第22期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 地球色 三浦 883
2 崖のほとりで 神藤ナオ 427
3 あの人 空野大地 619
4 (削除されました) - 1000
5 憎しみについて でんでん 999
6 壮大な風呂掃除 Shou 1000
7 巨人 桑袋弾次 465
8 遮断機越しに 戸田一樹 981
9 首狩大名 森栖流鐘 696
10 黒木りえ 1000
11 ユウ 931
12 教えて☆ガン告知っ 清水ひかり 999
13 Antipodes 市川 973
14 ぼくのビンラディン 朝野十字 1000
15 江口庸 784
16 波のない海 神差計一郎 1000
17 隣の男 長月夕子 1000
18 『移り木』の椅子 五月決算 1000
19 夏ループ 朽木花織 967
20 「タイタニック」というお題で、陳腐ではない話をしろ 妄言王 1000
21 花を抱えて るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
22 マジカル・マナ 川島ケイ 1000
23 さまよい街 曠野反次郎 944

#1

地球色

 「『地球色』を使った作品を仕上げなさい」という御達しがあってからもう彼是一ヵ月が経ってしまった。
 提出期限は迫っていた。
 ああ思いつかないっ。誰かわたしに絵のアイデアをください!

 「そんなん、なんか環境問題を訴えてますうみたいにすりゃあいいんだろ?」
 当然だろう、という顔をしたのは誠だ。環境問題か。うーん、弱い。
 「俺はテロリズムで攻めてってるけど……」
 大輔はまだ試行錯誤といった感じだ。大輔に難しいものがわたしに扱えるわけがない。
 「愛、愛。ラヴとピースでしょ。愛は勝つ! ラヴとヴィクトリー!」
 多恵のは夢見過ぎ。掘下げれば確かに深いテーマではあるけど安易。
 あーまいった。このままじゃ単位が……。むう仕方ない、結局あの手でいくしかないか!

 「柏さん、花を表すのにただ花を描いたのではいけないという言葉を知っているかな?」
 「ええ、まあ、耳にしたことくらいは……」
 「地球色で地球を描いてもね。幼稚園児じゃないからさ。絵画は落書きとは違うよ。訴えるものがないと」
 「……はい、すみません」
 返却されたカンバスを見てみた。黄色黒い地球がその中に浮かんでいる。これじゃあ確かにそのままだ。先生の深読みを期待したことが堪らなく恥ずかしく、苦しかった。

 「あーなにこれ。返されたの?」
 部屋に置いておいたカンバスを妹が嬉しそうに眺めていた。人の不幸は密の味か。
 「ふーん……でも、あたし好きだけどね」
 「うそ、なんで?」
 「なんかさあ、あたし達って宇宙の中で独りぼっちなんだなあって気になっちゃうもん。こんな汚い星だし、宇宙人も寄りつかないだろうしね。なんか悲しい」
 言葉を失った。わたしは何も感じないままに描いたのだ。

 それ以来、なんにも手につかなくなった。

 留年が決定し、季節がひとつ過ぎて、夏。
 わたしの足はようやく意志を持ち、図書館へ向かっていた。靄になった雨は半端な弾力で、けれどもわたしの体を素通りしていく。
 図書館は冷えていた。風邪をひきそうだ。
 「すみません。『地球色』について載っている本ってありますかね……」
 司書は、のらりくらりと捜し始めた。


#2

崖のほとりで

 夕日の陽光に赤く凪ぐ春の海 見下ろしつつ、彼女は崖の先端に立って、僕は潮風にふわりと揺らぐ彼女の髪のかすかな匂いを、鼻に感じておりました。


「やっぱり、私、迷惑はかけられない」

「えっ?」

「ごめんね。でも、もう、だめよ。このままだと 私 あいつに殺されるか、あいつを殺してしまう。あいつから逃れられないなら、もう、私が死ぬしかないわ。今までありがとう、ごめんね」


 彼女はそう言うと 僕の止める手が彼女に達する前に、崖から飛び降りていきました。

 崖から身を乗り出して手を伸ばす僕 虚空をすべり落ちていく彼女  夫から殴られていた彼女 ようやく自由になれるはずだった彼女、・・・ようやく 僕と 一緒に生きていけるはずだった彼女。

 呆然とする僕の下で、砕ける水面 上がる水しぶき 一瞬だけ飛ぶ血。

 やがて静かになった海の上には、彼女の無残な後姿と、今さっき僕が海に突き落とした 彼女の夫の 青白い顔が、赤い夕日に照らされて 静かに 揺れつつ 浮かんでおりました。


#3

あの人

あの人と出会ったのは、僕がお腹をすかせて町の近くの林を歩いていた時です。
「どうしたんだ、おなかでもすいているのかい?」
と言って、ポケットに入れていた『カルシウムたっぷりニボシ』を僕にくれたのでした。
それが僕とあの人の出会いです。親も仲間もいない僕は優しい気持ちになったのでした。
それから毎日、雨の日も風の日もあの人は僕にニボシを持ってきてくれました。
いつかは来なくなるだろうと思っていましたが、あの人は本当に毎日毎日きてくれたのでした。
僕はあの人が来るのを心待ちにするようになりました。
いつもニボシを持ってきて食べ終わるまで待ってくれる優しい瞳が好きでした。
食べ終わった後なでてくれる優しい手が好きでした。
僕はあの人が本当に好きだったのです。

ある日、あの人と一緒に知らない女の人が来ました。
僕はとてもうれしくなりました。
また新しい人間の友達ができると思ったのです。
しかし、それ違いました。
「えっ、これってイリオモテヤマネコってやつじゃないの?」
「そうだけど……一人ぼっちでかわいそうなんだよ」
「まずいんじゃないの勝手にエサとか与えちゃ。」
「そうかな……でも……」
「私、天然記念物って嫌い。」
その日から、あの人は来なくなりました。
また、僕は一人ぼっちになってしまいました。
毎日、悲しく泣きました……でも、僕は待っています。
あの人は雨の日も風の日も来てくれました。
だから僕は待っています、雨の日も風の日も……
――もう一度、あの人に会いたい――


#4

(削除されました)

1969年
アルゼンチン大使河崎一郎、『素顔の日本』を著わす。「ピグミー族とホッテントットを除けば、恐らく身体的な魅力といった点で最も劣っているのは日本人であろう」。

同年
第61回国会
委員の異動 辞任 土屋義彦 補欠選任 石原慎太郎
西村関一 河崎氏の書かれました「素顔の日本」、私としましては河崎大使がまあいわば罷免される様な理由が見当たらない。外交官としての言論、表現の自由という、また、ある意味において日本の真相を知らせるという立場から書いておられるという風に解釈したのでありますが、大臣、あの著述について大臣は非常にお怒りになったと、そしてあのような処置をとられたという風に漏れ承っておるのでございます。
国務大臣 愛知揆一 私としては外務省の事務当局にも相談をした上で、こういう物を大使として書かれてあれするのは困ると思うがこの際一身上の進退についてどう考えるかという事を旅行中に連絡を致しまして、本人から辞意の表明があった訳です。
理事 森元治郎 外交官の中にキザなのがいるんですよ。日本人に会いたがらない大公使や役人がいるんです。あの野郎とめし食うとまずくなると。誰と会うかというと、外人。その外人もよくしたもので、白いのとしか会わない。白いのとは盛んにこれやるが黒いのとはやりたがらない。黒とそれから黄色いほうもだめ。

同年
日米間で沖縄返還交渉開始。米国側責任者はキッシンジャー大統領補佐官。日本は佐藤栄作首相、外務大臣愛知揆一、自民党幹事長福田赳夫。形式的にはロジャー国務長官と愛知外相とで交渉が進められたが裏では佐藤の黒子で吉田と言う名を使った若泉敬とキッシンジャーとの間で進められた。

同年
沖縄米軍基地で毒ガス兵器爆発事故。米軍、化学兵器貯留を認める。
愛知揆一外務大臣「特に感想もありません」。

1994年
若泉敬、核持込の密約の存在を著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で暴露。直後急死。

2001年
参議院外交防衛委員会
田英夫 愛知揆一さんによると俺がやめさせたんだよと、作家になった方がいいよと言ったんだよと。彼は作家になりました。書斎にこもる作家になった。まるでタイムカプセルに入っている様に、外を見ると世間は全く変わっていると、昔のままの彼の目から見ると全く堕落していると、自衛隊を含めてそう思えたに違いない。最後の彼の割腹自殺はそういう結末だと私は思う。


(国会議事録や新聞記事等からの抜粋)


#5

憎しみについて

 高校の卒業式の日、私は同じクラスの女の子から、奇妙な告白をされた。
「こんなことを言うからって、怒らないでね」その女の子―庄野さんとしておこう―は、廊下に出た私を前に、長いこと迷ったあげく、こう宣言した。「あたし、あなたのことが嫌いだったの。いやでいやでたまらなかった。あなたの声が聞こえてくるだけで席を立って叫びだしたくなるくらい、いやだったの。殺したいと思うくらい」
 こんなことをうち明けられた人間は、いったいどう振る舞えばいいのだろう? 相手が走り去っていくのを見送りながら、さしあたり私は、途方に暮れた時にとりあえずすることをやってみた。つまり笑い出した。帰宅する道すがら、私はずっとにやにや笑いを頬にはりつかせていた。
 怒りがこみあげてきたのは、その夜遅くなってからだ。
 いきなり人をつかまえて「憎んでいる」? 私が何をしたと言うんだ? それにあの口ぶり。「怒らないでね」と言ってこちらの怒りは封じこんでおきながら、自分の感情は容赦なくぶつけにかかる、汚いやり口・・・
 わかった、と私は呟いた。こっちだって憎んでやる。それでおあいこだ。

 だが、それでけりがついたわけではなかった。
 そのことに気づいたのは、それから二、三日が経ち、突然眠れなくなり始めた時だった。私は庄野さんの言葉や表情、しぐさを思い出し、あれはあれで彼女なりに悩んだ末の結論だったのだろう、と考え直した。あの時、庄野さんは詰問でもされたように、追いこまれ、切羽詰まっていた。そして自分自身の憎悪に怯えるように、始終震えていた・・・

 眠れない夜は一週間続いた。いつのまにか憎悪は消え、後には答えのない問いだけが残った。

 さて、今はと言うと、もちろん私は割り切っている。私は庄野さんに直接、不快に思われることを言ったりしたりした覚えはない。庄野さんは勝手に敵意をかきたてたのだ。さもなければ、何か誤解があった。どちらにしても私に責任はない。私に責任がないことについて、どうして思い煩う必要があるだろう?
 ただ、仕事でワープロを打っている最中や、食堂で昼食をとっている時、あるいは夜更け、友達と長電話をした後で受話器を置いた瞬間、突然、何の脈絡もなしに、庄野さんの声や言葉をはっきり思い出すことがある。そういう時には、ちょっと立ち止まるように、その意味を考えてみる。誰かが自分を殺したいほど憎むということの意味を、考えてみる。


#6

壮大な風呂掃除

「私が涙ぐむことは全くない。涙を分泌することはあるかもしれない、生理的にだね。しかしちょっと考えてもみたまえ。挑戦に応じるがね、村山顧問。私は君みたいなぶしつけ者ではないがね、それでも男のつもりだよ。老廃物を体から排出しない者がこの場にいたら発言したまえ。以上だ。」

みだれ髪の顧問が自分の席に付くとすぐ隣の興奮した年配の顧問が立ちあがった。周りの顧問はお互いの言葉に耳を傾けようとはせず書類を持って席から席へと駆け回る男の子に何か大声で叫んでいた。
議長は息子の外泊許可書を睨みながら何やら唸っていたが、次の顧問に発言するよう促した。するとまるで主題からそれた議論のようにレーザーが議長を直撃した。顧問の一人がキーホルダーのレーザーをいたずらに辺りに遊ばせていたのだ。議長は深く唸り、レーザーをしまうようにと命じた。するとつい先ほど発言したみだれ髪の顧問が独占的に立ちあがり、何やら喚き始めた。発言を許されていた顧問はにわかに不機嫌になり二人は言い争いを始めたが、背後の叫び声でその内容が何かまでは分からないのだった。
興奮が漸増する中、議長は木槌を自分の机に叩きつけて叫んだ。

「何も聞こえません。発言する顧問は自分の番を待ってから発言するようにして下さい。では山村顧問どうぞ。」

不機嫌になった年配の顧問は興奮に息を切らせながら、ぎざぎざな声で話始めた。

「いいですか、もはや疑問の余地はない。田山顧問は実際に涙を流し、それはそれで事実なのです。男は感情というものをこ…」

山村顧問がそこまで言うと保守的な年配の馬鹿めという声が上がり、次々に我々はどこにも行ってないぞという声があちこちから上がるのだった。山村顧問は顔を真っ赤にしながら続けようとしたが議長が木槌を叩きつけた。

「議論はここまで。最後に投票をします。コンピューターに提案への賛成か反論をインプットして下さい。」

部屋は静かになり、一列ずつ並ぶコンピューターに向かう顧問達の汗が、涙と混じって黒く光るのだった。

「投票の結果が出ました。賛成1票。反対1票。残りの発声投票37票は認められません。それでは、これにて」

部屋は拳を振り上げる顧問や怒号から部屋を逃げる顧問でろうばいにつつまれた。キーホルダーのレーザーを手にした顧問がレーザーを議長の目に当てようとしたころにはすでに呼ばれてもいない機動隊なのか、催涙ガスだという叫び声が背後から聞こえてきた。


#7

巨人

「のりをください」
「たべるほうですか」
「貼るほうです」
 男は倉庫へ行き、眠っていた巨人を運び出した。
 重労働であった。朝から始めて、たっぷり夕方までかかった。
 疲れもあったが、充足感がまさった。
 まだまだ俺もやれるもんだ。男はまばらになった前髪をていねいに後ろへ撫でつけた。
「おまちどうさま」
 女はタイムカードを押す手をとめて、巨人を見上げた。身長二メートル、なにより隆起した筋肉がまぶしかった。倉庫から出す前に、男はワセリンを塗りつけておいたのだった。
「いえ、わたしは『貼るほうです』と言ったのです」
 事務室の小さな窓から夕日が差し込み、女の横顔に暗い影を落としていた。
「鮫島さんは、いつもそうなんだよ」と言って、男はハルクホーガンを事務机に立てかけた。「自分が常に正しいって思い込んじゃうんだよ。少しはさ、自分の言い方がおかしかったんじゃないか、とか、曖昧な発音だったかもしれない、とか、疑ってみるべきだよ」
 女はタイムカードを押した。ああ、五分過ぎちゃった、と呟いた。巨人はうつろな視線を二人に向け、爪の甘皮をいじっていた。


#8

遮断機越しに

 踏切は警笛を鳴らし続けていた。少年と老婆と、そして自転車に乗ったセーラー服の高校生が、向こう岸で遮断機が開くのを待っていた。
 開かずの踏切という異名は、昔も今も変わることなくこの地に息づいているらしかった。そのおかげで、待つことに怒りや苛立ちを覚えるものは誰一人としてなかった。
 轟音を響かせて電車が右から左へ行き過ぎていった。遮断機越しに視界がぼやけて見え、瞬きをすると元の景色が蘇った。
 遮断機はまだ開かなかった。警笛は単調な音を辺りに撒き散らし続けていた。
 のっぺりとした灰色の空に、やけに黒いカラスが一羽飛翔してかあと頓狂な声を出した。
 轟音を響かせて今度は左から右へと電車が行き過ぎた。遮断機越しに視界がぼやけて見え、瞬きをするまで元の景色が蘇ることはなかった。
 遮断機はまだ開かない。踏切の向こうで、少年と老婆と、そして自転車に乗ったセーラー服の高校生が、さっきと変わらぬ様子で警笛が止むのを待っていた。
 腕時計を見た。もうすぐ3時だ。そういえば少し腹が減っているような気がした。
 轟音を響かせて電車が行き過ぎた。今度は腕時計に目をやっていたせいで、ぼやけた景色を見ることはなかった。
 警笛が止んで、遮断機がゆるゆると上がった。
 自転車に乗ったセーラー服の高校生と、老婆と少年とすれ違い、線路をわたり終えるとまた背中で警笛が鳴り始めた。
 ふと何かを忘れてきたような気がして背後を振り返った。
 自転車に乗ったセーラー服の高校生も、老婆も少年ももうそこにはいなかった。
 轟音を響かせて電車が行き過ぎていった。遮断機越しにぼやけて見える景色を、今度は瞬きもしないで眺めていた。
 呆然と立ち尽くしていると、ぽんと肩をたたくものがいた。
 「久しぶりじゃないか。よく戻ってきたね」
 「うん、悪かったね。ずっと忙しかったんだよ」
 「この道を真っ直ぐにお行き。お前の好きだったパン屋さんがまた店を出しているよ」
 「ありがとう。姉ちゃんも元気してるの?」
 「元気だよ。でもさっき買い物に出かけてしまったけれど」
 少年は心配そうな老婆には脇目も振らず、、パン屋のあるらしい方角へ向かって勢いよく走り出した。
 カラスが電柱のてっぺんに留まって、それきりぴくりとも動かなかった。
 踏切はなおも警笛を鳴らし続けていた。遮断機越しに、向こう岸の風景がいつまでもぼやけて見えた。


#9

首狩大名

とあるところに首狩大名。三日に一度は領内の、かはいゝ子供をひつ捕らへ、その首じよきりと切り取つた。
さても鬼畜の所業なり、泰西青髭凌ぐほど。 とあるところに少女が一人。首狩大名が領地、旅の序でに訪れてみた。
少女の見目は麗しき。大名早速目をつけて、部下を引きつれその元に。
 「おまへの首があゝ、慾しい。どうか讓つてはくれんかな。それでもだめと言ふのなら、力ずくでも取らうもの」
少女はしかし、首を振り。 
 「妾と腕の相撲取り、勝つたらこの首くれてやらう」
大名勇んで、
 「戲け者。お主がやうなか弱き乙女に、幾戰場を驅け拔けて戰の首とりした儂に、勝てるんなどゝは笑止千萬。早速勝負してやらう」 かうして袖を捲り上げ、筋骨隆々たるその腕、少女の白き細腕をがつちと掴み、相對峙す、もはや勝負や見えたよな、ものではあるが、群臣もさすがに少女に哀れなる、心を起こしてをりました。
ところがどうだ、首狩大名、額から出る玉の汗。
 少女の腕を倒すどころか、逆に自分が倒された。
 少女は莞爾。大名の、呆けた顏の隙を見て、その太刀奪ひ、鞘から白刄取り出し、大名のぼんのくぼ目掛け、ぶすりと太刀を振り下ろす。
 大名ひと聲「あ・・・」と言ひ、後に殘つた自分の體。じつと見つめて息絶えた。
 その顏、至極恍惚の顏。
自分の首を切ることは、一度もやらず首切大名。その本當の幸せをとても知ることできなんだ。
 しかし今少女のおかげ、自分の首を切ることの喜び知つた首狩大名。
 並み居る群臣即鞍替へ。それから後はその少女を首狩大名と仰いだが、少女は僅か三日間滯在したゞけ、
 「ぢやあね」
 と、一言言つたかと思ふと、
千里の果てへ驅け去つた。


#10

 黒く重たい、冷蔵庫のなかで固まりかけた蜂蜜のようにもったりしたものに、のしかかられている夢をみた。それが夢であることがわかっていながら私は、目覚めることも体を動かすこともできずに、ただ、じわりじわりと重さをましてゆくその黒いものを感じていた。
 重たい。けれど苦しくはない。
 うごかない腕を持ちあげたかった。恋人を抱くように、その黒いものを抱きしめたかった。
 そうだ。この重みは、恋人の体の重みにとてもよく似ている。情事のあと、脱力した男が体重をあずけてくるときの、重い、とおしのけるふりをしながら、もうすこしこのままでいてほしい、と思うときの重みだ。
 目は開いていないのに私にはのしかかってきているものが見えた、それはおおきな口をあけて私を呑みこもうとしていた。いや、口ではないかもしれない、それは広がって私を包みこんでゆこうとしていた。これは夢ではないのかもしれない。私はこのままこれに呑みこまれて消えてしまおうとしているのかもしれない。
 そう思った瞬間に目がさめてしまった。目を開けるよりさきに重みは遠のき、けれどのしかかられていた感触のなごりがまだかすかに、胸と腹のうえにわだかまっていた。
 ゆっくりと体を起こす。身じろぐたびに、体が覚えている夢の感触がつぎつぎに空気に溶けて消えてゆく。動かないでじっとベッドに横たわったままでいれば、それをずっと感じていられるのかもしれないけれど、起きないわけにはゆかない。
 よく見る夢、いや、見るというのは正確ではない、視覚ではなく触覚に訴えてくる夢だ。水よりもずっと重い、黒い色のなにかをたたえた水槽に沈んでゆく感触を天地いれかえたように、ゆっくりとその黒いものは私にのしかかってくる。
 このまま起きないでいられたら、最後にはどうなるのだろう。顔も体も呑まれたらどうなるのだろう。けれど、いつもからだが半ば呑みこまれたところで目が覚めてしまう、完全にそれに包まれたことはない。
 起きないでいたいと願うことは間違っているだろうか。私は異常なのだろうか。恋人を望むようにその黒いものを望むことは間違っているのだろうか。
 起きあがり、ベッドのはじに腰かけたままで、すこし汗ばんだ肌のうえから立ちのぼるように消えゆこうとしている感触を追いかけようと願い、けれど手をのばすこともできずにいる私の思いを断ち切るように、朝の光より軽やかに、そのときノックの音がした。


#11

 支柱を交互に避けながら、思い出す。
 天井から滴る水を見続けていた。コンクリのどこから滲み出ているのか子供には判らない。ただ、垂直な遮蔽物であると知らず、喩えるならブロック屏の風穴にあそぶ子蟻のように、大きなカゴに匿われた気でいた。ときおり頭上を通過する轟音に身構える。近接する一戸建のガラスが大袈裟に震え、通り過ぎる。あの児童公園で何をして遊んでいたか思い出せない――
 現在、かつての暗さが跡形もないのは支柱をさらに高く伸ばした所為であり、それを植物の成長になぞらえれば、僕もまた屏の全体を視野に収められる程度には丈が伸び、音と振動に怯えることも無くなった。ときどき僕は階段を駆け上り、息を切らせつつ辺りを見渡す。かなたの連山が眺望を遮っている。連山から流れ出す河川は平野の只中で堰止められ、永いこと澱んだままでいる。そこから発するにおいは退化した嗅覚に届かない。幾重にも取り囲まれた土地にすこしの息苦しさを覚えながら、誰もが呼吸している。

 カーキ色の作業服をまとい、階段を下りる。屏はさらに金網で囲われているが、乗り越え、群生した背丈ほどのススキを刈りとるのが課せられた仕事である。本当の屏であれば飛び越えていくことも容易かろうけど、十数メートルの支柱に底上げされた屏はもはや壁であり、そのじつ壁の役割すら果たしていない。柱の間をすり抜けていけるなら、何を目的に建てられたのか解らなくなる。いや、眺望を遮り、往来を妨げるために建てられた訳でもなかった。おそらくは自分の勘違いに過ぎない。だから早起きして支柱の間から差し込む日光に眼が眩んだとき、その向こう側へ行こうか、あるいは飛び越える手段を真剣に考えようかと思った。

 久方ぶりで列車に乗り、揺れが少ないことと静けさに感嘆した。屏は徐々に高度を下げ、街並に埋もれていく。一瞬、寂しさに似た想いに気付く。やがて郊外の開けた処にぽつんと現れるプラットホームと踏切。
 車掌に声をかけて降りる。ここにもまだススキが疎らに生えている。左右どちらからも来ないことを確かめ、大した意味もなく、助走をつけて単線を飛び越えた。

 なんだっけ――何もなかったんだっけ。
 心配することなんて無かった。

 小さな駅から、来た方角を望む。


#12

教えて☆ガン告知っ

 あー、どうしようどうしよう。どうしようもない。どうみたってコレ、ガンだよな? 逆さにしても裏から見ても、太陽に透かしてみても。だよねぇ、そうだよねぇ。転移しまくって末期も末期、まっきっきだよ〜。もーーーっ、絶対無理。治すのなんて不可能だよ〜〜。るーがるー……。いったい、俺にどうしろって? まぁ、とりあえず告知ぐらいはしよう。するっきゃない☆ いんふぉー、むと、こんすたんと……だったっけ? とにかくそんな感じのやつで、教えとく必要があんだよな。正直めんどい。でもねぇ、ぱっと呼んでぱっと言うっつーのも大変気まずかろう。やっぱ、オブラート――いや、ティッシュにくるんで言う必要があるよな……。どうしようか? そうゆうの案外苦手なんだよ、俺って。ガンです。違うな〜。ガンかもしれません。いや、これもまだはっきりしすぎか? ガン、だったらよかったのにね……。なんで願ってるかなぁ。千人中九九七人がガンだと言いました。全然、だめだめだぁ〜〜。だいたい、残り三人はなんて言ったんだ……。どうする、どうする、どうする、ど、う、す、るーーーーーッ♪ あっ、歌ってる場合じゃなかった。思うに、ガンってのが直接的すぎるんじゃないかな〜。別の言葉で置き換えてみよう。G・A・N! ガンッ!! だめだよね。あなたは〜、も〜う、わすれたかしらぁ〜♪ あか……、どこがガンに繋がっていくんだ? つーかさあ、こんな大事なこと言わなくてもわかるだろ……。はずかしいこといわせんなよ……。言わなきゃわかんないよっ! はっきり言ってよ、私をっ! 私を愛しているのならッ! 伝わってこないよ、あなたの愛が信じられない……。そうだよね、言わなきゃ伝わんないよね。だめだ、だめだ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ。僕が本当にやりたかったことってなんだったんだ? 大学だって……、大学に入りたかったのは母さんの方だろ? 僕は、本当は……。今しかないよ、今しか。今、本当のことを言わなかったら、僕は僕は僕は、ずっと、このさきずっと後悔することになる。だから、言わなくちゃ――。
「次の方どうぞ」
 やつれた、四十過ぎの男が入ってきた。髪の毛は薄く、頬もこけている。目つきだけがやけに鋭かった。
「僕は、大きくなったら、医者になりたいです」
 あれ? じゃあ、私って、今なにやってたんだっけ? そうだそうだ。ガンです――、僕は素っ気無くもそう告げた。


#13

Antipodes

 わからないことをわからないままにしておくのが、いけないことだとはわたしにはどうしても思えないので、本にかじりつくようにして歴史を頭につめたり、それができたとなったらどうにか証明してみせようとするような、さみしいことはするまい。からだに染みる、予測しない何かやときに汚れた何かを、それだからと排斥することもするまい。考えたり、生み出したりするために、わたしができることをその限り行う、からだの反射の望むとおり、あるがままでありたい。
 わたしの指先が、毛足の長い画用紙に触れて喜ぶようにざわめくとき、背中や膝の裏の薄い皮膚が共に震える。しかし筆を指に握り、平らな紙を目の前にすると、突然その表面に届くことはできないと思い知ってしまったかのような、厚く見えないへだてを感じる。いっそ何も描けなくとも、黄色の混ざったワトソンのざらざらで、指の腹を擦り、手の甲を擦りし、それまでそこになかった何かを撫でてこどもの丸い頬をつくりだし、しかし一度目を瞬けば、手のひらに確かに触れたその頬が消えてしまう、その空寒いかなしさを覚えてゆくほうが、この心が静まりはしないだろうかとも思う。それでも、わたしは筆を持ち、その穂先の行き先を全身で探し続けねばならない。
 わたしの手がその扁平なひと区画へと伸びるそのことを、わたしはわたしの中にのみ留めてはおけないからだ。わたしの立つ足のうら、二足ぶんの床でのみこの世界と繋がった、塩橋の向こう、枠の中の、わたしのゆめ。
 小さなその場所に、鮮やかで素晴らしいゆめを見るほど、わたしは途方に暮れてゆく。伸ばす腕が突き当たると、容易にもわたしは安心してしまい、同時に自分への落胆を感じることになる。その中にあるゆめを、眼球の表面で触れて、見ることができないということが、ひとつの限界でもあるからだ。わたしにはそれは水面ではないので、見つめとおすことも、不安に喚き散らすことも、中で溺れることも、何一つできない。それができる人間を、わたしは羨むしかない。
 紙がただ紙であり、喜びが喜びであり、不安が不安であったなら、わたしが余計な理屈や言葉さえ知らず、水面に届かない目さえもまるく澄ませていられたならば、あの枠の中はわからない、希望のようなものが詰まった、夏の空にあってひんやりと漂うような、光りゆめをみる絵画であったのだろうか。


#14

ぼくのビンラディン

「ビンラディンは英雄だ。彼は声なき者たちの代弁者だ。イラク戦争で民間人が一万人死んで、それをマスコミが仕方ないと言う。すべてはでぶっちょアメリカ人を守るためさ。遺伝子操作されたトウモロコシを食ってメタンガスを吐く牛が同族の脳みそを食って死んだ、その死骸に群がるアメリカ人ども、それが誰も批判できない聖域の正体さ。プリオンの輪廻のために消費される石油。ニューヨークで死んだ人たちは幸せだねえ。愛されているよねえ。何度も思い返され、その度に美化され、たとえようもなくかけがえのない脂肪の塊のシンボルとしてぶくぶくと太り続けるんだねえ。ああ、世界は滅びるだろう。ボクたちが手をつかねてる間に苦しみぬいて死ぬるだろう。一瞬のきらめき、アメリカの空爆で夜空に広がった赤の橙の黄の美しい光の渦巻きのブラウン管の液晶のプラズマの画面を彩ったそれはほんの一瞬だった。そのほかのすべては隠されているんだ。国旗に包まれ帰還した棺も人質の喉に突き立てられたナイフもテレビでは放映されてこなかったんだ。貪欲がすべてを打ち負かした。理性も慈愛も火に焼かれるような激しい欲望に打ち破られ屈服させられてすでに長い年月が過ぎた。自ら目を閉じ耳を塞ぎ暗いくらい闇の中へ落ち込んでいく感覚を失った無数の人々の群れにはどんな言葉も無力だった。どんな訴えも通じなかった。ただ独り、ビンラディンだけが『見よ』と言ったのだ。彼のみが、ボクたちに自分を映す鏡を指し示したのだ。見よ、これを見よ。これがおまえたちだ。これがおまえたちの脂肪だ。石油利権を精製し煮詰めたどろりどろりの臭気漂うそれを大口を開けて喉の奥まで火傷を負いつつ腹がはちきれるまで飲み込み続ける醜悪な餓鬼たちの群れだ、と。君がボクを好きだと言ってくれたのは嬉しいよ。でも、その前にはっきりさせなきゃならないことがある。ボクは反米抵抗勢力なのだ。この欺瞞世界を許すことができないのだ。だからまず答えてくれ。君はボクの側か。それとも、あちら側の人間なのか」
 窓の外には夕日差すグラウンドでボールを蹴る中学生たちが見えた。同じクラスの香織に呼び出された僕は、誰もいない教室で、彼女の話を黙って最後まで聞いた。リボンで結んだ髪がセーラー服の胸元に垂れていた。柔らかそうな唇にちらりちらり目をやって、僕はそっとささやいた。
「冗談なんだろ?」
「バカ!」
 怒った顔の香織は、とてもきれいだった。


#15

吾郎のふるまいを見るにつけ、父芳保は誠実に生きろと説教をした。反発し、口も聞かないでいるとあっと言う間に脳溢血で死んでしまった。芳保が会社を倒産させてから極貧の生活に吾郎が小学校四年生のころから陥った。吾郎が中学二年のとき、不良がバイクで校庭に侵入。爆音で生徒が窓から顔を出す。ブスでデブの美子先生が果敢に飛び出して行った。吾郎は「よっトンカツや」と声をかける。まわりは爆笑。不良たちは逃亡。帰りの会で、鬼教師の河嶌が美子先生を豚と呼んだのは誰だと聞いた。無言の視線が痛い。吾郎は名乗れない。やりすごすことだけを考えた。そのとき河嶌は、級友弘志を疑った。犯人扱いの弘志。謝れない吾郎は、毎日、弘志の鞄にエロ本を入れてやった。喜んでいる弘志を見て吾郎は帳消しだと思った。それから吾郎は進学校から一流大学を卒業し、今では地元で建設会社を興し盛んにやっている。ある日、無職の弘志がやって来た。吾郎は秘書兼運転手として雇うことにした。しばらくして、週刊誌の記者が市長と国会議員の癒着に絡んで吾郎が取材対象として浮かび上がって来たと弘志が耳打ちした。取材には知らぬ存ぜぬを押し通す。事件が発展すると、吾郎は弘志のしたことと白を切る。大物政治家が絡んでいたことから事件は弘志の逮捕で尻すぼみに終結。金を積んで弘志を保釈し、一生面倒見てやると言って肩を抱くと、弘志は泣きながら抱きついた。吾郎は最善の策だと思った。しばらくして吾郎は国会議員となる。選挙戦で打倒自民党を叫んで当選した後、自民党入りした。政治的信念などない。人間は自分の利益のために動く。地元に帰って、陳情を聞いてやればみんな大喜びだ。ひさしぶりに墓参りをした。芳保の説教が頭によみがえる。俺は生き方を変えない。ふと地面に目をやると墓から落ちたあめ玉に大量の蟻が群がっていた。吾郎はかかとで思いきりあめ玉を踏み潰した。


#16

波のない海

 清々しくも生暖かい風が舞う真夜中の砂浜に膝を抱えて寝転びながら、海を眺めていた。私が何か心に想い浮かべる度に、寄せ返す波はいっそう強くなっていった。だから何も考えないように努めた。数分後、からっぽになった心。虚ろに眺める海には、小さな波ひとつ立ってはいなかった。ガラスのような海。鏡面する満天の星々は可憐に瞬き、いつの間にか風は止み、私の薄くなった髪の毛一本すら揺らがなくなっていた。
 眠りに向かって平穏に満たされたかと思われたその刹那、ノックの音がして鏡の海に波がたち、私は眉間に皺を寄せてぱちっと目を見開いた。夕刻に陽に紅く染まる四畳半、安アパートの一室に敷いた平たい布団の上で、不眠症に悩む私は歪な天井のシミを不快な表情を浮かべてしばし見つめ、忌々しいノックの主は何者だろうと思いながら起き上がり、ドアを開けた。
 そこには男が立っていた。宅配会社の従業員のような格好をしていた。きびきびとした動作のないこの男は、一見して40歳近くにも見えるが顔に皺はなく、20代にも見えなくはない。とはいえ、興味を抱くほどのことでもなかった。男は私に裸のビデオテープを手渡すと、受け取りの印鑑も取らずにそそくさと去っていった。私は唖然とするばかりであった。部屋に戻り、しばらくその黒いテープを眺めた後、好奇心からデッキに挿入して再生ボタンを押した。
 画面には満天の星空の下、次第に穏やかに、そして最後には平らになる海。膝を抱えて砂浜に横たわる男。私がつい先ほど想いうかべていた情景が映し出された。私は目を丸くして映像に見入っていたのだが、突然ノックの音がスピーカーから流れて、ビデオが止まった。どうやら故障らしい、再生ボタンはおろか電源も入らなかった。
 私は今、少々の興奮冷めやらぬまま、仕方なく睡眠薬を三錠胃に流しこんでまた床につく。今度は何故か、よく眠れそうな気がする。


「これはぁ、遺書はないけども、事件性は低いな」
 鋭い目つきの刑事らしき中年の男が、四畳半の一室に敷かれた煎餅布団の上の腐乱しかけた死体を横目で見ながら言った。
 唐突にブゥンという軽い音がして、消えていたテレビの電源がついた。ビデオテープが勝手に再生され、その場にいた数人全員、同時にテレビの方を見て息をのんだ。
 テレビには、横たわるこの男が波のない海だか広大な湖だかに自ら走り寄って沈んでゆく映像が、やけにゆっくりと映し出されていた。


#17

隣の男

 隣の男が、僕は嫌いだった。仕事もせず酒ばかり飲み、女房子供を苦労させる。そういう男を僕は無条件で嫌う。
 僕は当時ありがちな貧乏学生で、掃き溜めのようなアパートで暮らしていた。そんな僕が驚くほど、そこの人々の暮らしは貧しく、まさに生活全体が掃き溜めだった。中でもその男を、掃き溜めの腐ったごみだと思っていた。
 
 春の晴れた日、僕は申し訳程度のアパートの庭で、本を読んでいた。そこへあの男が酒臭い息で近寄ってきた。
「先生、読書ですかい」
 男は僕の隣に腰をおろした。男は僕を先生と呼ぶ。ご大層な事だ。
「ええ」男の顔も見ずに答えた。そんな僕の態度を気にする事もなく、というかそんな雰囲気をこの男がわかるはずもないが、ぼんやりと空を見上げて、突然男は話し始めた。
「俺はこう見えてもね、先生。南方に戦争に行ってた事があるんでさあ」
 僕は特に相槌を打たなかったが、男はそのまま話し続けた。
「先生、手榴弾って知ってますかい?知らねえだろうな。いや、別に馬鹿にしてるんじゃないですよ。手榴弾を知らない、いい事じゃないですかい。平和なこった。これがね、魚をとるのによく使ったですよ。船で沖に出るとね、魚がね、見えるんですよ、そこいらに。で、そこめがけて手榴弾を投げ込む。すると下で爆発して気絶した魚が浮かんでくる。ええ、先生。ほんとですぜ。でもちっと失敗すると爆発が遅すぎて魚があがらない。投げ込むのが遅いとこっちの右手が吹っ飛んじまう。まあ、ちっと難しいかもしれないですね」
 次に何を言うかと僕は内心言葉を待ったが、男はそれきり黙った。横顔を盗み見ても、酒で赤く光っているだけだった。
 男は唐突に立ち上がると、アパートに引き上げていった。
「佐藤さん」
 僕は不意に呼び止めた。赤い顔がゆっくりと振り向く。
「はい、何ですかね」
 シャツがだらしなくズボンから出て、ズボンの片方は靴下の中に入っている。
「いや、、足元、気をつけて」
「ご忠告、ありがとう」震える手で敬礼した。
 
 男はその夏に肝臓を患って死んだ。死に顔だけは、君子のように立派だった。散々苦労した女房も子供も、何だかとても大事な人を亡くしたような顔をしていた。
 僕は棺を覗き込む。
 ねえ、佐藤さん。僕はあの暖かい春の日差しの中で、手榴弾で魚釣りをする話の後、本当はこういう事を聞いてみたかったんですよ。
「その戦争で、あなた本当は、何をしたんですか?」ってね。


#18

『移り木』の椅子

 某工房の窓際にある小さな椅子の値段を見て腰を抜かしそうになった。零が十六個も付いている上に先頭の数字が九だった。
「この椅子だけどうしてこんなに高いのですか?」
 買うつもりもないのに聞いてみる。
「それは『移り木』という特殊な木で造ったものだからそれで適正価格だ」
 白髪の店主は答える。
 『移り木』なんて聞いたことがない。首を傾げていると店主は言った。
「もしかして『移り木』を知らんのか?」
「はい、不勉強なもので」
「夏は陰になる場所に、冬は日差しのある場所に手前移動する木のことを『移り木』というんだ。こいつがまた、気まぐれに移動するもんでなかなか捕まえることが出来ん。しかも、そいつで椅子を造ろうと思えば、樹齢五十年くらいは経ったものでないと材料にならん」
「はぁ、それはまた珍品で」
 店主は家具造りの腕で名の知れた職人だった。その人の言葉なのだから、いちいち説得力がある。
「こうして居心地のいい場所に置いておかないと、椅子にしてもいつ何処に行くのか知れたもんじゃない。あんた、これが欲しいのか?」
 とんでもない、と首を振ると急いで店を後にした。
 数日後、やっぱり買えるわけではないが椅子のことが気になって店を覘いてみた。すると、先日の店主はおらず、中年の男性が店番をしていた。
 件の椅子を眺めていると、彼がこちらを見ていた。
「それがお気にめしましたか?」
「材料が珍しいと聞いたもので見物に」
 慌てて否定と弁解交じりに言い訳をした。
「材料はさほど珍しくはないですよ。ただ、非売品というだけのことです」
「この前、こちらの店主に『移り木』という特殊な木で出来ていると聞いたばかりなのですが」
 すると「ああ」と呟いて彼は言った。
「『移り木』とは私の母が寝物語に話してくれた異世界へ自由に移動できる木、のことだと思います。『さぁ、今日は移り木に掴まって何処に行こうか』と始まる童話の題材で実在しませんよ」
「そうなんですか」
 素直に非売品と書いておけば良いものを。そんなことを思ったときだった。
「これは母と約束したものなのだそうです。いつか自分のための椅子を造ってくれ、と」
「では、奥さんが使われたほうがよろしいのでは?」
「ええ。きっと父はここで母に自分の姿を見ていてもらいたいのでしょう」
 驚いて振り返ると彼は言った。
「母は去年事故で」
 だからなのか。十七桁の数字が宅急便伝票のお問い合わせ番号のように見えた。


#19

夏ループ

 関西の夏は暑い。暑くするのが夏の仕事なのだからそれは当然なのだけれど。
 ぽーん、と音が鳴って、続いて三桁の番号が呼ばれる。アタシは自分の持っていた番号札を確認して眉をひそめた。手が汗まみれ。
 ハローワークの夏は暑い。
 いつの間にか紹介状を握らされてソファに腰掛けている自分がいた。ぼけっと人ごみを眺めていると、老若男女が熱気でむんむんしながら求人検索ディスプレイを指で連打している。相談コーナーに座っているご婦人がけたたましいぐらいの高い声で我が身の不幸を語っており、うねるような人の波が公共職業訓練窓口にも失業保険窓口にも絶えない。目の前の光景がまるで蜃気楼のようで、アタシは頭がくらくらした。クーラーが効いているのに、暑くて足元がおぼつかない。
 これ全部、前の会社の給料の低さが悪いね。ボーナスなかったし。
 そう考え階段へ逃げるように歩き出した。その際、手に持っていた紹介状をリュックにしまう。履歴書や職務経歴書の書類選考なんて落とされたらイヤだよね送るの面倒だしね、と泣き言を抱えながら酸素をむさぼった。美味しくてしんどい。
 一階に降りると、求人広告を出そうとする会社の人たちが自動ドア越しに見えた。ああ逆の立場でも忙しいのだ暑いのだ、アタシは同じ立場だったからよく分かるよ、とひとしきり頷く。そして、あそこにいる人たちと今のアタシとの違いは、この自動ドアを越えられるか越えられないかというそれだけのことかもしれないね、としばらくぼんやりしていた。
 さあお腹すいているけど節約節約、ご飯は家まで我慢かしら、と算段をつけていたところで自動ドアの向こうの一人と目が合った。途端に逃げ出したくなる。何かを思いつく前に、ドアの奥から現れる彼女。どうしてこんなところにいるんですか、と口を開くアタシの後任者。いやあどうしてと言われたって仕事探しですよ、それ以外何があるよ、とうじうじしながら口を開いたのだけれど、そうそうちょっと聞いてくださいよ、の声の大きさに全てお流れ。

 私、あの会社辞めるんですよねー。だって給料安すぎですよホントに。ボーナスないし。

 アタシは嘆息した。ああこれがループ。ずっと続いていく世の定め。夏の太陽は容赦なくアタシと彼女を照り付け、いじけた気持ちを更に強める。アタシは枯れ果てたように、とにかく暑いと呟いた。


#20

「タイタニック」というお題で、陳腐ではない話をしろ

 うーん、まいりましたね。
 「タイタニック=手垢まみれ」というのが世間の相場じゃありませんか。
 しかもタイタニックのことなんて、沈没した豪華客船らしいってことぐらいしか知りません。もちろん映画なんか観てないし、観る気もありません。
 ……でもまあ、少し時間を下さい。なんとか話してみましょう。





「ねえ、あなた。もしもの話だけど、私たち夫婦と娘が、タイタニックに乗ってたとするでしょ」
「なんだよ、いきなり」
「いいからきいて。でね、船が沈没して、三人は必死で救命ボートに辿り着くんだけど、人がいっぱいで、どんなに場所を詰めても、あと二人しか乗れないの。……こんな状況だったら、あなたならどうする?」

 暇を持て余している奥さんと、そんな話になったとします。あなたが奥さんの立場なら、ご主人にそんな話をしてみたとしましょう。あなたが独身なら、運命の悪戯で結婚してしまったと仮定して考えてみてください。
 どう答えれば、奥さんを最高に喜ばせられると思いますか? あなたが女性なら、どんな答えが一番嬉しいですか? ちょっと考えてみてください。





「……しょうがない。俺が犠牲になるしかないな」

 素晴らしい愛ですな!
 いやいや、これで良しとしてしまっては、陳腐ではない話をしろという指令に反してしまいます。そもそも、自己犠牲のポーズ丸出しで、ちょっと偽善の臭いもしますしね。
 というわけで、最高の答えは、たぶんこうでしょう。


「もちろん、三人とも助かるさ。……悪いが、先に乗ってたうちの誰かに犠牲になってもらう」


 さて、今度は逆に、最悪の答えというものも考えてみましょう。
 先にも述べましたが、陳腐ではない話をしなければならないという指令があって、それは遵守しているつもりですのでご注意ください。たぶんあなたが最初に考えた答え……と、二番目に思いついた答えも、陳腐の範疇ではないかと憶測します。
 では、ちょっと考えてみてください。





「お前を犠牲にして、俺と娘が助かる」
「娘を犠牲にして、俺とお前が助かる」

 いやはや、確かに非常に感じ悪いですし、離婚の原因にもなりかねません。最悪かつバカ正直な答えですな。そして見事なまでに陳腐!

 よくよく考えてみれば、もっと最悪な答えはあるんです。
 このようなシチュエーションで考えられる最低最悪な答えは、たったひとつ。それはつまりこれでしょう。


「はあ? つまらんことをきくなよ。ばかばかしい」


#21

花を抱えて

 春が過ぎると女は急に仕事を嫌がるようになり、私の家に転がり込むと、狭いベランダにプランターをずらりと並べて花を育て始めた。娼婦がセックスを嫌がっているのだから家にいても他にやることも無く、始終プランターに向かって水をぼたぼたと注ぎ続けている。昔は私がどれだけ止めても夜の街へ出て行って、安っぽく光る黒のドレスで男を誘い、路地裏の暗がりの中で安ホテルで男達とセックスをして、はした金を稼いでいたものだったが。赤。黄色。目の覚めるような青。眩しく輝く白。花は数え切れぬほど咲いた。どれも見事に育った。
 旅行にでも行くか、と私が尋ねると、行っても良い、と女は答えた。
 私は懇意にしている画商に大半の絵を売って、その金で船の切符を手に入れ、ホテルを手配した。特等船室でゆったりと出掛け、初夏の景色を楽しみながら遺跡巡りをし、それから三ツ星のスイートルームに泊まるのだ。
 出発の朝、女は花を持っていくと言い張った。荷物になるよ枯れてしまうよと説得したが女は全く言うこと聞かなかったので諦め、じゃあ好きにするが良いよ何しろ君の花なのだから、と言った。私は両手に荷物を抱え、女は両手に赤い花の咲いた小さな鉢を抱え、玄関を出た。花はとても綺麗だった。
「乾杯」
 きらきらとシャンデリアが眩しく輝く食堂で、わたし達はディナーを取った。弦楽四重奏の生演奏が流れる中、豪華な料理が次々と目の前に並んでいった。酒はどうするのか、と尋ねられ、わたしはワインを頼むことにした。
 二人で暮らすようになると安酒にはとても耐えられなくなってしまった。一人でいるならどんな貧乏にも耐えられたが、絵さえ描いていれば満足だったが、何も食べずに、私は絵を描き続けていたものだったが、二人でいると、ちょっとした貧乏くさいことでも心が軋んでしまうようになった。安酒などには私はもうとても耐えられない。
「なるほど、これは良いワインだね」
 一息に飲み干して私は言う。十年以上にわたって描き続けてきた絵で得た金が一口で消えていった。
「ありがとう御座います」
 初老の給仕はそう言って微笑むと私のグラスにワインを注いだ。
 女は鉢をテーブルに置いた。ようやく鉢から手を離し、グラスを手に取る。
「ねえ明日はどうするの?」
「決めて無いよ」
 私はグラスを手に取り、答える。
「これから決めよう」
 そうね、と女は答える。女の育てた花を見ながら、私達は料理を食べ始める。


#22

マジカル・マナ

「行くのよ、マジカル・マナ」
 凛とした母の声を聞き、「分かった」と力なく言って私は電話を切った。藤沢君は落ち着かなそうに頬を撫でている。
「あの、ごめんなさい、うちのお母さん、急に具合悪くなっちゃったみたいで、私、行かなきゃ」
「え……あ、そっか、そうなんだ、急に。えっと、あの、送っていこうか?」
 頬に手をあてたまま藤沢君が言う。
「いや、いいの、大丈夫。ホントごめんなさい、また、メールするから、あの、それじゃ」
 私は頭を下げながらくるりと藤沢君に背を向けて、駅へと急いだ。
 ああ、なんということだろう。せっかく映画に誘われたのに、これだなんて。今はまだこんなウソが通用するかもしれないけど、いずれきっと怪しまれる。前の彼には、「不可解な行動が多すぎるんだよ」と別れを告げられたのだ。
 電車に乗り込み、目的地へと向かう。多瑠町に妖械が現れたそうだ。東京制圧をたくらむ妖乃木博士の発明品である。
 ああそれにしても、二十六にもなってマジカル・マナだなんて、我ながらぞっとする。

 多瑠百貨店の裏に妖械はいた。バレーボールに小さな手足が生えたようなやつで、手の先はハサミのようになっている。そのハサミでゴミ袋を切ろうとしているみたいだが、切れ味が悪いのか、ぜんぜん切れてない。母の電話によればフクロヤ・ブールという名前だそうで、あいかわらず母のネーミングセンスにはあきれる。自分の発明品がこんな名前で呼ばれていると知ったら、妖乃木博士も浮かばれないだろう。
 周りに人がいないのを確認してから、ブレスレットを外し、手のひらを妖械に向けた。
「マジカル・バラ・バラ」
 フクロヤ・ブールはバラバラに崩れた。あいかわらず弱い。
 しかし私はいったいあと何年マジカル・マナでいなきゃいけないのだろうか。娘を産んでその子が十歳になるまで、マジカルーラの座を捨てることはできないのだ。母は私を十八で産み、二十八でマジカル・タエを引退している。私は、そもそもこんな調子で結婚なんてできるのだろうか。考えたくもない。
 バラバラになった機械くずを集めて、燃えないゴミの箱に入れた。先ほどのゴミ袋を見てみると、ハサミの跡がついている。何重もの線になっていて、いまにも破けそうだ。がんばったのだろう、もう少し待ってあげたらよかったかもしれない。
 ふと、つられるように、ゴミ袋に手が伸びた。ハサミの跡に爪をあてすっと引くと、ピリリと破けた。


#23

さまよい街

 電車を何本も乗り継いで駅を降りたまではよかったのだが、どうやら東口だと思って降りたところが西口だったようで、気がついてみると、手元の地図とはまるで合致しないところを歩いていた。多少詳しくかいてもらったとはいえ、手書きの地図だったから、迷ってしまった今となってはまるで役にたたず、はなから無いのも一緒だった。もう一度駅まで戻れればよいのだが、帰り道が解かるようならば迷ったとは言わないわけだし、人に尋ねてみようにも、さきほどからやけに閑静な住宅街にはいっていて、煙草屋一つ見当たらないからそれも適わない。まさか、見知らぬ家のチャイムを押して、訊いてみるわけにもいかないから、どうにも弱ったとしかいいようがない。まあ、幸いなことに朝一番で家を出てきたからまだ日は高く、昼を少しまわったくらいで日が暮れてしまうという心配はまだ当分しなくてすみそうだ。そういえば、腹が減っていなかったから忘れていたが今朝からなにも食べておらず、とはいっても目的地にたどりつければ、酒の一杯も酌み交わすことになるだろうし、それまでのお楽しみにしておいてよいだろう。なにせ彼の細君は料理が美味いので有名で、いまどき出来すぎた女房をもらったものだと冷やかしの種になるほどなのだ。
 しかしその料理も彼の家に着くことが出来なければ喰うことが出来ないのだから、どうにか道を見つけなければならず、弱った弱ったと思っていると、踏切の警報機が鳴る音が聞こえてきた。しめた。踏切があるということは当然線路があるということで、これでどうにか出発点に戻ることが出来そうだと、音のした方に歩きだすのだが、いくらもいかないうちにぱたりと音が止まってしまって、そうなってみればどこから聞こえてきていたものやらまるで解からない。さてはて、これでもう手がかりはまるでなく、いよいよもってその辺の家のチャイムを押して訊いてみるより他にないかもしれない。
 それにしても誰か一人くらい通りかかってもよさそうなもので、と思った途端に向こうから人がやってくるようすで、これは道を訊ねてみるのに恰好だと待ちかまえていると、それはこれから訪ねるはずの彼自身に他ならず、おおいと呼び止めた彼の顔がひどく驚いて蒼褪めているほどだったのはなぜだかまるで解からない。


編集: 短編