
「フィギュアスケート。地球では、わざと部屋を寒くして氷を張るのよ」
この星は希少金属が発見されて一時は植民が急増したが、地球で代替品が発明され、途端に寂れてしまった。一年中曇空で凍りついているここには、もう誰も来ない。
「私、オリンピックに出るわ。そうすれば地球に行けるもの」
夕食後、チナツはフィギュアのステップを見せると言ってトモヤを外に連れ出した。氷の上で幾度も舞った。やがて二人は並んで座って、夕闇が迫る中、チナツは地球の話をし続けた。青い空、夏の海、地球はとても美しい星だそうだ。
ふとチナツが黙り込んだ。トモヤが横顔を窺うと、チナツはうっとりと空を見上げていた。この星ではたまにあることだが、弱い雷が夜空にスパークして幾層にも広がり金や銀にきらきらと点滅していた。光の饗宴がチナツの白い頬に映えるのを、トモヤはいつまでも見つめていた。
「日和見かい」と彼が聞くので、そうですよと僕は笑いかけました。窓の外は随分と日が照っていて、空気がとても気持ち良さそうでした。僕はいつもこんな風に窓辺で外の景色を見ているのですが、最近は彼がやけに話しかけてくるので 少々やりにくい。
「そこに 雨を降らせてやろうか」
彼は、大きな水色のじょうろを僕に見えるように掲げました。だぷん と音がして、とても嫌な予感が。
「うわっ、何をするんですか」
「雨は楽しい雰囲気だよねえ」
僕の抗議など意に介さぬ様子で、彼はにこにこと笑いながら じょうろの水をふりかけ始めます。そりゃあもう 楽しそうに。けれどおかげで僕の身体はびしょぬれ。そんな必要もないのに、どうしてくれるんでしょうか。
一通り水を掛け終わると、彼はまだだいぶ水の残っているじょうろを下げました。いつの間にか、窓の外は濃い藍によどんでいました。雲がじんわりと陰り、すぐ下の並木道に落ちていた陽も もうありません。
「実に寂しい光景ですね」
ずぶ濡れの僕は水滴もそのままに、そうつぶやきました。彼はじょうろの中に手を突っ込んで、水をすくっては飲んでいました。
「その、寂しい光景ってぇのには」口を拭きつつ。「僕も入っているのかい」
「入らぬ訳がありましょうか」
「いや、ない」
濡れた指が窓から漏れたわずかな光に燐光のような輝きを放っていたのですけれど、彼は僕が何か言う前に 残らずなめ取ってしまいました。
「それにしても寂しいね」
じょうろを片手で持って残りの水を自分の顔にさらさらと流しながら 彼はつぶやきました。だらだらと流れる水は小さな川のようになって、部屋のすみずみまで流れてゆきます。もしかしたら、このまま川は海になってしまうのかもしれません。
「寂しいですか」
僕がぶしつけにそう聞きますと、彼はにやりと笑いました。じょうろの先からは、もうわずかな水しか垂れていませんでした。
「寂しいねえ。……ああ、そら、寂しさがまたやって来るよ」
水が完全に流れ落ちたと思った時に、今まで閉めきりだったドアが遠慮がちに開きました。暗い顔をした女の人でした。彼はじょうろをからんと落として、彼女の方を向きました。随分と陰鬱な沈黙が続きました。先に口を開いたのは、彼女の方でした。
「あなた、サボテンと話すのは楽しいの」
「楽しいよ」
彼の言葉に彼女はたいそう苦痛な表情を浮かべましたけれど、僕にはその意味はわかりません。
―あるところにいつもさびしそうなちいさいうしがおりました。てんきのよいひでも、こやのなかでうずくまり、めをとじていました。
きれいなおつきさまのでてるよる、こおろぎがきれいなこえでなきました。
「なんてきれいなおつきさまだ」
とってもたのしそうです。
こおろぎがうたいながらくさのなかではねておりますと、ちいさなこやのなかにちいさなうしがおりました。
「うしさんうしさん、どうしてそんなにさびしそうにしてるんだい?こんなにつきがきれいなのに!」
するとうしがいいました。
「ぼくはひとりぼっちなんだ。さびしくてさびしくてしかたがないんだ」
こおろぎはうしがとてもかなしげにいうのをきいて、いいことをおもいつきました。
「あしたのよる、もういちどくるからたのしみにしていてよ!」
つぎのひのよる、こおろぎはやくそくどおりやってきました。ちょうねくたいをしめています。
「うしさん、みていてね」
こおろぎがあいずのようにうたいだすと、くさむらからつぎつぎにたくさんのこおろぎがはねて、いっせいにうたいだしました。すてきなおんがくかいのはじまりです。おどりだしたくなるほどたのしいがっそうでした。うしもしっぽをふりまえあしをならしとてもたのしいきもちになりました。
「こおろぎさんありがとう。ぼくもうさびしくないよ」
こうしてうしはそれからたのしくくらしました。―
姉は小さい頃から沢山の物語を書いていた。この話は5歳の時に書いたものだ。幼稚園で作ったのか、よくできましたのスタンプが押してある。
姉の物語はどれも優しく楽しく、ひどい事悲しい事は一つも無い。姉自身もまた優しく、困っている人を放っておけない。姉は人の悲しみの淵でそれを覗き込むのではなく、その悲しみまで降りていってしまう人だった。
窓際に姉が座っている。春の光がその輪郭をなぞっている。産毛がきらきらと光り、髪が静かな風に揺れている。空ろな瞳で虚ろな青空を見上げて。
姉は突然物語を書くことをやめた。そして世の中の全てに対して蓋をしたように、黙って空を見上げ続ける人となった。どんなことが彼女に起こり、なぜそうなってしまったのか、私には分かりえない。
姉の幼い字を指でたどる。このお話の中で一番優しかったのは、心配してくれたこおろぎではなく、相手の気持ちを100%受け取ってこれからは頑張れると言った牛かもしれない。それが即ち、姉の苦しみだったのだろうか。
幼い兄弟たちは、もうずいぶん長いあいだ歩きつづけておりました。今日の朝のこと、折りからの吹雪の中を彼らは両親と逸れてしまったのです。世界のすべてを白く覆い尽くして荒れ狂う雪と風の乱舞が、いつ果てるとも知らず続き、冬の短い日はすでに暮れようとしていました。
兄弟たちは、昨夜からなにも口にしていなかったのです。最初、激しい空腹が幼い彼らを苦しめました。しかし今はもう、それすらも感じることがありません。すでに兄弟らの意識は夢のように遠いところを漂っているのです。それでもなお彼らは幽鬼のようにひたすら前へ前へと歩き続けるのでした。おそらくそうして彼らを前へ進ませているのは、互いの生を願う強い気持ちのみだったでしょう。
しかし、ついに力尽きた弟の方が、深い雪の中に倒れこんだまま動かなくなったのです。やがて兄もまた、弟をかばうように静かに自分の身体を横たえました。
もはやこれまでか……
幼い兄弟たちのイノチは、冷厳な純白の世界にひっそりと飲み込まれたかに思われました。
そのときです。微かに開いた兄の眼が、白一色の視界の中に動く黒い影を捉えたのです。一瞬幻かと思えたそれでしたが、吹き狂う吹雪の合間に見え隠れする影は次第にはっきりした形を現してきました。それは、冬の獲物を狙うため重装備に身を固めた猟師の姿でした。
「弟よ、我らは助かりし」
弟はその声を聞き、最後の力を振り絞って立ちあがります。そうして兄弟は、よろめきながら一歩一歩猟師に近づいていくのでした。
十分に猟師に近づいた兄は、その背中をめがけ、強靭な腕を一振りしました。それだけでよかったのです。猟師は声をあげることもありませんでした。
ほどなくして腹も朽ち、元気を取り戻した兄弟たちは、大地を揺るがす力いっぱいの咆哮を上げました。するとそれに答えて、山の向こうから微かな咆哮が聞こえてきます。母親の声でした。
兄弟たちは歓喜の声を上げると、降り積もった雪を蹴散らし、ものすごい勢いで駆け出しました。母の声に、そして自らの生に向かって。ついに彼らは恐るべき死を乗り越えるに至ったのです。
私がジュリアと出会ったのは、五年前の夕暮れ時だった。
ジュリアは夕立の中で泣いていた。私は一目で彼女が迷い子だということがわかった。迷い子の泣き顔と言うものは、仕事上一目でわかるものだ。
私はいつも通り彼女に近寄った。
「おじょーさん、どうしたのかな?」
私は彼女がすぐに泣き止むだろうと思っていた。
私はいつもの営業スマイルを浮かべていたし、飴玉とクッキーも持っていたのだから。
しかし、私の意に反して彼女は私を拒んだ。それどころかさらに激しく泣き出したのだった。
「おじさん、変なニオイがする!」
私はドキッとして、思わず胸を押さえた。魔王という仕事をしていて、一度だってそういうような、そう、負のニュアンスを含む言葉の類を子供から向けられたことは無かったのだから。
彼女は駆け出そうとして足元をさぐった。
―――ジュリアは目が見えないのだ。
そのしぐさで私は悟った。
だから彼女は嗅覚が優れていて、と言うよりは、むしろ霊的なものを含んでいたのかもしれないが、“何か”を嗅ぎ分けることが出来たのだろうと思った。
そんなことを考えていると、ジュリアは振り返って言った。
「おじさん何するヒトなの?悪い人?」
私はそれを聞いて判らなくなった。
馬鹿馬鹿しいがその一言でだ。
自分は迷い子達をユートピアに連れて行き、次の迷い子達を連れて来るための資金を貰う。
それがいいことなのか悪いことなのか判らなくなったのだった。
「いいや、君をお家に帰すために来たヒトだよ。」
魔王失格だとは思ったが、私はなぜかそう口走っていた。
そういうとジュリアは、「ホント?」と言ってにっこり笑った。
私はジュリアを家に連れて返すことにした。
この子をユートピアに連れて行ってはいけない気がしたのだ。
ジュリアの街は案外すぐに見つかった。烏のチールが教えてくれたのだった。
ジュリアの街の張り紙で自分の顔を見つけた。
私は泣き出しそうになっていたのだと思う。
自分の仕事が“幼児誘拐”と言う罪になると知ってしまったのだから。ジュリアは私に飴玉をくれた。
ものすごく甘く感じた。
それからジュリアを無言で彼女の家の門まで送った。
ジュリアは彼女の母に「神様が送ってくれたの」とだけ言った。
ジュリアの母の様子から彼女は捨て子ではなかったということを悟った。
足早にその場を去りながら魔王退職を宣言した。
―――空に向かって。
「ジュリアは大きくなったろうか?」
暗闇に独り呟くときがある。
学校は名を変えた刑務所に違いありません。私が小学校五年生の時です。学校で肉マン大食い大会が行われました。開会の理由は、校長先生が賞味期限まぎわの肉マンを友人から大量に安価で購入して、その処理に困ったため。それが校内でまことしやかに囁かれていた噂でした。
肉マン大会は授業終了後の、帰りの会の時間に実施されました。各教室に四台もの卓上コンロとせいろが準備され、一斉に肉マンを蒸かすのです。四台のせいろから勢いよく噴き出される蒸気と臭気はあれよと教室全体に行き渡り、充満し、まさしく筆舌に尽くしがたく、まず、私はこれに我慢が利きません。むっ、と鼻腔の奥の粘膜を強く鋭く刺激する食べ物独特の臭気。教室の窓はおろか、眼鏡のご学友たちのレンズをたやすく曇らせる大量の蒸気。私がそれらに包まれる時、きっと刑台の十三階段を昇る直前の気持ちと相違ないのです。
しかし男子の一部にとっては、この肉マン大会は好評でした。彼らが肉マンを頬張る時、瞳は授業中には見せたことのないほどにきらきらと輝きだすのです。失礼ですが、ご自宅で満足な食事を摂らせていただけないのでしょう。
一方、女子には不評でした。私たちはもうすでに美容のことを気にかける年齢に達していたのですから、胃を肉マンで満たすなど、暴挙以外のなにものでもなかったのです。しかし、男子は肉マンを食べた数の少ない女子を「上品ぶってる」と虐待しました。私はただそれだけが怖くて、恐ろしくて、毎日二ヶは押し込みました。なるべく味覚しないようあまり噛まないで飲み下そうとするものですから、肉マンの分厚い、ふかふかの生地が咽喉に詰まります。それを口から吐き出すわけにもいかず、嚥下しようにも叶わず、いつしか、われ知らずうっすらと瞳に涙が浮かんできます。わたしはその涙をこぼすまいと、顔をあげました。すると、教室の蛍光灯の白光が、ぼんやり滲んで見えるのです。
ところで、私は椎茸が苦手でした。肉マンに混入しているあの黒紫は細かくカットされているから、と努力してまいったわけですが、しかしある日とうとう、大会終了後に気分が悪くなってトイレで吐いてしまいました。私がその旨を担任教師に訴えると、先生はほほ笑んでこう仰るのです。「肉マン大会は今日で終わりです。明日からはピザマン大会なのですよ」と。私はこみあげる喜びを隠せず、思わず腰元で小さくガッツポーズを決めておりました。
徐々に悪化する腹痛を訴えて患者が来る。32才の未婚女性。触診で腹部に硬い部分を触れる。画像診断の結果腫瘍が見つかる。おそらく悪性腫瘍に違いない。
「悪いものかもしれないから早めに手術した方がいいですよ」と説明した。
「そうですか。ではお願いします。先生の手術はとても上手だと聞いていますので安心してお任せできます」
「ええ、任せて下さい」
患者は意外なほど落ち着いた様子で手術の承諾をした。未婚のせいか年齢の割にあどけなさの残る顔。ふと、昔診た患者のことが頭をよぎる。あれは駆け出しの外科医の頃。若年者に稀に発生する腹部の悪性腫瘍だった。苦い記憶。過ぎたことだ。そう思っても心のどこかにしこりが残っているのを感じる。だが今や私はこの分野では権威と言われるまでになった。立場も技術も昔とは違うのだ。
そして予定通り手術がはじまる。やはり周囲の組織と強固に癒着した悪性腫瘍だった。だがエキスパートである私には困難な手術ではない。慎重に剥離をすすめる。しかしそのとき予期せぬ大出血が起きる。昔の手術の記憶がまたよみがえる。あのときパニックになってしまったこと。普通ではあり得ない場所に珍しい血管の奇形があり、そこからの出血であった。しかしそのことに気づくのが遅れたせいで少女の死を早めたのは間違いない。同じ過ちはすまい。心を落ち着かせ、動揺するスタッフに指示を出す。どこからの出血か。分からない。もしやと探ると、果たして、昔の少女と同じ血管の奇形があり、そこからの出血であった。そんなばかな。確率的にこんな偶然はあり得ない。とにかくその部位を迅速に縫合する。間一髪で出血は止まり、バイタルサインも正常範囲に復帰した。そして無事に腫瘍を摘出し手術が終了する。
よかった。スタッフたちも安堵の表情を浮かべている。患者の様態は、と見ると、まだ麻酔から覚めるはずがないその患者は、しっかりと目を開け、語りかけてきた。
「ありがとう先生。今度は助けてくれたのね……」
そうか、あれは20年前。少女が生きていれば丁度この女性の年齢になっていたことだろう。この人はあの少女なのか。そう気づいたとき、私と患者の様子を驚いて見ていたスタッフたちの姿が消え、いつの間にか少女の姿にもどった患者も、微笑みながら消えていった。
日が沈めばお別れで、瞬きするたび男は透けてゆく。
何時の間にできたか知れない骨董屋で手に入れた小壜。琥珀色の液体を飲み下せば、黄昏から日没までのあいだ幻に酔えるという触れ込み。
女は、消え去った男が瞼の裏に写し取れたかと目を閉じた。だが何も残っていない。
こうして女の骨董屋通いが始まる。小壜一つで効果は一回きり。来る日も来る日も高値の小壜を購入する。骨董屋に同じ品物が大量にあるとは奇妙。が、既に女は気を回す余裕さえ失っている。
ある日の女の幻に、男の他に一人の女が映る。何やら仲睦まじい様子。女は叫ぶ。こんな幻を見たいのじゃない!
骨董屋に文句を言う。金を返せと脅しつける。困った骨董屋、堪らんとばかり溜息をついてこう言った。
「望みは叶えてやったのだ。さあ地獄へ参ろうか」
立ち尽くす女。途端に体が浮いた。目を見張れば遥か上空。どういう事だと詰め寄る女。骨董屋改め死神はこう答えた。
「お前が見たのはそうなるはずだった幻。お前は己の息子の命を奪ったではないか」
一気に甦った両手の感触。小枝のような首を押さえつけた冷たい激情。
女の両手がボロッと落ちた。
「地獄で悪さが出来んようにな」
死神が遠ざかる。落ちていた。
落ちる……落ちる……落
覚めて開いた目に、わたしの人差し指を掴む小さな手が映った。反射的にその手を外そうとして、外せなかった事にはっとさせられた。寝つかせてから、ベビーベッド越しに陽助を見つめて考えていた事を思い出したからだ。
今まで見ていた夢の内容を、断片的ではあるけれどまだ憶えている。陽助がわたしを死神から救ったのか、それとも、陽助がわたしを窘めようと見せた夢なのか。そのどちらであっても、「おれには生きる権利がある」と叱られたのだと思った。その時陽助が、何か恐ろしい、大きなものに見えた。わたしがいないと生きていけないはずのこの子が持つエネルギーは何だろう。
込み上げて来たのでこのまま泣いてしまおうとしたら、突然明かりが落ちた。
……。
何も音がしない。停電だと騒ぐ相手もいない。そうか。感傷は助けてくれないんだ。改めて見た陽助は、わたしがいないと生きていけない、守ってやらねばならない赤ん坊だった。
馬鹿野郎。わたしが踏ん張らないでどうするんだ。
その時、陽助の小さな手が、わたしの手を押し出すようにして、解かれた。
私の目の前には泣き続ける少年が一人。少年の小さな手のひらには一羽の小鳥が音も無く眠っていた。
「君、ちょっと見せてくれる?」
少年は泣いている顔をこちらに向け、小さな手の中の小さな命を私に預けた。私はそっと目を閉じる。私の手の中の小さな命に出来る限りの私の命を注ぐ。
「わー、シロが動いた! お姉さん、ありがとう!」
そう言って少年は嬉しそう帰って行った。私は、その後姿をいつまでも見続けていた。だんだんと私の意識もぼんやりとしてきた。この力を手に入れたときから私は思う。私は偽善者なのかもしれない。こうなる事も分かっていた。偽善者として生まれ、人の悲しむ姿を見たくないとう理由で、この作業を繰り返してきた私の命が今消えようとしている。
『これで良かったんだ』
『この世界に幸せを』
「アッ、雨だ」
見上げた顔に、大粒の滴が落ちてくる。
こんなときにかぎってまったく……
彼女は、空を見上たまま舌打ちした。
最近の天気予報は当てにならない。
とはいえこのままでは風邪を引いてしまう。
素早く周りを見回す彼女の目に、無人駅が止まった。
取りあえずあの無人駅で雨宿り。
彼女は猛然と二百メートルダッシュを開始した。
「あ〜あ、濡れちゃった」
今日は一日ついてない。
朝は寝坊して遅刻しそうになるし、テストの点は最悪だし、極めつけはあのセンパイに彼女がいたなんて……思い出しただけで、腹立たしいやら落ち込むやらである。
「今日は最悪だわ」
つい愚痴が口に出る。
「そうでもないよ」
不意に後ろから男の声が聞こえてくる。
えっ、誰?。
思わず振り返ると、見知らぬ男が微笑みながら立っていた。
男は、彼女の戸惑ったような視線を受けながら話しかけてくる。
「だって朝寝坊は、それだけゆっくり身体を休ませたと言うことだし、テストの方は早めに問題点が分かったのだから、これからゆっくり対処すればいいし、先輩の方は……これで趣味が分かったのだから、これからの努力次第と言うことで。ねっ、こう考えるとそんなに悪いことでもないだろ?」
そうかな? 何となく誤魔化されているような気が……ってゆーか何、この人。初対面なのにいきなりこんなこと言うか?
彼女の疑念に満ちた視線を受けて、男はあわてて言葉を継ぎ足す。
「そんなこと無いって。それよりほら、綺麗な虹が出てるよ。」
男の指さす方向には、鮮やかな虹がアーチを描いていた。
あっ、ホントだ! そういえば私、小さい時は、雨上がりの虹を見るのが好きだったな。 いつから空を見なくなったんだろう。
ともあれ久しぶりに虹を見た御陰で、なんだか少しだけ楽になった気がする。彼女は感謝の言葉を伝えるために振り返った。
「ねえ、」ってあれ――消えた。
慌てて辺りを見回すと、反対側の出口から去っていく男の後ろ姿が見えた。
それにしてもどうしてあの人に私の考えていることが分かったのだろう?
その疑問を胸に、彼女は帰途についた
FIN
「キーッ、キキーッ」
和服を洋服にリホームしていた。完成間近に発し始めた音。金属同士が引っ掻き合うような音は、ミシンの内部から聞こえる。ゆっくり動かせば鳴らなかったものが、だんだん、すぐに激しい音をさせた。三十年前に買った職業用のミシン。その頃、既製服の見本を縫っていた。元来洋裁は好きだった。しっかりした勉強をしたわけではないが、発注元のデザイナーには注意をもらうほどではなかった。それに、着ることが好きだから、趣味と実益の兼ねた内職で、楽しみながら八年続けた。辞める二年前に買い替えたミシンだ。
修理屋はミシンを見て言った。
「今、この種のものは製造していないですよ。大事に使えば、三代は使えるものですよ」
修理屋は見積もった金額を言うと、台からミシンを外して持ち帰った。
「いやー、音の方がねぇ」ミシンの修理屋はそこまで言うと、ミシンを台に取り付けた。
「目飛びはバッチシ直しましたけど。音は。一応は見たんですよ。ひとつひとつ分解していけば悪いところに行き着くのでしょうが」
修理屋は、布を用意して電源をいれた。スタートボタンを押す。間をおかずに、凄まじい金属音。慌てて止める。
「長年、この仕事をしてきて、大抵のことは直してきましたけど。今回は何処がどう悪いのかさっぱり分からないですね。申し訳ない」
粗大ゴミとなった職業用のミシン。翌日。
「テレビ、冷蔵庫、パソコン、卓上ミシンなど、大型廃棄物をお引き取り致します」
走って玄関を出た。軽トラックの前に飛び出した。リサイクル屋が言った。
「卓上ミシンじゃないですものね。お引き取りは出来ません」
眠るのが一番いい。そう思った。こんな馬鹿みたいに当たり前に来た休日なんて蹴散らす勢いで寝過ごしてやろう。そんな気持ちだったのだ。どうせここで起きたところで暇を持て余すだろうことは解っていたので、少しばかり自分に反抗してやりたい気分で布団を被った。
暫く大人しくそのままでいたが、いきなり鳴った着信に飛び起きた。まるで私が実は寝ていないのを知っているように、その音は無視しても鳴り続けた。
「…もしもし。」
しぶしぶ取ると、向こうからはただただザー…という軽いノイズのような音が聞こえてくるだけだった。そして少し聞いていると、どうやらそれがノイズなどではないことが解った。
「…いい加減にしなさいよ、明。」
「バレた?」
こんな電話をかけてくる人間は、今まで出逢ってきた中でも一人しかいない。こっちがイタズラ電話と勘違いして切ったらどうするのかというような馬鹿らしい電話ばかりかけてくる。しかも彼はメルアドは聞かずにいつも番号だけ聞いてくる。うっとうしいったらない。友達にそう言った時、その割には楽しそうだと茶化された覚えがあるが、冗談じゃない、と私は思った。
「今さあ、海にいるんだ。」
ああコイツ本当に馬鹿だ。今の時間にいるということは、相当早い時間から行っているということなのに。こんな寒い時期に。どうして私はこんな非常識人間に振り回されているのだろう。いや、非常識だから振り回されるのか。そんなことを考えていると、明はまたふざけたことを言い出した。
「今から来れねえ?」
そんな言葉に、「バーカ。」と言ってさっさと携帯を電源まで切りながら、おもむろに身体を起こす自分が信じられない。そして彼はきっと私が勝手に切った後も、呆然と待っているのだろう。それが解っているからこそ、私は勝手に切ってから出向くのだ。彼はそれからもう掛けてこない。私が携帯を切ることが待ち合わせの合図と化していて、どちらかが来るまでそのプツッという音は言葉のように頭の中で繰り返される。
また睡眠不足になったらどうしてくれんのよバーカ、と毒づいてから、私はそのまま財布一つジャケットのポケットに突っ込んでドアを開けた。
ちっとも慣れることのないパンプスを履いてとぼとぼと歩いていると、急に小雨が降ってきた。今いるところはバス停の近くで、見ると隣にバスがいる。私は少し考えて、結局乗り込むことにした。この道は常に渋滞しているので、このバス、いつたどり着くのか分かったものじゃないけれど。
整理券を取りステップを上る。すると突然、女の人から呼び止められた。
「ねえ、こちらに座って下さらない?」
運転席の後ろの席で、上品な雰囲気の人が手招きしている。他には客は乗っていなかった。何となく言われるがまま、私は彼女の横に座った。
「就職活動をされているのかしら。最近は大変でしょう?」
きっとこの紺のスーツがどこか不自然なのだろう、私を観察しながら『奥様』が言う。その一言がきっかけとなり、今日の面接のシーンがフラッシュバックする。私はそれを振り払い、とりあえず、
「そうですね」
とだけ答えてみた。そして続く言葉を必死で探したが、でも考えてみるとこれは面接でも何でもない。
「女ってだけで差別されたりしていない? 今は平等な社会で女も男と同じように働けるのよ」
奥様はそう言って、
「だったかしら、あなた」
と呼びかけ口調で語った。あなたと呼ばれる筋合いはないはずだが……。
「このバスの運転手、うちの主人なの。今日は定年退職前の最後の運転だから、記念に乗り込んだってわけ」
運転中みだりに話しかけてはいけないと書いてありますよ、奥様。混乱する私をよそに、なおも続ける。
「主人、ずっと組合の活動をしていますの」
話しかけられても答えてはいけない規則になっているようで、運転手はひたすら無言だった。
バスがのろのろと進んでいる間、会話は続いた。奥様は丁寧に私から聞き出した。いや、むしろ私自身が欲していた、誰かに掬い取ってもらいたかったのだ。自分で大学を選び、仕送りをしてもらって通っているということ。やりたい仕事。それからそもそも働くということ。
一通り話を聞くと奥様は、
「ご両親には連絡しているのかしら? 多分喜んで相談に乗ってくれると思うわ」
と言い、
「うちは夫婦二人だから分からないけれど」
と付け加えた。私の頭にある想像が浮かんだ――奥様は微笑みを絶やさなかったが。
ようやくバスが営業所へと到着した。花束を持った職員が近寄ってくる。奥様が一緒に写真を撮ろうと言う。
いつの間にか青空になっている。私は窓からそれをしばし眺めた。
佐伯一郎はもてない男。ある夜娼婦を買う。出てきた婆さんは眼光鋭く「私を替えると後悔するぞ」と言う。その日の占いに「アドバイスに従え」とあったから一郎は夜の十一時から明け方の五時半まで奉仕し通し、やり通しだった。身体の髄まで吸われた。これから女に不自由しないぞと言われて解放された。半信半疑の一郎は仕事場へ。職場は駅前の花屋。よく店で花を買う女に一郎は惹かれていた。その日はすらすらとお薦めの花をアドバイスできた。女はレジで携帯電話の番号を渡す。女は彩子と言った。待ち合わせの喫茶店に行くと彩子は涙ぐんでいた。話を聴くとかかりつけの精神科医に捨てられそうなのだと言う。内心落胆するが、プレゼントの花束を見立ててあげる。その医者は花が好きなのだと言う。通院のたびに医者が気に入りそうな花を選んでいたのだ。しかし、彩子は毎回毎回涙ぐんで相談を持ちかける。そして、一月の真冬、スノードロップを見つけてくれとせがむ。それはは早春に咲くヒガンバナ科の白い花。まだ出回っていない。それでも暖かい場所に行けばあるかもしれないと一郎は東京の花屋からどんどん南下し探した。全く見つからずこれで最後と入った四国の花屋でスノードロップを求めると、「ある」との声。声の主は婆さんだった。驚く一郎に持って急げと婆さんは言う。一郎は鉢を抱えてその病院に向かう。病院はもぬけの殻。診察室に散乱するカルテなかに彩子のカルテが。そこには「幼児期の虐待による妄想狂。現在の職業は娼婦」とあった。部屋に戻ると無性に女を抱きたくなった一郎は娼婦を呼ぶ。一瞬婆さんが来るような気がした。が、やってきたのは彩子だった。一郎は彩子を抱きすくめる。まるで欲望が湧かない一郎。彩子は不思議がる。彩子の視線の先にはスノードロップが目立たなくも誇らしげに咲いている。彩子は一郎にキスをした。一郎に婆さんの言葉がよぎった。
雑然とした空気が式場係りの一言で静められ、代わりにオルガンの音色が部屋を満たした。ほどなくして、高さ三メートル程もあろうかと見える大扉が、内側へと開かれ、音楽を二つところに分かち、その合間を入場してきた花嫁と花婿が赤い絨毯の導く先にまで、ゆるゆると進んでゆく。
「これは人前式です」やがて一段高い所へ新郎新婦が並び立つと、係りの女はにこやかな表情の下にいくぶんか諭すような調子を交えて話した。「ですので、場内にいらっしゃる皆様、お一人様お一人様が、新郎新婦お二方のご結婚の証人となられます。お手元にお渡しいたしましたベルを」そう言って女はいったん口を閉じ、天辺にコスモスの造花をくっ付けた掌に収まるサイズのベルを取り上げて、再び続けた。「私の合図いたします後に、お二人のこのご結婚の承認と祝福の意味を込めまして、皆様ご一緒に鳴らして頂きたく存じます」それから、さあこのように、と言わんばかりに、チリンと一度それを鳴らしてみせた。
「そしてそれまではどうぞ、ベルをお鳴らしになりませぬように」そこまで言い終えると、女はにこりと笑った。と、その直後に、最前列にいた小さな子供が「チリン」と鳴らしたので、場内は一時の笑いに包まれた。
一方、前に立つ二人は緊張からか、借りてきた人形のようにぎこちなかった。「わたしたちは、誓います」始まってみれば賛美歌もコリント人への手紙もない簡素な式であった。誓いなど、これから二人は2LDKのアパートで二人して暮らすのだ。その事実だけで十分すぎるほどじゃないか。
チリンチリン。
「寒い季節に結婚式はこたえるな」式の終わった後で、友人の一人がこう言った。
「まあボーナスがそれなりに出たことだけが救いだよ」また一人が言った。
「仕方ないさ、急に決めてしまったんだもの」そう僕は言った。「善は急げってね」そうして彼らがまた何か言いかける前に、チャペルの外へ出た。
おそらく一週間も経った頃、受取人不明の手紙が一通、僕の元へと舞い戻ってくる。冬枯れの寒い庭に立つポストから、僕はどんな顔をしてその封を受け取るのだろう? 表にはもう使われることの無い、古い名前が記されている。
「あ、オレオレ。イラクに旅行に行ったらさぁ、アルカイダに捕まっちゃって。で、身代金払わないと殺すって言うんだよ。俺、まだ、死にたくないから、何とかしてくれねーか? あ、アルカイダの人と代わるわ」
「アラーの神の思し召しです。身代金を払わないと、彼の身の安全は保障はできません。身代金500万円を……。え? 円じゃない?」
「当たり前だろ、馬鹿!」
「じゃ、単位は何よ?」
「う……。イラクの単位ったら、えーと。イラクの単位、単位……。あ、ガロンじゃね?」
「あ、なるほど、聞いた事あるある。ああ、ゴホン。身代金500万ガロンを用意して下さい。振込先の銀行は後でまた、連絡します。後、警察に、あ、いや、えーと、FBIに通報しても、彼の身の安全は保障できません。アラーの神の思し召しです」
ガチャ。
「メッセージは以上です」
この花をみていると泣きそうになるんだ、と口にだして、男は後悔した。
「泣きそうになるんだ?」
つれの女は背筋を震わせる真似をして言った。
「嬉しくて涙がでるんだよ」
男はまた後悔した。女は泣きまねをして笑った。二人はカフェテラスでハクモクレンをみている。
「葉がないだろ、この花」
「ほんとだ。花が咲いてなかったら、枝みたいね」
「それがさ、春がやってくるとこのシャンデリアみたいな花でいっぱいになるんだよ」
「桜は?」
「この花が散ったあと。つまりハクモクレンが春の花を起こすんだ」
二人は空を見上げた。かんかんかんと眩しかった太陽はいつのまにか姿を消して、ちらちらと雪がふってきた。
「あ、もしかしてなごり雪?」
女は立ち上がって雪を掴もうとした。
「あたしずっと沖縄だったでしょう? 小さいころ、雪はかき氷のミゾレみたいなものだって言われて育ったから憧れたな、北国に」
男は口を開いて雪を食べようとした。「うん、辛党の俺にはちょうどよい」
女は雪が男の顔の上で溶けていく様子をみつめたまま話をつづけた。
「ソテツってあるでしょ、ヤシみたいな木。うちの庭にあってね、春先に花を咲かせるんだけど、ちょっとくすんだ紅色でね。きれいだった。それでソテツみそっていうのをつくるんだ。でも毒があるから知らない人にはつくれない」
「秘伝ってわけか」
「あたしも春が来たら嬉しかったな、それだけで」
二人は黙って庭を眺め、それぞれの春を楽しんだ。男には男の春の記憶があり、女には女の春の思い出があって、それは絶対に秘密、といったわけではなかったが告白しあうには彼らの間にもう少し時間が必要だった。
「じゃあ金沢城公園を案内しよう。兼六園も21世紀美術館もいい。そっちもあとで行こう。でも金沢城公園はね、かつて加賀百万石の城があって、それが燃えちゃったんだよ。そのあとここに大学ができて学生が何万人と巣立っていったんだ。だけどそれもなくなって、今はなんにもない。あそこはいい風が吹く。そこで見える空を一緒にみたいんだ」
「いいね、いこういこう」
「次の旅行は沖縄へ行こう。そしたらまずソテツみその味噌汁を飲みたい」
「フーチバたっぷりいれてあげよう、ああヨモギのことね。それから、それから・・・・・・いっぱいある。きっと疲れるよ。でもまずは金沢城公園へ行かないとね。今日はおなか空いたからおいしいものをたっぷり食べさせてもらわないとなあ」
二人はカフェを出た。
人間の条件を書いておいた紙を無くしてしまった。
「どうしたの?」
声に振り返る。
「ああ」
妻が心配そうな顔をして俺を見ていた。
「ちょっと、な」
「ちょっと?」
「いや、人間の条件をね」
「うん」
「人間の条件を書いておいたのだけど、その紙を何処かに無くしてしまったんだよ」
「もう、馬鹿ねえ」
妻はため息をしてそう言った。
「うん。馬鹿だ」
俺は反省してそう返事した。
「でも人間の条件ってなあに?」
「さあ」
「なんなの?」
「俺も良くは解らない。でも良いじゃないかそんなことは。とにかく一緒に探してくれよ」
「良いけど」
妻はそこら辺をひっくり返し始めた。
ばさばさと書類や世界地図や卓上カレンダーが宙に舞う。
「どんな紙に書いといた?」
「再生紙」
「再生紙かあ。あ」
「どうした」
妻が窓の外の青空を指差している。
「あれ。違うの?」
そこには色の悪い小鳥が空を飛んでいた。その色の悪さは、明らかに再生紙のそれだった。
「しまった」
俺の知らない内に人間の条件は小鳥になって空に飛び立ってしまっていた。
「追いかけよう」
「うん」
俺達は家を飛び出した。
「待て」
「待ってえ」
「待て人間の条件」
「待ってえ人間の条件」
人間の条件は空高く飛んで行く。あんなに空高く飛べるものなのかというくらいに、人間の条件は何処までも、本当の鳥よりもずっと高く空を飛んで行く。
「はあはあ。待て」
「ねえ」
「なんだ」
「それ、使ったら」
「それ?」
「そう。それ」
いつの間にか俺は弓矢を握っていた。
「これか」
「うん」
「でも使ったこと無いな」
「良いから。あなたならきっと初めてでも使いこなせるわ」
妻にそう言われてその気になってしまって、それで俺は弓矢をつがえた。
ぎりりと弓を引き、空を行く小鳥に狙いを定める。
人間の条件に、弓矢のことは書いてあっただろうか。何か一行書いてあった気がする。
そのことを思い出しそうになった瞬間、弓は音を立て、俺の手を離れていった。
そして。
「美味しいね」
「ああ」
矢は狙い通りに命中し、小鳥は地へと落ちていった。
人間の条件は、地へと落ちてしまった。
人間の条件を俺達は焼鳥にして食べた。
「美味しいね」
「ああ、でも」
「でも?」
「もう無くなってしまった」
「そうだね」
妻は手に付いた油を舐めながらそう言った。
「でも美味しかったよ」
見上げた空は何処までも高かった。
「そうだな」
俺はそう返事をして空に背を向け、家路へと着いた。
プネウマ円形劇場。この欧羅巴全土の唯一の熟覧たる美麗さを誇ってやまない白亜の劇場は、正確に云うとキオスのエラシストラトゥスによる脳髄神経の内部に混入されたるプネウマ或いは実体化された宇宙論的原理に基づく劇場となるが、私は便宜上プネウマ円形劇場の名で呼ぶことにする。今ここで行なわれているのは、壮大にして空前絶後な演繹的実験であるソシオドラマであり、それは勿論ギュルヴィッチによるソシオメトリー分析の結果、導き出されたソシオビリテに基づくものであることは明白であった。我々は相互にオルギーな観客であり、思索的に優れた役者でもあった。これらプネウマ円形劇場に於けるゼーレンドラマは産業ジェロントロジー計画により進めれていた事業の一般的な普及の延長線上に位置するものであり、先の第三十八回老年化会議(度重なるうちに出席者も老年化してしまった)に於けるエドワルダ議長夫人の「誰でも読むことを学びうるという事体は、長い目でみれば、書くことばかりか、考えることをも害する」という発言を受けて、火急に推進された結果であった。我々はいつまでもこの円形の劇場に止まり続け演じ続ける義務を負うものであり、それは同時に権利でもあった。如何なる権力も我々の自明の権利を無効化することは出来ない。まさにそれはメリアム云うところの「体系的政治学」に他ならず、現代においてはホフマンの研究として身を結ぶものであった。と、突然一際大きな歓声が上がる。舞台の上に大きな黒い箱が運び込まれた。我々の悲願である壮大な実験が遂に始まろうとしているのだ。しかし、白尽くめの司会の男が盛大な拍手が響く中現れたところで、私の記憶は途切れる……。
私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である、とでも書けば話がまとまるかといえば大間違いであり、それは一種の逃走的行為に他ならず、その脱兎の如き逃走劇における並走者のその形相の凄まじさから窺い知る余裕などあるはずもない。何故なら、閉じられた円形の外に出る術は当然のことながら何もないからなのであり、我々は永遠にこの逃走劇を繰り返す他ないからだ。そこにはアリストテレス主義的ドラマツルギーはもはやなく、結局の所これらの事体の推移から導きだされるコミュニオン的結論は何の意味も無いことであり、嗚呼、もはや何のことだか解らない。幕だ! 幕を引け! イエッサー! 閉幕と書いてカーテンフォール!
「――ここは」
「起きたようだな」
俺は薄暗い部屋の中で目覚めた。縄で椅子に括りつけられている。
「俺をどうするつもりだ」
「死んでもらう」
「目的は?」
「云う必要はない」
大男が銃を俺のこめかみに押し当てる。
スーツを着てサングラスをかけた四人の人間が見えるが、薄暗くて顔が良く見えない。この大男はどこかで見たことがある。タレントだろうか。
とにかく、この難局を打開する必要がある――。
「そうだ、一つだけ頼みがある。電話をさせてくれ」
「助けを呼ぼうとしているんじゃないだろうな」
「違う。俺は最後に……恋人に伝えたいことがあるんだ」
男は黙っていたが少しして云った。
「いいだろう三分だ。しかし妙な気を起こした時点で、殺す」
「分かった」
薫の番号を教えると、男は俺の耳に携帯電話を押しつけた。
「……勇介? どうしたの」
まず三分で薫に俺が危殆に瀕していることを伝えないと。
「棚から……水筒が入った袋を……怪我しないように……テーブルに置いといてくれ」
それぞれの頭文字をとると、『たすけて』になる。これが伝われば、第一段階成功だ。
「え? 水筒が入った袋なんかあったっけ」
薫には全く伝わってなかった。俺は愕然とする。
「痛い。透けていく、霊……トレイだよ、薫」
一見意味不明なこの文も、『トレイ』だから、『イ』を取れば『たすけて』になる。分かってくれ、薫!
「どこが痛いの? また、ぎっくり腰?」
駄目だ、もう終わりだ。
「薫……突然だけど、結婚して欲しい」
「え?」
「結婚の話題になると、俺はいつも話を逸らしてた。逃げてたんだ。責任を負うのが恐かったのかも知れない。お前の人生を受け止める自信がなかっていうか……本当にだらしなくて、ごめん。もう一回云う、結婚してくれ」
薫の返事が聞けないまま男は電話を切った。
「終了だ、さぁ死ね」
「待ってくれ、もう少しだけ!」
その瞬間、部屋に設けられた唯一の扉が開いた。
「……薫! どうしてここに」
「全部私が仕組んだことだったの。家族みんなにも協力してもらって」
すると、明かりが点いた。スーツを着た四人がサングラスを取る。
「お父さんの写真見せても会おうとしないし。だから極限の状態ならプロポーズしてくれるかなって」
そうか、薫の親父だったから見憶えがあったのか。
「まさか家族の前でプロポーズすることになるとはな、参った」
「でも、格好良かったよ」
その笑顔を見て、俺は薫を許した。