第21期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 月光幻想 長月夕子 775
2 さらば日本 三浦 941
3 タイミング メグ 582
4 僕とペンギンと春の歯車 994
5 森栖流鐘 364
6 春の馬鹿やろう。 萌木千翔 427
7 Sounds Rain 三池朝子 766
8 黒木りえ 1000
9 婚約指輪 N.H 1000
10 弥生のいちご 江口庸 778
11 私の坊や 優下月 999
12 ネロの帝国 野郎海松 835
13 緑郷館 朝野十字 1000
14 視る 宇加谷 研一郎 997
15 裏読みの銀 Nishino Tatami 976
16 早苗さんとコインロッカーベイビー 神差計一郎 579
17 約束 逢澤透明 1000
18 「月刊キレイ」5月号 巻頭特別インタビュー MUROIメイクの提唱者・室井みち子さん 妄言王 1000
19 オープンカーも音楽も、そして花束も るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
20 君と、あなたと マーシャ・ウェイン 999
21 むかし語り 五月決算 1000
22 言いたいこと 朽木花織 1000
23 馬切茂作 紺詠志 1000
24 釜の中 曠野反次郎 968
25 坊主 川島ケイ 1000

#1

月光幻想

 古い時代の瀟洒なアパートメントが取り壊されようとしていた。建造物的美観より建造物的安全性が優先されるのは、宿命である。細かい雨が、僕のヘルメットを伝い、鼻の頭に滴となって落ちた。作業着は先より一段階濃い色に変色しつつある。
 すべてがねずみ色に沈んでいる。アパートメントに降り注いでいるものは、はたして雨だけだろうか。目を閉じると雨の音がヘルメットの下で拡張され、そのうちにそれを音だと捉えているのが難しくなっていく。
 
 満ちた月の光がコンクリートの階段に、深い陰影をつくる。
階段を上る靴音が、かつかつと大げさなほど建物全体に響く。
女の幻がそこにいる。僕は立ち止まる。女は動きのない目でじっと僕を見る。あるいは見ていない。
凍りついてしまいそうな青白い肌に触れてみようとする。
僕の手が女の体に、濃い影を落とす。
その肌は人間の体温を帯びていて、僕を少し驚かす。
滑らかな体を月の光がすべり、女と僕とコンクリートの階段の判別を、危うくさせる。
女の曲線に応じて、青い影が素肌の上で幾何学に踊る。僕はその影の跡をたどるように、慎重に何度も同じ場所に触れる。女は思いがけない熱い温度で、僕を受け入れる。そして海の底の目の無い魚のように、深く暗く静かな吐息を零す。
月光の隙間に、僕が内側から壊れていく音が聞こえてくる。その音はうねりとなって、僕の脳を侵食していく。反響が反響し、増幅されていく音。音が僕を壊しているのかもしれない。触れ合っているところから急速に熱が奪われていく。女を見る。その目は月の光でいっぱいで何も無い。僕は耳を押さえる。そんなことしても無駄なのだ。音は僕の中で僕を反芻しているのだから。
 
 僕は目を開く。瓦礫の山が広がっている。パワーショベルが絶え間なく壁を砕いていた。コンクリートが崩れ落ちる。
 そこにはもう月光も無く階段も無く、女もいない。


#2

さらば日本

 陽炎立つ空気調節器のファンの悶え声が、触れれば染まるような青々とした空を震わせた。
 二棟目マンション最上階の一室にて、笹木は硝子越しに沈む小学校全景を淡く捉えていた。意識を浮上させ不規則運動の紅白の塵に焦点を絞った。二学年の体育。俄に学年を言い当て笹木は喜ぶ。
 腹が鳴った。時計は二時を過ぎて間もない。眼下の先が五時限目とは承知していたが、目先の事には頓着しなかった。買い溜めしたカップ麺を漁った。温かいものが食べたい。味よりも量を選び観測所へ凱旋する。歩哨は鴉。手摺の上を物欲しそうに揺らぎ室内を見通すのは此処最近の事であった。
 携帯電話の通常音が光を伴って来た。同僚の岡崎だ。作動させると、とっとと有休をやっつけて戻って来いよと愚痴と咀嚼とが始まる。菓子アイス工場は書入れ時だ。暫くして、遅めの昼食は終了したらしく岡崎は開始と全く同様の音を置去りに、受話器から一方的に姿を消した。苦笑いが顔を覆う。明後日には笹木もまたあの単調作業に就かなければならなかった。我に返って蓋を捲ると麺が肥っている。二度目の苦笑を合図に箸を伸ばした。
 結局残したため流刑に処していると、母がパートから帰宅した。反射的におかえりと出るが、俯いたままの母は一昨日からずっと笹木を視野から追い出したいらしいのだ。
 訳は強面の二人が持参していた。のっそり入ったかと思えば、肌を粟立たせ顔を歪めていた。ブラウン管越しでの手帳と紙切れが宙に浮いている。本物か。
 何事かを細かく鋭く口にし、二人の男は西洋の仕来りに倣って上がり込むと笹木の家を荒らし出すではないか。愕然とした。日本人の心は此処まで摩滅していたのか。さらば日本。
 押入れから若い声が上がった。年寄りも慌てて向かった。笹木はゆっくり歩を進めた。
 畳の上に横たわったブルーシートの塊をガムテープが掌握していた。僅かな起伏を象った小柄な其れの一端を若き勇者が解き放つと、朝靄色の頭が、でろん、と飛び出した。
 蓑虫の頭は、徒の物となった人の形をしていた。
 二通りの溜息が生まれる。

 田中梨香ちゃん。七歳。

 刑事が叫ぶ。同時、笹木は取押さえられた。
 其の時、中空に鐘の音が躍った。
 跪かされ、笹木は濃密な青に漂う子供達の時間を想って笑い始めた。
 「六時限目」


#3

タイミング

「ねぇ、どうかしたの?」
秋羅の声もろくに耳に入らない。
せっかくの久しぶりのデートで行きつけのカフェに連れてきてもらったのはいいけど、昨日職場であった出来事のせいで私は少しイライラしていた。
「愛…」
秋羅が淋しそうな声で私の名を呼んだ。
「あ、ゴメン…。何だっけ?話」
彼の話も上の空だった。悪いことをしてるのは、分かってるんだ…。


「何で君はこうもできないんだ?」
上司の言葉。
―分かってたら苦労しない。

「コーヒーはもっと濃くしてくれないか?」
ちょっとしたことでもイライラが積もっていく。
―文句があるなら自分で入れたらどう?


「ハァ…」
無意識に溜息が零れてしまう。
楽しいはずのデートなのに、今日はそれ所ではない、そんな感じだった。
「愛、会社で何かあったの?」
心配そうに問い掛けてくれる秋羅の幼げな表情に、私は少し顔がほころんだ。
「ゴメンネ、せっかくのデートなのに」
彼に申し訳ないと思い、私は秋羅に頭を下げた。
「いいよ、そんな日もある。話だっていつでもできるしさ」
彼は私の笑顔を見てほっとしたのか、そう言い終わるとニコッとほほえんだ。
秋羅の笑顔が大好きな私は、その表情を見て、少し気が和んだ。
さっきまでのイライラが嘘みたいに薄れていく。

「アリガト」
私が素直にそう言うと、秋羅は私の顔色を伺いながら目の前のオレンジジュースを飲み干した。
そして、目が合った瞬間、お互いに笑いあった。


#4

僕とペンギンと春の歯車

窓はバターのように溶けていった。

 手に持っていたマグカップからわずかにココアが跳ね出してトレーナーに小さなシミを作る、シミは一瞬、抵抗した後に諦めてトレーナーの一部になってしまった。窓が完全に溶けるまでに時間はかからない、一度溶け出すと後は全部冬があっという間に食べてしまう。
ポケットの中でヒヨコが”ピヨッ”っと短く鳴く。そうだ、来たのだ。

僕は少し前まで窓だったものから外へ飛び出し、氷に閉ざされた道をひたすらに走った。冬の冷気が僕の体を少しづつ斬る、ほどけてしまいそうな体を必死に抑えて僕は走る。雪に埋ったタバコ屋の角を左に、 氷柱の刺さった犬小屋を飛び越え、中野低の庭を突っ切り、山田議員の凍った笑顔を横切る。

「どこへ行くのか分かっているのかい?」「わかっているよ」「ふうん」「春の集まる所だろ?」「君に見つけられるかな?」「どうだろう」「とにかく急ぎな、時間はあまり無いぜ」

 ガラス玉公園に着いたのはそれからしばらくしてからだった。僕の半分は切り裂かれて冬に持っていかれてしまっていた。公園は薄いゴムのような膜で覆われており、近づくとぬるんと僕を飲み込んでしまった、そこは冬の搾取は無く、春が統治する場所だ。ほどけた僕の半分を春がチリチリと満たしてゆく。
公園にはペンギンがいた、いかにも鰯が好きそうなペンギンだ。ペンギンは随分退屈していたらしく滑り台型に模られたキリンの目玉を執拗に突付いていた。僕がペンギンに近づくと彼は手を腰に当て、クチバシを二回クックッとしゃくり上げてから言う。

「アレを持ってきたかい?」
「うん」

僕はポケットの中のヒヨコを渡す、ヒヨコは春を吸い込んで緑色の体毛をまとっていた。ペンギンはまるで世界一高級な豆腐でも扱うかのように大事にヒヨコを持ち上げ、首元に押し込んだ、ヒヨコが短く”ピヨッ”っと鳴く。

「ねえ」
「ん?」
「ヒヨコなんてどうするのさ」
「クックッ、気になるかい?でも秘密さ、これは僕の世界のことだからね、君は春を持って帰る、それだけ」

そしてペンギンは背中からと春を取り出し僕に手渡す。

「それをセンカクさんに渡しな、絶対だぞ、まあ冬が好きなら話は別だがな、そんなのは夏売りの行商ぐらいのものだろうけど、クックッ」

ペンギンはそういうとペタペタとガラス玉公園の上を歩いてアッチ側に行ってしまった。
僕は半分の僕を取り戻すため、しばらくゾウのベンチに座っていた。


#5

蜜樹の頭から発したキノコ病は、瞬く間にクラス全体に広まった。私もその犠牲者だった。
ある朝、目覚めると、頭のてっぺんに、キノコが生えている。ちょい、と触ると、ぷるると揺れる。手には銀白色の胞子がついていた。辞書で調べていると、ベニテングダケだった。
学校に行くと、もうほとんどが、キノコ病に感染していた。頭のてっぺんにキノコを持たないのは、綾のみだった。
「おはよ。」
「おはよ。」
綾は、そっけない態度、むかつく、よし。
3時間目は体育だった。私は皆が教室を出て行くまで残り、綾の弁当箱を見つけると、頭の胞子を思い切り採って、弁当に振りかけた。胞子はゆっくりと弁当に溶けていった。
翌朝、綾の頭からは、見事キノコが生えていた。成功だ。しかも、見事なベニテングダケが。
「おはよ〜♪」
「おはよ〜♪」
今日の綾は機嫌が良い。同病相憐れむってやつだ。


#6

春の馬鹿やろう。

毎年毎年あいつは私の元にやってくる。季節は春に限定される。あいつのせいで何度泣いたのか、鼻水を出したのか、目を掻いたのか覚えていない。あいつはいつも悠然と私の所で寛いでゆく。あっちへ行け。と怒ったって効果なし。鼻水を流しながら応戦するけど勝てた試しなんて一度もない。
もうそろそろあいつとも決別したい。かれこれ10年の付き合いになる。毎年煩わされるこっちの身にもなって欲しい。あいつのせいで毎年苦しんでいる人はこの世の中にたくさんいるだろう。あいつに悪気はないのは分かる。この体質がいけないのかもしれないとも思う。
でも、憎くて堪らないのだ。マスクだって目薬だってお目目パチパチするやつだってもうウンザリ。鼻をかみすぎて鼻の皮がめくれるのだって嫌。たまに朝、目が開かないなんてのも慣れたけど…悔しい。
だから、お願い。
もう、来ないでね。
でも、いつも願いはあいつには届かず。
「今年も世話になったな」
と、意地悪く言って春の終わりに去ってしまう。




何て憎らしい杉花粉。


#7

Sounds Rain

「傘をとってごらん」
突然紫陽がそんな事を言った。
一体どうしろと言うのだろう。今朝方から降り始めた雨が、午後になっても辺りの樹々を、撓らせている。わたしは寒いのもびしょ濡れになるのもごめんだ。
 だけど、わたしは彼に逆らえない。正確には、逆らわないんだと思う。
いつだって、彼はわたしを幸せにしてくれるし、わたしもそれが心地よい。まるで、温かい水の中から一生出られない魚みたいだ。
 そっと、傘を、降ろす。

「満ちる、聞いて。」
「……」

 何を?そう思うより早く、わたしの耳に、新鮮な響きがひらけた。
 それは、たった今まで私がいたところから、急に違う場所に連れて来られたような感覚だった。
 バサバサ、ぽたぽた、ざあっざあっ。

 傘に隠されていた沢山の音達が、姿を現した。
 わたしは彼に微笑みを向ける。
 やっぱり紫陽は、私の幸せの箱だった。

           ***********************

 一羽の鳩が、茂みから現れた。東京の、汚れた雨に、濡れている。
「可愛そう。」 
大粒の雫が降り注ぐ中、鳩はとても急ぎ足だ。
 だがしかし、彼は言うのだった。
「そうかな?」

「雨はあらゆるものに平等に降るんだぜ。鳩だって、小さいけれど、俺達よりは雫は当たらない。」

 幼馴染はいつものように、意地悪を言ってよこす。彼はいつも私の幸せな空想をぶち壊すのだ。

 私は不意に泣き出しそうになった。

 バサバサ、ぽたぽた、ざあっざあっ。

 ―それで、いい。
 かつてわたしの幸せであったことは、みんな私を苦しめた。
 「幸せ」の送り主が居なくなってしまったというだけで。

「満ちる、」

 私は何も求めない。すっかり臆病になってしまった。

「なあ満ちる、でもいつまでも雨に濡れるのも癪だよな。」
「……」

「傘。」

 開かれた傘の下で聴く音は、百年前に聴いたような、懐かしさだった。


#8

 「いい名前でしょ、化物っぽくなくて」
 そう言いながら少女は顎を引いて、かるく笑ってみせた。どこかの私立小学校の制服にも見える丸襟のブラウスに吊りスカートが、その幼いすがたによく似合っていた。

 私が少女に会ったのは小雨の上がりきらない、しめっぽい雲が月をおおいこんでいる春の夜だった。残業の帰りに近道をしようと公園をつっきったときに、遊具の陰で雨宿りをしている小さな背中を見つけて、迷子かと思って声をかけた。呼びかけに振りむいた少女の目が光のほとんどない夜のなかできらりとまたたき、そのときはじめて私は、少女の足もとにうずくまっている陰に気がついた。

 それは人だった。

 立ちすくむ私に少女は目をみひらいて、しばらくそのままでいた。散歩をさせてもらえない犬のような、あいてをうかがう目をしていた。しめった土のにおいにまじる、古びた遊具の錆のにおい。鉄錆のにおい。くいと引きむすんだそのくちびるから、つうと赤いものがつたった。少女が片手をあげて、まっすぐにのばした指のさきで、くちびるの汚れをぬぐいとる――そのまま指はくちびるを割り、ぐいとななめに持ちあげ、肉食獣のように鋭く長い牙を、むいてみせた。
 「殺したわけじゃないわ」
 少女は足もとに視線をおろして、それからまた私を見た。
 「むしろ、いい思いしてもらったの。血を吸われるとね、気がとおくなるの。とっても気持ちいいのよ――いいらしいわ。あたしは血を吸われたことがないからわからないけど」
 その声がすぐ耳もとで聞こえ、ぎくりと身を引いた私の傍らに、いつの間にか少女は立っていた。肩にかけられた手の力はおどろくほど強く、私は少女の目の高さにあわせるように膝をつかされていた。十二、三にしか見えない少女が、愛を囁くときの甘い声音でうたう。恋人をかき抱くしぐさで、ほそい腕が私の背にまわされる。応えるように私も、少女のからだを抱いていた。

 「幸せな世の中って書いて、ゆきよって読むの」
 ずぐり、と、肉にひびく音をたてて少女の――幸世の牙が私の肩に沈む。
 あたしの名前を呼んで。幸世って、呼んでくれたら殺さないであげる。血を吸うだけにしてあげる。
 幸世のことばは音ではなく、差込まれている牙から手繰られる血のかわりに、毒を送りこまれるように私の肉にしみていった。あ、あ、とあえぐ私の声は声になっていただろうか。

 ゆきよ、と。
 私は、少女の名を呼べただろうか。


#9

婚約指輪

 給料の三ヶ月分というが、いったいどれ位の所得の人間までが対象なのだろうか。と聡はふと考えた。
 ショーケースの中に並ぶ指輪を遠慮深げに覗き込み「やれやれ」と口の中で呟いて小さく溜息をつく。きらきらと光るわっかの端には、普段はあまり御目に掛からない金額の値札がぶら下っていた。
 店内を見回しても客の姿は疎らだ。そうそう売れるものではないだろうから当たり前といえば当たり前なのだが、人が少ないと反って緊張する。
「婚約指輪をお探しですか?」
 若い女の透き通った軽い声だった。聡は不意に声を掛けられて動揺したが、緊張で強張った顔に作り笑いを浮かべて振り返った。
「ええ……そうです」
 聡がしどろもどろと答えると、彼女は笑顔で言葉を続けた。
「ご予算はどれ位ですか?」
 聡は少し戸惑った。もちろん本音は安い方がいいが、建前は給料の三ヶ月分だ。強張った作り笑いは苦笑いに変わっていた。足も竦んでいた。
「三〇万くらいの予算で……足りますか?」
 聡は問いに答えるつもりだったが訊き反す形になった。本音と建前。不意にでた言葉は本音の方だった。
 彼女は真剣な面持ちで考えていたが頷いて口を開いた。
「予算は足りると思います。お手頃な価格の物でしたら、二〇万円位でも充分気持ちは伝わると思いますし……」
「う……」
 聡は左足に軽い痺れを感じて声を漏らした。彼女は「大丈夫ですか?」と聡の顔を心配そうに覗きこんだ。
「あ、足が……足が攣りました」
 聡が真顔で答えると、彼女は唖然とした表情をみせたが、すぐに状況を察したらしく声を殺して笑いはじめた。
「ここに来てから、ずっと緊張してたんで……すみません」
 聡は痺れが治まるのを待ち改めて頭を下げた。彼女はずっと笑いを堪えていたが、結局は堪えきれずに声をだして笑った。
「あ、すみません」
 彼女に頭を下げられて、聡は反って恥かしくなった。 先程までの緊張感はどこかに消えていた。
「さっきの続きですが予算はどれ位が普通ですか?」
「はい。えと、指輪は気持ちですから金額ではないと思います」
 彼女の言葉を聞いて、聡は大切な事を忘れていたと気がついた。
「すみません。よく考えてまた来ます」
 聡はそう言って頭を下げた。彼女は小さく微笑んで「はい」と答えた。

 聡は店を出た。ぼんやりと歩きながら深呼吸をする。
 考えてみれば金額なんて幾らでもよかったのかもしれない。
 大切なものは、その先にあるのだから。


#10

弥生のいちご

富夫は浪人生活から解放された入学前の春休み、三つ下の弟、有次をたずねた。有次は高校を中退後、コックとして千葉のゴルフ場が経営するレストランに勤めていた。有次は九つ先輩の保志と住んでいた。保志の運転で南房総の館山にいちご狩りに行った。ビニールハウスのまえにはマーチに乗った、弥生がいた。弥生は健康的な二十五歳の女性で、有次と保志が勤めるゴルフ場でキャディをしながらプロゴルファーを目指している。富夫はきれいだなと思ったが、すぐ落胆した。弥生は保志の恋人だった。が、富夫は弥生が気になって仕方がなかった。その夜、四人で夕食を終えると有次と保志の暮らすアパートに戻って休んだ。ふたりの部屋にそれぞれ分かれたのだが、富夫は眠れない。ドアから光が洩れていた。富夫がそっと覗くと、弥生は保志の上に乗り、快感に身をよじっていた。性体験のない富夫は均整のとれたからだを揺らし、整った鼻先を天井にむける弥生を夢中で覗いた。ふと目が合った。富夫は思わず飛びのいて部屋に戻ったがもう眠れない。それから毎晩ふたりの逢瀬は続いた。そして、決まってあとから弥生のすすり泣く声が聞こえた。一週間後、保志は故郷の鹿児島へ帰った。父親が病気のため、実家の軍鶏料理屋を継ぐという。弥生は付いて行かなかった。プロゴルファーの夢があきらめられなかった。それがすすり泣きのわけだった。富夫は弥生を誘って、再びいちご狩りに行った。富夫はどきどきしながら弥生に真っ赤ないちごを食べさせた。帰り道、弥生は車をホテルに入れた。弥生は乱れた。ホテルを出ると運転しながら泣き出す弥生を見て自分は振られたのだと悟った。まだ自分は弥生にそぐわないと思い泣けた。ふたりで泣きながら帰った。しばらくして、ゴルフ場が倒産してしまった。弥生の行き先もわからない。今でも弥生とのことを思い出すと甘酸っぱいいちごがよみがえる。


#11

私の坊や

 ――大変な事になってしまった――
 私の目の前には血溜りが出来ていた。暗い血がベットリ付いた包丁は私の手の中にある。
 実は一時間ほど前、私は息子と久しぶりに話していた。そして、大喧嘩になった。
 その結果、こんな事態になってしまった。
 確かに、私にも悪いところは有ったかもしれないが、もうそんな事はどうでも良い。私は遺書を書いていた。震える手は血に濡れ、それが分らないように、必死になって書いていた。『私は自殺します』……と。

『一樹、どうしてもっとシッカリしてくれないの?』
『っだからうぜぇっつってるだろ! 俺の事ほっぽり出しといて、いまさら何なんだよ!』
『頼むからちゃんとした所に……』
『何処に行こうがかってだっつってるだろ』

 私の息子はいつも馬鹿で……気が早い子だ。だから、こんな事をしたんだろう。息子は、私の事を一突きして、逃げていったのだ。
 しかし、これで良い。
 遺書は書き終わった。包丁は私が握り締めている。息子が私を殺したとは分らないだろう。
 後は、息子がこれを薬に、少しでも改心してくれれば、それで良いんだ。
 息子さえ無事なら。
 ガタン
 ――え……――
「おふくろぉ」
 かすれた目とかすかに聞こえる耳で分った。息子だ、息子が戻ってきた。
 一体、何をするつも……やめ、やめて……そんな、そんな馬鹿な…………あぁ、ああ!
 バタン
「おふく……」
 血の溜まりが増えた……傍らに倒れた息子から、ゆっくりと広がっていく。
 だめだ、だめなんだ。一樹は………………。

 四月二十四日、奇妙な事件があった。ある母親とその息子の自殺事件、そのうち息子だけが未遂となった。事件を通報した者は不明。声からして、中年の女との事だ。
 しかし、何しろマンション個室での事件。通報してきた中年の女が、一体、何処から事件を発見できたのか。しかも、もっと奇妙な事に、通報があったのは事件現場の部屋の電話から、という事だ。
 加えて、母親の発見時の状態。発見された時の母親は、硬く包丁を握り締め、心臓を刺していた。そして、何かを決心した様な表情をしていたらしい。
 これらの事実が何を語るのかを想像するには、刑事たちは忙しすぎた。しかし生き残った息子は、死んだ母親が自分を守るために通報した、そう頑なに信じた。
 そして、生き残った息子が、母親の願っていた人生を歩もうとする事は、目に見えて明らかだった。
 全て、母親の愛の結果だろう。


#12

ネロの帝国

 ネロは国を追われました。まんねん雪がおおう『ふたご峠』をこえ、『わすれな草の野』をわたり、ちいさなちいさな村に流れつきました。そこは『死せるものたちの村』でした。ひとりの少女がネロをむかえいれてくれました。名をロネといいました。
「ようこそ、『そらたかき国』の王子さま」
 ロネは白つめ草の花かんむりを、ネロの頭にのせました。
「きみは、死んでいるの?」
「いいえ。わたしは死せるものたちにさらわれたの。ゆめの中で」
 ロネはほほ笑みました。どこかかなしそうなほほ笑みでした。
「ぼくはこれからどうしたらいいんだろう?」
 ロネはだまってネロをだきしめると、そっとささやきました。
「あなたをずっと待っていたの」
「ぼくを……?」
 ネロのことばは、ロネのくちづけによってさえぎられました。
「かわいそうなネロ。国をなくしてしまったネロ。きずついて、こんなにつかれはててしまったネロ」
 ネロのほほを、なみだがすべりおちていきました。そのなみだを舌ですくいとったロネは、まっ白な馬になりました。
「わたしとなら、あなたはどこへでも行けるわ」
 ネロはまっ白な馬にまたがり、どこまでもどこまでもつづく『白つめ草の野』をかけていきました。死せるものたちが見たこともないまっ黒なけものにのって追ってきました。
「死せるものたちよ、めしいのけものたちよ」
 ネロはおおきなこえでよびかけました。
「ついてくるがいい。『はてなる山々』をこえ、『うずまき川』をわたり、どこまでもどこまでもついてくるがいい」
 ネロと死せるものたちは、『みずきよき国』をうちたてました。ネロは『そらたかき国』をほろぼし、おおきなおおきな帝国をきずきあげました。だいだいの王は、おきさきのつくった白つめ草の花かんむりをいただいた、といいます。まっ白な馬になったロネは、おきさきにこそなれませんでしたが、いつもネロといっしょだったそうです。
 死せるものたちにはあたらしいいのちが、まっ黒なけものたちにはうつくしいなまえがあたえられました。


#13

緑郷館

 緑郷館に着いた時には日が暮れ、小雨が降っていた。輪郭を闇に同化させた館の窓のひとつから、黄色い明かりが漏れていた。宏はそっと歩み寄り、中を覗き込んだ。
 座敷の中央にちゃぶ台が置かれ、夕餉が並んでいた。正面にエプロンをつけた伊佐夫が見えた。彼はおひつから飯を注いで皆に手渡していた。右隣に正也が、左隣に青希が、そしてこちらに背を向けてこの家の女主人が座っていた。暖かい湯気に包まれて、彼ら四人は家族に違いなかった。
 庇の樋から雨水が漏れて、ぽたり、ぽたり、と宏の首筋に落ちてきた。上着はここに来るまでにぐっしょり濡れていた。今まで気を逸らし意識から追い払っていた事実の痛みを、宏はついに自覚した。
 自分がこの緑郷館の人たちを追い出す算段を続けてきたのだ。誰より自分こそがそうしてきたのだ、そんなことはちっともしたくなかったのに、自分の意志ではないと気付いていたのに。そして知覚がなく判断もない社会のせいにして自分はその裏に隠れているつもりで、それというのも安全のためであり、自分を守るためであると信じてきたが、それこそが最大の欺瞞であり、事実はただ自分自身で自分というものを知覚のない死の世界へ押しやり続けていたのだ。
 宏は玄関に回り、しばらく佇んでいた。中に入ることができず、その横に尻を下ろし膝を抱えて俯いた。そうして小一時間もじっとしていただろうか。引き戸が開いて、伊佐夫が顔を出した。
「やあ、こんばんは。今日は冷えますね。さあ、中へ」
 伊佐夫に手を引かれ居間に入った。だるまストーブに火が入り、その横に老犬が寝そべっていた。ストーブの傍の椅子に座り正面を見ると、長椅子に正也が寝転んでいた。
「私はあなた方を追い出そうとしていましたよ。この家を取り壊そうとしていたんですよ」
「くだらないことばかり言ってますね。あなたに何ができるというのです」
 正也はくるりと背中を向けて、長椅子に顔を押し付け目を閉じてしまった。
 この部屋の中のたたずまいとまるで無関係に、日没の赤い色が宏の頭の中一杯に広がっていった。それは子供のころ学校帰りに見た夕焼けだっただろうか。まゆみと行った旅先での風景だろうか。以前にこんな夕焼け空の絵画を見たことがあって、それが不意に思い出されているのだろうか。次第に暮れ行く青から紺の空に赤から橙へ微妙に色を変え層を成し空全体に広がっていく夕焼けの様子を宏は呆然と見詰めていた。


#14

視る

朝日を浴びながら、カオリは帰路につく。始発に乗って二駅。仕事柄、アルコールが入っていることが多いこともあって、上京した当時は寝過ごすことが多かった。

店の常連に小説家がいる。カオリが入店間もないころ、その小説家と「列車のなかで何をしているか」という話になったことがある。

「ぼくは、くつをみている」

彼は言った。「くつをみれば、なんでもわかる」

「じゃあ、あたしのくつもみてくださいよ」カオリは靴を脱いで裸足になった。
「ははは、わざわざはだかにならなくても。一杯、つくってくれるかい」
「同じのでいいですか」
「いや、みずわりにしようか」

小説家は靴をみる、というよりもカオリの足をみていた。

「きみのくつ、とんがってるね。とんがりぐつだ」
「流行ってるんです、ポインテッド・トゥっていうんですよ」

カオリはグラスに氷をいれながら喋った。
「ふうん。いたくないかい」
「実はちょっと、痛いんです」カオリは笑っていった。
「くちべにのいろとおんなじ、えんじいろだ」小説家はカオリの唇を眺めながらグラスに手をつけた。

カオリは脱いだ靴に足をいれた。
「臙脂色っていうんですか、知らなかった」
「うん。べにばなをね、なんかいもなんかいもそめぬいてつくるんだ。ごくじょうのいろだよ」
「それで、あたしのことわかりました?」
「ああ。すなおで、だいたん。おもいこんだらいっちょくせん。それできみ、こっちのせいかつは、なれたかい」
「あ、はい。あ・・・・・・」
どうしてわかるんだろう、とカオリは思った。
「きょうはちょっと、よっぱらったよ。たまには濃いみずわりもいいね。またくるよ」


今ではカオリは寝過ごさない。客の靴をみるようにしている。靴に隠されたその人の表情を発見する楽しみをおぼえた。

(おじさんの靴、あれは合皮ね。でもよく磨いてある。擦り減っているけれど補強されてる、ちゃんとした人ね)
(あの男の子の靴、泥を落とせばいいんだけどなあ)
(この娘の臙脂色、服装と合ってないな・・・・・・あ)

小説家が久しぶりに店にきたある日、カオリはきいた。
「先生、ずいぶん前に靴をみるっていいましたよね、おぼえてますか」
「そんなはなししたかなあ」
「ほら、電車の中で何をしているかって」
「うん、ぼくはでんしゃのなかで、ゆびさきをみているよ。ゆびさきをみれば、そのひとがわかるんだ」

小説家は笑いながら言った。「どれ、きみのゆびさきをみせてくれないか」


#15

裏読みの銀

街へ向かう夜行バスの中、鉄は5円玉を放り上げ、両手で挟みこんだ。
「銀、裏か表かどっち?」
「うーん…日本国って書かれてる方」突き出された手の甲を眺めながら、銀は面倒臭そうに応えた。
「さあ今度こそ当たるかな?」鉄が口でドラムロールを真似ながら上の手を除けると、稲穂のある面を上に向けた5円玉が現れた。「さすが裏読みの銀、20回連続で外すなんて」
「何だよその『裏読みの銀』って」
「この前のテストだって、2択問題は全滅だっただろ?」
「あれは答案用紙を間違えて…」
「まあテストはさておき」制服の衿を直しながら、鉄は応えた。「コインの裏表でも分かれ道でも、お前の予想は常に外れるから、『裏読みの銀』って呼んだんだけどな」
「声が大きいぞお前は、他の客の迷惑になるだろ」
「いやぁ修学旅行以来の長旅なんで興奮しちゃって」
「明日も同じバスで帰って、そのまま学校へ行くってこと忘れるなよ」銀は憮然とした表情で、ポケットから喉飴を取り出し、口に放りこんだ。
「ああ、今日はこれで止めるから」
鉄は5円玉を腰の巾着袋に入れ、シーツを拾い上げた。その様子を見た銀は軽く目を閉じ、眠りの世界へと入ろうとしたが、直後、鉄の声が銀の耳に飛びこんだ。
「『トトで1億円』かー」鉄は読書灯を点け、スポーツ新聞を読みふけっていた。「トト…サッカーくじ…そうだ!」
鉄はシーツを床に下し、新聞で銀の肩を叩いた。
「そうだ、街着いたらトトやろう、トト」
「何だ?トイレに行くのか?」
「サッカーくじだよ」鉄は目を輝かせながら、新聞の記事を銀に見せた。「お前の裏読み能力を使って、チームの勝ち負けを予想するんだ。それを書いて出せば、俺らは1億円のお大尽だ」
読書灯を手で遮りながら紙面を眺めていた銀は、暫くの後、ぼそりと呟いた。
「引き分けがあるだろ」
「へ?」
「トトは勝ち負け引き分けの3択だろ?俺は3択のことは良く知らん」銀の読書灯を消しながら、銀は応えた。「それに年齢制限があるから、俺らは買えないだろ」
「た、確かに制服着てたら言い訳出来ないよな」暗がりの中で口を尖らす鉄の手に、小さな塊が投げ込まれた。
「疲れてるんだよお前は、喉飴舐めて寝ろよ」
銀は頭からシーツを被り、鉄に背中を向けた。鉄が指先の喉飴を眺める中、バスは街へ続く高速道路を静かに突き進んでいった。


#16

早苗さんとコインロッカーベイビー

 病院で、「これからもずっと空からアナタを見守っていますからね」と、三十年来の恋人であるところの早苗さんはさも悲しげに僕に言った。
 早苗さんに空から監視されているだなんて、実のところ堪えられそうもない。出来るだけ早くこの病院を後にして、姿をくらますことにした。
 まだ若い僕の母親に連れられて、駅で凄い人ごみの中に紛れ込んだ後すぐ、都合のいいことに棺桶のような小さな部屋に閉じ込められた。しばらくここに隠れていれば、お空におわす早苗さんの目もここまではとどかないんじゃないかななんて思いながらも、とりあえずはヒマにまかせて、いろいろと想いを巡らせる。
 早苗さんと出会ったのは三十年前のこんな春の日で、僕等は恋に落ちたわけだけれども、それは実を結ばぬ恋だったわけで。結局は心中することとあいなった。でも僕には本当に心中なんてするつもりはなかったのだけれど、二人して峠の崖っぷちまで来て、いまさらそんな事は言えやしないわけで、そうなっちまった。
 しかも、実は早苗さんはあのときに一命をとりとめてしまって、実際に死んでしまったのは僕だけ、だからこうして僕は早苗さんよりも早く輪廻して転生してしまったわけなのであります。
 さてと、そろそろ外の空気が吸いたいな、駅員さんはまだ来ないかな。しかし駅員さんも驚くだろうな、こんな新生児がコインロッカーに棄てられているなんて。


#17

約束

 アパートに囲まれたせまい路地には陽が射さない。
 十歳くらいの女の子がひとりいて、縄跳びをしている。
 薄い鉄板の階段を踏むと、堅い音が路地に響き、縄跳びの縄が地面を叩く音と呼応する。
 僕のノックに応えて開いたアパートのドアの隙間から、彼女の顔が覗く。
 僕は自分のなかに沸きあがる喜びと安堵の気持を隠すことができない。
 彼女は僕に驚いて、それから息を吸い込んで、少し俯いて、そして悲しげに微笑んで、再び顔を上げて、もう一度、微笑みなおしてから「お茶でも入れるわ」といって、ドアと柱を結びつけているチェーンをはずす。
 路地では縄跳びが空を切り、正確なリズムを刻んでいる。
「探した」
 と僕はいう。
 随分と、探した。

 逃げるから、追いかけるのか。
 追いかけるから、逃げるのか。

 引っ越して間もない部屋には、ほとんど何もない。
 建物と建物のあいだの隙間からやって来る陽の光が窓から射し込み、畳に置かれた小さなテーブルを照らして、深い碧色のガラスでできたグラスが、不思議な模様の影を落としている。

 そういえば彼と出会ったのもこんな部屋だった。
 そういえば彼と出会ったのもこんな部屋だった。

 スナップ写真のように停止した記憶は人をこんなにも縛りつけるのか。
 もはや更新されることのない思い出に彼女はまだ……、いや、更新されないからこそ、あらゆるものが固定され、そこから逃れられなくなる。おまえは誰だ。
 僕がテーブルの上の碧色のグラスがつくる不思議な模様を眺めていると、彼女も気がついて、言った。
「どうしてみんな死んでしまうのかしら」
 僕は窓を開ける。
 縄飛びの音が聞こえる。
 僕が目を向けると、女の子は二重飛びを始め、縄が空を切る音が激しくなる。
 小さな鍋の湯が沸いて、彼女はティーポットにそそぎ始めた。
「ねえ、わたしが……」
 女の子が縄に躓いて、リズムが止んだ。
 誰かがまた、薄い鉄板の階段を踏んでいる。
「また、逃げたとして……また、見つけてくれる?」

 たとえば明日、彼女が死んだとしたら、どうなるのだろう。
 たとえば明日、僕が死んだとしたら、どうだろう。

「ああ」
 と僕は言う。
「見つけるさ」

 たとえば明日……。
 運命からは誰も、逃れられない。

 彼女は流しに、余った湯を捨て、その行方をじっと見つめている。
 湯気が立ち上る。
「ごめんなさい」
 彼女はそう言って、顔を両手で覆う。
 また女の子が路地で縄跳びを始める。


#18

「月刊キレイ」5月号 巻頭特別インタビュー MUROIメイクの提唱者・室井みち子さん

室井みち子
1954年、東京都生まれ。美容専門学校を卒業後、結婚・出産を経て、1990年、株式会社メイクアップ室井を設立。美容業界に革命を起こした「MUROIメイク」の提唱者。著書・講演など多数。


編集部:いまや「MUROIメイクを知らない女は、女を捨てている」とまでいわれていますが、室井さんが美容業界に入ったきっかけは?

室井:この業界ってね、自己満足なバカばっかりなの。それで「私がこの業界を変えてやる!」って思い立って、コネなし金なしの状態で会社を作ったわけ。

編集部:既存の美容業界に強い反発を感じているようですね。

室井:「メーキャップアーティスト」なんていうけど、何がアーティストだよって思うのよ。モデルの顔や髪を材料にして、自己満足な「作品」を作ってるバカだし。メイクされる人たちの気持ちなんて、ちっとも考えてない。あんなケバケバしい格好で人前に出られる? ま、本当に出てるバカもいるけど、[某CM女王]のメイク特集とか、そんなもの猿真似したって似合うわけがないの。

編集部:編集部としては耳が痛いですが……MUROIメイクの特徴って何でしょう?

室井:30歳未満はお断り。あと、自分を美人だと思ってる女も対象外ね。

編集部:どうしてですか?

室井:20代まではもともと肌がキレイで、メイクなんか必要ないから、ほっとけばいいのよ。小学生もメイクなんて狂ってるでしょ? [本誌スポンサー]とかの物販戦略に乗せられた哀れな仔羊ってかんじ。自分を美人だと思い込んでる女も、だったらすっぴんでいればいい。MUROIメイクは、年齢を重ねて衰えてきた肌が対象なのよ。私自身を含めて。

編集部:いや、室井さんはお若くておキレイじゃありませんか。とても50歳には見えませんし。

室井:うんざりよ。

編集部:え?

室井:そういう日本的なお世辞にはうんざりなの。50の女が、あなたのような小娘よりも若くてキレイなわけないでしょ。

編集部:そ、そんなことないですよ。

室井:まだ言うか。顔のコンプレックスを自ら認めて、そこからスタートするのがMUROIメイクなわけ。メイクすることによって、その人の心をケアする点が、他のメイクとは全然違うし、だから評価もされるの。おバカちゃん、わかった?

編集部:はい、私がバカでした。それから、あたしが室井さんよりは美人ってことも……

室井:もういい? 次の取材が押してるから。あとは適当に編集しといて。


#19

オープンカーも音楽も、そして花束も

 初夏の朝六時、線路の上を歩く。
 鉄錆色の線路と妙に鋭角なフォルムで空へ伸びていく夏草たちを、朝の光が照らしている。全てが終わってしまった後のような、夏の朝のいつものあの、どうしようも無い、といった感じの景色である。
 しかし他はどうだったろうか。どうにかしようがあったのだろうか。朝の十時とかだけならなんかふわふわとした日の光に、どうにかしようがあるような気がしたこともあるけれど、どうにかなったことなどあっただろうか。解らない。もしかしたらいつのまにかくるくると、どうにかなってきたのかもしれない。
 子供の頃から絵ばかりを描いてきた少年は画家になった。多分あと三十枚ほど絵を描いて彼は自殺してしまうだろう。あたしはさっき彼を見てきたから解るのだ。彼のアトリエでヌードモデルとして、六人の女たちとともに詩を朗読してきたのだ。詩集が三冊渡された。あたしたちは裸のまま、それを三回ずつ読んだ。画家はあたしたちを殆ど見ないまま筆を動かし続けていた。
 ドアを開ければオープンカーと音楽。そして花束。あたしは選ばなければ。選ばなければならない。選ばなければならないのだ。ああしかしどうしよう。どうしても選ばなければならないのだろうか。選ぶのでは無く、創るという選択肢は無いのだろうか。あたしは鉄の棒を拾い上げ、それを工具に差込みくるくると回して、ネジ山を切った。からからと音を立てて鉄クズは鉄サビ色の線路へと落ちていく。たった一本を切るだけなのに、ひどく時間がかかってしまった。驚くほど時間がかかってしまった。画家はもう六十枚も絵を描いている。六十一枚目の絵を、描き始めている。がたがたと音を立てながら始発電車が目の前に迫っているのが見えた。あたしは二本目のネジにとりかかる。今度はさきほどよりはだいぶ早く切り終えることが出来た。始発電車は朝靄を切り裂き、線路中に置かれた絵をばらばらに粉砕しながら通り過ぎて行き、あたしは、ああ、朝が終わるのだ、と感じる。朝が終わるというのに「全てが終わる」とそれが同義では無いのは何故なのだろうかという疑問をふと覚える。
 乗客達が手を振っているのが見えた。花束はネジが数本混じり、持ち上げるがちゃがちゃと鳴った。あたしはこの花束を画家に渡そうと思い、絵の欠片がばらまかれ、どうしようも無い、どうしようも無い、ああ、どうしようも無いのだ、と感じさせるこの美しい線路の上を歩く。


#20

君と、あなたと

 「君と恋がしたいな」
 そういって男は微笑んだ。全然カッコ良くない。なんなんだ。私の何が彼にそうさせるのだろう。
 「僕と君なら、絶対にうまくいく」
 彼はそういうのだけれど、私のことを<君>だなんて呼んでほしくない。だいたい今までは<君>だなんて使わなかったくせに。
 「もう少し飲むかい?」
 そうやって彼は自分のモヒートに手をやるわけだけど、果たしてカクテルを手にしているところを見るのが初めてだ。彼はいつもビールかウォッカライム。私ばかりがいつもモスコミュールごときでフニャフニャに酔ってしまう。
 「またモスコミュール?」
 またモスコミュールなんだけど、私は今日そんなに酔っぱらうつもりはない。まだ二杯めだけど、明日朝イチでちょっと大事な会議があるのだ。珍しく「私企画」のプロジェクトだ。最近は補佐ばかりだったのでかなりはしゃいで下準備をした。もう完璧。だからプレゼン前日にも関わらず彼の誘いに乗ったのだ。前祝いみたいなものだ。
 「あまり酔うつもりはないって、そんな、酔わせるつもりはないよ」
 酔わせるつもりはないよときた。酔っぱらわないくらいなら酒なんて飲むな、は誰の言葉でしたっけ。
 「君と恋がしたいな、の答えが聞きたい。あまり答えを求めているような言い方じゃないけど」
 私は彼とはセックスだけで繋がっている。彼がどうかはよく知らないが、私は恋とか愛にのめり込めないところがあって、一度も真剣に誰かを好きになったこともないし、愛したこともない。異性に興味がないだけかもしれないと思って色々試したが、やはりどちらかというと男性の方が好きだし、だいたい性欲自体はある。男性の性器が入ってくるのを想像しただけでもうたまらない。でも、誰か特定の異性を思い浮かべたり、芸能人や映画スターが好きだったりすることはない。自分でもよくわけがわからなくなってしまうが、これは受け入れなくてはならない事実のようだ。
 辛くみえるかもしれないが案外そんな事もなく、セックスだけって男性は得意なのか、イヤ、私が巧くやっているのもしれないが、相手には不足しないし、たまにはお金にもなるし、二度三度抱かれると良い食事にもありつけるので、ずいぶん良い思いもしていると思う。
 「・・・・・・・」
 え?
 「だからつまり答えはノウってこと?」
 そうね。恋とか愛って私には向いてないのよ。あなたのモノだけが私には必要なの。もう行くわ。


#21

むかし語り

 身の丈七尺四十貫、誰に似たのか大男。
 畑仕事を任せれば、一昼一夜で十反の
 荒地を開墾したそうな。
 あまりの強力豪腕に、人間業とは思われず
 鬼のようだと噂され、いつしか鬼と呼ばれてた。

 怖い怖いと皆が言う。
 通り過ぎるだけのこと、誰にも何もしとらんが、
 怖い怖いと皆が言う。
 おいらが怖いと皆が言う。

 痛い痛いと皆倒れ。
 急いで薬草煎じたが、それでも病人増え続け、
 お墓がいっぱい立てられた。
 おいらのおかんも土の中。

 熱い熱いと皆騒ぐ。
 戦の火の粉が飛んできて、急いで水をかけだけ、
 お前のせいだと皆が言う。
 禍運んでくる者と、村の皆がせめたてる。

 あまりに皆がせめるので、おいらはお山に引っ越した。
 炭焼き小屋に引っ越した。
 ここなら姿の見えぬ分、誰にも何も言われるまい。

 ある日お城の殿様が、おいらの姿に驚いて
 馬から下りて来なさった。
 狩りの途中に来なさった。
 お前の身の丈、腕力で、刀を一振り下ろしたら
 きっと次の戦では、大きな力になるだろと。

 言われるがまま殿様の、お馬の後を追っかけて、戦の場に赴いた。
 もらった刀を振り下ろしゃ、敵方ばたばたぶっ倒れ、
 おいらは初めて褒められた。
 生まれて初めて褒められた。

 刀振る、おいらの姿を鬼のようと
 口をそろえて皆が言う。
 言われて我が手をふと見ると、
 洗い流せぬ人の血に、染まっているのに気が付いた。

 慌てて刀を投げ捨てて、おいらはお山に駆け戻る。
 鎧も褒美もいらぬから、静かにひっそり暮らしたい。

 ある日旅の坊様が、一夜の宿を求め来た。
 囲炉裏を囲むそのうちに、何故に一人でこの場所に
 隠れるように住まうのか、問われたままに答えたよ。

 麓の皆が口々に、おいらを鬼だと言いたてる。
 皆が言うなら遠からず、おいらは鬼になるのだろう。
 角つき牙はえ爪伸びて、異形の姿になるのだろう。
 怖いも痛いも熱っついも、今のおいらにゃわからんが
 一人で寝る夜の寂しさは、他の誰より知っている。

 坊様黙って聞いた後、おいらに向かってこう言った。
 いくら待っても焦がれても、角も牙も身につかん。
 お前は正真正銘の、人間でしかありえんと
 坊様おいらに言いながら、両手で首を絞めてきた。

 このまま瞳を閉じたなら、おいらはあの世にいけるだろう。
 怖いも痛いも熱っついも、わかる所にいけるだろう。
 おかんと一緒に埋めてくれ、
 おいらが最後にそう言うと、坊様黙って頷いた。


#22

言いたいこと

 高いところに登ると遥か遠くまで見渡せてしまう。実際はそうではないというのに、何となくその光景が全て自分のものだと勘違いしてしまうなあ、と里美は思った。
「もうダメだわ、さとちー。暗くなっちゃった」
 花水木という名の友だちが、屋内展望台に備え付けてあった双眼鏡から目を離す。渋い顔の彼女に向けて里美は苦笑した。
 エレベーターで下降して、近くの出店でお弁当を購入する。人の波をくぐり桜並木の下の石垣に腰掛け、手を合わせた。
「いただきまーす」
「わお、桜弁当。豪華」
 里美が食欲に満ちた一言を呟くと、花水木が、そういえば、と話を切り出す。
「桜の花びらが舞い落ちたお弁当を食べると、その日から一年無病息災だって。どこかのテレビ番組でやってたよ」
「へえ。でもそれ何だか嘘っぽいね」
「だよねえ」
 二人けらけらと笑いながら、その実、落ちてこないかと上を密かに睨む。しかし風の神様が花びらを舞い散らせるには、まだ少し時期が早かった。
 食後ぶらぶら歩いていると、公園の片隅に小さな鳥居を発見する。それをくぐり本殿でお参りをした後、脇の重軽石に近づいた。
「お、いいところに」
 花水木は石をぺちぺち手の平で打ち、持ち上げる。
「おもたいっ」
 里美も倣って隣に並んでいたもう一つの石で同じことをしてみる。それから瞑目した後、三度手の平でなでて、持ち上げた。
「うーん、軽い、のかな」
「ねえねえ、さとちーの願い事って何」
「彼氏ができますように」
 くくっと笑う相手に、里美が眉をひそめる。
「じゃあ花やんは」
 花水木は相変わらずくくっと笑う。ふてくされて里美は歩きかけた。
「すべて、うまくいきますように」
 その言葉に振り向いて、また彼女はそっぽを向いて歩き出す。境内の奥にあるハイキングコースの山道へ、花水木も黙ってついていった。
 名前も知らない鳥の鳴き声が微かに響いたところで、前を歩いていた里美がいきなり振り返った。少し面食らったように花水木は瞬きをする。
「花やん」
「はい」
 素っ頓狂な声を上げた相手に、里美は息を吸って、吐いて、はっきりと口を動かす。
「転勤してもさ」
「……はい」
「清く正しく美しく生きてね」
 そしてじっと見つめ合う。
「何それ」
 引き結んでいた口を解いて里美は笑い転げ、表情を緩めた花水木の質問にも答えられない。鳥が驚いて飛び上がるのにも、向かいから来た人が目を丸くするのにも構わず、二人ずっと腹を抱えて笑っていた。


#23

馬切茂作

 百姓茂作は初陣で小便を洩らした。ふんどしから尿をシトシトたらしつつも、ひたすら南無阿弥陀仏をとなえ、滅茶苦茶に槍をブンまわしていると、そこへ不運にも踊りかかった名のある侍大将の、ただし乗馬の首に当たってしまった。肉を突いた手ごたえにあわてふためき、茂作は一目散に逃げ出した。手負い馬にふり落とされた武士は、ほかの連中の袋だたきにあって死んだ。小便のぬかるみのなかで。
 仏の冥助であろうとみながたたえた。茂作の槍は「馬切」と呼ばれた。しかし当人は小便のことばかり悔やんでいるのだった。
 だから以後、いくさにのぞんでは小便を洩らさない程度の奮闘に徹して、つまり敵などいない場所で慣れぬ槍をブンまわすことにした。そのうちに彼の属する一揆は仏の冥助か連戦連勝、どんどん人が増えるとともに、茂作の無意味な活躍の場も増え、ついにはまったく活躍しなくなった。
 今度のいくさも茂作に戦意はない。小山の中腹にぼんやり腰をおろして、頂上にいる幹部連の怒号と、ふもと遥かにとどろく敵味方の叫喚とのあいだで、しかし彼は地面に列なす蟻をながめている。
 これまでの野戦とちがって、さすがに勝てまい。平地の平城とはいえ、坊主のひきいる百姓が、武士の守るそれを落とせるわけがあるまいと、ハナから茂作は決めつけていた。
 ともに参じた村の仲間はみなとっくに死んだ。一向宗徒だからというよりも、村へ帰るに道づれがないから茂作はここにいる。ここで死んでもいいような気はするが、風にかすかににおう血のかおりにすら尿道がうずくのだ。小便を洩らしながら死ぬのはいやだ。
 視界を蟻たちが去ったころ、戦況は急転したらしい。太鼓の合図が教えてくれた。やがて、わめきながら小山を駆け登る者がある。
「城主どの御自害」
 武士は大変だ、と茂作は思った。馬切を杖にようやく立ち上がり、かなたを見れば城から煙が一すじ二すじ。今は叫喚も絶えて、妙に静まりかえっている。
 山を下りて野を歩く。そこは人馬の足にたがやされた屍体畑だった。半裸の百姓と鎧のさむらい、ほとんどが前者だ。点々と転がる死相ににらまれて、しぜん歩きかたがおかしくなる。
 股間をおさえて尿意をこらえ、城に着いたときにはクタクタだった。門を入ると今度は武士の屍体で足の踏み場もない。思わず南無阿弥陀仏と口ばしり、茂作は槍で死人をかきわけ、酒盛りの気配を目ざした。このとき初めて馬切は、人血にけがれた。


#24

釜の中

 電気釜の中には五日ほど前に炊いた米がまるまる残っていた。炊いたはいいが何かの拍子に食いそびれ、そのまんま幾日も忘れてしまっていたのだ。まだ腐ってはいないかもしれないが、痛んでしまっていてもう食べることが出来ないだろうから処分しなくてはいけない。しかし、気がついたのは二日も前のことだというのに、何故だか未だに開ける気になれないでいる。
 潔癖症というほどでないにしろ、どちらかといえば几帳面な性格をしている僕にしては随分と不思議なことだった。たぶん、三合も炊いたのに、そのことをすっかり忘れていた自分が腹立たしい所為だろう。それでは尚の事、釜をすっかりきれいにしてしまい、こんなことなど忘れてしまえばよいものを、それでも何故か、釜を開ける気にはなれないのだ。
 さしあたって腹が減っている訳でもないし、蝿がたかったり匂ったりすることもなく、格別不便はなかった。 
 しかし、どうして僕は三合も米を炊いたのだろう。一人暮らしで、特別大食らいという訳でもなかったから、三合も炊いたら余してしまうのは間違いなかった。誰か来客の予定でもあったのだろうか。いや、手料理を振舞うほどの親しい友人など一人もいはしないし、今、肝心なのは電気釜の中身を始末するということであって、米を炊いた時のことなど些細なことなのだ。そう改めて思うもやはり釜を開けてみる気にはなれないでいる。
 なんとはなしにテレビをつけると、身元不明の首なし死体が見つかったというニュースをやっていた。発見場所は僕の部屋からそう遠くないと言えなくもない所で、何故だか急にドキリとして、何かよくない連想が浮ぶのだけれども、もちろんそんなはずはない。あるはずがない。何なら釜を開けて確かめてもよいと思うのだけれど、よくわからない別の気持ちが働いて、それを押し止めた。確かめるまでもないのだ。あの中には五日ほど前に炊いた三合の飯がはいっているだけで、確かに痛んではいるだろうけれど、それは何も不審なものではない。そうこう思ううちにニュースは終わっていて野球の中継が始まっていた。先程のニュースなんてきっと僕の思い違いか何かなのだ。そうに違いないと一人頷きながら、何故だか、子供の頃、誕生日に母親が作ってくれたオムライスのことを思い出した。
 そういえば、五日前は、僕の誕生日だったような気がした。


#25

坊主

 ヘルメットの隙間から入る風が頭を撫でる。それがくすぐったくて、聡はペダルをこぐ足を止め、自転車を惰性で走らせた。片手でヘルメットをずらしてはみるものの、やはり違和感は残る。
 聡が坊主頭にしたのは昨日のことだった。野球部なわけではないし、反省することがあったわけでもない。ただなんとなく、自分には合っているような気がして、ラクでよさそうにも思え、坊主頭にしてみた。妹には笑われたけれど、そう悪くないなと自分では思っていた。床屋のおばちゃんには、頭のかたちがいいからかっこいいよ、とも言われたのだ。
 しかし、いきなり坊主にしてみんながどう思うかと考えると、聡はちょっと不安になった。スポーツもやらないのに坊主だなんて、なかなかいない。スポーツどころか自分は書道部だ。けど、ある意味でそれは、書道部にふさわしい頭だと言えなくもない。坊主頭で墨を磨るなんて、なかなかさまになっている。
 聡はペダルにかけた足をゆっくりと回しはじめた。ハンドルをしっかりと両手でつかみ、頭のくすぐったさを振り払うように、スピードを上げる。なんとなく、いつもより自転車が軽く思えた。

 パンをまだ飲み込まないうちに「ごちそうさま」と言って、秋仁はすぐに洗面所へと向かった。鏡に映るその丸い頭があらためて不思議に思えて、鏡で確認しながら頭を撫でてみた。確かにきれいな坊主になっている。
 秋仁はさらさらの髪が自慢だった。私立の男子校を選んだのも、長髪が許されているからだった。男子校で長髪をなびかせても空しいと今頃になって気付いたけれど、小学六年のときそんなことにはまったく思いが至らなかった。
 けど、別に坊主にするつもりなんてなかった。朝子が急に「坊主がいい」なんて言い出すからだ。あの甘えた声で言われてはしょうがない。
 いつものクセで棚にあるムースについ手を伸ばしてしまい、秋仁は苦笑する。もう、スタイリングなんて何もいらないのだ。そのぶん、五分ほど遅く起きてもいいのだということに気付いて、秋仁は嬉しくなった。
 玄関のチャイムが鳴って、それから母の声が聞こえてきた。
「秋仁ー、聡くん来たわよー」
 秋仁は急いで準備をし、ヘルメットを手にして立ち止まる。迷った挙句、とりあえずヘルメットで坊主頭を隠すことにした。いきなりびっくりさせることもない。
「いってきまーす」
 いつもよりちょっとだけ元気な声でそう言って、秋仁は玄関に向かった。


編集: 短編