第26期 #9

氷を渡る

 なぜそんな気まぐれを起こしたのかはわからないが、ともかくその朝、きみは校舎の中央池にはった氷の上を歩き始める。
 池の周囲は騒然となる。生徒なら誰でも、池の氷を渡り終えることができた人間はまだ一人もいないことを知っていて、踏破に挑戦する輩も後を絶たず、氷渡りは僕たちの間に根を下ろした行事の一つと化していたからだ。その氷をきみが歩く。横顔をうつむけて長い髪の中に隠し、スカートのポケットに手を突っこんだまま。みんなは熱狂する。あれほど無口で地味な女の子が突然表舞台に踊り出てくるなんて、こんな番狂わせはめったにお目にかかれるものでない。そしてみんなの熱病じみた関心を、一番よく理解しているのはきみ自身だ。氷の上でわざと足をすべらせる。指揮棒でも振ったように校舎全体が悲鳴をあげる。嬌声を恍惚として受けとめながら、内心夢中になって、観客の期待に応えようとする。誰にも知られずに温め続けていた夢想、みんなに注目されたいという夢想が、一挙に開花し、実現する・・・
 だが、浮かれた気分は長く続かない。あと三歩か四歩で渡り終えそうな時、だしぬけに、歓声が不満そうな唸り声に変わる。次の瞬間、観客は互いに肩を組み、床を踏み鳴らし、きみに向かって叫び始めている。わ・れ・ろ。わ・れ・ろ。つまりはそういうことだ。誰もきみが氷を渡り終えることなど期待していない。最初から連中は、ただ氷が割れ、きみが暗い水の中に落ちこむことだけを待っていたのだ。一部始終を池の淵に立って眺めながら、僕はきみをあざ笑う、(それ見たことか・・・)だが怒号が最高潮に達し、とり囲まれたきみが怯えた目で周囲を見回した時、突然の憤激にかられて、僕は声をはりあげている。渡っちゃえよ!きみは一瞬、不思議そうに顔を上げる。僕は苛立ちながら、いっそう高い声で繰り返す。渡っちまえっての!とっとと渡って、こいつらみんな出し抜いちまえばいいんだよ!やがて、きみの表情から少しずつ怯えが消え、かわりに別のものが広がっていくのを、僕は見る。周囲の連中にではなく――僕への憎しみが拡がるのを。それからきみがとった小さなふるまいは、たぶん誰にも目撃されない。きみの前に立って、ことの次第を見つめていた僕以外には。
 きみは僕を見据えたまま、長いスカートの下で左足をそっと浮かせ、ひと呼吸置いたかと思うとハンマーのように振り下ろし、小さなかかとで足下の氷を踏み破る。



Copyright © 2004 でんでん / 編集: 短編